懸橋



「ん?」


ハンネイの荷袋を回収したセキバは人の気配を感じ視線を送る。


「がっ!?」


胸に長い矢が突き立っていた。


「囲まれた。不覚」


コクブはハンネイの身体に火を掛け張り出した木の枝に飛び乗る。


「セキバ。容態は?」


「これだけなら暫く持つが、戦闘となれば…」


「根の間で伏せていろ」


コクブは経を発し周囲を伺う。


「……俺の発経の範囲では探知できん。相当の手練れだぞ。山渡りか?」


「…此処に来てか?…キキキキッキッキッ、キキッ」


「この数を相手取る程増援は送れんだろう」


「うむ。数は400といったところから。恐らく森に入る為に鎧を脱ぎ捨てたな。良くやる」


「敵の長距離狙撃手が危険だ。如何にか倒さねば先は無いぞ」


「……コクブ。本部からの伝達ではこの荷は至急届けよとの事だった。俺が引き付ける。行け」


「……わかった。尤も行く先にも敵は展開しているだろうが」


セキバは手を地に着く。

土行法・大船首が西方向からの視界を遮る様に迫り立つ。


「頼んだぞ」


コクブは手信号で了解を示すと枝を伝い樹々を渡っていった。


セキバはため息をつく。

この様なところで終わるつもりは無かった。

だが負傷した自分を引き連れていては共倒れとなる。


ならばセキバが取れる手段は一つ。


発経により敵を捕捉した。四方から100づつ。

北と南の部隊は北東方面に流れている。これを足止めしなければならない。


セキバは地に手を着き攻撃を開始した。




同じ時刻、コンドールからの指示を受けたエリヤスは流入するマンフレート隊に激しい攻勢を仕掛けていた。


「撃て!撃て!撃てええええ!」


「エリヤス様!?不用意に撃てば貴方と部隊を巻き込みます!」


「煩え!俺ごと敵を滅ぼす気概がなくて何とする!」


「そんな無茶な!?」


大剣を縦横無尽に振り回して敵を葬り進むエリヤスの勢いに乗りじわりじわりと押し返していた。だがそれは生きて帰る気のない死の行進でもあった。


ネス・グレンはヘルベルト隊と交戦しつつマンフレート隊の牽制を行なっていた。


ネスが防衛する南西部は激しい戦火に晒され顔を出した瞬間首が吹き飛ぶ勢いであった。


それを森渡りのコクリ隊が援護し辛うじて水際で城壁を守っていた。


「エリヤスに大筒を取られたせいで辛いね。コンドール様も無茶を仰る。まあ、今日は死ぬ日だし仕方が無いね」


ネスは盾を掲げて狭間から顔を出す。

途端に矢や行法が飛来し盾を襲う。


「火行隊!南南西仰角虎の角に炎弾!風行隊!敵の死角からエリヤス隊を援護!土行隊!破られた防壁付近を制地!何としても敵土行兵の経を押し除け防壁を復旧させろ!」


ヘルベルト隊からの圧力が激しい。

如何しても一手が足りていない。

配置されたコクリ隊も登りくる赤鋼兵を撃退するだけで余力は無い。


「…壁になれ…か……」


それも面白いかもしれない。ネスは考える。


「石材を集めて!こちらの制御下にある防壁上部から壁を伸ばし上部を繋げ、そこから壁を下へ伸ばしましょう。土行兵が足りない。コクリ殿、なんとか土行兵を回してもらえませんか?」


