夜凪

痛飲した翌日、シンカ達は悠長に昼前に目を覚まし、頭を抱えるナウラとカヤテに酔い止め薬を処方すると出発の身支度を始めた。今度の旅は暫く街に寄り付く事はない。


調味料や衣類、保存食を大量に買い込み出発に備える。

衣類を皆で畳みしまっている時にふと気になってシンカは口を開いた。


「お前達下着はこんな物でいいのか?」


その疑問にまず反応したのはカヤテだった。


「こんな物?どういう事だ?」


一般的に普及している下着は裾の無い下履きと乳房を覆う胸当て布で、貴族が着飾る時の補正下着や夜着等も存在はする。


「統計的に里で開発普及してい」


「作ってくれ。」


「・・・。いや・・。」


話を途中で遮りカヤテは言語道断とでも言うような様子でカヤテは言葉を発した。


「里で開発された女性用の胸当てと下履きを着用すると乳房や尻の経年による垂れ下がりが」


「説明は良いのだシンカ。作ってくれ。私は分かっているぞ。お前は自分の妻の乳房が垂れ下がるのは嫌な筈だ。つまり答えは一つだ。」


シンカは悲しい気持ちになった。

蘊蓄も語ることが出来ず、感謝もされないのだ。


「そもそもなのですが、シンカ。私と出会って3年が経ちます。何故今更なのですか?もっと早く言うべきでしょうに!」


「あええ、何故俺は怒られてるだ?」


「遅いからです!」


「いや、ナウラお前、ヴィーと口論していて自分の乳は垂れないと言っていただろうに。」


「・・・・。」


「ほほほ。ではナウラの分は無しねぇ。」


勝ち誇ってヴィダードが言葉を発した。

珍しくナウラがやり包められていた。


「個人差はあるものの乳を増量する下着もあるがヴィーは要らないよな?」


「何故早く仰っられないのですかぁ?!」


ヴィダードもぷりぷりと怒り出した。

人数分数着を用意する事を約束させられ午後一番で支度の為に街へ出るナウラとヴィダードを見送った。


カヤテと2人きりになると早速乳繰り合い始めた。

全てを終えて乳を繰りながら接吻していると扉が徐に開いた。


足音で気付いてはいたが着替え直す隙等なかった。

仕方がないので扉が開かれても堂々と接吻を続けていた。


「な、なんて不埒な!?」


現れたのは王女ダーラであった。

夫婦が自室で営んで何が悪いものか。


ダーラは妻達やミトリアーレ、サルマ女王に匹敵する美貌である。

その美貌を赤らめる様は嗜虐心を唆られた。

口を離すとカヤテとシンカの唇を繋ぐ銀の橋が架かった。


部屋の外には数人の兵士も見受けられる。


「王女殿下。私達は夫婦で御座います。子を作る為の営みを不埒とは随分と御無体な事を仰られますな。申し訳有りませんが、妻の裸を人目に晒したくは御座いません。」


「・・わ、悪かったわね。突然入って。」


全裸のシンカから目を逸らし王女は慌てて部屋を出た。


「幾ら王女殿下とは言え唐突に合図も無しに戸を開けるとはな。アケルエントとは野蛮な国なのだな。」


「然り。故にクサビナには届かぬと言うことか。」


カヤテは態と聞こえるように悪態をついた。どうやら怒っているようだ。

確かに失礼な話だ。

犯罪者なら兎も角無断で部屋の扉を蹴破られる謂れはない。


「それとも旅人には人権が無いということなのだろうか?この国を訪れたのは誤りだったか。」


「うん。この国に薬師として旅をしてこの様な扱いを受けたのは2度目だ。」


「ここまで酷い事が前にも会ったのか!?」


「うん。ヴィティアに於いて、強制的に行軍させられた時だな。薬師組合に報告を上げた結果、今やベルガナとヴィティアは薬師の寄り付かぬ国になったがな。はははっ」


カヤテに服を着せながら会話していると再度勢い良く扉が開かれた。


「待ちなさい!貴方達、薬師組合に有る事無い事吹き込むつもりなの!?」


カヤテは服を着込んだものの、シンカは未だ全裸であった。


「殿下。私はありのままを告げるだけで御座います。この様にこの国では薬師に人権は無い様ですので。」


「・・・・。明日、出直すわ。それならいいでしょ?」


言うや否やダーラは去って行く。

戸が締まるとシンカは溜息をついた。


「お前は本当に物怖じをしないな。相手は王族だろう?」


カヤテはシンカの剥き出しの尻たぶを叩きながら呆れた表情で口にした。


「森の力の前では人は矮小だ。王族といえど変わりはない。徒らに畏れるのは愚かだ。社会通念として最低限の敬意は払うべきとは思うが、権力と武力を持て余した小娘など相手にするだけ時間も無駄だ。」


