かわのほとりにて.三
ジュソは逃げ去り、川のほとりに残されたのは自身と壊れた小屋と、この見知らぬ女だけであった。
ジュソがジュソを襲うなんて話は聞いたことがない。そうなるとこいつは問うまでもなく人だろう。それに加えこの女の持つ、この世のものとは思えない得物。俺の中で一つの結論に至る。
「おい、ジュソはどこだ」
「何を言ってる。ジュソなら先程――」
意味が通じていることを前提に話しているので、こうしてとぼけられては腹が立つ。
「とぼけるな。ジュソの持つキョウキはジュソを切ることができる」
そして女の持つ禍々しい大鋏に目をやった。
ジュソに並の武器が効かないことは、この島に住む者にとっては周知の事実だ。それでなお立ち向かう理由があるならば、それはジュソに対抗する手段。すなわちジュソのキョウキを持っていることに他ならない。
「お前、ジュソに憑かれているだろう」
「…………、隠しても無駄なようだな。そうだ、お前が言うようにわたしはジュソに憑かれている。このキョウキもそのジュソから借り受けたものだ」
「お前、どういうつもりで……」
「知っているか? ジュソの中には自身の恨みを忘れ、それ故に人を襲わない、そんな哀れなものもあると」
「哀れだと?」
知っている。それは知識としてであって実際にこの島に来て見たわけではないが、人に憑いてもすぐにはその者を殺さないジュソが存在するという話は珍しいものではなかった。だが、そんな原因不明なジュソが、些細なことをきっかけに再び恨みを取り戻すということも、勿論知っていた。
「死ぬぞ、お前。そんなものを憑けていれば、いずれ、必ず。その前に俺が退治してやる」
「必要無いよ。これはまだわたしにとって必要なものなのだ。それに退治するといっても、切ることはおろか、先程の成長したものとは違って見ることもできないんだ、どの道無理だろう」
「いやできる」
俺は強腰になって答えた。
「俺の目、それとこの刀は少々特別でな、この目ならばジュソを見ることができるし、この刀ならばジュソを切ることができる」
「そうか、でも別に珍しいものでもないだろうな。この島には家業としてジュソの討滅を生業にしている者は多くいるし、その中でも優秀な家柄ならこんなこと造作もなくやってのける。別段奇妙というようなことではない」
「だから早くしろ」
この女の落ち着いたもの言いがいちいち癇に障る。
だが、やがて「ふぅ」と大げさに溜息を吐くと、女は驚く程優しい声色で「出ておいで」と言った。
しばらく間をおいて、女の後ろにある無骨な木製の押入れの戸が、すぅっと開いた。
そして現れたジュソを認める。柄へ伸びかかった右手が、親指一本分の距離を残した所でぴたりと止まる。
ああ駄目だと思った。
女に憑いているジュソもまた女であった。しかも背丈は俺の腰程くらいしかない、年端も行かぬ子供だ。女と同じように腰の辺りまで伸ばしている髪は雪のように白い。だが、そんなことは関係無い。理由にならない。女であろうと子供であろうと老人であろうと、ジュソであるならば迷いなく切ってきたのだ。今更躊躇うことなどおかしい。だが、今度は駄目だと思った。ただ一点。
目だ。目が違った。
外見が何であろうとジュソには共通するものがある。ジュソであるならばそいつの目は、恨みからくる狂気と殺意に満ちているのだ。目だけならば、こんな子供のジュソでも、先程の成長したジュソに負けず劣らない。そしてそのお陰で何の躊躇いもなく切ることができた。
だがそのジュソの子の目は、今まで切ってきたそんなジュソのものとは明らかに違った。その目は常に不安に揺らいでいる。まるで、それが本当に生きた人のように。だから、駄目だと思った。
「お姉ちゃん……」
ジュソの娘が震える声を発する。
こんな筈ではなかった。そんな甘い考えで俺はこの島まで来たのではない。そんな甘い考えを持っているから、後々後悔することになるのだ。そんな考えを捨てる為に、捨てたことを確かめる為に、どのようなジュソだって切ってきたのではないのか。女であろうと、子供であろうと、老人であろうと。まったく、忸怩たる己に嫌気が差す。
柄に掛けた手を、さてどうしたものかと悩んでいると、女がずいと前に進み出た。
そうしてジュソの少女の前に立ちはだかると、
「この子を切るというのなら仕方がない。今度こそわたしが相手になろう」
そう言って大鋏の切っ先をこちらに向け構える。女の目は、ジュソと対峙した時のそれに変わっていた。本気と見て取れる。
俺は少し考えるふりをしてから口を開いた。
「やめた」
「え?」
「やめたと言ったんだ。人を切る趣味はない。それに、そんな弱そうなジュソを切ったところで俺の心が満たされるとも思えんしな」
正直、女がジュソの前に立ちはだかってくれて助かった。こうして、もっともらしい言い訳ができたのだから。
