第2話 暴君と姫
「もう少し右だ……いや、行き過ぎだ。左に……もう少し下だ。うん、そこそこ……力が弱い、もっとぐりぐり……バカ! 強すぎる! 優しくやれ」
「……注文が多い」
レムリア帝国の宮殿の大浴場。
皇帝専用の浴場に隣接されたマッサージ室には二人の男女がいた。
男は女―ルナリエにマッサージをさせていたのだ。
「ハヤスタンの姫はマッサージもロクにできないのか?」
「あ、当たり前でしょ……」
ルナリエは若干苛立ちながら答えた。
この世界に於いてはマッサージなど、奴隷や下級召使の仕事である。
小国とはいえ王族であるルナリエはマッサージをさせることはあれども、やらされた経験など一度もない。
「はぁ……シファニーでも呼ぶか……いや、でもこのまま下手くそなままでも困るな」
男は手から伸びている鎖を弄りながらボソボソと呟く。
その鎖は真っ直ぐルナリエに取り付けられた金属製の首枷に繋がっていた。
先程も言った通り、マッサージは奴隷の仕事である。
奴隷の仕事をするからには奴隷の恰好をしなければならない……
などという謎理論を振りかざした男はルナリエに奴隷の恰好をさせていた。
何の染色もされていない麻製のボロボロの貫頭衣を着せられ、その上首枷、手枷、足枷を嵌められた。
実際の奴隷は平民と変わらない服を着るし、首枷などという日常生活に弊害が出そうな拘束器具を身につけさせられることがないことを考慮に入れると、今のルナリエの姿は奴隷以下だろう。
(……こ、今後もやらせるつもりなのか)
ルナリエは歯を食いしばった。
そして……嫌がらせのように―というかほぼ間違いなく嫌がらせとして目の前に設置させられた大きな姿見に視線を移す。
風呂場からの蒸気と自分の汗で貫頭衣は濡れて……べったりと肌に張り付き、体のラインが浮き彫りになっている。
だがそれに関しては問題無い。
そういうドレスも存在するからだ。
ルナリエ的に屈辱なのは下半身である。
この貫頭衣は中が見えない、限界ギリギリまでしか裾がない。
加えて深いスリットが腰の部分まで入っている。
少しでも動けば当然中が見え隠れする。
下着は当然、没収させられている。
ファールスやハヤスタンでは露出は精々膝までで、膝より上になれば売春婦、中が見えるような服は売春婦も穿かない。
つまり現状ルナリエの服装はルナリエの倫理観で言えば売春婦以下のみっともない恰好である。
それに加えて黒光りする首枷、手枷、足枷まで付けられている。
怒りや屈辱がルナリエの心の中で煮えたぎる。
そして顔を真っ赤にしているルナリエを見ながら……
鏡の中で男はニヤニヤと笑っている。
そして時折鎖を引っ張って、ルナリエを挑発するのだ。
(……まあ、国のために体を売ったわけだし、似たようなものか)
ルナリエは自嘲気味に笑う。
「手が止まっているぞ、休むな」
「あぐぅ……す、すみません……」
手を休めているのを咎められ……
鎖を強く引っ張られた。
鎖を引っ張られると首枷が喉に食い込み、若干の痛みが走り……
同時に言いようもない屈辱が沸き上がる。
「ルナリエ、お前さあ……俺のこと、自尊心の塊だとか、何だとか散々言ったよな?」
「言ったけど……」
ルナリエは表情を歪める。
この目の前の男は過去の事を掘り返し、それをタネにこちらを辱めてくる。
目の前の男も、ルナリエも国益のためならば手段を選ばないという点では同じだが……
人を謀略で嵌めても全く心を痛めない、それどころか愉悦を感じるような男に対して、ルナリエは多少なりとも罪悪感のようなモノを感じる。
だからそれを引っ張り出されてしまうと……
ルナリエはどうしようもなくなってしまうのだ。
「お前も何だかんだ言ってプライド高いな。カロリナ以上だ。人のこと、言えないじゃないか」
「それは……」