カヤテはふんふんと頷き、ふと口を開いた。


「ところでさっきから裸だが、恥ずかしくなかったのか?」


「ちょっと。」


翌日早朝、シンカ達一行は北のコブシへ向けてペルポリスを発った。


「ペルポリスには暫く寄り付けなくなってしまった。」


落ち込むシンカにナウラが冷たい視線を向けた。


「何をやらかしましたか?女でも引っ掛けましたか?」


「ふむ。流石ナウラ。シンカの事をよく分かっているな。当たらずとも遠からず。女難に変わりは無い。今度は王女だぞ。」


「何の用でしょうか?もしや、記憶が曖昧ですが一昨日私は吐瀉物でも引っ掛けてしまったのでしょうか?」


「全然違うと思うぞ。というか淑女が吐瀉とか言うな。」


カヤテとナウラが仕様もない話をしている。


「そろそろお喋りは終わりだ。森に入るぞ。」


シンカが告げると2人ともさっと目つきを鋭くさせる。ナウラも慣れたものだ。


アケルエントは乾燥地域である。

北からの湿度を含んだ風はコブシの山を越える際に雨や雪として降り注ぎ、アケルエントに辿り着く頃には乾燥しているせいだ。メルソリア方面からは湿度を保った風が吹く為生活に支障が出るほどではないが、肥沃な大陸中央部と比べれば雲泥の差だ。


