幼き頃の記憶を抱きしめる⑦

「母が出かけている間に森へ行きました。幼馴染から聞いただけの情報だったので詳しい場所まではもちろんわかりませんでしたが、意味もなくレイスと居れば飼い犬を見つけられる気がしていたんです。彼女が彼女自身だという本をリュックに入れて出かけるのはたとえ近所でも私にとっては大冒険となんら変わりありませんでした。もしかすると、しつけに厳しい親への反抗も担っていたのかもしれません。今考えても一般的な幼少期に比べて外に出たり友達と遊んだりするのは少なかったですから。レイスは、何も知らないと言いながらも迷いなく歩いていました。私の手を引いて、堂々と。もしも私に姉がいたならこんな感じなのかもしれないと心強く思ったものです。他の人に彼女は見えていないようでした。だから誰に呼びとめられるわけでもなく、声を掛けられるわけでもなく。飼い犬の心配と見知らぬ場所へ立ち入る興奮で、終始心臓はドキドキしっぱなし。でもそれは、茂みの中に隠されるように置き去りにされた飼い犬の姿を見つけるまででした」


「ジョン!」

 もう食事を満足に摂れなくなって久しいのだろう、やせ細りあばら骨を浮かせかろうじて生きている状態の大型犬を見つけた途端、ジョンが叫ぶ。

 あまり動物に関しての知識が豊富ではないリアンには種類もわからない犬ではあったが、元気だった頃の半分程度の薄さしかないだろうことは容易に想像できた。

 リスコッチの声も届いていないようで反応らしい反応もなく、妙に荒い息だけが静かな森の中に響いている。

 時折苦しそうに鼻を鳴らし空を噛み四肢をばたつかせる姿は見ていて痛々しい。

 数年前に目にした光景と重なり、リアンは唇と噛みしめる。

 その横では、ジョンに駆け寄ろうとしるリスコッチの腕を掴んで引きとめるレイスがいた。

「リスコッチ危ないわ。ジョンに近づいては駄目よ」

「どうして? あんなに苦しそうにしてるのに。早く連れて帰って病院に行かなきゃ。ジョンが死んじゃう」

「そうよ、死んじゃうの。今すぐにでも死んじゃいそうでしょ? だからジョンは捨てられたのよ。危ないから、捨てられたのよ」

 きっと今のリスコッチにレイスの言葉を理解することはできないだろう。

「なにも貴方のお母さんはジョンの世話が嫌になってここに捨てたわけではないの。単純に危ないと思って捨てたのよ。あの大きさなら大した被害にはならないでしょうけど、念のためにとった行動だと思う。だって、貴方がいるのだもの。小さな貴方がね。ジョンとあまり背丈が変わらない貴方なら、巻き込まれる可能性だってある。リスコッチ、ジョンがあんな状態になってから、できるだけ傍にいるようにしてるって言ってたじゃない? だから余計に心配だったんだと思うの。もしも私が貴方の家族だったとしたら、きっと同じことをしたと思うわ。ペットと自分の子供とでは、比べる価値すらないじゃない」

