虎は死して皮を、人は死して何を.五

 それは残酷な光。

 月明かりが反射したそれは薄く、しかし重く、冷たく、射抜くように闇を切り裂いている。

 だがそれは、仲間であるわたし達にとっては、絶望を裂く希望の光であった。

「キョウ!!」

 その光が一際真近で翻ったかと思うと、次の瞬間には、雷華を襲わんとしていた化け物の前足が血の尾を引いて宙へと吹き飛ばされた。

 二の太刀が化け物を襲うことはなかった。流れるような閃光を描きながら勢いそのままに、その刃は吸い込まれるように暗い鞘に収まった。

 そして、金属の涼しい音がするのと雷華の右腕が虎の喉元を貫くのはほぼ同時であった。勢いそのままにジュソをわたしから引き剥がすと、屋敷の壁に縫い付けるように叩きつけた。

 少し遅れて宙に舞った前足が鈍い音を立てて地に落ちた。

 頭上高く噴き出したどす黒い液体が地面を、雷華の白衣を、白い髪を、顔をばたばたと濡らしていく。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 少しの間、化け物の血が噴き出す耳触りな音と、雷華の呼吸と、風に揺れる松だけが辺りの音を支配していた。

 化け物が消え失せた頃には、雷華の腕は元の白樺の枝のように白く細いものに戻っていた。しかし、雷華の腕は化け物の喉元を貫いた時の形のまま動けないでいる。

 生きている虎と違って、ジュソである虎は何も残さない。死体さえも。生きていないのだから当然だ。 仕留めるあの一瞬を目にした者でないと、この幼い娘があんな巨大な化け物を倒したなどとは、とてもではないが信じられないだろう。

 雷華の目は虚ろで呼吸は荒く、それはいつまでも落ち着くことはなかった。

 わたしが静かに、「雷華?」と声を掛けてやるとようやくその腕を下ろした。そしてその震える腕をそっと胸元に抱き寄せると、がくりと膝から崩れ落ちてしまう。

「雷華!」

 わたしは慌てて雷華の元へ駈け寄ろうとしたが、体が思うように動かない。やはり力を使い過ぎたようだ。加えて血も多く流し過ぎた。

 足を引きずるようにしてようやく雷華のそばまで来ると、優しく包むように頭と肩を抱いてやる。化け物が消え失せると同時に雷華の白衣に付いた化け物の血も消えてしまっていたのだが、傷口を押さえていた手で抱いてしまったので、今度はわたしの血で汚してしまった。それに気付いてから、しまった、と思った。

「ミさん!」

 急に雷華が我に返ったように声を上げた。視線の先を見れば、わたしの着物の裾の端、元々血で濡れようが暗くなるだけであまり目立たない色合いなのだが、それでもそこからは血が一定の間を置いてゆっくりと、けれども絶え間なく滴っていた。それを見てまたもや、しまった、と思う。

「ミさん! 怪我は大丈夫ですか!? ああ、血が! 早く手当てをしないと!」

「大丈夫、大丈夫。傷は見た目程深くはないよ」

 正直、自分の傷の程などわからなかったが、そんなことよりもわたしは雷華の方が心配だった。雷華はわたしとは違ってまだ子供なのだ。それに心配してる側が逆に心配されてしまっては元も子もない。

「自業自得だ。あんな無茶をしやがって」

 背後からキョウの呆れた声が聞こえてきた。

 キョウはわたしを乱暴に立たせると、懐から手拭いを取り出した。そして無理矢理わたしの肩をはだけさせると、その手拭いで傷を覆い縛った。キョウがあまりに強く縛るものだから思わず声が出そうになったが、雷華に大丈夫といってしまった手前なので何とか耐えた。

「キョウ、このまま診療所まで連れて行ってはくれないか? その……こんな様子をレンさん達に見られるのは……ちょっと……」

「場所は知っているんだろうな」

 言い辛そうに口籠っているわたしを遮るようにそう言うと、キョウは徐にわたしを背負った。

「ふぇ? あ、ええ?」

 力の抜け切ったわたしの体を物凄い力で引っ張るものだから、もう何と言うか、されるがままであった。

「あの……えっと……」

「何だ? なら一人で歩けるのか?」

 わたしが困ったように言葉を選んでいると、キョウが不機嫌そうに言った。

「すまない、助かる」

 それだけ言い、深く呼吸をすると、そこで初めて強張った体をキョウの背に預けるようにした。家の者以外の、それも男にここまで接するなど生まれて初めてであったが、体が疲弊しきった所為か、不思議と心地よかった。油断すればこのまま眠ってしまいそうだ。