橄欖の畑を抜けると牛の放牧地帯に差し掛かる。

更にそこも過ぎれば後は壁の様に立ちはだかる森だけである。

人々が忌避するそこにシンカ達は物怖じ一つせず踏み入る。


入ってすぐに剣を握ったままの千切れた腕が転がっている。血は乾ききっていない。

2日ほど前の物だろう。

この腕もあと2日もすれば小さな魍魎に骨にされてしまう。


小型の魍魎を追い散らしながら糞や足跡、体毛などを見極めて魍魎の縄張りを避け、森を進んだ。


「お、珍しい。」


太い樫の袂にしゃがみ込み、シンカは木の枝で幹に付着した白い獣の体毛を弄った。


「初めて見ます。何の獣でしょう。」


「白狼だな。」


白狼はコブシ中央に鎮座する桜山の中腹に生息する狼である。

アケルエントに生息する事は滅多にない。


「この様なところに白狼が生息するのですか?」


「或いはコブシでの内乱の影響かも知れん。先の内乱は終結したと聞いていたが、まだ燻っているのだろうな。」


暫く北へ進んでいると前方で獣が激しい咆哮と共に争っているところに出くわした。


「大陸黒狼だな。争っているのは・・ああ。白狼か。」


「コブシから逃れて来た白狼と縄張り争いをしていると言うことか?」


カヤテが尋ねる。


「恐らくそうでしょう。」


ナウラが答える。

少し様子を見ていると数に勝る大陸黒狼が体格に勝る白狼を追い散らし始めた。

黒狼達は暫く白狼達が去っていった方向に唸り声を上げていたが、軈て背を向け去っていった。

その場には黒狼と白狼のいくつかの死体だけが残された。


「血の匂いに他の魍魎が寄って来る前に早く進みましょう。」


ナウラが歩み始め、直ぐに足を止めた。

その視線は倒れた狼達に向けられている。

ナウラは徐に死体へ歩み始めると一体の狼の元に跪いた。


「まだ生きています。」


まだ幼い白狼だった。

自分の背嚢を下ろすと傷口へ処方を始めた。


「衣類に血は付けるなよ。」


「無論です。」


4人でカヤテの処置を見守った。

傷の処方を終えたナウラはユタに水行法を使わせて血を洗い流し、まだ意識の無い幼い白狼を拾い上げた。


「良いですか?」


「お前も一人前なのだから自分で判断しろ。但し、いざという時に泣き喚いたり吠えない様躾は確りしろ。出来ないのなら切り捨てるしか無い。」


「分かりました。その時は私が殺します。」


もこもこと膨れた子狼をナウラはぎゅっと抱きしめた。

表現はしなかったがシンカは内心頭を抱えた。

この狼が死ぬ事になればナウラは三日三晩泣き腫らすだろう。

無表情の癖に無駄に感情豊かな女なのだ。

同時にそこが愛おしいとも感じているが。


白狼を抱えてナウラは歩き始めた。大きな足音が迫っていた。


1日目の野営の時に子狼は目を覚ました。

円らな瞳があざとい。

ナウラは薬煙で子狼の体から蚤や壁蝨を落とすと子狼の体を撫でた。

子狼は自分がナウラに助けられた事を理解しているのかおずおずと近寄り匂いを嗅いだ。

狼は賢い。

極めて知能が高く、言葉をある程度理解する個体も多い。


「従罔とするのか?」


尋ねるがナウラは淡く口角を上げて首を振った。

一行は途中街や村に寄りながらも優に20日も北上を続けた。


21日目にして漸くアケルエントの縦断を終えてコブシ南の楓山麓に到着した。

濃い広葉樹林の合間の傾斜の険しい山肌をゆっくりと登り始めた。


ナウラは時折バラカと名付けた子狼の面倒を見ながらの登山であった。


朽ちかけた谷沿いの獣道を片手を崖に添えながらうねうねと進み、時折行く手を遮る沢を4つほど超えた。

途中切り立った細い道の崖側に小さな朽ちた社を見つける事が出来た。

古の民が安全を祈願するために建てたものだろう。

シンカ達は積もった土砂を祓い清めて祈りを捧げた。


4本目の沢を渡り終えると勾配が急に激しくなった。

1刻も険しい斜面をうねりながら登ると中腹の開けた高台に辿り着いた。


「今日はここで休もう。」


湿った土を避けて大谷家守の薄皮を木の枝の間に張った。

雲行きが怪しい。未明程から雨が降るかもしれない。

周辺を調べて回ったが、大型の獣の痕跡は鹿程度で、後は草食の小型の獣程度だ。


「すっかりナウラに懐いたわねぇ。ほほほ。ナウラぁ、きちんとお世話しないとねぇ。分かったら早くシンカ様の隣を開けなさい!」


しっしとナウラを追い払おうとしたヴィダードの額をナウラが人差し指で弾いた。

水に氷を入れた時の歪な音が鳴った。

悶絶するヴィダードの頭をユタが摩っていた。


罠を張って回るうちに日が暮れ始めた。

今は秋上月。気温は日々高くなるが、山中の此処は涼やかだった。


遠くを八翅蜻蛉が飛んでいる。眼下にアケルエントの大地が見受けられたが既にペルポリスは遠く、シンカの目をもっても見とめる事は難しかった。


野営をし、その日の未明。

予測通り雨が降り始めた。

薄明かりの中靄が立ち、視界を乳白色に染める。

家守の皮を雨粒が叩く雨音をシンカは目を瞑ったまま聞いていた。


今の見張り番はカヤテだ。


「カヤテ。」


美貌の剣士に小さな声で声を掛けた。


「起きたのか?まだ早いぞ。」


そう言うカヤテの隣にシンカは腰掛ける。


「最近は、どうだ?」


なんと聞いて良いか分からずそう口を濁した。

カヤテは聞き返すことも無い。言いたい事は伝わった様だった。


「グレンデーラに戻りたいと思う事も確かにある。育った街だ。当然だ。だが今の生活も好きだ。お前と共にいたいと思っているし、毎日も新鮮で楽しい。ナウラもヴィーもユタも私は好きだ。」


「そうか。」


「私がグレンデーラに姿を隠して戻っても、王家の間諜は見破るだろう。そうなれば一族は糾弾される。だがお前が勧めてくれた様に、ミト様に危機が訪れたのなら力になりたい。お前の妻なのに申し訳ないが、それだけは許してくれ。」