コクリは頷くとグレンデーラ中央に向けて信号を送る。伝達が行われ8半刻後には東部から森渡りの土行兵が駆け付ける。


壁、復、上。

コクリの短い手信号に応じて森渡り達が防壁の上部を連結する。


「成る程。そう来たか」


マンフレートは上部で連結された防壁を見て呟く。


「我々を締め出す気だ。ユルゲン卿の最後の仕事を無駄にする訳にはいかない」


最前線で暴れるエリヤスへ足を向ける。混戦状態だ。

背後から斬り掛かってくる青鈴兵の剣を石突きで払い槍を返して穂先で突き殺す。


「来たか!遅えよ!」


突進して来るエリヤス・グレンに五駿を放つ。


荒い言動に関わらずエリヤスは確実に穂先を己の身体から逸らし踏み込む身体を転じ石突きで薙払う。エリヤスは潜り躱す。


そして割波を放つ。向き直ったマンフレートは穂先で受ける。

甲高い金属音と共に火花が散った。


周囲が割れて2人が浮き彫りとなる。


マンフレートが倒れればユルゲンが破壊した防壁は再生されるだろう。

逆にエリヤスが倒れれば赤鋼軍は市街地に雪崩れ込むだろう。


分水領であった。


エリヤスが怒涛の剣を行う。

エリヤスの豪剣はマンフレートの手を痺れされる。

マンフレートも巧みな槍捌きで攻撃を逸らし続けるが後退を余儀なくされる。


一歩づつ後ろずさる。


「わからねぇ。全く理解できねぇ!何故!己の研鑽のみを考えてきた俺たちが!」


マンフレートはエリヤスの豪剣を凌ぐ。

反撃の機会を窺う。

エリヤスの怒涛の剣が25撃で終わる。マンフレートはすかさず槍を突き込む。


胸を狙った一撃をエリヤスは躱せない。終わりだ。


「エリヤス様!」


マンフレートが放った槍は飛び込んで来た女に突き刺さる。

女は己の肺を貫く槍を必死の形相で掴む。


「ラビ!?」


「エリヤス様、お慕いしております。…お先に失礼致します……グレンデーラに!栄光あれえええええ!」


エリヤスの身体は別の者が起こした岩戸に守られ無傷だった。


だがラビと呼ばれた女が起こした爆発は咄嗟に退いたマンフレートを吹き飛ばす。


武器を失い満身創痍のマンフレートの前にエリヤスが迫る。


マンフレートは腕を掲げて防ごうとするが腕は断ち割られ鎖骨から肺までを斬り裂かれた。


「………只では死なんぞ」


崩れ落ちたマンフレートは足元の瓦礫に手を着く。

岩槍がマンフレートの背後から突き出る。槍はマンフレートの身体を突き抜けエリヤスの身体をも穿っていた。


ただの岩槍であれば避けられていただろう。

だがエリヤスからはマンフレートの身体が邪魔となり視認出来なかった。


「……大した執念…だ。……こんな…出会いでなければ…良い酒を飲めていたろうに……」


その言葉は既にマンフレートの耳には届いていなかった。


岩槍に貫かれたエリヤスに赤鋼軍が殺到する。


「…俺の死に様は一味違うぞ………コンドール様…ミトリアーレ様……マトウダ様……カヤテ様…………。我が最期の輝きを篤とご覧下さい………火行法!薄明光!」


右手が振られる。


「ああああああああああああっ!消えろおおおおおおおおおおおおおおおお!」


エリヤスは全身の経を極限まで高める。

いや、極限はとうに超えた。最早収めることは出来ない。


身体が燃える。輝きが増していく。

両手を大きく広げ、正面に突き出した。


手の方向に白く野太い白光が放たれた。

光源であるエリヤスの姿形が崩れて消える。


エリヤスの脳裏に最後に映ったのは敬愛する主君ではなく子犬のように己を追いかける部下の少女だった。


エリアスの最期の輝きは押し寄せる赤鋼軍を蒸発させ大地を溶かし駆け抜けた。


1000人以上の赤鋼兵を消滅させ本陣の一部まで抉り消えていった。


「今だ!防壁を修復せよ!」


ネスの合図に土行兵達が経を送りユルゲンが破壊した壁は完全に修復された。


ネスは壁の修復を確認し、ふと明るむ視界に視線を南に向ける。


巨大な火球が間近に迫っていた。

森渡り達が素早く散開していく。


「…………ここで終わりですか。…まあまあ働きましたかね?」




遠くから聞こえる一際大きな爆音を耳にしながらセキバは木の根に寄りかかり激しく胸を上下させていた。


全身は傷に覆われ始めに受けた矢傷に加え喉を矢に射抜かれ力尽きようとしていた。周囲の森は行法の行使によりぐちゃぐちゃになり、木が倒れたことにより日差しがセキバに降り注いでいた。