「当然だよな、小国とはいえ王族だ。それも国王の一人娘。器量もいいし、何より頭が良いから大概の言語も話せる上にいろんな知識がある。さぞや褒められて育ったんだろう? 今まで挫折も失敗も味わったこと、無いんだろ?」
ルナリエは男の言葉を聞き流しながら……マッサージを続ける。
実際、男の言葉は全て真実である。ルナリエはプライドも高いし、こう見えて見栄っ張りだ。
今まで褒められて育ったのは事実だし、大きな挫折も失敗もしたことが無い。
真実だが……
ルナリエは男の意図が分からなかった。
この男は意味のない言葉を吐かない。
言わないことにも意味があり、そして言うことにも意味がある。
そういう男だ。
故にそれらは何らかの意味が、意図があるのだろう。
ルナリエを辱めようとする、悪質で下劣な意図が。
だから意図が分からない以上、下手に答えると墓穴を掘ることになる。
この男が……人の心を弄ぶという点に関しては自分よりも遥かに優っているということは、既に今までの付き合いで学んでいる。
「思ったこと、ないか? 何でこいつはこんな程度のこともできないんだろう。理解できないんだろう。なぜそんな愚かなことをするんだろう。なぜそんな非合理な選択をするんだろう。ブスに生まれて可哀想に。ブサイクに生まれて可哀想に。バカで生まれて可哀想に……思ったこと、あるだろう?」
「……」
あるか無いかで言えば、ある。
というより無い人間など、いないだろう。
誰にでも当てはまることを……まるで言い当てるかのように言う。
詐欺師の、インチキ占い師の手口だ。
「今まで自分より下のやつを見下して……安心して来ただろう?」
「あなたに……言われたくはない」
反射的にルナリエは答えてしまった。
そして言って後悔した。
男がニヤリと笑みを浮かべたからだ。
「ああ、そうだ……俺もそうだよ。だからさあ……あの時は腹が立ったよ。お前に嵌められてさぁ……とても腹立たしかった。だがまあ……二度と俺はあれを味わうことはないだろうさ。少なくとも味わいたくないね。で、どんな気持ちかな?」
男はそう言って鎖を思いっきり引っ張った。
そして引き寄せたルナリエの髪の毛を掴み……強引に自分の顔に引き寄せた。
二人の唇が重なる。
男の舌がルナリエの口内に侵入し、無遠慮に蹂躙した。
唾液が顎を伝い、床に垂れる。
しばらくして男は唇を放した。
二人の間に唾液の橋が架かる。
「一生、俺に見下されて……屈服させられて生きる気持ちは、どんな気持ちだ? なぁ? お前が見下してた人間ですらもやらないようなことをさせられる気分は」
「っくぅ……」
ルナリエは男を睨む。
例えどんなことを言おうとも、そして何も言わなくても「悔しい」「嫌だ」「辛い」という感情を読み解かれるのは自明だ。
だからせめてもの抵抗として睨む。
もっとも……奴隷以下の姿をした女に睨まれた程度で怯えるような人間ではないことはルナリエも分かっていた。
結局、何をしようとも意味がない。
抵抗や反発すらも許されない。
「ほう……お前……」
すると男はニヤリと笑みを浮かべ……
ペロっとルナリエの頬を舐めた。
ルナリエは思わず上擦った声を上げてしまう。
「な、何を……」
「涙を拭ってやったんだ、感謝しろよ」
そう言われて……
自分の両目から涙が流れていたことに初めて気が付いた。
(ああ……最悪だ……)
これならばまだ罵詈雑言で喚き散らした方がマシだった。
半泣きで睨みつける……なんて、「はい、その通りです」と全力肯定しているのと同じだ。
「まさか泣くとは思わなかったよ。そんなに辛かったか? すまない。辛かったら辛いとちゃんと言ってくれ。泣きたければ泣いても良いんだぞ?」
すると想定していたよりも真反対な……
穏やかな声音で、優しい言葉を投げかけてくれた。
これはどういうことかと……ルナリエは一瞬戸惑う。
この男もやり過ぎたと反省することがあるのか。