 雷華に続き、キョウの着物までもわたしの血で汚してしまうことに気が咎めたが、正直もう一歩たりとも歩けそうもない。潔く諦め、ここはキョウに任せるとしよう。

「あの、ぼくも一緒に行きます。ミさんがこうなったのはぼくの所為ですし」

「知らん。勝手にしろ」

「ありがとう、雷華」

 そしてもう一人。

「紗千! いるのだろう!?」

 わたしは近くの茂みに向かって叫んだ。そして自分で驚いた。こんな状態でも声とは意外と出るものらしい。合図も無しに大声を出してしまった所為か、キョウがびくりと体を震わせるのが、密着した背を通じてわかった。悪いことをした。後ろからでは様子はわからないが、きっと怒らせてしまっただろう。

「お前……叩き落とされたいか」

 ほら怒られた。

 わたしが声を掛けた茂みががさりと音を立てたかと思うと、そこには草まみれの紗千が立っていた。

 紗千は声を掛けたわたしには目もくれず、雷華目掛けてつかつかと歩いて行く。そして目の前まで来たかと思うと、雷華の胸倉を両手で勢いよく掴み上げた。

「あなた、命懸けで手に入れた功績がそんな大層なものだと思ってんの? ばかぁ! 死んだら、死んだらあなたには何も残らないのよ!」

 そして叫ぶように目一杯怒鳴った。

「ぼくは何も大層な功績が欲しいわけじゃない。志乃咲家という重圧が無いと言えば嘘になるけど。それでもぼくは……」

「あんな刺し違えるような戦い方。あなた、ジュソを斃せれば死んでもいいの!? 死んでもお役目通りジュソを退治できればそれは何か意味があることだとでも思ってるの!? 御免よ! あなたが死んで! その死体を村まで持ち帰って! 燃やして! 灰にして! そんなの御免だって言ってんの!!」

 紗千は聞く耳を持とうとしない。いつも怒りっぽい紗千。ここ最近で一番の剣幕であったが、それでいてしかし、持ち前の気の強さは薄れてしまっているようであった。どこか危うくすら思える。

「それでもぼくは少しばかり認めてもらいたい。それだけなんだ」

 雷華は胸倉を掴んだ手を両手で包み込むと、見た目に反してその手は簡単に外れてしまう。そして両の手を繋いだまま雷華は紗千を見つめた。

「父上にも、母上にも、村の人達にも、紗千にも、もうこれ以上心配をかけたくないんだ」

 紗千は俯いたまま黙り込んでしまう。繋いだ両手はわなわなと震えていた。

「心配かけたくないですって? ほんとに……どこまで馬鹿なの……あなたは……」

 そしてそう呻くように小さくそう言った。

「ありがとうね、紗千。手を出さないでいてくれて。最後までぼくにやらせてくれて」

 その声を聞くなり、きっ、と怒りの表情を見せ、両手を振り払う。

「手なんか出すわけないでしょぉ! 馬鹿ぁっ! あんたなんか、化け物にやられちゃえばよかったのよ! あんたみたいなわからず屋は死んじゃえばいいのよ!」

 気持ちが高ぶった所為か、紗千の言うことは最早、どうしようもなくあやふやで支離滅裂であった。恐らく、目に溜まった涙を零さないようにするのに一生懸命だったのだろう。

 それ以上に必死だった雷華は気が付いていない。正面から対峙していた雷華の位置からは見えない所、ジュソの背に何枚もの札が貼り付いていたことにわたしが気付いたのは、ジュソが消える時、地に伏したジュソを上から見た時であった。

 成程、道理でジュソの力が不自然に弱かったわけだ。冷静になって考えてみれば、おかしなことだとわかる。本来ならばあれ程までに成長したジュソが、あんな風に人の、それもわたしのような女の力とあそこまで拮抗することなどあり得ないのだ。

 ありがとう、紗千。

 雷華の元へ行く途中、ばれないように拾い上げておいた数枚のお札を握りしめて、

 ありがとう。

 わたしも心の中で礼を言った。



 肩の傷はそこまで酷いものではなかったのだが、出血が多かったわたしは医者の勧めもあって、大事を取って一晩診療所で過ごすこととなった。

 診療所の窓から見える闇夜は信じられないくらいに暗かった。

 ずっと見ていれば、吸い込まれそうな錯覚を覚え、思わず目を逸らすのだが、やはり自然と視線は暗闇に向かってしまう。

 何も見えない暗闇に。

 できることならば見ていたくはないのだが、あの暗闇がどうしても虎のジュソの瞳と良く似ていて、それができなかった。黒洞々たる闇。今にもあの暗闇が襲い掛かってくるのではと、キョウに話せば笑ってからかわれるような言い分だが、どうしてもできなかった。

 わたしは何かを探すように窓の周囲に目をやる。

 諦めて目を閉じる。少しの間だけ。

 そしてわたしはまた、あの暗闇を見つめた。

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