しかし生憎の曇り空で陽は見えなかった。

口の端から血を溢し、此方へ近寄る兵を見る。


「…黒尽くめか。荷は持っていない様だな」


貴族だろう。もう指一本動かすことは出来ない。


「この男1人に我が兵が50人も殺されるとはな」


「子爵様、何があるかわかりません。これ以上近付いてはなりません」


子爵。重要人物は頭に叩き込んでいる。スジルファル子爵だろう。


脇で弓を携えるのはファブニル人。

弓の腕からしてレイスロット・ファブルであろう。


「…か……くっ………ぁ……」


憎まれ口を叩こうとするが言葉は出ない。

虚しく空気が漏れ出るだけだった。


「仕留めろ」


天を見上げる。

雲が切れて一筋の薄明光がセキバの顔に掛かった。

血を失い凍える身体がじわりと温められる。


止めを刺される前にセキバの心の臓は動きを止めた。


コクブは東側に展開するスジルファル隊と激しい戦闘を繰り広げ片足を失いながら突破し片脚で跳ねながら移動していた。止血は施したがこれ以上の戦闘は難しい。


スジルファル兵は森歩きに些か慣れているのか移動速度も侮れない。


「コクブ」


名が呼ばれる。

別部隊が森の薄暗がりの中から現れる。

テンガン、コウカ、ハンニの3人だ。


「後は引き受ける。お前は治療し逃れろ」


ハンニにコクブは荷袋を渡す。

ハンニは素早くその場を離脱した。


「奴等、足が速いな。ここで食い止めねばシンカの元まで辿り着くぞ」


「手練れの弓兵がいる。先に見つかった方がやられる。数も多い。地形を利用したとしても殲滅は難しいだろう」


そう述べた時人の気配がハンニが消えた方向から近付く。


身構えて3人は待った。


現れたのは1人の女だった。

黒尽くめだが仮面は外している。


森の闇の中にあっても光を放つ陽光を蓄えた様な麦穂色の髪、アガド人と比べても白すぎる肌。

何より特徴的なのは空色の瞳だ。

闇の中で妖しく美しく輝き森渡り達の意識を吸い込む。


「シンカの嫁か。何故ここに?」


ヴィダードは歌を歌い出した。

テンガンの問い掛けには答えない。


美しい旋律の歌詞の無い歌を小節によって鼻歌と口遊を使い分けるその歌は見事の一言であった。


だが此処が森の中で戦時中と言うことを考慮すれば森渡りをしても不気味な女と感じざるを得なかった。


3人の森渡りは背筋を泡立たせた。


ヴィダードは突如歌うのを辞めると口を開く。


「…沢山の臭いが近付いて来るわぁ。貴方達じゃシンカ様の元に辿り着くのを防げないでしょぉ?」


涼やかな耳心地の良い声だった。


だが少し間延びした口調と合わせて得体の知れない油の混ざった泥沼が絡みつく様な印象を受けた。


「……確かに、俺達だけでは食い止められんだろう…」


「そこの怪我した人は血痕を残しながら進路を北に取りなさいな。残りの1人は怪我した人に付き添ってある程度進んだら治療して。残る1人は少し私を手伝って貰った後、跡を残さず何処かに行ってもらう。いい?」