「前も言ったが、いざとなれば殴り倒してでもお前の命を守る。お前に恨まれても、お前の元主人を見捨ててでも。」


「私がお前でもそうする。理解はできる。」


2人はそれから無言で靄の中雨音を聞いていた。

カヤテの手がシンカの身を包む外套の隙間から差し入れられたのでその手を握る。

夏ではあれど、未明の山中は冷える。

雨が更に気温を冷やし、靄の気化熱で体から体温を奪っている。


外套の下に厚手の毛布を巻き付けていたカヤテだが、それでも手は冷たかった。

その手を握り締めた。


軈て日が昇り始め、雨空の下でも辺りが明るくなり始めると出立の支度を始めた。

無臭の油を染み込ませた油紙を外套の上から体に巻き峠越えを開始した。


雨は依然として降り続けるが、笠と油紙に弾かれ体を濡らす事はない。

山中は雨のせいか樹々がより青く見えた。

蒸発散の影響か普段より森の匂いが強い。

柔らかい腐葉土の上に落ち葉と枝が敷き詰められた斜面を2刻かけて登ると漸く尾根に辿り着いた。


山を越える風が汗ばむ体を冷やして去って行く。

気付けば雨は止んでおり、時折頭上の樹々から滴る水滴が垂れてくるだけとなっていた。

一行は油脂を剥ぎ取り水気を払うと尾根を伝い始めた。


依然靄は立ち込めていた。


「ん?・・ああ。これは雲か。」


ぼそりと独りごちるとカヤテが怪訝な顔でシンカを見た。


「雲?ふわふわしていないぞ?」


「ふふ。」


カヤテの言葉にナウラが笑う。

その表情は鉄で作られた仮面のように微動だにしなかったが口からは小さく笑い声が出た。


「雲は水分の集まりなのです。遠くからは綿のように見えますが、近づけばこの様に霧や靄と変わりありません。」


嘗てナウラと2人で長峰山の抜け穴を超えた時、彼女も雲の中で同じ質問をした。

初めは説明しても信じてくれず、暫く山を登って下を見下ろし漸く納得をしたものだった。

すんなり話した知識を飲み込む様になったのはそれからだ。


今は自分の知識を実体験を交えて得意げにカヤテに披露している。

可愛らしい女だとシンカは思った。

冷たく鋭い美貌のナウラを見て可愛らしいと表現する男も珍しいものだろう。


尾根を伝い山頂へ向けて歩んでいくと軈て唐突に雲を抜けた。

微風が峠を抜け外套の裾をたなびかせる。

眼下に見える雲海に一同は見入った。


「綺麗。」


ユタの感嘆は小さいものだったが、何故か良く耳に届いた。

復讐を遂げてユタが望むものを手に入れられたのか聞くのは無粋だろう。


ユタは言った。

今迄は景色など見えていなかったと。見ていたようで、その脳裏には常に仇と出会った時の想像が繰り広げられていたと。


流石のシンカももう一度火と水の遺跡に行きたいと言われた時はむっとした。


「・・ねえシンカ。あそこの赤い実はなに?」


「それも前に教えたのだがな。砂鳩一位だ。名の通り砂鳩が主食とする果樹だが、その全てに毒が含まれる。一方の蘆名一位は果実のみ食べられる。見分けは砂鳩一位は根からも毒物を分泌しており周囲に草木が生えない事だ。蘆名一位も種子は毒だから気を付けろ。」


「・・なんだ。食べられないんだ。じゃあいいや。」


早くご飯食べたいなと独りごちて興味を失った。

苛立つが気にしても仕方がない。

シンカは既に新生ユタの勉学も諦めていた。


陽光に照らされ微風もあることから非常に心地の良い道中となった。


ナウラが襟の汗を拭う為に一度笠を取る。


「ちょっとナウラ。貴女の髪が光を反射して眩しいのだけどぉ。」


「ヴィーの髪も反射しています。丸刈りにしては?」


「駄目だよナウラ。ナウラだって丸刈りになんてしたくないでしょ?」


ユタに窘められてナウラは鼻で笑う。


「冗談に決まっています。一体何を見て本気と取ったのでしょう?」


誰もその微動だにしない顔だとは告げなかった。

最早それも込みでナウラは発言しているに違いない。

やれやれと肩を竦めて首を振る仕草に無性に苛立った。


それでも姿形は美しいので何も言うことはできない。

煌めく白髪が風に吹かれ、気持ちの落ち着くナウラの匂いがシンカの鼻にまで辿り着いた。

黒翡翠の瞳がふとシンカを捉えた。

少しだけ笑みを浮かべて先を促した。


「あ。」


ユタが2人の視線を追った。


「なんか、通じ合ってる気がする。いいなぁ。」


ユタの呟きにカヤテがむっとした表情を浮かべた。


「私だって戦っている時は視線で言いたい事が伝わるぞ!寧ろ視線すらなくても問題ない!」


「戦いの時と比べてもなぁ。」


仕様もない話をするユタの尻を叩いて先を促した。


尾根を伝い山頂に向かう。

岩場が続き、半ばよじ登る様にして先を進んだ。

そして到頭、楓山の頂に辿り着いた。

北の霞の向こうに桜山が薄っすらと見受けられる。

眼下には深い緑の森が続くが時折町や村も散見できる。


地を歩けば森は頭上に広がり人を鬱屈させるが、上から見ればただ美しい。

自然とはそういうものなのだ。


人に恩恵も与え、時には全てを奪い去る。


「凄い。本当に凄い。シンカに着いて来て本当に良かった。」


カヤテは目尻に涙すら浮かべていた。


「カヤテ。美しい景色といえば水の遺跡もかなり美しかったと思いますが。」


「確かにそうだが、彼処は死後や夢の中と言われても納得してしまう様な現実味の無い美しさだった。此処はそうではない。この広大な大地の中で私達は生きているのだ。それがなんだか私の心にしみてくるのだ。」


この場で景色を眺めながら昼食を取った。

やや強い風が5人の髪を煽って流れ去っていく。

遠くで分厚い黒雲が立ち上がり、雲下に影を設えていた。


雲の下は微かに煙って見える。

雨が降っているのだろう。


「ヴィー。俺の顔ばかり見ていないで景色も見ろ。こんな顔の何処が良いのか。」


シンカのぼやきはナウラとヴィダードには良く分からなかった様だ。

他の女達は自身の容姿が優れている割に他者の顔付きにあまり興味が無い。


御導きは一体何に導かれるのか、その謎は未だに解けていない。


「シンカの顔付きは悪くないぞ。少し表情は暗いが戦士特有の精悍さがあるし、戦士には無い清潔感もある。」


「僕もシンカの顔好きだよ。確かに美形じゃないけど、でもこの顔が好きな人はいっぱい居ると思う。」


「私は顔の良し悪しはよくわかりません。ですがシンカの目は好きです。私を見る眼差しがとても優しいと感じています。」


「ヴィーは全部よぉ。」


シンカは顔が熱くなるのを感じた。


「ヴィー。貴女は本当に適当ですね。男心が・・・おや。顔に赤みが刺していますね。体温も上がっています。照れているのですか。可愛い所もありますね。」


「弟子が師を揶揄うか。」


シンカは自分の顔を好きでは無かった。過去に苦い記憶があったからだ。

だが彼女達はシンカでいいと言うのだ。

シンカは間違えない。欲しいものは全て自らの手の中にあるのだ。

手中の玉を大切に扱う。それだけでシンカは十分に幸せなのだ。


「妻です。まさかお忘れではありませんよね?余所見の多い亭主にも困ったものです。私の様な妖艶な妻を持ったと言うのに業が深い。」


「小娘が猪口才な。言っておくがお前に色気があるのは身体だけだ。俺が今更身体だけで欲情すると思ったら大間違いだぞ。どんなに身体に色気があろうと、褥では初々しい少女の様ではなぁ。・・・妖・・なんだって?」


