川のほとりのミ.一

「大丈夫だ。気付かれてない……」


 その声は、果たして表に出ていたか、自分さえもわからない。それ程に俺の体は異様な緊張感に包まれていた。


 だが、まだ気付かれていないのは確かだろう。奴に気付かれたならば、それは肌で感じることができる。


 それは俺の感覚の鋭敏さを言っているのではない。


 あの視線は、言わば、蛇が獲物を睨むようなものだ。獣が獲物を探すべく、ひっそりと巡らせているようなものとはわけが違う。相手を蛇に見込まれた蛙のようにその場に張り付けにする、そんな狩りの一手だ。獣で言うならば、まさにその爪を獲物目掛け振り下ろさんとしているような、それは既に鋭い攻撃の一つとなっている。


 経験ならばそれなりに積んでいる。

 こういった身のこなしには自信があった。

 だが今の俺にはそれ以上に迷いがある。迷いが一瞬の隙を生むことくらい俺にだってわかっていた。

 それでも迷いというものは、そう簡単に拭い去れるものではない。

 考えまいとしても、そう思えば思うほど執拗に脳裏に張り付く。

 まさしくジュソのように、呪いのように。執拗に張り付き、絡み付き、人を着実に死へと追いやる。

 闇に溶けるあのおぞましい闇のように、音も無く形も無く、近付いてはその獰猛な牙を剥く。


 ましてや、今の行動そのものがその迷いの対象というこの状況であるならば、それはどうしようもなく、どうしようもないのだ。

 目的そのものを忘れるというわけにもいくまい。


 一歩踏み出す度に軋む音が辺りに響く。


 一歩踏み出す度に腰の刀がかしゃりと音を立てる。


 目的? 


 瞼に残る光の残像のような頭の中の言葉に疑問を持つ。


 目的……、馬鹿馬鹿しい。


 俺は何でこんなことをしているのだ。


 こんな危険を冒してまで何をしようとしているのだ。


 足が止まる。


 何の為に、誰の為に。

 急にわからなくなる。


 壁に張り付き、呼吸を整える。

 微かな冷たさが服の上から伝わり、俺の心を幾分か落ち着ける。


 さて、目的とはなんだ。


 俺は何故こんなことをしようと思い立ったのだろう。


 だが、遅かった。


 不意に思ったそれこそが恐れるべき迷いそのものだということに気が付いたのは、それ以上に恐れるべき相手が俺の頭上にその獰猛な腕を振り下ろした時であった。


 しまった。


 一瞬とはいえ警戒を怠った――。


 ぽんっ!


 咄嗟に鞘を掴んだ頃には既に一撃を貰っていた。 

「キョウ、何してんの?」

 平手で俺の頭を軽く叩いたままの格好で、レンさんは嘆息しながら言う。

「まさか、手伝い、逃げるつもりだったんじゃないでしょうね」

「何を言ってるんだレンさん。今から畑に向かうつもりだったに決まってるだろう」

 俺は頭に乗せられたレンさんの手を振り払う。

 年上とはいえ、自分より背丈の低い若い女から頭を撫でられたような格好しているのは、精神的に何とも耐え難かった。

「刀を持って?」

「ぐ……」

「それにさっきから鞘を掴んでいるけど……何? やろうっての?」

「ち、違っ! これはレンさんが化け物に似た気配を醸し出すから……つい、咄嗟に……」

「誰が化け物よ、誰が」

 今度は拳で思いっきり頭を殴られた。



「お前、いい加減みーちゃん迎えに行きな」

「嫌だ」

「ひねくれ者だねぇ。本当は心配しているくせに。畑を手伝って、野菜をたんまり採って、手土産に丁度いいじゃないか。みーちゃん沢山食べるからね。気合い入れて持ってくんだよ」

「嫌だと言ってるだろう」

「ほんっと、素直じゃないねぇ。今だって化け物退治とか言って、こっそり会いに行くつもりだったんじゃないの?」

 レンさんは仁王立ちのまま深く溜息を吐いた。

「それじゃあ罰だ。逃げようとした罰。野菜をみーちゃんの所まで届ける。それでさっきのことは許してやろう。嫌だとは言わせないよ。喜んでやるものを罰だとは言わないからねぇ」

「い、いやっ、レンさん!」

「許さない、絶対にだ」

 レンさんは俺の言葉を遮ると、念を押すようにもう一度俺の頭を叩いた。

 ミをあの森に置いて来て早くも一か月程経とうとしていた。

 もう既にジュソにやられたか、のたれ死んでいるかしているかもしれない。

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