俺が切るのを諦めたことで、この女がいずれ殺される羽目になったとしても俺には関係ない。自業自得ってやつだ。無関係な人間が死のうが、ましてや自ら望んで死の淵にいるような奴を助けるような真似をしてどうする。馬鹿馬鹿しい。
俺は無意味な人助けが嫌いなのだ。
「ところで、お前は何者だ?」
今度は女が問う。
「つい最近までわたしは近くの村に住んでいたのだが、お前のような人間は見たことがない。もしかして他の村から来たのか? 他の村には、お前のような力を持ってジュソを退治する者が多くいると聞く。それでも、一人でこのような森の奥に退治にやって来る者は聞いたことがないぞ。大抵三人、少なくとも二人で行動するのが定石の筈だ」
「俺は本島の人間だ」
「本島の…………、本島にもお前のような力の持ち主がいるのだな。驚きだ。その力を買われて派遣されたのか?」
「別に、仕事でやってるわけじゃない。好きでやってるだけだ」
「ジュソを……切るのが好きなのか?」
「ああ」
真面目に答える気などなく、適当に返した言葉なのだが、面倒なのでそういうことにしておいた。
俺は女越しにジュソの少女を見据える。少女はびくりと小さく体を震わせると、すっかり女の影に隠れてしまった。
この様子を傍目から見たならば、悪者は紛うことなく俺の方なのだろう。そう思うと何となく居心地の悪さを感じた。
「ところで、宿はどうしている。仕事で来たのではないとすれば、宿代も稼げないだろう。もしかしてわたしと同じような暮らしをしているのか? だとしたら、申し訳ないのだが………少しの間寝床を貸してはくれぬか? わたしの小屋はほら、この通りだ」
改めて言われずとも、そんなことはわかっていた。だが俺にはこのような小屋はおろか、寝床なんて用意できる筈もなかった。
「俺はこんな小屋など持っていない。村の人間に世話になっている」
俺は村にいるレンさんという人の家で暮らしていた。レンさんは、宿のことなど何も考えずにここまで来てしまった俺のことを快く受け入れてくれた。
「もしかしてレンさんの所か?」
不意の一言に思わず一驚する。
「知ってるのか?」
「ああ、実はわたしもジュソ退治でここにいる身でな、来たばかりの時に世話になっていたことがある。とても親切な人だ。村の人達は皆良い人だが、それでも見ず知らずの人間を快く受け入れてくれるのはあそこの家くらいだろう。屋敷も広いしな」
そう言ったかと思うと女は少し迷うような素振りを見せる。
「しかし、困ったな……そうなると示しがつかない。しばらくは森に籠るつもりだったのだが……」
何やら理由はわからないが女には村に戻りづらい理由でもあるのだろうか。
「いや、でも、考えても仕方ないな。こうなった以上どうしようもない。小屋が直るまでの少しの間、今一度レンさんに世話になろう」
「勝手にしろ」
それを聞くなり女は、手ぶらでは悪いからと小屋に貯蓄してあった山菜やら魚の干物やらを、大きな籠にこれでもかと詰め始めた。
俺は床に腰を落ち着け、それを眺めていた。
ふと床のあるものに目が行く。
「どうした? 早く行こう。森を通るなら日が暮れる前がいい」
準備を終えたらしい女が声を掛ける。
「いや、その……、悪かったな……」
「ん?」
俺の視線は床に振り撒かれた黒髪に向けられているのだが、謝罪の真意はわかってもらえていないようだ。案外鈍い。
「だから髪だ」
「髪? 髪……」
「さっき刀で切ってしまっただろう。だから一応謝っている」
多少のもどかしさを感じ、声を荒げる。
これでは最早謝罪になっていないだろうと思いつつも、女に目を向けるが、当の本人は心底「わからない」という面持で眉根を寄せている。案外? いや、前言を撤回しよう。こいつ、かなり鈍感だ。
「ああ、髪か。髪を切ってしまったことを謝っているのか」
女はようやく得心がいったかのように目を見開いた。しかし、謝罪の内容をみなまで言われると何となく居心地が悪い。
「さっきからそう言ってるだろう」
「そうか。だが、何を気にすることがある。こんなものほうっておけば自然と元に戻るだろう」
そういうものだろうか。上手く説明できないが、年頃の娘にとって髪とはもっと違うものではないのではなかろうか。それでなくとも、この女の長い黒髪は良く手入れがされているように思えるのだが。それとも俺が知らないだけで、女の髪とは手を加えずとも、自然とこのようになるものなのだろうか。わからない。
「それより早く出よう。体を動かしたらお腹が空いてしまった。久々にレンさんの夕飯を頂くとしよう。うん、実に楽しみだ」
そうして見た女の微かな笑みは、先程までの涼しく澄ました表情や、ジュソと対峙した時の切迫した表情とも似付かず、無邪気な子供の表情そのものであった。
空を見上げると、日が傾き始めていた。ジュソが壊した壁からそれを存分に眺めることができた。
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