「くっ!?言っていい事と悪い事があります!」


褐色の肌は顔の赤みを見せにくいが、それでも尚分かるほどの紅顔であった。

眉も僅かにぴくりと動く。よほど恥ずかしい様だった。


「ほほほ。自分の力量は確と把握しませんとねぇ。」


「ヴィーにも色気は無いと思いますが。」


「私、色気では無く清純さを売りにしているのよぉ。色気が無いのは分かってるのよねぇ。」


開き直るヴィダードだった。

清純さに疑問は残るが賢いシンカは口には出さない。


「しかし、シンカは自分の顔が好きでは無いのか?私は好きだぞ。いい顔だと思うが何が嫌いなのだ?」


「・・・僕分かっちゃった。きっと振られたんだと思う。顔が好みじゃ無いって言われたんだと思う。」


「お前、土足で俺の心を踏み付けるのを辞めろ!」


「そんな事してないよ僕。僕は君の顔が好きだもん。・・・僕、目付きは悪いと思うけどそれなりに可愛いでしょ?その僕が好きなんだからシンカの顔はいい顔なんだよ。」


「しかしその女にお前が振られて居なければ私達とは出会わなかったかも知れないのだな。その女に感謝だな。」


不貞腐れて子狼を撫でるナウラを尻目にカヤテは山頂からの景色を鉛筆で映しながら感慨深げに口にした。


ユタもカヤテも不器用ではあったがシンカを慰めているのだろう。


シンカは弱くなった。

守るものが増え弱みが増した。

だが意思は間違いなく強くなっただろう。

彼女達を守る為ならなんでもするだろう。何にでも耐えてみせるだろう。





冷え始めた汗を拭い岩場を下る。

目的地まではあと一息だ。下れば下るほど魍魎の気配が色濃くなっていく。尾根を伝い斜面を下り、細い沢をいくつか下る。

気温は下山とともに徐々に上がり、蝉の鳴き声が増えていく。


「煩いわねぇ。そこら中で。暑苦しいわぁ。」


「シンカ。今日目的地との事ですがいつ頃到着するのでしょうか?」


水楢の森を抜けているとうんざりした様子で精霊の民2人がぼやく。


徐々に植生が変わる。


「おや?こんな所に橘ですか。それに青草も。魍魎が少なそうですね。」


「青草は以前に俺が種を蒔いた。直に到着だ。」


繁茂する青草を踏みしめて進むと清水の湧き出る崖が現れる。


「この崖は一見分かりませんが、土行で固めてありますね。シンカの経・・だと思います。」


ナウラの言う通り崖が崩れぬ様に以前加工を施して居た。


「此処で荷を解く。ナウラ、ユタは罠を四半里に施し、ヴィーとカヤテは周辺の魍魎の痕跡を調査してくれ。俺は家を作る。」


「家を?!」


「作る!?」


カヤテとナウラが仲良く感嘆を表現した。


「地を慣らし木で家を建てる。水を引き湯を引き水場と風呂を用意する。」


「お風呂ですか!?」


「なんと!」


「分かったら働いてくれ。」


ナウラはぼんやりしているユタを引きずる様にその場を去った。

カヤテもヴィダードと連れ立って意気揚々と去っていった。


残されたシンカは経を練って地に手を着く。

山の斜面を平らに慣らし押し固めて基礎を作る。

基礎の周辺に溝を作って雨樋とする。

此処までで火にかけた水が沸く時間すら経っていない。行法とは本当に便利だと改めて思う。

続いて土中に空洞を作りながら先程渡った沢まで登る。


沢までたどり着くと管路を開通させて家屋付近まで水を通す。後でナウラに管路を硬化させて貰う必要がある。


続いて以前に見つけた源泉まで向かう。そこからも地中を空洞化させる事で管路を作り家付近まで通した。


シンカは1人にやつく。

いつか露天の温泉に直ぐにも入れる家に住みたいと思っていたのだ。

況してやそこには伴侶達も居る。

にやつきを抑えることが出来なかった。


そこまで終えると日が傾き始めていた。

調査を終えて戻ってきたカヤテとヴィダードを捕まえて近場の針葉樹林帯に向かうと檜と杉を見つけ出してカヤテに伐採させた。

伐採した木々をヴィダードの行法で木材に加工すると経で強化させた身体で運び、家を建て始めた。

太い柱を中心に立て続いて側柱を立てる。

戻って来たナウラに木材を運ばせてはいたが、柱を立てるだけで日が落ち始めてしまった。


家造りは一旦取りやめ、家のほど脇の斜面、遠くに村や樹々に覆われた丘を望める位置に腰高の穴を開け始めた。


