かわのほとりのみ
所為堂 篝火
かわのほとりにて.一
「はっはっはっ」
心臓の鼓動に合わせ、必然と呼吸も荒くなる。
やっと突き止めた。
森の中特有の湿り気のある土の匂いも、四方から聞こえる筈の鳥の囀りも、蝉の声も、今は微塵も感じることができなかった。感じることができない程に無心で駆ける。代わりに感じるのは、内側から打ち付ける振動と、体の熱とは裏腹に、冷たい何かが静かに体の中を駆け巡る感覚。一筋、汗が頬を伝った。
やっとだ。本島からこの島に移り住んで早ふた月、初めての大物だ。
逸る気持ちからか、自然と駆け出していた。
森の中には獣道のような道らしい道もなく、木々や竹が縦横無尽に生い茂っている。
目的地目指して一直線に駈け、邪魔をする木や竹はすかさず腰の鞘から引き抜いた太刀で薙ぐ。
やがて、川の流れが見えてきた。
森の奥にある川のほとり。
そのどこかに古びた小屋がある。
獲物はそこにいる。そこに、潜んでいる。醜く、醜悪に。
木々の間から飛び出し、川の間近まで駈け寄ると、勢いそのままに砂利を撒き散らしながら素早く方向を転換し、今度は川沿いに駈けだした。もしも反対側だったなら、その時は仕方がない、走って戻って来るまでだ。気が急ぎ、詳細な場所まで聞いておかなかったことに多少の後悔の念が生じる。
獲物。
それは化け物だ。人に憑き、人を殺す。この島に古くから伝わる畏怖の対象。島の人々からはジュソと呼ばれ、恐れられている。それは憑かれた者にしか姿を見ることも触れることもできず、それ故憑かれた者は自身にしか理解の及ばない、その孤独な恐怖の中で取り殺されていく。そして憑かれた 者が死んで初めて、そのジュソは消えるという。まさに化け物と言っていいだろう。
だが、俺が狙うのはそんな安い獲物じゃない。そんなものは嫌というほど切ってきた。
狙うはジュソの中でも成長したジュソ。怨念を増幅させ歪に成長を重ねたジュソは、その強大さ故、もはや万人にその存在を晒し、見境付けず人を襲う。そして何人を殺そうとも決して消えることのないジュソ。化け物以上に醜悪で強大な化け物。人の恨みの成れの果て。
決して、人助けなどではない。そもそも俺は人助けが嫌いだ。俺ほど打算的な人間は恐らくこの島にはいないであろう。残念ながらそう自覚している。
自身の力が試せればそれでいい。これから何匹もの大物を狩っていくことになるのだから。今に限って言うのならば、ただ、それだけが理由だった。
そうこうしているうちに何か見えてきた。小屋だ。あれに違いない……。
「はっはっ」
相変わらず息は乱れ、鼓動は荒く内側を打ちつけているが、呼吸を落ち着ける必要はない。そんなつもりは毛頭ない。俺は俺自身の腕に自身がある。たとえこれが、成長したジュソを対する初陣であったとしても俺の腕の前には何ら累を及ぼさない、そのくらいの自身だ。一太刀で終わらせてやる。
駈けたまま小屋までの距離を目測すると、ゆっくりと両の眼を閉じる。
精神を集中させる。
耳には心臓の鼓動だけが届いている。
外からの音も匂いも感じない。
意を決し瞼を開くのと、その抜き身で木戸を十字に切りつけ、蹴破るのはほぼ同時であった。
「いた!」
眼前の獲物の姿形をはっきりとは認めないまま、勢いそのままに刀で横薙ぎに切りつける。
きいぃぃんと、耳を劈くような甲高い音を発し……、
「っ!?」
しかし刀が振り切られることはなかった。防がれたのだ。
なるほど、強い。
面を上げ、そこで初めて化け物の姿を認める。
「…………」
不意の出来事に言葉を失う。
女であった。
若い女。蝶の模様を配った藍の着物に身を包み、艶やかな黒髪を腰の辺りまでのばしている。足元には、恐らく先の初太刀で切ったのだろう、その女の頭のものと同じ長い黒髪が一束程、振り撒かれていた。
続けて視線だけで女の持つ獲物を確認する。俺の不意の一太刀を防いだその獲物を。それは禍々しい、実に禍々しい意匠が施された金属の塊であった。だが、その形のみに関していえば見覚えがある。
「これは……鋏……?」
そう口に出したのはその外形がおよそ、慣れ親しんだ鋏の形を成していたからであり、こんな大きさの鋏を目にするのは生まれて初めてだ。女の背丈ほどもある。
そうか、これがこのジュソの〝キョウキ〟か……。なるほど……、醜い。
「くっ……」
俺は防がれた刀諸共力任せに押し進み、女を小屋の壁にまで追い込んだ。
しばし、拮抗状態は続く。
「どうした? 女相手だとやりにくいとでも言うか、化け物」
突如女が声を発した。涼しく、透き通るような声だった。端正に切り揃えられた前髪を揺らし、ただしそれは、俺を嘲笑するような含みのある声だった。しかし驚いた。声を発したことに対しては勿論のことだが、何よりもその言い草にだ。
化け物? この俺がか。
「化け物はお前だろう、この化け物」
すかさず、言い放つ。
両の腕に込める力とは裏腹に、極力余裕を持たせた声でもって女に応じる。
化け物……、そうだ、化け物だ。姿形が人の女であろうと、こいつが化け物であることに違いはない。それも、今まで俺が相手した中でも一番の強さだ。現にこうやって俺の刀を防いでいる。こんなことは初めてだ。それだけで相当の強さだとわかる。
だが……、
「甘い……」
俺は体重を乗せ、両腕に一層力を込める。
キチキチと音を立て、中程で交差している刀の切っ先は女の首筋に近づいてゆく。
「こんなものか……化け物……」
不敵な笑みを含んだ俺の言葉に反応するでもなく、女は相変わらず涼しい表情を保っている。
だがそれもいつまでだろうか。この刃を首筋に食い込ませれば、すぐにでもその顔は血と苦悶に歪むだろう。
そう考えると、自分の口の端が勝手に釣り上がっていくのを抑えられなかった。
体の底から何かが湧き上がっていくのがわかる。その快感と興奮で手元が狂わないよう、自分を落ち着かせようとするが、顔面に一度張り付いた笑みだけはどうしようもなかった。
しかし、次の瞬間、笑みと共に両の腕から力が消え失せる。それは女も同じであった。
「………! くる……」
不意に女の顔が険しいものになる。
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