3人は異様な雰囲気の女に無言で頷いた。




レイスロット・ファブルは黄迫軍から離れ何かを追うスジルファル隊と合流し森の浅層を北東に進んでいた。


レイスロットはファブニル一族の分家筋であるが、出生はファブニル領の小村であり、狩人として18まで過ごしていた。


レイスロットは視力に優れ弓の扱いにも先天的な素質を持っていた。

加えて異様に感が鋭く、潜む魍魎を察知する術にも長けていた。


そのレイスロットの直感がスジルファル隊に同道した方が良いと告げていた。


300のスジルファル隊の中央付近を歩いていたレイスロットは違和感を覚えた。


追いかけていた血痕が北東への進路を転じ北に向かっている。


敵は相当森歩きに慣れている様で血痕以外の痕跡は発見出来ない。

レイスロットはしゃがみ込み血痕を調べる。

それまでの滴る量と差は無い。

血痕が偽装という可能性は少ない。


「スジルファル卿。敵は此処で仲間と合流した可能性が。荷を渡し、我々を撹乱する為に進路を北に取った」


「しかし本当に北に向かった可能性もあるのでは?」


ケルヴィンは問う。


「ええ。その可能性も勿論あります」


ケルヴィンは暫し悩む。


「分かった。では北にっ!?」


ケルヴィンは言葉を止めてケルヴィンを地に押し倒した。

頭上を矢が通過してケルヴィンの背後に立っていた兵士に刺さった。

急ぎ身体を木の幹に隠す。


「……ケルヴィン卿。敵は長距離からの狙撃を敢行してきました。射出音も聞こえません。手練れです」


「…出てくる敵出てくる敵皆名付き級か」


「狙撃手を放置する訳にはまいりません。私が相手をします」


狙撃は北から。

ケルヴィンは自分が相手の立場ならどうするか考える。


敵部隊に近づかれたく無いのであれば。

普通なら進行方向に位置取り攻撃を行う。

では北が正解か。


北東に進まれたく無い為に北に陣取った可能性は無いだろうか。


「やはり部隊を分けるしか無いか?」


「……でしょうな」


見破る事は出来ない。

そもそも敵がずっと北東を目指していた事自体も欺瞞の可能性がある。


本当はここから北西に向かった可能性も否定はできない。


もし自分が敵狙撃兵なら。目標地点が北西であれば北東に陣取るだろう。

レイスロットは北西の選択肢を捨てる。


「では、御武運を」


ケルヴィン達が半数を率いて北東へ向かっていく。

子爵を狙撃から守る為兵士達が盾となる。


雑兵を1人2人殺しても焼石に水ということか、狙撃は無い。


北へはケルヴィンの配下のジャーメインという男が指揮を執って進んでいく。

レイスロットは兵士達に紛れて北へと足を向けた。

4半里、半里と森を進む。


狙撃は無い。

転々と続く血の跡を追い軈て倒れ朽ちた巨大な倒木の根本に辿り着いた。


行兵が周囲の経を探知するが何も感じられない様だった。


倒木の根本には人が座り込んだ形跡が残っていた。

何かは分からないが周囲の枯れ葉の上に粉が溢れていた。


此処で怪我をした者が治療を行なったのだろう。形跡からして2人。

此処から先は血痕も途切れている。


スジルファル兵が周囲を探っている。

この方角が正解か不正解かはまだ分からない。


「…ジャーメイン殿。ここにはあまり長居しない方がいい気がします」


「しかし痕跡が途切れた事を理由に引き返す訳にもいきますまい。そして敵がどちらに進んだか分からぬ以上不用意に進む訳にも」


その時北方角から矢が再び飛来した。矢はジャーメインの頭部を射抜き、彼は糸の切れた人形の様に崩れ落ちた。


周囲の兵士達が遮蔽物に慌てて隠れる。


「北だ!」


「己れ!ジャーメイン様をよくも!」