「ナウラ。その辺から人の頭程度の大きさの岩を大量に持ってきてくれ。カヤテは火を起こしてヴィダードは鳥や猪を狩って来てくれ。ユタは獲物を運ぶのを手伝って。」


シンカはナウラが運び始めた岩を穴に敷き詰め、隙間を固める。

日が落ちて漸く湯船が完成した。

湯船に湯と水を引き引いた排水溝と繋げる。

流れ込んだ湯は暫く土で濁っていたが、やがて塵も流れて淀みがなくなる。


「これが、温泉・・・」


「以前に肌で試した。有害な成分は含まれていない。」


カヤテが起こした火にヴィダードが射止めた鳥数羽を捌いてかける。

岩塩を砕いてまぶし、その日の夕食とした。


「これは、なんだろう。よく分からんが楽しいぞ!」


鳥の血抜きした心臓を串から歯で抜き取ったカヤテが笑いながら口にした。


「森で火を使うのは初めてです。肉の匂いも問題ないでしょうか?」


「この山には大きな獣が少ない。黒熊位だろう。橘と青草でまず寄っては来まい。蛇も精々が4尺程度で毒性も無い。食い切って仕舞えば問題ないだろう。」


カヤテは周囲を気にしていたが普段と比べれば格段に気を抜いている。

ユタは黙々と肝臓を食べていた。

食事を終えると作った松明の元出来たばかりの風呂へと体を沈めた。

適度な温度の湯が身体の芯に染みいるように感じた。


「あーっ、星を見ながらの湯。何と趣があるのだ。」


「これは最高と、言わざるを得ないでしょう。シンカが温泉に拘っていた理由を漸く理解できました。変質的だと思っていて申し訳ありませんでした。」


「お前は入らんで宜しい。」


「おや。そんなせせこましい事を。シンカらしくありませんね。」


松明と月光の元女達が風呂に浸かり寛いでいる。


「お?ヴィーの乳房が少し大きくなっていないか?」


隣にぴたりと張り付くヴィダードの乳房に目をやる。


「お気付きになりましたかぁ?貴方様に頂いた胸当てで少し増えたのよねぇ。触ってみて下さいまし。」


「おい!満天の星空に遠くに浮かぶ村の灯火。虫の声に涼やかな風。情緒豊かな今のこの場で不埒な事をするのはやめよ!」


「そういうカヤテも経を利用するようになって太腿が細くなりましたね。」


「お!分かるか!そうなのだ。筋繊維の密度とやらが上がった事と経を動きに活用する事で随分と腿が細くなった。女らしさが増したのではないか?」


シンカは肩まで湯に浸かり息を吐く。心中が浄化される様だ。

余計ないざこざが波及しない安息の地で過ごす。

これこそがまさに安楽であった。


「・・・ねえねえ。シンカ。こんな風にお風呂に入りながらお酒飲んだらどうなっちゃうのかな?」


「それは良い考えです。ユタ。よく思いつきました。」


「湯は血行を促進する。酒精が回りやすくなるから多くは飲めぬが、嗜む程度なら心地が良いぞ。」


「・・でもこんな山奥じゃお酒なんて買えないよね。」


「無念とはまさにこの事です。」


ナウラはぎり、と歯を軋ませた。

気迫が怖かった。


「果実を漬けて果実酒は作れるだろう。試してみるか?後は近隣から米清酒を仕入れるかだな。」


膝に乗って来たヴィダードを抱き締めながら口に出した。


「・・お酒って、作ってもいいの?ランジューは免許を持ってる蔵の人以外はお酒は作っちゃ駄目だったよ?」


酒はどの国も利権が厳しい。

ヴィダードが後頭部をシンカの胸元に押し付けてくる。

催促されて頭を撫でた。


「コブシも同じと考えて良いだろう。だが売りに出すわけでもなし。住む場所も山奥だ。ばれはしない。」


ユタはふうんと興味なさそうに相槌を打つと湯船を泳いでシンカのとなりにやって来た。

湯に浮かぶ白い背と尻が目に眩しい。


「ねえねえ。ちゅうして。」


顔に両手を添えられて口を吸われた。


「なんか、凄く落ち着くし凄く楽しい。お父さんとお母さんに申し訳ないくらい。」


「分かるな、その気持ち。ミト様に申し訳ないと感じてしまう。」


「辞めませんか?良い言い方では無いと分かっていて敢えて言わせて頂くと、不毛です。シンカと出会えて助けられた私達は確かに運がいい。始めは彼の気まぐれだったとしても、信頼関係を築けたのは私達の努力です。受けたご恩は支える事で返す。助からなかった人の事を考えるのではなく、助けてくれた人の事を考えるべきでしょう。」