 レイスの淡々とした説明を聞きながら、リアンはじっとジョンを見ていた。

 あの状態では何時息を引き取ってもおかしくない。

 少し離れたこの場所なら、被害をこうむることもないだろう。

 それから30分、3人は黙ってその場に立ち尽くした。

 リスコッチは何を思ったのだろう、レイスの言葉を聞いてから一言も発さず、それでも心配そうにジョンを見つめている。

 繋がれた2人の手は離れそうもない。

 四肢が動かなくなり、鳴き声も聞こえなくなる。

 荒かった息も時間を重ねる程に小さくなり、目視で胸の上下も確認できなくなった。

 ピシリ、地面が揺れジョンの頭の先から亀裂が入る。

 ひとつの命が消えた証拠。

 亀裂はみるみる広がりあっという間にジョンの肉体を飲み込んだ。

 リスコッチの小さな悲鳴が聞こえた頃には、何事もなかったかのように亀裂は塞がり、のどかな風景だけが残されていた。

『世界の食事』

 この現象を人々はそう呼んでいる。

 魂は神の所有物、肉体は世界の一部。

 生を全うした汚れ無き肉体は、世界に食され再び一部と化す。

 生物が息を引き取った瞬間、それがたとえどこであろうと世界は口を開き肉体を飲み込む。

 亀裂の範囲に含まる物はすべからく。

 全財産が詰まった金庫も、生きている人間も変わりない。

 父親の介護中、ベッドの横で転寝をした娘が巻き込まれた。

 2階で亡くなった際、リビングの床が裂け真下にあった家具と一緒に落下した遺体が呑みこまれる。

 それこそ、飼い犬が心配で傍に居た男の子の右足切断など、世界の食事に関する事故は年に何度かニュースになる。

 きっと、リアンが知らないだけでこの手の話は数え切れないほどあるだろう。

 レイスの言うとおり、リスコッチの母親も飼い犬から離れない息子を心配して、今回の行動に移ったのだろう。

 世界の食事が荒れ狂う海や台風と変わらぬ危険性を孕んでいることは、一定の生活を送っていれば当然のように学ぶことだからだ。

 故にこうした死にかけの生き物を捨てる行為はかなり一般的に知れ渡っていることであり、一昔前には人間まで捨てていたのだからそれがペットや家畜になった程度可愛らしいもの。

 病院には必ず地下に病室が設けられ、余命少ない患者は例外なくそこへと移され面会も限りなく制限させる。

 現に、リアン達が現実のリスコッチと対面したのも地下の病室でのことだった。

 あまりのできごとに泣くことも忘れて呆然と立ち尽くすリスコッチを不憫に思ったのか、「帰りましょう」とだけ声を掛け、レイスは元来た道を戻って行った。

 幼い子供には、ショッキングな光景だったのかもしれない。

 生き物の『死』だって初めて体験しただろうに、それが愛犬で無情にも地面の裂け目の中に落ちていくのだ。

 自分の時は声が潰れるほど泣き喚いたのだっけ。

 その後、リスコッチが声を上げて泣いたのは自分を探し回る母親を目にした時だった。

 容赦なく振り下ろされたゲンコツのせいか、はたまた安心したせいで悲しみが湧きあがってきたのか。

 母親に抱きしめられながら、リスコッチは疲れ果てるまで泣き続けた。

 そしてレイスも、静かに涙を流していた。

「わたし、きっと彼に嫌われたわ」

 屋根裏部屋ではなくリスコッチの部屋で、レイスは言った。

 目を腫らして眠るリスコッチのベッド脇には彼女の本の入ったリュックが置かれている。

 どうやら本体である本からあまり離れることができないらしい。

「嫌われたくなかったの。彼のお願いを聞いても聞かなくても嫌われるって思った。だからせめて彼の思うとおりにしてあげたかったの。でもやっぱり飼い犬の死に様を黙って見せられたら、誰だっていい気持にはならないわよね」

 リスコッチがいる以上、レイスにリアンの姿は見えないはず。

 それでも彼女はリアンが近くにいると信じて話しかけているようだった。

「わたし、彼に嫌われたくない。大好きな人に嫌われたくないのは当然でしょう?」

 次の日の朝、目覚めたリスコッチは壁際で蹲るレイスに開口一番にこう言った。

「ありがとう」

 それから数日後、再び母親が出かけている隙に家を出たリスコッチは、ジョンを探す途中で見つけた空家にレイスの本を置いて行った。

 どうやら、両親がレイスの本を捨てようと話し合っているの偶然耳にしたらしい。

 リスコッチが言いつけを破って勝手に家を出るわけがない。

 森の奥に捨てたジョンを見つけるなんて5歳児が1人でできるだろうか。

 そう言えば、見たこともない本を背負っていた。

 もしかしたらよくないものが取り憑く魔術書ではないか。

 心配が度を超すと両親と言うのは中々鋭い洞察力を発揮するものだ。

 友達の身の危険を察知したリスコッチは早速行動を起こしレイスを安全な場所に隠したのだった。

 事の一部始終を聞いたレイスはてっきり嫌われ捨てられたのだと思ったと正直に口にすれば、そんなわけないじゃないかと笑って返す。

「きっとレイスがいなきゃジョンがどうなったのか知らないまま、お母さんを嫌いになってたと思う。僕ための一緒にいてくれた大切な友達を嫌いになるわけないよ」

 この日から2人の密会は森の中の小屋となり、その後の数年間を過ごす秘密の場所となった。




 

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