虎は死して皮を、人は死して何を.三

 急に理解のできない言葉を話し始めたので困惑する。そんなわたしの心境をよそに、佐久間さんは実に嬉しそうな笑みを貼り付かせている。

「あ? ああ、悪い悪い。これは本島の人間が使う西洋の言葉でな、まあ、なんだ、女として魅力的とかそんな感じだ」

 本島の人間とはこの島の人間では理解のできない言葉を話すものなのか。初めて知った。キョウと話している時はそんな言葉を聞かないばかりか、違和感一つ覚えなかったのに。もしかしたら、わたしの気付かぬところでキョウは気を使って、言葉を選んで話すようなことをしていたのだろうか。そう考えると、仕方のないことではあるのだが、何も知らずにのうのうと接していた自分が、酷く浅はかであったように思われた。

「魅力的………、わたしの格好が魅力的ってことですか」

 この、単に動き易さのみを考えた格好のどこに、佐久間さんの言う魅力があるのだろうか。

「ああそうだ。魅力的だ。生憎今は一文無しだが、金を持っていたらいくら注ぎ込んだっていい。なんなら毎日指名してやるよ」

 この人の言うことはヒノト達以上にわからない。

「は、はぁ」

 失礼と感じつつも、わたしは適当に相槌を打つ。そうせざるを得ない。

「まあ、冗談冗談。しかしこの島の人間相手だと話していて不思議な気分だな。まるで自分が時代の先を行く人間って感じだ。ま、実際そうなんだけどよ。こんなことで得意になるってのは下衆な考えだが、それでも新鮮には違いない。本島じゃ俺は若い奴らに馬鹿にされっぱなしだったからよ。話が古臭いだの、服装が古臭いだの。ったく古いことの何がいけねぇってんだ、あのクソ生意気なキャバ嬢共が」

「本島にはこの島の人間が理解できない言葉がたくさんあるのですか?」

「あるもなにも、本島の奴らはどんどん自分で言葉を作っちまうからな。特にお嬢さんくらいの年の女なんてのは特に」

 言葉を……作る。

 どうやら本島には学識豊かな女性が多いようだ。

「『ちょームカつくー』とか『まじキモイー』とかくらいならまだかわいいもんだが、『なんとかナウー』だとか『あげぽよー』だとか、さすがに最近の若者が使う言葉はもう、おじさんには理解できねーよ。あ、これももう古いんだっけか」

「ちょーむかつく?」

「あーそれは……、とにかく気に食わない相手に言う言葉だ。間違ってもお嬢さんは使うなよ? つっても通じやしないか、かっかっか」

 気に食わない相手に……。取りあえず覚えておこう。誰も知らない島の外の知識を身に付けるのは、何だか少し得した気分だ。ヒノト達の気持ちが少しわかる。それでもキョウにだけは及ぶ筈もないのだが。

「そうそう。この島に着いた時から、村の女の子達に訊かなければと思っていたことがあるんだ。いやまあ、機会は十分にあったんだが如何せん内容が内容なだけにな、俺だってこう見えて元来真面目な性格だから……ってのは嘘で、正直嫌われたくないのよ、うら若き乙女たちからは特にな。その点お嬢さんなら大丈夫な気がする。わかるんだ、お嬢さんは身も心も美しい。そんな女は他人の言動にいちいち目くじら立てたりしない。東京にいた頃、セクハラを訴えるのはいつだって身も心も不細工な奴ばっかりだった」

「何ですか?」

 そう尋ねると、佐久間さんは顔を強張らせ、これ以上ないというくらい真剣な目をした。今の会話だけでも他に尋ねたいことは多々あったのだが、それでは会話が進まなくなる気がした。

「本当に穿いてないのか?」

「は?」

「下着だよ下着。着物ってそういうもんだろ? 本島ではな、普段からそんな格好してるやつはもう珍しいんだよ。そういう催しでもない限りな。確か付き合いで行ったメイド喫茶っつう所は何故だか女の子がみんなそんなような格好してたぜ? 丈が異様に短い着物な。店のコンセプトらしいが、どの辺がメイドなんだか最早わかりゃしねぇな」