「ナウラが真面目な事言うの、珍しいね。」


「・・・。」


「いっつも巫山戯てるのにね。あ、照れてる。」


無表情なので分かりにくいがユタの言葉に誤りはない。

ナウラは大体巫山戯ている。


「ミト様は死んでいない!」


「自分で言いだしたんじゃないのぉ?」


逆上せかけると風呂の縁に腰掛けて垢を落とし、頭の油を流した。

一月ぶりに清潔にすることができた。

その日は風呂から上がって直ぐに就寝した。

見張りは立てなかった。


翌日は朝より皆で協力して家を建て始めた。広めの敷地に柱を立て終わると柱間に梁を這わせ屋根を貼り、床を上げて床板を張る。

5日という驚異的な速度で側が完成した。

傾斜をつけた屋根に橘木を燃やして出た煙で燻した茅を葺いて屋根を更かす。

ナウラとカヤテを麓の村や少し離れた街へ送り布団を買わせて屋根の下で眠れる様になったのは7日目であった。

畳は後程用立てるとして、軒下に縁側を拵えて庭まで作り込んで行った。


こうして10日後には立派なコブシ風の家屋が出来上がったのだった。

後は冬に向けて畳や板を貼り合わせた板引き戸を用意するだけだ。

囲炉裏に火をくべたシンカは満足そうにそのまま寝転がった。

ユタは庭に流した小さな川に寝そべって身体を冷やし、ヴィダードは何処からか株ごと草木を抜いてきて植えている。

ナウラは自分で小さな子狼の小屋を作り、カヤテは樫の盥の中で山葡萄を素足で踏み潰していた。

相変わらずユタは自由気ままだ。


「ユタ。川で白や緑の爪の先程度の小石を大量に集めてきてくれ。」


「僕?・・暑いよシンカ。何個集めればいいの?」


「瀬は風の通り道だし水場が近ければ気温も低い。寧ろ体が冷えない様外套も持って行った方が良い。それと石の数は庭に敷き詰められるくらいだ。」


「えええええぇぇぇぇっ?!凄く大変だよそんなの!百個くらい?」


「1万以上だと思うが。」


体を起こしていたユタは再び川に沈んだ。


「水行法の訓練だ。綺麗な岩を見つけたら白糸で粉砕するのだ。同じく水行法で砕けた石の角を取る。いい訓練になるぞ。」


「騙されないよ。そんな石要らない。」


「・・・お前は。」


「だって石なんてシンカの拘りでしょ?一万個なんて絶対大変に決まってるし・・・やだ。」


シンカは舌打ちした。


「俺も行く。付いて来い。金で買う贅沢は確かに心の毒だ。だが努力で得る贅沢は得てして身になるものだ。」


「やだやだやだっ!石なんか拾いたくないっ!」


ユタはシンカに襟首を掴まれて引き摺られていった。

2人が帰ったのは優に2刻を過ぎた頃であった。

ぶんむくれたユタとシンカが家まで布に包まれた石を運び込んだ。


「終わったのか?」


カヤテが縁側で水出し茶を飲みながら声を掛けた。


「酷いんだよ!剣も取り上げて凄い勢いで岩を投げてくるんだ!躱せない様に全方位から飛ばすんだ!」


「咄嗟に水行法を扱う訓練という事だな?」


「納得しないでよっ!」


不貞腐れるユタを捨て置き皆で石を運ぶ。

色事に庭に撒き美しく彩っていく。

ヴィダードが移植した草木も合わさればコブシの高名な霊殿もかくやという庭園が出来上がった。

それを見て漸くユタも溜飲を下げた。美しさを認めたらしい。


その晩は買い求めた鍋を使いシンカ手ずから汁物を作り始めた。

また購入した鉄板を加工して持ち手付きの鉄板へと変えて野菜や肉を合わせて炒める。


「シ、シンカ・・・其方、料理が出来るのか!?」


カヤテが目を見開き美しい顔を歪めた。

ナウラとヴィダードはまるで此奴は何を言っているんだとでもいうかの様に眉を歪めていた。


「飯くらい作れて当然だろう。カヤテは貴族の出自だから仕方がないか・・・」


「やった事が無いだけだ!仕方ないではないか!それよりもユタは出来るのか?!お前に出来るとは信じ難い。」


「僕出来るよ・・?シンカにも鈴紀社の家でご馳走した事あるよね?女なら料理位は一通り作れるようになれってガンジ様に言われたんだ。」


ガンジとは鈴紀社総領、鈴剣流徳位のガンジ・ハイネンの事だろう。

そう言えば死に体のユタを強姦しようとしていた彼の息子を殺した事を思い出し一瞬でも忘れ去った。


「学ばねばならんな。私は最早グレンデルでは無くシンカの妻なのだからな。夫に食事の一つも出せぬとあれば妻の名折れ。」


「妻の名折れ・・家内の能力とすれば名が折れるどころか潰れて地にめり込む程度では痛たたた!」


抓られた腿を摩る。


「分かっているからそう意地の悪い事を言わないでくれ。これから努力する。」


そうこうしているうちに汁物と炒め物が出来上がる。