それとも欠片程度には善性が残っているのか……
そう……
ほんの少しだけ、期待した瞬間だった。
男はニヤリと……酷く意地悪い笑みを浮かべて言った。
「まあ、絶対にやめないけどな。ははははは!!!!」
「っぐぅ……あ、あなたは……本当に……」
クズ野郎だと。
口から漏れ出そうになる。
それを言ったところで目の前の男は怒らない。
怒らないが……怒ったフリはするだろう。
そして……
それをタネにして行為がエスカレートするのは間違いなかった。
「まあまあ、怒るなよ、ルナリエ」
男はそう言ってルナリエの頭を撫でた。
髪を撫でた手はそのまま頬を伝い、顎に触れて……上半身の膨らみ、腋、お腹、内股、そして下腹部に触れる。
「けどな? お前もお前じゃないか。お前の態度にはハヤスタン王国の国益が絡んでいるんだ。どうせ奴隷の恰好をしているんだし、心も奴隷になったらどうだ? ご主人さま~とか、言ってみろよ。『さすがです、ご主人様!!』って持て囃され続ければ、少しは態度も柔らかくなるかもしれんぞ?」
ルナリエは鼻を鳴らして、男の提案を一蹴した。
「もし仮に……私がそういう態度を取ったとしてもあなたは騙されない。そうでしょう?」
「まあ……そうだな。じゃあ心の底からそう思えるように努力すれば良いじゃないか」
試すように男は言った。
すると……
「もし私がそうなったら……あなたは私に飽きるでしょ?」
「……」
「あなたは従順な女性よりも……私みたいに反抗的で歯向かってくる女性の方が好みなんでしょう?」
この男の正妻であるカロリナという女性は、基本的にこの男に従順である。
だが……よく男の胸を拳でポカポカと叩いたり、拗ねたり、怒ったり……皮肉を言ったり……反抗的な態度を取る姿もよく見る。
さらにこの男のお気に入りの召使であるシファニーという少女も……
召使である、という立場を鑑みればあり得ないような無礼な皮肉を言ったりする。
女性だけではない。
この男の家臣たちは基本的に男の命令には従うが、意見を言ったり、皮肉を言ったりするのだ。
主従関係に於いて皮肉を言う事が許される環境……というのは中々ない。
国王の権力が弱いハヤスタン王国ですらも、臣下が国王に対して皮肉を言うなどということは滅多にないのだ。
皇帝を『地上に於ける神の代理人』とするレムリア帝国では尚更だろう。
皮肉を言うことが許されている……
というよりは、推奨されているというのが正しいのかもしれない。
この男は好きなのだ。
目下の人間が許される範囲内で反発する態度が。
少なくともこの男はルナリエが反抗的な態度を取るたびに心底嬉しそうな顔をする。
無論……罵倒されたり、反抗されるのが好きというよりは……
そんな態度の人間を力で捻じ伏せるのが好きなのだろう。
実に倒錯的な性癖を持っている。
「よくお見通しだな。そうだよ……俺はそういうお前が大好きだ……」
男はそう言いながらルナリエの内股を撫でる。
「裏切るなよ?」
ルナリエはその言葉の二重の意味で受け取った。
一つは純粋に自分を裏切るなと、裏切ったらハヤスタン王国がどうなっても知らないぞという脅し。
もう一つは……自分の期待を裏切るなと、最後まで反抗心を持てと。
ルナリエは男を睨みつけながら答えた。
「言われなくとも……体と媚びは売ろうとも、心は売るつもりはない。あなたが何をしようとも、私の中での一番がハヤスタン王国であることは絶対に変わらない」
その言葉を聞いた男は……
エルキュールは……
「ははははは!!! 体は屈しても心は屈しない、ってやつか!! 素晴らしいよ、お前は!!! ああ、大好きだよ、大好きだ、ルナリエ!!!」
「……私はあなたが大嫌い」
ルナリエの最後の言葉はエルキュールの高笑いに掻き消された。
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