兵士達は急所を庇いながら北へ走り出した。


「いかん!誘いだ!止まれ!」


レイスロットは叫ぶ。

しかしいつ攻撃に晒されるかも分からず、また森に深く潜っている事実に精神的負荷を抱えていた兵士達はその元凶を取り除くべく駆け出し止まる事はない。


集団心理に当てられ皆が駆けていく。


「糞っ!」


レイスロットも止む無く彼等を最後尾から追いかけた。

8半刻程森を進む。敵の攻撃は無い。

やはり罠だ。


しかしもう止まらない。ならば罠を確認して罠を仕掛けた者を見つけ出す事が次善策だろう。


そして前方より兵士達の絶叫が聞こえ出した。レイスロットは近くの腐葉土を頭や顔に塗りたくり景色に馴染む努力をする。


遮蔽物に身を隠しながら進むと兵士が100人ほど立ち往生しているところが目に入る。

向こうには崖が確認できた。

崖におびき寄せられたのだろう。

残った数は100程。


「っ!?経だ!」


1人の行兵が叫ぶ。

それは人の頭程度の大きさの岩だった。

何の変哲もない岩だ。地に半分ほど埋まっている。


レイスロットにもその岩に経が浸透している事がわかる。

レイスロットは咄嗟にその岩から離れた。

東側から矢が飛来する。

矢はその岩にぶつかり、直後爆発した。


地面が揺れる。

崖が崩れ始めた。


木に隠れるレイスロットの目の前で崖が崩れて兵士達が崖崩れに巻き込まれて滑落していった。

1人も残らなかった。


レイスロットは立ち込める土煙に隠れ森を移動し身を隠した。

味方の兵士は全滅してしまった。


だが自分は生き残った。

加えて敵はレイスロットの位置を見失ったはずだ。

経を感知されれば居場所がばれる。息を潜めて様子を窺った。


深い森は風一つなく虫や鳥の鳴き声も無い。

薄暗い森の奥で敵も自分の姿を探しているだろう。

敵の方角は東。音の届かない距離からの矢による狙撃が可能。


条件は五分。先に敵を捕捉した方が勝つ。

レイスロットは仕掛けを幾つか作ると東側から身を隠して進む。


樹々や下草を揺らさぬ様最新の注意と払い、ゆっくりと這いずった。

薄暗い森にも目は慣れている。


レイスロットは元々狩人だ。森で魍魎を狩って暮らしていた。

少しでも動けばその目は捉える。


音も立てず徐々に東へと進んでいく。

そして仕掛けを動かす。


始めの位置に結びつけていた予備の弦の端を引き幼木を揺らす。

そしてしならせていた枝の支えを外して石を北側へ飛ばす。


敵がこの動きを見ていればレイスロットが北東から回り込もうとしていると考えるだろう。

それが陽動だと考えれば南東を移動すると読む筈。


しかし実際のレイスロットは真っ直ぐ東を目指していた。


深い森は遮蔽物が多く、身を屈めていれば容易に姿を捉える事は出来ないだろう。

だが敵の矢の軌道を思い出す限り、攻撃の位置は樹上。姿は捉えやすい筈だ。


レイスロットは敵を捕捉するべく前進する。

そして敵の痕跡を発見する。折れた枝だ。

断面はまだ瑞々しい。


この樹上を移動したという事だ。

レイスロットは薄暗い森の中痕跡を探した。

剥がれた微小な樹皮、落ちて新しい木の葉。


そしてレイスロットは到頭それを発見する。暗闇の中で鈍く光を反射する何か。


矢尻だ。


太い樹上から矢の頭が見えていた。

角度からして弓を引く前。

南東の方向を向いている。


姿は見えない。気付かれぬ様に身を隠しつつにじりよる必要がある。

レイスロットは幹に背を向け弓を背から取る。ゆっくりと、物音を立てずにじり寄る。


大木を回り込み枝の上の人影を捉えた。

背中を取ることができた。


小柄な黒衣の人影が太い枝に蹲り南東の様子を身動ぎ一つせず窺っている。レイスロットは音も無く矢筒から矢を抜いた。


