妹.六
「くっ」
攻撃の機会を失ったわたし目掛けて刃が横薙ぎに襲ってきた。それを刃の動きに合わせるように斜め後ろに引くことによって、すんでのところでかわす。
血が頬を伝うのがわかった。
『お姉ちゃん』。
さっきの声が頭の中で残響する。その残響は消えるどころか、頭の中でどんどん大きくなって、ぐちゃぐちゃに掻き回される。
もう駄目だ。
ついさっきまでの決意も。約束も。強さも。気持ちも。
その一言で、そのすべてが粉々に壊れた。
跡形もなく、崩れ去った。
なんて弱いのだろう。
手にはもう力が入らない。わたしは握っていた札を離すと、選ぶようにまた一枚札を掴んだ。迷いと罪悪感に押しつぶされそうになりながら。そしてそれを懐から出して構える。
「いくぞヒナ。これで最後だ」
すべてを失ったわたしの言葉は消え入りそうなくらい小さかった。
その声を聞いたからなのか、札を構える姿を見てなのか、ヒナもそのキョウキを構え直す。
じりじりと互いに詰め寄ると、同時に飛び掛かった。
そして、その二股に分かれた刃に飛び込むことも意に介さず、ヒナの額に札を張り付けた。
ヒナの動きは止まった。だが、それは張り付けた札の所為ではない。そんな筈はない。ヒナが自分で止めたのだ。わたしは刃に挟まれる形で、力なくその場に座り込んだ。
「残念ね……」
「ああ、残念だ。戦いの最中の不意の一撃であれば、死の恐怖を感じる間も無く逝けると思ったのに」
「ふふ、そんな思い通りに死ねるなんて思わないで」
ヒナの額に張り付けた札。それは紗千から譲り受けたものではない。あの時、虎と戦った時に、雷華に見られないようにと拾っておいたものだ。一度使ったものだ、紗千の言う通り、こうして何の効力もない。
「怖い?」
「ああ怖いよ」
「残念だ。わたしは死が怖い。情けないな、最後にお前にこんな姿を見せるなんて。でも仕方がない。それがジュソだろう。人に恐怖を与え、恐怖の中で取り殺す。それが本来の
「さようなら。お姉ちゃん」
「さようなら。私はもう妹が死ぬ姿を見たくはない」
別れの声と同時に、しゃりん、という金属が擦り合わさる、身の毛もよだつような音が耳に届いた。
思わず目を閉じる。
ばさり、とわたしの髪が地に落ちるのがわかった。
悪い、キョウ、雷華。わたしは嘘吐きだ。
ぽたっ、ぽたっ、と何か水滴がわたしの膝に当たるのがわかった。
わたしの首から滴る血だろうか。
ならば瞼を開けば、次に見えるのは空だろうか。土だろうか。
それはわたしの首の転がり具合によるだろうな。
できるならば、ヒナの顔が見たい。
いつもの、あの、ヒナの顔が最後にもう一度見たい。
わたしは恐る恐る瞼を開いた。
「さようなら。お姉ちゃん」
ヒナの顔があった。
笑っていた。
それは化け物の嬌笑ではなく、いつも通りの見慣れた
でも泣いていた。
わたしの膝に滴る水滴が血ではなく、その小さな瞼から流れる涙なのだと、その時初めて気が付いた。
「さようなら……」
「ヒナっ!!」
わたしは、はっとなってヒナの腕を掴む。ヒナの腕がわたしの懐へと延びていたのだ。目で見て初めてその感触が体へと伝わる。そして懐の中には紗千から貰ったお札がある。今わたしが手にしている、あの虎から剥がれ落ちた、既に効力を失ったものではない。
無理矢理ヒナの腕を懐から引き抜く。
だが、既にヒナの手にはお札の一枚が握られていた。
ばちんっと何かが弾けるような音がしたかと思うと、ヒナの表情が苦悶で歪んだ。
「ヒナ!?」
力を失ったヒナを抱き留める。
とても、軽かった。
「ヒナ……なんで……」
「お姉ちゃんと一緒にいられるなら、どんな辛いことだって我慢できるよ」
ならば何故だ。何故。戻ってきたのに。いつものヒナが戻ってきたのに。
「そう思ってた」
ヒナの頬から滴る涙はもう、わたしの膝に届くことはない。届くことなく消えていく。
この世から、消えていく。
「でもね駄目なの。わたしの手でお姉ちゃんに刃を向けるなんて嫌だよ。わたしの所為でお姉ちゃんが傷つくところなんて、もう見たくないよ」
