9
月明かりの下を駆ける。この世界に街灯が存在するわけがなく、暗闇の中で頼りになるのは足元を青白く照らす月桂のみ。一歩でも城下町から出ると、均された道はあるが、周囲は何もない草原。こんな夜半に人影があるはずもなく、世界そのものが眠っているのではないかと錯覚してしまう。聞こえるのは性急な足音とそれに合わせた荒い息遣いだけ。
道中、何度も戻ろうかと考えた。湧き出る孤独や不安の類を必死に理性で抑え込み、立ち止まることなく走り続けた。そうしているうちに街は遠くなる。安全な街と物理的な距離が広がったことで、心の中にある恐怖が幾度と顔を覗かせる。しかし、僕は決して立ち止まることはせず、頭を振り、怖くはないと否定をして走り続けた。
三十分は走っただろうか? 段々と道は狭まり、勾配がきつくなる。いつの間にか周囲を木々が囲み、時折ざわつく木の声がとても不気味であった。 さらに狭隘な道を走り続けること十分。ようやく目的の、ブッチャーがいる西の洞窟へとたどり着いた。
「暗い」
至極当然だが、洞窟は暗い。幸いなことに、洞窟の天井に走っている亀裂から上空の月明かりがところどころ差し込んでいるため、足元の確保だけは何とかなりそうだ。
「行くか……」
洞窟へと初めの一歩を踏み出そうとした瞬間のことであった。暗闇の奥から低い呻き声が反響する。
「……!?」
今のはブッチャーのものだろうか……? 僕は片足を踏み出したまま硬直してしまう。全身からは汗が吹き出し、拍動が倍速化する。誤魔化してきた恐怖が感情を支配する。頭が錯乱し、おかしくなりそうになる。
「進まないと行けない。この先に自分を変えてくれる何かがあるのなら」
重い足取りで一歩ずつ確実に歩を進める。足を踏み出す度に脳が「帰れ」と全身に命令を出すが、僕は意志でもって命令を打ち消して進んでいく。時折、反響する呻き声に心が打ち砕かれそうになるも、必死に耐え、鈍重に進む。そうして幾度となく心を支配しようと試みる恐怖と戦いながら洞窟内を進んでいくと、突如としてドーム状の開けた場所に出る。天井までは十メートル近くあり、天窓のように穿たれた大きな穴からは月明かりが際限なく降り注いでいた。圧迫感から解放された僕はほんの束の間、安心感を覚えた。だが、それはすぐに消え去ることとなる。
眼前には蒼光に照らされている大きな緑色の何かが。それは前後に揺れるように動いている。それは何であるかは明白だ。ここを寝床にし、近辺を荒らして回っているブッチャー以外の何物でもない。アドレナリンが体内を巡り、特徴的な体が浮くような感覚に襲われる。先ほどまでの安心感は瞬時に消え去る。
「落ち着け……落ち着け……」
そう繰り返して、鞘から剣を静かに引き抜く。背後からゆっくりとそのデカい背中へと近づく。化物は依然として体を揺らし続けており、間欠的に呻き声を漏らしている。
「……?」
反響しないためにそう聞こえるのだろうか。先ほどまでの肝胆を寒からしめるような呻き声ではないことに気づく。
「ウッ、ウッ、ウッ……!」
とまるで泣いているかのように。いや、こいつは泣いているんだ! 人を殺して回る化物の分際で何を泣くことが……。僕は困惑し、その不気味さから一歩だけ足を引くと、運の悪いことに石を蹴飛ばしてしまった。カラン、カランと軽い音が洞窟内に響く。そして、泣き声が止んだ。
揺れ動いていた巨体の動きが止まる。背後を確認するようにこちらを一瞥。ゆっくりと立ち上がり、正対する。立ち上がったブッチャーの身長は情報通り、二メートルは優に超える。肥大した体に何故かくすんだ緑色の肌。その容姿は化物と呼ぶのに相応しい。化物の、若干に白濁した目は胸の辺りに向けられていた。
僕は化物の視線の先を注視する。奴の太い腕は何かを抱いているようだ。光量が少ないため、それが何かを特定するのは難しかったものの、化物が月明かりの下に進み出ると、それをようやく視認することが出来た。
化物に抱かれていたのは女性だ。いや、女性であったと言うのが正しいのかもしれない。巨腕に包まれているそれは、だらりと首を逸らし、焦点の合っていない瞳は虚空を見つめていた。それもそのはず。それはとうに死んでいるのだから。それの下半身は切断されたのか見当たらず、断面からはぶらりと何かが垂れ下がっている。化物は既にこと切れた死体を眺めて泣いていたのだ。
「でも、どうして……?」
理解不可能な光景に思考が硬直する。こいつは人を殺しまわる化物じゃなかったのか? それなのにこの化物は一人の女性の死を悲しんでいるようにも見える。もしかしたら心優しい化物なのか、と馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。しかし、それは次に捉えた陰惨な光景に霧散する。化物の背後には何体もの人の骸が転がっているのが見えた。子供に女性はもちろんのこと、剣を握ったまま伏している男性の死体も確認できた。
「ぬるい考えはなしだな……」
手汗を拭い、剣を両手で強く握りなおす。こちらに注意が向いていないうちに斬りかかるために、じりじりと距離を詰めて行く。化物は僕のことに気が付いていたようで、死体に向いていた視線をゆっくりと睨むようにこちらへと向ける。僕の体は擬死行動のように体が硬直してしまう。四肢の関節と筋肉が固まり上手い具合に動かせない。
「オオオオオオオオオオオオオ!」
唐突に化物が叫び声を上げた。化物はそれまで大事に抱えていた死体を放り投げると、傍らに置いてあった巨斧を持ちあげて大きく振りかぶる。巨斧が振り下ろされる先にいるのは僕だ。
「動け、動け、動け……!」
化物は斧を振り下ろさんと両腕に力を込めたのが分かる。そのまま動けないでいる僕は圧倒的な腕力でグチャリと叩き潰された最悪な姿を幻視し背筋に寒気が走る。幻視が現実となる前に体を動かして回避しなければいけない。そんなこと分かり切っている!
「いい加減に動いてくれよ……!」
化物の斧は一瞬だけピタリと止まり、振り降ろされんとするのを視界の端でとらえる。マズい、と思ったその刹那、硬直していた体からフッと力が抜ける。その隙を逃さず、右手へとダイブするように飛び込むと間一髪で死を免れることが出来た!
巨斧が地面へと叩きつけられ、振動で洞窟全体が震える。いつの間にか止まっていた息を吐きだし、胸をなでおろす。これは最初の一撃を交わしただけだ。そう、始まりに過ぎないのだ。
「やっぱり、引き返せばよかったかな……」
僕は急いで立ち上がり、剣を構えなおす。
化物は巨斧をもう一度持ち上げると再び大きく振りかぶった。
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