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 雪はすっかり溶け切って、春の息吹が顔を出し始めた頃。従兄のアレクセイが僕より一足先に、「別れ」の日を迎えることになった。

 今日はそんなアリョーシャの新たなる門出を祝うパーティーだった。身内を中心に、彼の友人や恩師、両親の知り合いや仕事仲間などが集まっている。心から彼を祝っている者もいれば、それを口実に酒を飲みたいだけの者もいて、ともかくそこら中騒がしい。

「よかったわね、おめでとう……」

 叔母さんは我が子のハレの日に感情が昂っているのか、ずっと感極まった様子で嗚咽混じりに涙を流している。その横で代わる代わる来賓者に挨拶をするアリョーシャは、照れ臭そうに頬を紅潮させながらも、主賓として満更でもない様子だった。

 一人前の大人として認められるということで、「別れ」の日は冠婚葬祭に近い立ち位置にある。ここまで大々的に祝うことは稀だが、家族や親戚でちょっとしたパーティーを開くというのはよくあることだった。イメージとしては誕生日パーティーに近い。

 僕はこうやってみんなから祝われるのは嫌だなと思う。おめでとう、と笑顔で握手を求められても、きっとどんな顔をしたらいいかわからなくなる。

 連れ立ってきた友人と離れ離れになるのが寂しくないのだろうか。僕はアリョーシャの横にちょこんと座らせられたユーリを見つめる。彼は項垂れるように首をもたげ、地面から浮いた足を振り子のようにゆらゆらと揺らしている。

 すぐ隣で退屈そうにしている友人に、アリョーシャは気付く気配もない。それを見て、彼は確かに大人になったのだと感じた。

 大人になるということは、きっと色んなものが見えなくなることだ。背が伸びて、視野が広がって、僕らはそれまで見えていた何かを見失う。それは見失ったことにさえ気付かないほど小さなもので、子どもの僕らが大切にしてきたものだ。

 人間は忘れることに特化した生き物だと言う。でもそれならば、忘れることの取捨にもっと融通を利かせられてもいいんじゃないだろうか。大事なことも忘れてしまうのは、記憶に縋って生きる僕たちにとってあまりにも致命的だ。それともやっぱり忘れるということは不必要なものだった証拠で、それを大切に感じてしまう僕自身が間違っているのか。

 そんなことを考えているうちに、パーティーも終盤に差し掛かり、アリョーシャのスピーチが始まった。

「皆さん。本日は僕のためにこんなにもお集まりいただき、本当にありがとうございます」

 彼は背筋を伸ばして檀上に立ち、丁寧な口調で語り始める。その目はわずかに潤んでいて、喜びに満ちているのが見て取れた。彼を左右からスポットライトの光が照らす。その陰に隠れて、ユーリが彼の顔を見上げていた。

「僕は今日この一歩を契機として、大海原へ漕ぎ出します。まだまだ新参者ですが、一日も早く一人前に相応しい人間になれればと思っております」

 深々とした綺麗なお辞儀に、会場中から拍手が沸き起こる。その音が鳴り止むのを待ってから、アリョーシャは軽く咳払いをして話を続けた。

「そして、僕と十六年間一緒に過ごしてきたユーリも、今日ここから新しい世界へと羽ばたいていきます。彼は優しく思いやりがあり、いつも穏やかな顔で僕に寄り添ってくれました。そんな彼ならきっとこれから先も幸せな日々を送っていくことでしょう」

 アリョーシャは軽く鼻をすすり、ユーリの方に視線を落とす。ここでようやく二人の目が合った。

「今日は別れを悲しむよりも、僕と彼、そしてここにいる皆さんの明るい未来を祝福したいと思います」

 そう言ってアリョーシャは再度深々と頭を下げる。そしてユーリの手を持って、手を振る真似をして見せた。先ほどよりも一層大きな歓声が沸き上がる。彼は満足そうに笑っていた。本気でこれからの未来に希望を抱いているのがわかった。