ゆっくりと弦を引く。

レイスロットの弓は軋まない。

弦を引き切り狙いを定める。


狙う位置は脇腹下。

臓器を損傷させ地に落とす。高さから考えれば即死を免れたとしても臓器は破裂し幾らも持たない筈だ。

そして射た。


僅かな音と共に矢は狙い通り敵の脇腹に背中側から突き立ち人影は木の根本、苔むした岩に落ちて鈍い音を立てた。


「……っ、ぎ……」


僅かに高い声が漏れる。

それも直ぐに収まる。

仕留めた。


それでも尚レイスロットは油断せずに時間を置き、死体に向けてにじり寄る。

時間をかけて仕留めた死体まで這い寄ると身体を覆う外套を剥ぐ。


女だ。

白い肌に長い髪。

既に事切れている。


失った矢を奪おうと死体を漁っている時、レイスロットはそれに気付いた。

死体の腹に綱が巻かれている。


綱は鼻から血を流す鼠を体に縛り付けていた。

鼠の口には布が押し込められている。


レイスロットは左手、北東方向に咄嗟に目を向けた。弓を手に取る。


視界に人影は無い。樹々に囲まれ長距離狙撃も行えないだろう。


弓を矢筒から抜く。樹上の枝にも人影は無い。

弓を番える。


その時レイスロットは見た。


落ち葉の隙間から何かがレイスロットを見ていた。

目だ。


背筋が泡立ち一瞬にして全身に嫌な脂汗が吹き出る。


落ち葉が舞い上がる。

何かが落ち葉の下から飛び出たのだ。


其れは矢だった。

レイスロットは悟る。


敵は落ち葉の中に身を横たえ、矢を番え弦を引き絞ったまま片目だけで落ち葉の中から様子を窺い、罠にレイスロットが掛かるのを待っていたのだ。


女の死体を偽装に使い、縛り付けた生きた鼠が落下で潰された拍子に出る鳴き声を口に詰めた布で人間の物と錯覚させた。


レイスロットは人間を仕留めたとまんまと騙され、死体の元へ向かった。


全てはその瞬間の為に敵は罠を用意して延々と待ち続けていた。

舞い上がった木の葉の合間に敵の姿が垣間見える。

女だ。


この薄暗闇の中でも分かるほど肌が白い。


矢がレイスロットに迫る。


女の闇に輝く空色の瞳がレイスロットの脳裏にこびりつく。

意識を吸い込まれそうな澄んだ瞳だ。


しかしそれは得体の知れない物を内包している様にレイスロットには感じられた。


矢はレイスロットの喉を貫いた。レイスロットが番えかけた矢が見当違いの方向に飛んでいく。


「…っ、……かっ………が…………あ………」


女が立ち上がる。


「……ば……け、もの………」


それだけをようやっと口にしてレイスロットは息を引き取った。




森を北東へ進むケルヴィン・スジルファルは森を暫く進む内に立ち込め出した霧に足を阻まれていた。

乳の様に濃い霧が正しい方向を失わせる。


軈て暫くすると周囲から歌が聞こえ出した。声が樹々に跳ね返っているのか方向が定まらない。

美しい歌声だった。


「動くな」


方向は定め難いが北西方向から歌声は流れている様に感じる。

周囲に経の気配も感じる。


それにしても素晴らしい歌声だった。

北西に向き今にも動き出そうとする兵士をケルヴィンは抑える。


「罠だ。今は動かない事が1番」


怯えながらも兵士達はケルヴィンに従う。


軈て歌声は幾重にも重なり全方位から響いて聞こえ始めた。

歌声に意識が逸れ油断すると集中を妨げている。


幾重にも重なり調和する美しい声音がケルヴィン達を苛んだ。

いや、苛んだという言い方は誤りだ。

ケルヴィン達はその歌声を聴き幸福感すら抱いていた。


眠気すら覚える程だった。


ケルヴィンは短剣を抜くと己の左腕に突き立てた。

痛みがぼやけた思考の霧を払う。


