かわのほとりにて.二
声が聞こえたのだ。
けたたましく、おぞましい。それでいて悲痛に歪められた人の悲鳴のようでもあった。それはおよそ人の出せるような声ではないということはわかっていたのだが、何故だかそう感じた。
そしてその声はだんだんとこの小屋に近づいてくる。
「くるぞ!! さがれ!!」
鋭く一変した女の声とは無関係に、俺は徒ならぬ気配を感じ、大きく後ろに飛び退いていた。
片膝と片手を床に付き着地すると、すぐさま前方を確認する。
その刹那、女が背にしていた小屋の壁が爆砕する。
そして、最初に見えたものをただ漠然と表するならば、それは爪であった。
俺がそれを爪だと認識できたのは、その爪と思しきものが五本存在し、それぞれが巨大な腕へと続いていたからである。腕といっても、人のそれとは似ても似つかず、その黒い毛に塗れた姿はさながら熊のようであった。
女は壁を背にしたまま、その一本一本が草刈り鎌ほどもある爪五本のすべてを、先程俺の刀を防いだのと同じように、その巨大な鋏で受けきっている。
壁が崩れ、爪の持ち主がその全容を現した。
全身は腕と同じく黒い毛で覆われ、その眼光は自らの獲物を物色するように、醜く鈍く光っていた。黒に塗れたその中で、剥き出した二対の牙だけが異様に白かった。
間違いない、こいつはジュソだ。それもかなり成長している。
ぐるぐると唸り声を上げて女に迫る化け物は、突如反対の腕を振り上げる。それを察したか、目で確認しないまま女は後ろに飛び退き、俺の真横へと並ぶ。一瞬遅れて化け物の腕は空を切り、鈍い空気の音が小屋の中にこだました。
その風で女の髪がなびいては、さらりと元の位置に落ち着く。
「邪魔だ。さがれ」
女の一言にまたもや我が耳を疑う。
はて、こいつは今何と言った。邪魔だ? この俺に向かって。冗談じゃない。それはこっちの言い分だ。
「邪魔はお前だ。お前、ジュソでないのなら用はない。とっとと失せろ」
「…………。どちらにせよ、この中では上手く動けない、小屋から出るぞ」
「お前、俺に指図を――」
するなと叫ぶがしかし、その声は化け物の咆哮によってかき消された。化け物は愚鈍に一歩踏み出したかと思うと、次の瞬間にはこちら目掛けて飛び込む。
こっちだ、という女の合図に反応し、俺は先程自分が壊した戸から転げるようにして、女と共に小 屋の外へ飛び出た。片膝を付き、追って小屋から出てきた化け物を見据えると、手にした刀を確かめるように、ひゅんと一振り、空を切る。自然と笑みが毀れた。それを横目で見たか、女はどこか諦めたかのように、ふぅと短く息を吐くとすぐに向き直り、同じく化け物を見据えた。
小屋から出た化け物は威嚇するようにもう一度だけ声を上げると、爪で土を深く抉り、こちら目掛けて飛び込んできた。
俺と女は左右に分かれるようにしてその一撃をかわす。外の光に照らされてぬらりと光るその爪をしっかりと確認するより早く、残像をひいては俺の顔面を目掛けて振り下ろす。
俺は、刀の峰を空いていた左手で押さえるようにしてかまえると、化け物の指と指の間に刃を通すようにして一撃を防ぐ。爪は俺の眼前、触れるすれすれのところでぴたりと止まる。
その瞬間反対側にいた女が、最初の一撃をかわした勢いそのままに体を回転させると、化け物の頭部へ鋭い一撃を叩き込んだ。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
化け物口から血と唾液に混じった悲痛の音が漏れる。
よろめき、刀で受けている腕の力が緩んだのを感じるや否や、化け物の手から刀を引き抜くと、化け物の腹に蹴りを入れ、間髪いれず俺との間に生じた空間の中を縫うようにして刀を通す。
ぼとり、と化け物の腕が落ちた。
鮮やかに切られた傷口からは少し間を置いて、どす黒い血が噴き出した。
化け物が耳が痛くなる程の声を上げる。森の木々がざわめき、鳥が数羽飛び立つのが確認できた。
追い打ちをかけようと右足を踏み出すが、女も負けじと鋏を構え、横に並ぶ。
俺は横目で女を睨みつけた。
「あれは俺の獲物だ。邪魔をするなら一緒に切るぞ」
俺は女に向かって低い声で唸るように言った。
そのやり取りが一瞬の遅れを生んだか、化け物は踵を返すと木々の中を飛ぶように消えていった。
慌てて視線を戻し、姿を探すが、もう遅いようだ。辺りは不気味な程の静寂に包まれている。裏寂しい鳥の囀りが微かに耳に入った。
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