「めいど? したぎ? こんせぷ……?」

「メイドはさておき、だから着物の下に何も着てないのかって訊いてんだ。その短い裾を捲ればその下に肌を隠すような布はあるのか? 無いのか? さあどっちなんだ!」

 襦袢のようなもののことを言っているのだろうか。

「ああ、それならありませんね……」

 少々押されぎみになりながらも、そんなことを訊かれて不審に思わないと言えば嘘になるが、取り立てて隠すようなことでもないので、わたしは正直に答えた。夏とはいえこんな天気の日には少々肌寒いことは否めないが、いざとなれば万全の状態で動けるようにしなければならない。余計なものなど身に付けるわけにはいかないのだ。

「なにぃ!?」

 がたんっと、茶の入った湯のみをひっくり返し、佐久間さんは勢い良く立ち上がった。

 何をそんなに驚くことがあろうか。

「どうかしましたか?」

「その丈で堂々とノーパ……いや、すまん。少々取り乱した。しかし調子が狂うな、お嬢さん。俺の言葉を聞いてせめて顔を赤らめてそむけるくらいのことはしてくれないと、セクハラのしがいがないってもんだぜ」

 佐久間さんは再び腰を落ち着けると、薄緑の着物の懐から何やら書物らしきものを取りだした。そして筆だろうか、書物に挟んであった細い棒らしきものをさらさらと滑らせる。何かを認めているのだろうか。

「お嬢さん。俺はな、学者なんだ」

 視線はそのままに佐久間さんは言う。学者という言葉がわからないわけではないが、それが意味する所はまるでわからなかった。

「学者……ですか。つまり佐久間さんはこの島で何かを調べているのですか?」

「調べてる……、ま、そんなところだ。ん? 疑ってるのか? 俺はそんな頭が良さそうには見えないってか?」

「ああ、いえ。ただ何を調べているのか気になって。それはやはり、この島の呪いや、現れるジュソについてですか?」

 本島に渡ったことのないわたしでも、この島にあって他に無いものなどそれくらいだとわかる。外の世界は広いと聞く。きっとこの島にあるものなんて、世界から見ればほんの 

一握り程に違いない。

「あ? ああ違う、違う。俺はそんな非科学的もの信じちゃいない。もっと単純なものさ。そう、例えばこの島の歴史とか文化とかさ。ちなみに服装も立派な文化だぞ?」

「佐久間さんはジュソをいないと思っているのですか?」

「いないと思ってるんじゃなくて、いないんだよ。いいか? それが学者の考え方さ。そもそも本島の人間でこの島の呪いについて知ってる奴なんてのはな、もうほとんどいないんだ。第一どうしようもなく科学的じゃない。まあ、信じちゃいないっつってもその辺の奴よりはずっと詳しい心算だがな。どんな地域にでも必ずと言って良いほど存在する抽象的な畏怖。神や悪魔とかな。それがこの場所では恨みから生まれた怨霊みてぇなやつってだけだ。ま、それも立派な文化なんだろうが」

「…………」

 わたしは何と返せば良いのかわからなくなってしまった。ジュソの存在を否定する人間、そんな者と出会うのは生まれて初めてだ。この島の者にとってジュソの存在など疑いようもないことだ。島の七不思議にだって数えられていない。それは土に種を蒔けばやがて芽吹くが如く、仕組みを知らずとも当然のこととされている。

「ああ、悪い悪い。余所者にそんなこと言われたら気ぃ悪くするわな。でもこれも調査の一環なんだ、どうか許してくれ」

 この人は最初から謝ってばかりだなと思った。

 他の人ならわからないが、わたしはこんなことで不快に思ったり、頭に来たりすることはない。ただ、返答に困っていただけなのだが、その間はわたしが思っていた以上に長かったらしく、いらぬ誤解を生んでしまったようだ。しかし、調査とは何だろう。この話の流れのどこに調査するに値する所があったのだろうか。

「でもな、本当に呪われているのは本島の方かもしれないな。おっと、今のはたまたまだぜ? 俺はそんな寒いおやじギャグなんか言うつもりはなかった。信じてくれ」

「本島が呪われてるとは?」

「呪いだなんて言葉は例えだ。言っただろう? 俺はそんなもの信じちゃいないって。ただな、今の日本を見て、呪われてるだなんて言われれば、それはそれで納得できちまいそうだなとも思うのよ。俺はこの島に来てそれを痛切に感じたね」

