9

 ようやく僕たちは西の国境へと辿り着いた。そこは荒れ果てた土地が広大に広がる、何もないところだった。思っていたよりも静かで、その風景はまるで世界の終焉を見ているような感覚をもたらす。

「少し歩いてみよう」

 戦場となっている場所を探し、僕らはさらに国境沿いを歩いていく。たまに吹く風が妙に土臭く、喉に絡まってむせてしまう。人やペンギンどころか、地面には虫や小動物さえ見当たらず、空も分厚い雲が覆うばかりで、鳥の姿は見受けられない。自分たちが歩く足音だけが、くすんだ空気を震わせている。

 僕たちはそんな代わり映えしない不気味な荒野を歩き続けた。徐々に陽が落ちてきて、後ろをついてくる影が知らぬ間にずいぶん伸びていた。歩きながら水を飲む程度で休憩らしい休憩もなく、黙々と先を進むニルスの後を必死に追いかける。

 しかしどんなに歩いても、戦いが行われているどころか、人の気配すら全くない。地図によればこの辺りのはずだが、なにぶん情報が古いため、全面的に信用するわけにもいかない。西の国境と一口に言っても、長さで言えば僕たちが歩いてきた距離の半分くらいはあるはずなので、ある意味これまでよりも当てのない旅と言える。

 そもそも戦争なんて嘘で、あの絵本もただのフィクションだったんじゃないかと思ってしまう。もしそうだったら、今すぐ町に帰って、何も考えず平凡に生きていけばいい。それが幸せかどうかはわからないけれど、少なくとも幸せなつもりで生きていける。

 幸せなんていうのは、所詮主観的なものだ。もちろん相対的な評価も影響するが、絶対的な評価基準は存在しない。最終的に「幸せだ」と結論付けるのは自分以外の何者でもない。つまり幸せなつもりでいるというのは、そのまま幸せと同義なのではないだろうか。

 本当はアリョーシャのように胸を張って、「自分は幸せだ」と言い切ってしまえばいいのだ。それが幸せの本質だから。僕のようにうじうじと答えの出ないことばかりを悩み続けて、自分の生に目に見える意味を見出そうとすることには、結局何の価値もない。

 僕はふと、町に残してきた両親たちのことを思い出した。今まで全く思い至らなかったのは、たぶんその余裕がなかったからだ。レヴィのことに少し頭が整理できて、その分脳の容量が空いたから、そこに彼らのことが浮かんできたのだろう。

 両親は元気にしているだろうか。「旅に出ます」という書き置きだけして出てきてしまったから、もしかするととても心配しているかもしれない。今はちょうど父は仕事に出ていて、母は夕食の買い物をしている頃だ。食卓のテーブルは三人では少し手狭だったから、きっと僕がいないとちょうどいい。案外、笑いながらそんな話をしていたりして。

 よく考えてみれば、僕は彼らに自分と同じ思いをさせてしまった。身近な人が突然いなくなってしまう。そんな「別れ」に苦しんでいたのは、自分自身だったはずなのに。それとも彼らは大人だから、「別れ」にはもうすっかり慣れているのだろうか。

「旅に出るとき、お父さんには何か言ってきたの?」

 少し立ち止まったタイミングで、僕はニルスに尋ねてみる。彼は首を横に振った。後ろ向きで顔は見えなかったけれど、何だか彼は悲しそうに見えた。

「何と言ったらいいかわからなかったんだ。きちんと言葉を残してくるべきだっていうのはわかっていたけれど、あのときは衝動と激情に任せきりで、自分の心を上手く整理して言語化することができなかった」

 彼の口調はまるで懺悔のようだった。聞いているだけで胸が苦しくなる。彼はどうしてこんなにも自分を責めるのだろう。これも彼の罪であり、罰なのだろうか。

「いや、これも言い訳だ。行ってきます、という一言さえ言わなかったんだから、父の顔を見て、決心が鈍るのが怖かったんだ。だから身勝手に何も言わず飛び出してきた。どこまでも僕は弱い人間なんだ……」

 人間は色んなものから目を逸らし、逃げようとする。それは自分を守るための防衛本能であり、そうしなければきっと心が壊れてしまう。僕もそうして色んなことから逃げてここまで来た。

 しかし彼は違った。決して逃げまいと、前を向き続けてここまで辿り着いたのだ。だから彼は壊れる寸前だった。もしかすると、このときにはもうとっくに壊れてしまっていたのかもしれない。

 たって一歩の距離にいるのに、彼は途轍もなく遠くにいるように感じた。夕陽が翳り、彼の顔を黒く染めている。もうすぐ夜だった。

 僕らはそれぞれの故郷に背を向けて、再び何もない荒野をゆっくりと歩き出した。

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