虎は死して皮を、人は死して何を.四

 佐久間さんの小屋を出てわたしが慌てふためいたのは言うまでもない。あれだけ降っていた雨はすっかり止んでいたのだ。加えてこの暗闇、急がねばならない。

 佐久間さんに教えてもらった場所、それはとある廃墟であった。

 村から少し離れた所にある古く大きな屋敷、瓦屋根や外壁は所々崩れていてもう人は住んでいないであろう屋敷の庭、そこで虎を見たという。

 わたしは庭の砂利を踏む音にさえ注意を払いながら周囲の暗闇を見渡す。

 廃れた屋敷の外壁の染み、風に揺れる木。闇の中ではそのすべてが異様なもののように、わたしの目には映った。

 やがて、奥にある松の木の下に白い影を見つけた。

 目を凝らし、ようやく安堵する。

 よかった、無事だ。間に合った。

 その時であった。

 気配がした。

 安堵するのは束の間、同時に雷華がわたしより早くここを嗅ぎ付けたことに、ここにいる事実に、背筋が寒くなる。

 考えすぎだとも思わなかった。既に感情は昂揚し、自分の心に猜疑心さえ感じる余裕すらない。焦りだけが体中を巡っていく。

 わたしは力一杯雷華の名を叫ぼうと息を吸い込む。

「らい! ……か……?」

 月明かりに薄く照らされたその白い顔が恐怖に引きつっていると知って、咄嗟に息を呑んだ。嫌な予感で背筋の寒さが増す。そっと、雷華の視線の先に目を遣る。

 そこにあったのは闇。

 闇夜と紛うばかりのその闇は、月明かりに照らされ、そっと、輪郭を形作る。

 おぞましく、醜悪に。

「雷華、いいか? そこを動くな、今行く。いいか? 動くなよ……」

「み、ミさんですか? じゃ、邪魔をしないで。あれはぼ、ぼくの獲物です」

 何を強がっている。そんなに震えているではないか。

 雷華の体の震えはここからでも存分にわかった。

「た、高天原に……か、神留り坐す」

 雷華は懐から札を取り出し、その震える手で構えた。声はそれ以上に震えている。

「ぐるおおおお!」

 雷華が仕掛けるより早く、化け物はその鋭い牙と爪を暗闇から露わにし、雷華に迫った。

「す、すめらがむつ――ひぃ!」

 その勢いに耐えきれず後ずさった雷華は、松の根に足を引っ掛け、尻餅をついてしまう。

「雷華!」

 化け物の巨躯が雷華に届く寸前、わたしはどうにか化け物と雷華の間に割り込み、大鋏で化け物の爪を受け止めた。

 並々ならぬ衝撃が身体を揺らし、重みで両足が微かに地面に沈み込むのを感じる。

 耐えきれず、爪がわたしの肩に僅かに食い込んだ。血が布の端から滴り、雨に濡れた地面をさらに濡らしていく。

 化け物の顔が寸前にまで迫る。

 生温い息が顔に掛かった。

 そのまましばし膠着して動けなくなる。

 漆黒の毛に唾液に濡れた牙、そして―――そしてその目は………。

 真直に見据えたジュソの黒洞々たる目からは、名状しがたい何かが溢れ出ている錯覚を覚えた。煙のように漂い、しかし泥水のように重く、それはわたしの目から入り込み、脳髄を、まるで障子紙の端から墨がしみ込んでいくかの如く、じわりじわりと浸食していくのだ。

 じわり、じわり、と。

 目眩がした。

 視界もぼやける。

 ここまで走ってきたので、力を使い過ぎたのだろうか、流れ出た血の量が思った以上に多かったのだろうか。いや違う。わたしは恐れているのだ。勝てる勝てないの問題ではない。人の恨みは、その深淵は、わたし一人で受け止められるようなものではない。そう理解したのだ。理解させられたのだ。

 何をしている。

 ジュソの力自体は思った以上に弱い。見た目には気押されるが、現にこうして受け止めることができているではないか。

 そうなればこの密着した状況、逆に好機と言えなくもなかった。腕の力はこれ以上耐えられそうにもないけれど、それでも次の一瞬に全力を込めれば、このジュソの腕をいなし、一撃を加えることができる。

