かわのほとりにて.四
「ミだ」
森を連れ立って歩いていると突如女が口を開いた。
女はやはり森を歩き慣れているのか、道無き道を迷いなく進んで行く。
「あ? なんだって?」
「名だ。わたしの名。ミという」
こちらを振り返った女の表情は、可笑しいくらいに真顔であった。ふざけているわけではなさそうだ。
「そうか、変な名だな」
この島の人間は大抵〝名前〟というものを持ってはいけないので、これは〝呼び名〟といったところだろう。
「お前の名は?」
「……キョウ」
この女に易々と名を名乗るのは何となく躊躇われたが、先に名乗られてしまっては断るわけにもいかない。
「キョウは本島の人間だと言ったな。本島とはどのようなところなのだ?」
「俺はそんな都会に住んでいたわけではないからな、この島とそんな変わらん」
「そうか、でもいつか行ってみたいものだな。自分の知らない世界が海の向こうに広がっているのかと思うと不思議でしょうがない。それにジュソなんてものもないんだろう?」
「そうだな、この呪われた島とは違うからな」
呪われた島。あえてその言葉を口に出したのは、それを聞いてこの女がどのような反応を見せるのかという興味本位でしかなかった。早々に嫌われてしまえれば、それはそれでありがたいのだし。
「呪いか。そうだな。その所為でわたしも島の人達もこの島から出られない。出ることは許されない。まあ、叶わぬ夢というやつだな。色々な意味で呪われているよ、この島は」
だが、肝心のその反応には肩透かしを食わされたようであった。どうやらこの女は鈍いだけではなく、随分とめでたい頭をしているようだ。
「キョウ、故郷は良い所か?」
「ああ? ああ、まあな」
「帰りたいとは思わないのか?」
「思わん」
それはこの女との会話が面倒になったわけではなく、いや、面倒といえば最初からずっと面倒なのだが、紛れもない俺の本心であった。
「お前はどうなんだ。あの村で生まれ育ったわけじゃないんだろう?」
「……違うよ。生まれ育った村ならまた別にある。とても良い所だ。……でも、やっぱりわたしも帰りたいとは思わないかな」
最後の一言は訊かせるつもりではないのか、酷く消え入りそうな声であった。
「村を離れ、こんな所に小屋を建ててジュソ退治の真似ごとか?」
そう言いつつ、目の前の細い竹を乱暴に払い除ける。
意味も無く挑発めいた言い草になってしまったが、依然として女の表情は変わらない。こいつの実力は先ほどの身のこなしだけでも、決して真似ごとなどという生易しものではないということは嫌でもわかるのだが、俺はこの女のことを心のどこかでまだ、認めたくはないのだろう。
「まあな。ジュソはこの森のような薄暗い所を好む。予め森に住みついて、ジュソを退治してまわれば村の人への被害が少なくなるだろう」
ならば何故、自分の村で退治をしないのかと疑問に思ったが、それ以上は訊かなかった。初対面の女に故郷の話を乞うなど、気味が悪い以外のなにものでもない。そもそも俺はこんな女の素性に興味がない。
「レンさん達には当面の間は森に籠り、村には戻らないと言っておいたのだが、予想以上に早く帰る羽目になってしまったな」
「そうか、それは悪かったな」
この謝罪は、髪を切ってしまった時の謝罪の意味合いとは勿論違う。
「なあに、これも縁さ」
俺の本心を知ってか知らずか、ミと名乗った女はそう返した。
やがて森の終わりが見えてきた。
成程、思った以上に近かったのか。無駄に走らされたことを思うと誰にでもなく、無性に腹が立った。事あるごとに腹を立たたせる女だと思った。
レンさんの家の戸を開き、中へ入るなり忌々しいものが目に入った。忘れかけていた怒りが込み上げてくる。
草履を揃えることも忘れ、居間へ押し進む。
「おい! ばばあ! 騙しやがったな」
俺は腰を落ち着ける間もなくばばあに迫った。
「なんじゃ、お前さんが化け物を倒す倒すとうるさいから少し力試しをしてやったまでのことよ」
当のばばあはこちらを見もせず、茶を啜っている。
「ふざけるな、危うく人を切るところだった」
「果たして、それはどうかな」
背後からミの澄ました声が聞こえる。
俺は横眼でミを睨みつけた。その、涼しげに瞼を伏せている表情を見ていると腹が立つ。
「ほっほっほ、ミのその様子を見る限り、お前さんは随分と見栄っ張りだったようじゃなぁ。あれ程どんなに強いジュソでも倒してみせると豪語しておったのに」
「知らん、途中邪魔が入った。それさえなければ今頃そこの女の腹は真っ二つだ」
「おお怖い、怖いのー」
どれだけの大事かわかっているのか? このばばあは。いつもこうだ。一笑に付してこちらの話をまともに取り合おうともしない。俺が実際にこの女に切りかかったことなど信じていないのだろう。一度、このばばあの目の前で刀を抜いてみせれば、そんな態度も改まるだろうか。
「そんなことよりも仕事が待っておるぞ。化け物退治なんぞより名誉ある仕事じゃ」
「キョウちゃーーーーん!」
家の奥から二人の幼い娘が走って来た。
「馬鹿! お前ら! がふっ!」
態勢を整える前に二匹のガキにのしかかられ、俺の体は床に仰向けに倒れた。
「お前ら! よせ! 今日は無理だ」
森を駈け回った疲れがここにきて急に出ていた。正直、ガキ共の相手をする気にはなれない。だが、こんな時は良い手がある。
「ほら、また本島の話を聞かせてやるから。大人しくしろ」
「えー」
何やら乗り気ではない。妙だ。いつもなら俺の前に二人仲良く正座し、喜んで俺の話を聞くというのに。
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