第2話 カメラに映らない男

 その日、僕は機嫌が悪かった。いつもなら、ごめんなさいと、すぐに言うとおりにしたのかもしれない。

 他人に八つ当たりするのは子供っぽいことで、しかもそれが、色恋沙汰のしかも、片恋のイライラだというのなら、どう言い訳したって――


 僕が悪い。


 でも、この寒さは僕の心を凍らせ、どんよりとした黒く暑い雲は、僕の目を曇らせた。


 "いきなり君と呼べるほど、おじさんは偉い人なんですか"


 薄汚れた子犬や目やにが酷い野良猫になら同情もできた。


 少なくとも

 僕よりも暖かそうなもの

 幸せそうなもの

 楽しげなものに――やさしくしてやる義務はない


 僕は屋上の不審者が、写真を撮られては困るシチュエーション、それが犯罪行為のような"きな臭い物"ではなく、この男も僕と同じように、なんだか傷心な気分を高いとこで晴らそうなどとしている"青臭い"ところを観られて――


 バツが悪いのではないか


 そのような自分勝手な妄想を頼りに、屋上に上がる許可を得てこの場にいるのは僕の方だというコンプライアンスを盾に男に詰め寄った。


「いきなり撮影した僕も悪いですが、ここは本来、許可なく入れない場所です。勝手はいけません」


 そのときの僕は、したり顔だったに違いない。

 だが、案外ともっと

 卑屈で

 おどおどして

 寒さで震えている体で


 完全にビビっていたのだろうと思う。


 そんな僕を男は哂ったのである。


「俺が許可なくここに居るということを、君はその写真で証明しようとでもいうのか。言っておくが中年男は多分に漏れず、インスタ映えはしないぞ。小僧」


 確かに僕はまだ十代だ。


 だが、今年の6月で二十歳になる。


 見ず知らずの中年男に小僧と言われる筋合いはない。

 うしろ姿だけでは証拠にならない。顔半分でも撮ってやろうと被写体を正面にカメラをかまえた。


「あっ、あれ、おかしいなぁ」

 そこにあるはずのものがない。


 いや、居るはずの、フレームに映るはずの男の姿がなかった。

 僕は慌ててさっき撮影した画像をチェックする。

 そこには

 どんよりとした雲と

 灰色のコンクリート

 冷たい鉄柵

 ガスが掛かったビル群しか映っていない。 "この男は、写真に写らない"


「だから言っただろう。インスタ映えしないんだって、他の誰よりも、俺はしないんだよ。悲しいだろう。だがな、小僧。俺はそんなことぜんぜん気にしていないんだぜ。なぜなら俺は今、とても機嫌がいい」


 男の声は低く、そしてところどころかすれている。

 あの細くて白い首に大きな喉仏が激しく上下する。


 男はゆっくりと身体を僕に向ける。その動きのしなやかさは、その空間だけ解像度が違っているようだった。


 "写真……ミラーに映らないって、まるで"


 黒のトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、男は僕に歩み寄る。


 大股なのに足音がしない。


 いや、音がしないというよりも、音がどこか別の空間に吸い込まれるような不自然さ。


 それでも僕はフレームに男を収めようとがむしゃらにシャッターを押し続ける。何枚撮ろうとも画面に変化はない。


「冬の景色はいいよな。特に雪が降る前の、この分厚い雲がいい」

 男は僕の目の前に立ち止まり、そして天を仰ぐ。


「なんで、どうして、お前は……なんなんだ」

 男の身長は180センチをはるかに超えている。

 ものすごい重圧感をともない、170センチない僕を見下しながら、わざと声をかすらせて聞こえるか聞こえないかという小さな声で僕を威圧する。


「初対面の"君"を、"小僧呼ばわり"したからと言って、明らかに年上のこの俺に"お前"とは、ずいぶんな物言いだとは思わないかね」


 僕は無意識に一歩後ずさりし、男はそれに遅れて一歩近づく。僕の後ずさりの一歩は、男の大股の一歩の半分にも満たない。つまり、男と僕の距離はさらに縮まった。


 もう、一歩も引けない。

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