「本島とはどのような所なのですか?」

 わたしはキョウにしたのと同じ質問をしていた。

「なんて言うかなぁ。ま、一言で言うなら殺伐としてるな。皆いがみ合いながら生きてる。でも表ではそれを隠そうとするんだ。大人も子供も男も女もそれなりに、何故だかな。だから心に矛盾が生まれる。仕事の電話口で相手の苛立ちがこっちにも伝わってきてるのに、頑なに正しい敬語を使ってるのを聞いたりしていると特に感じちゃうね。まったく何をそんなにあやふやになってんだってね。本島の人間はそんな矛盾に押し潰されそうになりながら、それでも平静を装って毎日を生きてんだよ。なぁ? 聞くだけで窮屈そうだと思うだろ。広さで言えばこの島なんかよりずっと広いが、息が詰まりそうなくらい窮屈な所なんだ。本島ってのは」

「それが佐久間さんの言う、呪い……ですか」

「だから本気にすんなって。例えだって言ったろ? それも俺が勝手に思っただけだ。もしかしたらそれが正常なことかもしれねぇ。そうやって生きていくことが人間にとってのな」

「正常……ですか」

 最早わたしは佐久間さんの言葉を繰り返すことしかできない。

「ああ、正常だ。そしてもし正常なら正すことは絶望的かもしれねぇな。何しろ正常なんだから」

「正常とは、それが正しいということですか? それが本来あるべき姿だと」

「まあそうだ、なにも良いことばかりが正しくて、駄目なことばかりが異常とは限らないしな。例えば、だ」


「人が恨みを持つことが異常だと思うか?」


 異常……とは言えない。だがそんなものは無い方が良いに決まっている。この世に恨みが微塵も無くなれば、それは迷うことなく素晴らしいことだと言い切れる。正常か異常なんてことははっきりとは言えないが、少なくともわたしの人生は、この島での在り方は、もっと正常なものになっていたであろう。

「人が恨みを持つこと、それは正常なことなんだよ。恨みなんて無い世界、それは理想でしかない」

 わたしの答えを待つことなく、佐久間さんは答える。そうはっきりと。

「でも、その所為でジュソという化け物が生まれる。その所為でこの島が呪われた島となる。それは異常なことではないのですか?」

「それが本当ならな。俺は信じちゃいねぇから、この島が本島なんかよりずっと正常に思える。理不尽な死なんてのは本島には沢山あるからな。いっそのことそれが全部化け物の仕業ってことになれば逆に恨むべき相手がはっきりしていて良いのかもしれねぇ。恨む相手がいるってのは悲しいことだが、恨むべき相手がわからねぇってのはそれ以上に遣り切れねぇもんだしよ」

 だから昔から人々は理不尽な死を呪いや妖怪の類の所為にするのだと、佐久間さんは言った。ジュソの存在を信じていないにも拘わらず、この人の言うことはそれはそれで正しい気がした。

「それに言っただろう? 必ずしも異常が悪いことなわけじゃない。お嬢さんのその格好、それは俺の価値観の上では少々異常だが、その異常が俺にとっちゃあ嬉しい。まあそれが男にとっての正常な反応ってもんだ」

 また服のことを言われた。そんなに気になる姿だろうか。確かに、キョウにも色々言われたけれど。

「キョウはどうなのだろう」

「キョウ?」

 無意識にぼそりと呟いた言葉は佐久間さんに聞こえてしまったようだ。

「なんだ? お嬢さんの気になる男か?」

 佐久間さんは何やら怪しげな笑みを貼り付かせていた。

 気になる? まあ気になると言えばそうかもしれない。正直に言って、不可解なところが多い男だ。わたしのような好奇心のある者でなくても、接しさえすれば自ずと気になってしまうだろう。この島の人間にとって、島の外とはそういうものだ。

「はい」

「かっかっか、お嬢さんは正直者だなぁ。こっちが照れちまうぜ」

 感心した様子だが、こんなことで褒められてはきりがない。佐久間さんはわたしのことがそこまで幼く見えるのだろうか。もうとっくにどこかに嫁いでもおかしくない風貌をしていると、自分では思っていたのだが。