 だからこんな化け物の首など、すぐにでもこの大鋏で落としてしまえばいい。恐れなど、これまで通り血と刃で振り払ってしまえばいい。

 そんな時であった。一瞬雷華の方を見る。表情は恐怖に引きつり、未だ起き上がれずにいた。だが、わたしと目を合わせるなり、その拳は強く握りしめられた。恐怖よりも、何もできずにいる自分が悔しいのだろう、瞳からぽろぽろと涙が毀れ始めた。キョウと紗千の、雷華に対する冷たい言葉が頭をよぎる。

 何をしている。余所見などしている場合か。

 そんな自問自答は裏腹に、わたしは自分でも思いがけないことを口にしていた。

 それは口にするなんていう生易しいものではなく、悲痛な叫びと言ったほうが正しかった。

「雷華! これはお前の獲物なのだろう!」

 自分でもどんな声を発していたかわからない。ところどころ、無様に裏返っていたに違いない。苦し紛れに喉から捻り出された声は、ちゃんと言葉になっていたであろうか。

 腰が砕け、立ち上がることもできずにいた雷華は静かに片足を地に付ける。

「そんなことではいつまで経っても村には帰れないぞ!」

呑気なことながら、言ってしまってから、きつい語調になってしまったことを申し訳なく思う。

 しかし、私の声を聞いた雷華は表情を固くすると、よろよろと立ち上がった。そして化け物の額に札を飛ばし貼り付けると、再び言葉を紡ぎ始めた。

 そうだそれでいい。

「ぐるるるる。に……く……」

 その時わたしはジュソの声を聞いた。微かに、だがはっきりと。

「にくい」

 と、

 苦しそうに絞り出される声はひどく歪んでいたけれど、確かにわたしの耳に届いた。

「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

 わたしの耳に届き続けた。

 憎しみに爛れた化け物の声が。

 化け物の呪詛が。

 わたしの耳をこじ開けるように、その化け物の口にする呪詛はわたしの頭の中へ入り込んでくる。

 思わず耳を塞ぎたくなる。それを堪えて鋏に込める力を強くする。

「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

「ひっ」

 ジュソの声に混じって短い悲鳴のようなものが聞こえた。

「ヒナ……か……?」

 聞き覚えがあった。

 いつだって怯えているようなその声を一層震わせて。

 何故だ。レンさんの家に残してきた筈のヒナが木の陰からこちらを見ている。こっそり付いて来たのか。そうか、雨が止んだから……。

「お、お姉ちゃん……血……血……。いやっ!」

 ヒナは目に涙を浮かべ、走り去ってしまった。

 泣かないでくれ……ヒナ……。

 すぐにでも追い掛けたかった。

「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

 だがそれもこの状況では無理な話だ。後でちゃんと安心させてあげなければ。

「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い…………憎くて……つらい……」

 頼む、大人しくしてくれ。もう少し、もう少しだから、大人しく消されてくれ。

「ミさん! ぼくの祓詞ではこれ以上は無理です! 直接ジュソを叩きます!」


「召鬼三式、夜叉ぁ!」


 雷華が自身の腕に札を貼り付けたかと思うと、白煙と共に化け物の腕が現れた。

 化け物と表する以外には考えられない程に太く、隆々たる腕。そしてその指の先には、岩でも削り取れそうなくらい分厚く鋭い爪があった。

 そして驚くことに、それは雷華の小さな体から伸びているのだ。

「ミさん! 今いきます!」

 雷華はその大きな腕の重さに体をよろめかせながらも態勢を整えると、こちらに向かってがむしゃらに駈けて来る。

「こぉおおのぉおおおお!!」

 しかし、化け物は雷華を一瞥すると、地面に突いていた前足の片方を緩慢に、大きく振り上げた。

 反対の前足を上げることで、その分の体重がのしかかり、わたしはついにがくりと片膝を付く。

 いけない。このままでは前足が雷華目掛けて振り下ろされてしまう。

やはり無理だ。ここはわたしが……。

「!?」

 体が言うことを聞かない。

 いくら力を込めようとも腕の震えが増すばかりである。

 わたしの腕には最早、化け物の腕をいなすだけの力が残されていなかった。

「おおおおお!!」

 無我夢中の雷華はまるでわかっていない。化け物目掛け、ただただひたすらに駈ける。


 ――駄目だ。

――間に合わない……。


 そう思った時だった。わたしの目に光が見えた。黒く塗りつぶされた両の瞳が、急に明るくなる。

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