 僕は耐え切れなくなって、彼が檀上を降りると同時にすぐさま会場を後にした。胸に詰まっていた息を吐き出すと、肩に入っていた力が一気に抜け、まるで見えない何かに取り憑かれたように身体が重くなるのを感じた。

 たぶん正しいのは彼の方だ。もうずっと長い間、この「別れ」が繰り返され、それを受け入れることで人々は大人になっていった。あの場所で拍手さえできなかった僕は、きっとまだ子どもなんだと思う。

「やあ、奇遇だね」

 下を向いて帰り道をとぼとぼと歩いていると、偶然ニルスに出会った。彼は今日もレフの店に行っていたらしい。

 僕は少し回り道をして、彼にアリョーシャとユーリのことを話した。何か答えが欲しかったわけじゃないけれど、このもやもやした気持ちを吐き出してしまいたかったのだ。彼は黙って僕の話を一通り聞いた後、ひどく悲しそうな顔をした。

「ペンギンもずっとずっと昔には空を飛ぶことができたんだ。でも翼を失くして飛べなくなった彼らは、空という故郷を失った」

 彼はそのときのことを知っているみたいに語る。

「そうして彼らは、次に海という居場所を見つけた。空に未練を残しながら、時折ボーっと空を見上げて、でもあくまで海に生きる動物として、彼らは自分の存在を見出した」

 さながら詩人のようだった。僕の目の前には、氷上に佇んで空に想いを馳せる一匹のペンギンが現れる。彼はただ黙って、ずっと空の先を見つめている。

「そんな報われない彼らに対して、僕たちはひどい仕打ちをしてしまった」

「ひどい仕打ち?」

「うん。僕たちは自分勝手で無意味な都合で、彼らを遠い異国の地へ連れてきた。一度故郷を失った彼らから、今度は海を取り上げた。閉じられたこの地に縛り付けて、彼らからすべてを奪ってしまった」

 彼は憤っているのがわかった。この怒りの矛先はおそらく彼自身だ。きっと身勝手にペンギンを連れてきた僕らの先祖と、自らの意志で彼の命を奪ってしまった自分を照らし合わせている。そうやって自分を責めているのだ。

「大事な居場所を奪って何もないところへ連れてきた挙句、突然手を放して、じゃあその翼を羽ばたいて空を飛んでみろ、なんてどうかしてる。突き放す方は楽だし気持ちがいいかもしれないけど、それをされた彼らは一体何を信じて生きていけるって言うんだ」

 アリョーシャは解放感と充足感、そして未来への希望を瞳の中に宿していた。しかしそれはあまりに一方的で、独善的で、自己中心的なものだった。そのことに気付いてさえいない彼は、おそらくこのまま一生ユーリの気持ちを想像することなく生きていくのだろう。

「どうして人間は身勝手にしか振舞えないんだろう。思いやりとか共感とか、言葉ではわかっているはずなのに、いざそれが求められるときには、どうしても自分を優先してしまう。結局分かり合うなんてできないし、自分は自分で生きていくしかないんだ」

 半ば投げやりに言葉を吐き捨て、世を憂うような色をその目に浮かべる。たぶん彼は自分がまさしく言った通りの人間であると感じていて、それが耐えられないのだろう。そのことに気付けているだけでも、彼は僕やアリョーシャより何倍も他人に目を向けられているのだと思ったけれど、きっとそんなことを言っても慰めにすらならない。

 何も言葉が出ないまま、僕と彼の間を時間だけが通り過ぎていく。僕も結局アリョーシャと同じだ。深く傷つき、失った答えを探し続ける友人を前に、僕は自分のことばかり考えている。

 彼の涙ながらの警鐘は、僕の心の表面を軽く撫でるだけに留まった。人は他人の言葉によって変わることはできないのかもしれない。

 もしそうなら、どうして僕らは独りではなく、誰かと一緒に生きるのか。最初からずっと独りなら、別れも、孤独も、疎外感も感じずに、自分本位なこの心を正当化して生きていけるというのに。

 春の日差しに芽吹いた花が風に吹かれて飛んでいく。徐々に近づくレヴィとの別れを、僕はまだ実感できずにいた。

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