「キョウはわたしのこの姿を別に嫌じゃないと言ったんです」

「まあ、正常だな」

「でも佐久間さんのように嬉しそうな反応はしませんでした」

「そいつは異常だ」

「それではキョウはどっちなのですか?」

「まあ、一見矛盾しているようだが、正常ってのは純粋に正常なことを言うんだ。混じりっけけなしにな。そこに一つでも異常が紛れてしまえば、そいつはたちまち異常になっちまう」

「ではキョウは異常か……」

 やはり、ただ者ではない。

「さあな。俺はそいつを真近で見たことがねぇ。そんなに気になるなら直接本人に訊いてみな。間違っても連れて来るんじゃねえぞ。俺は色男が大嫌いだ」

 キョウに直接……。

「でも、ただ単にお嬢さんを姿を見て嬉しそうな反応をしなかったからといって異常と決め付けるのは早計かもな。男ってもんは例外なく変態だが、それが必ず表に出るかといえばそうじゃない。俺みたいなオープンすけべもいれば無論ムッツリだっている。いやむしろムッツリの方が多数派かもしれねぇ。心の中を読んで、それでもなお嬉しくねぇってようなら今度こそ本当に異常な奴なのかもな」

「はあ」

「だがな、お嬢さん。また矛盾したことを言うようで悪いが、正常、異常なんて見かたは結局、人それぞれなのさ。そんなものは価値観だ。絶対なんてものはない。今までの話だって俺の価値観で勝手に話していたにすぎない。学者ってのは大抵そんなもんだしな。だから世の中には自分にとっての正常、他人にとっての異常ってのが多いのさ。ようは考え方さ。自分が正しいと思っていればそれでいいのよ。そして相手にも正しいって思わせることができりゃあ上出来だ」

「わたしは自分が正しいかどうかなんてわかりません」

 今更そんなこと、恐ろしくて考えたくもない。

「まあ焦ることはない。そのうちわかればそれでいいんだよ。でもまあ、世の男が皆変態だってのは、大抵の人間にとって正常な見解だろうがな」

 かっかっか、と笑うと、佐久間さんは手に持っていた書をぱたんと閉じた。

「さらに言うならばその価値観ってやつもあやふやだ。価値観はそいつの人生を決定付ける重要なものだがその半面、些細なことで変わったりもするのよ。それこそ小石のような小さなものでな。お嬢さん、さっきのお嬢さんの『穿いてない宣言』はお嬢さんにとっては小さな小石みてぇなもんかもしれねえが、それでももう俺の価値観を、人生を、大きく変えちまったかもしれねえ」

 わたしはいよいよ困ってしまった。どこから訊き返せば良いのやら。

「そういえば、俺に訊きたいことがあるんだろう?」

 そんなわたしの心情を察してか、佐久間さんは勝手に会話を終わらせた。

 そうであった。切迫した状況であるはずなのにのうのうと話し込んでしまった。これではキョウ阿呆と言われても仕方がない。

「とっ! 虎に、会いたいんです!」

 前置きなどはなく、慌てて、簡潔にそう伝えた。

「虎に?」

「はい、佐久間さんならば、この島に現れるという虎の居場所を知っているということを聞きつけてここまで来ました」

 佐久間さんは妙に納得したような顔をすると、そのまま黙り込んでしまった。

「……まあ、教えてやってもいいが、あまりお勧めはしないぜ?」

 佐久間さんは少し考え込んでからそう言った。

「何故です? それはその虎が危険だからですか」

 言ってしまってから自分が変なことを口走ったことに気が付く。実際にこの目で見たことはないが、知識としてなら勿論知っている。虎とは牙と爪を持つ猛獣だ。そして肉を食う。ならば虎とは概して危険なものではなかろうか。それがジュソであるに限らず。それに、佐久間さんはジュソの存在を信じていないのだ、こんな言い方をしたところでわたしの言葉の真意が伝わる筈もない。

 だが、そんな心配をよそに、佐久間さんは至って真剣な面持ちであった。

「ああ危険だと思ったね」

 そして静かに頷くのであった。

「別に襲われたってわけじゃない。俺は物陰からこっそり見ただけだからな。それに、その異様に黒い様を見て、異様にでかい様を見て、そう思ったわけでもない。だが目だ。奴の目を見た瞬間、こいつはやばいと思った。殺される、とね。俺がそいつに何をしたわけでもないが、こいつに見つかれば俺は決して許されないのだなと、そう思ったよ……」

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