隠れ鬼.五
「虎が出るんだってー」
「とらぁ、とらぁ」
ヒノト達が例の佐久間とやらから聞いた知恵を自慢げに話してきた。本島出身の俺からするとそんな話、面白くもなんともないのだが、ここで上手く機嫌を取ることも子守のうえでは要なのである。後々面倒な要求を押し付けられては墓穴を掘ったと言われても仕方がない。話を聞くだけならば楽なものである。この家に厄介になってから学んだことだ。
「虎だぁ? そんなもの本島では珍しくともなんともないぞ」
正直、俺もこの目で見たことがあるわけではないが。そういうものを見世物にしている場所は本島にいくらでもある。
「違うよー、この島にだよ」
「そんなわけあるかぁ。やはりその佐久間って奴はとんだ嘘吐き野郎だな」
「違うもん! おじちゃんは嘘吐きじゃないもん! 嘘吐きはキョウちゃんの方だもん」
「おい、確かにレンさんの約束は破ったが、お前らに嘘なんてついたことないぞ」
「だって昨日だって遊んでくれなかったし」
「何故お前らと毎日遊んでやる決まりになってんだ。そんな約束した覚えがない」
「だってばあちゃんが言ってたもん。キョウちゃんはヒノト達の為にこの家にいるんだって」
くそばばあが、妙なことを噴き込みやがって。一番の嘘吐きは貴様だ。
「あーあ、雨じゃなかったら見に行きたかったなー、虎」
「でも夜は外出ちゃいけないんだよ? 母さんに怒られるよ?」
ヒノトの言葉に対しツヅミがそう反論した。いつも姉に連れられているのかと思いきや、意外としっかりしているところもあるようだ。
「ああツヅミの言う通りだ。お前達のようなチビ共が夜出歩いたら、すぐに化け物に食われるぞ」
「でもどーしても見たいんだもん。ねぇねぇキョウちゃん連れてってよ。キョウちゃんは強いから化け物出ても平気でしょ?」
「阿呆が。お前達が見たくても俺が見たくないんだ。ほかの奴にでも相談するんだな」
「けちー。キョウちゃんのけちー」
「けちーけちー」
ヒノトに続いてツヅミも囃し立てる。お前は一体どっちの味方なんだ。先程一瞬でも感心してしまったことを馬鹿らしく思った。
「大体お前ら、どうして虎なんて見たいんだ。この島では珍しいかもしれないが、それでも別段面白いものじゃないだろう」
幼い子供が見たことのないものに対し幻想を抱く気持ちもわからないではないが、虎はいないにしろこの島にだって似たようなものはそこら中にいる。実際に見たところで何の感慨も湧かないのが落ちであろう。まあ道端で出会えば、襲われる恐怖くらいは生じるだろうか。
「だって佐久間おじちゃんが言ってたんだよ。その虎、本島にもいない珍しい種類だって」
「ほう、一体どんな虎なんだ?」
子供相手とはいえ、ここまで下らない嘘を並べるとはその佐久間という男、余程取るに足らない思考の持ち主なのであろう。最初は腹が立ったが、最早呆れることを通り越して、少々憐れに思えてきた。
「その虎、まっくろなんだってー」
「っ!?」
黒い。その言葉がヒノトの口から出た瞬間、ミと紗千が一斉にこちらへ視線を投げかけた。
蒸し暑い筈の室内が急に涼しく思えた。しかしそれは心地良いものではない。気味の悪い空気が一瞬で辺りを包み込むようであった。あるいは何か冷たいものが体の中を巡っていくような。腹の底から込み上げるような。どの道良い気分ではない。
今更ジュソを恐れるわけがない。ただ、ヒノト達の口からそんなことを聞くのが何とも許し難かった。誰にというわけではない。俺はこのガキ共をあんな化け物に微塵も近づけたくない、それが例え単なる言葉であっても、単純にそう思ったのだ。
「御飯よー」
レンさんのその一言で、張り詰めていた緊張が一気に解けた。
この天気だ。今は考えていても仕方がない。よくよく考えれば、それはあくまで可能性でしかないのだ。
俺達は互いに目で合図すると、何事もなかったかのようにその場を収めた。
さっき昼を食べた気がするのだが、家でずっと怠けていた所為か嫌に早い気がする。だが腹の減り具合からみて確かにそんな時間なのだろうと勝手に納得した。
「あれ、雷華ちゃんは?」
だが、解けた緊張も束の間で、すぐにまた不穏な空気が立ち込める。
レンさんが雷華を探して家中を歩き回る。
「雷華ちゃーん。おっかしいわねー、さっきまでいた筈なのに。厠かしら?」
先程まで一緒にいたのだが……レンさんの呼び声が掛かるなり、腰を上げ、一人居間を出て行ったのだけは知っている。最初は夕飯の準備を手伝いに行ったのだろうとしか考えてなかったが、レンさんの様子を伺う限り、違うようだ。
「厠には誰もいなかったぞ!」
心配して見に行ったミが騒々しく戻ってきた。
それこそ、何が起こるかはわからない。
死の淵に立つまでは。
その日、雷華がレンさんの家から姿を消した。
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