「音による攻撃だ!こっちだ!北西へ向かえば敵の思う壺!北東を目指せ!」


ケルヴィンは初めに歌が聞こえ始めた方向から直角に向き、脚を進めた。兵士達が後に従う。


途端に歌が止んだ。


ケルヴィン達は知らない。

これはイーヴァルンの里にて里に向かう者を惑わせ、方向を失った者を仕留める風行法・迷い森という法であった。


レイスロット・ファブルを仕留めたヴィダードはケルヴィン達のいる方向へ経を風と共に流し、歌声を届かせていた。


冷たい瞳で次策を考えつつ森の奥からケルヴィン達の様子を伺っていたヴィダードだったが、到頭行兵がその存在を捉える。


「いたぞ!敵だ!」


途端に射掛けられる矢と行法にヴィダードは大樹の影に隠れる。


150の兵士達からの攻撃に逃げる隙も無い。


その隙に徐々に敵が展開してヴィダードを仕留めに掛かる。


それは誰にも、ヴィダードを始め、シンカも、森渡りの誰一人として予測しなかった出来事がその時起こった。


ヴィダードは今まさに命を失おうとしていた。


明晰な指揮官に策を破られ、返り討ちに会おうとしていた。


ヴィダードに向けて回り込もうとした兵士は枝にぶつかり転倒した。


兵士は混乱する。目の前の枝に何故気付かなかったのかと。


太い枝だ。薄暗がりの中でも見まごうはずもない。


枝が動く。


転んだ兵士の頭は枝に叩き潰され周囲に脳漿が飛び散った。

木が動いていた。


森の奥深く。判別の付かない暗がりが蠢く。

何かが森の奥から迫っていた。


「……木…が?」


ケルヴィンは喘ぐ様に疑問を口にした。

樹々の合間から木が次々に溢れ出てくるのだ。


「な、なんだ?!何がっ、があああああああああっ!?」


それは見まごう事なく木だった。

木が根を軋ませながらのたうたせてずるずると進んで来る。


立ち尽くすスジルファル兵を幹を傾がせ枝を振り薙ぎ払う。

たった一薙ぎで数人の兵士を引き千切り周囲に血と臓物を撒き散らす。


「なんだ!?なんだこれは!?」


ケルヴィンにはそれが森の悪霊の様に思えた。


「切り倒せ!動こうとも木だ!切れ!切れええええええ!」


配下が動く。

枝を掻い潜った1人が動く幹に剣を振る。


硬い音が響き、僅かな斬り傷が幹に刻まれる。

兵士は唖然と己の剣を見る。


直後根が蠢き兵士は踏み潰される。


「ぃああああああああああああああああああっ!?」


兵士の身体に根が潜り込む。

細根までも兵士に潜り込み兵士が見る見る萎びていく。

体の水分を吸い取られた兵士は枯れ枝の様に踏み潰される。


動く木、シャハラの民は枝の先に一輪の小さな白い花を咲かせた。


「相手をしていては全滅する!ウォルター!100を引き付けつつ後退!その後は森から出て後退!残り50は私と共に北東を目指す!動け!」


ケルヴィンは50を引き連れて先を目指した。

ヴィダードは突如現れたシャハラの民に目を丸くしていた。


腰を折り頭を下げて敬意を示す。


「もしかして、私の歌が気に入ったのぉ?」


返事はない。シャハラの民との意思疎通は困難だ。

先達が導き出した手順にて最低限の意思表示を行うだけである。


ヴィダードは口を開ける。

樹々を好むヴィダードには見分けが付いた。

ここにいるシャハラの民はヴィダードの結びの儀に現れた個体であった。


己の元に遠くシャハラから歩み、その危機に身を守ってくれた彼等に対し歌を歌う。


血飛沫舞い、絨毯の様に敷き詰められる臓物の中、麦穂色の髪の女が歌を歌っていた。


それは後退していくスジルファル兵に消えない心の傷を刻み込んだ。


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