「大丈夫だ! そうなったら、もし耐えられなくなって今回みたいなことになったら、また一緒にがんばろう! お前がどこに行こうともまた必ず探し出してやるし、お前がどんなにわたしを傷つけようともわたしはお前を責めはしない! ほらっ、ヒナはちゃんと戻ってきたではないか。いつものヒナがちゃんと。一緒に苦しんで、どこまでも一緒に苦しみ貫いて、だから……」
もう、わかっていた。元々川の水のように透き通っていたヒナの肌が徐々に薄くなり、もう取り返しがつかなくなっていることなど。わかっていた。腕なんかは殆ど消えてしまい、もう手を取ることさえ叶わないことを。
それでも、信じたくなかった。
奇跡が起きるならば、このジュソという人間の恨みから生まれた存在に、神が、仏が、奇跡を与えてくれるのならば、それを信じたかった。
「だから……逝かないでくれ……」
涙が頬を伝った。
あれだけ恨んでいたジュソに対し、わたしは涙を流している。
初めてヒナという特異なジュソに出会った時、わたしはこいつを心行くまで利用してやろうと思った。なんと便利なものを手に入れたと、そう思っていた……筈であった。そうでならなければいけない筈であった。
「お姉ちゃんはジュソを恨んでいるのでしょう?」
「ああ、恨んでるよ」
恨みを晴らす為、恨むべきジュソを利用し、恨むべきジュソを心行くまで切り刻んでやろうと、何度も心に言い聞かせた。
「お姉ちゃんの大切なものをたくさん奪ったのでしょう?」
「ああ、そうだね」
ヒナの言葉を聞いて、わたしは自嘲めいた笑みを浮かべる。
「そうだよ……、まったく、ジュソという存在はいつもわたしの大切なものを奪っていく」
後悔はしたくない。
だから、震える声を何とか落ち着かせて、最後に言った。
今まで言えなかったその言葉を。ジュソに奪われたわたしの大切なものの為、言ってはならないと思っていたその言葉を。
最後にわたしは言った。
良いことは長くは続かない。それは母の言葉だった。
好意を持ち続けることには嫌気が差し、楽しいことには飽きがくる。優しさなんてものは次第に卑しさに埋め尽くされるだろう。それは仕方のないことだ。気持ちだけじゃない。若さは老い。力だってやがては衰える。
だが恨みはどうだ。逆ならば、それはどうだ。恨みも長ければ好意に変わるだろうか、恨んでいる者と一緒にいることが楽しいと感じるようになるであろうか。ならばこの言葉を言うことも仕方のないことだろうか。至極自然なことだろうか。人として、正常だろうか。
いや、そんな筈は無い。そのくらい、言われずともわかる。それは言い訳だ。ヒナと共に笑顔でいる為にした、言い訳でしかない。
己の弱さを隠す為の、言い訳でしかない。
土台無理な話だったのだ。わたしがこの子をジュソとして恨むことなど。一緒にいるうちにこの子に対する恨みがなくなったわけではない。
最初からそんなことは、できやしなかったのだ。
そう、最初からだ。最初からわたしは……、
「ヒナ、大好きだよ」
無理矢理涙を拭い、そして無理矢理精一杯の笑顔を作る。
「お姉……ちゃん?」
「ヒナ、お姉ちゃんはお前のことが大切で、愛おしくて、とても大好きだ」
他にもたくさんの言葉を伝えたかったが、出てこない。生まれて初めて学の無い自分を呪った。わたしにも本島の女性のような学識があったのならば良かったのだが。キョウや佐久間さんからもっと教わっておけばと後悔した。
それでも言い続けた。同じ言葉でもたくさん言えばそれだけ意味を持たせられるかもしれない。それだけ伝わるかもしれない。学の無いわたしの滑稽な、それでも必死の抵抗だった。
「大好きだ。大好き。お姉ちゃんはヒナのことが……だい……す……」
どれだけ言っただろうか、そしてとうとう嗚咽で言葉が出てこなくなる。今まで耐えていた涙も堰を切ったように溢れだす。止まらない。
「ヒナもお姉ちゃんのことが大好きです!」
ヒナはもう泣いてはいなかった。
今までで一番の笑顔だ。こんな顔は見たことがない。
消えてゆくヒナ。ヒナの姿を少しでも長く見ていたくて目を凝らすが、どうしても 涙で視界が霞んでしまう。それが悲しくて余計に涙が溢れた。
やがて腕の中の感触が無くなっても、わたしはしばらく動くことができなかった。
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