木を削って新たに作った椀とさらに料理を装っていく。


「今はこの程度の料理だが、材料を集めればもっと良いものが作れるだろう。しかし、こうして用意できるものだけで暮らした記憶も忘れ難いだろう。」


「とても楽しいです。旅も良いものですが、夫婦として人所で睦まじく過ごすのも良いです。」


隣のヴィダードがシンカに食べさせるべく匙を差し出す。

やんわりそれを避けて自分で食べる様促しながら囲炉裏の火に灰を掛けて勢いを落とした。


食事を終えて思い思いに風呂へと入る。

シンカは湧き水を汲んで喉を潤しながら縁側から星空を見上げていた。

隣ではヴィダードが歌を歌っている。


双樹の様に寄り添いて星を見上げ肌の温もりを感じる。

どんなに離れていても私と貴方は一つ。御霊が導き引き合わせたから。

このひと時を胸に刻み込む。

このひと時を肌に刻み込む。


イーヴァルンの里に伝わる民謡の一つだ。だが歌はもう少し長い。

歌の全てではなく好きな部分を繰り返し口ずさんでいた。


「膝を借りてもいいか?」


「ええ。どうぞ。」


ヴィダードは柔らかく微笑んで足を縁側から投げ出し、腿にシンカの頭を乗せた。

ヴィダードの細い指がシンカの纏まりのない髪に差し入れられ感触を確かめる様に柔らかく手櫛を入れられる。


シンカはヴィダードの顔を見上げた。

純白の肌が湯上りで薄桜色に染まり艶かしい。

まだ乾ききっていない麦色の髪と薄い肌が星と月の光に照らされて宵闇に輝く様だ。

月の光にも精霊が宿るとすればヴィダードこそが化身なのではないかとすら思わせる。

本当に美しい。その言葉ですら彼女の美しさを表現するには余りに足りていないだろう。


ヴィダードとナウラの美しさは精霊の民だけあり人間離れ、現実離れしている。

勿論カヤテやユタも美しい。同じ様に美しいが2人は空に溶けてしまいそうな危うげな美しさではなく確かに眼前にある事を確信できる種類のものだ。


ヴィダードが月の光に溶けて消えてしまいそうでシンカは彼女に触れていたいと思ったのだった。

そこに彼女がいると確信したかった。


そんなシンカの思いを知ってか知らずか、ヴィダードはシンカの目を覗き込む。

相変わらずじっと見つめていれば吸い込まれてしまいそうな薄い空色の瞳だった。月明かりを写し煌めいている。


「寝るか。」


床の間に5人の布団を敷いて時折流れ込む風と遠くで鳴く小さな虫の声を聞きながら目を閉じる。



森暦194年秋下月。夏も盛りの炎天下の中、御告げに従い勇者としてアケルエントに選定されたエッカルトは王都ペルポリスの練兵場で今日も王女に剣を付けられていた。

何度も体を打たれてエッカルトは白茶けた砂地に倒れこむ。


「立ちなさい。貴方は我が国の勇者として地位や名誉と引き換えに自由を失ったのよ。金も、女も地位も得た。それを甘受する貴方が一王女である私にいいように転がされていていいはずがないのよ。」


ダーラは冷たく言い放った。

そも、ダーラはこの男を好いていない。


卑俗な男だった。

その見目の良さで器量好しの侍女を誑し込み、靡かぬ女は勇者という地位を嵩に組み敷いていると報告に上がっている。


彼女達はこの男に手を焼いていた。

確かに才はある。しかしダーラに転がされている様では万の兵を殺すという龍を打てるとは到底思えない。


エッカルトは予言に従い龍を倒す勇者として召し抱えられたのだ。

鍛錬を終えて汗を流したダーラはその足で神殿へと向かった。


王城三階の霊殿前には多数の兵士が詰めていた。


一度エッカルトがカリオピに男女の関係を迫って以来、激怒したウィシュターが兵を増やしてカリオピを守らせていた。


霊媒師は処女を失えばその能力を失う。

そんな事態が起こればウィシュターは勇者を処刑せざるを得なくなる。


男とは愚かだとダーラは思った。

その重いから連想してダーラはペルポリスから逃走したもう1人のアガドとシメーリアの混血を思い出す。


あの男は王女であるダーラに裸体を晒し平然としていた不埒な男だ。


陽の高いうちから女を褥に連れ込み卑猥な行いをしていたのだ。

だがその体はエッカルトよりも更に鍛えられていた。


「どうしたのですか?」


欅の周辺を掃き清めていたカリオピに声を掛けられた。


「カリオピ。私にはどうにもあの下衆がお告げの勇者だとは思えないのよ。」


ダーラは自らの掌を眺めながら言葉を発した。

その掌には確かにエッカルトを打ち据えた感触が残っていた。


「ですが、混血の男の方はエッカルト様しかおられなかったのでしょう?」


カリオピは小首を傾げて答えた。

アガド人はこの西大陸では珍しい。シメーリア人もアガド人程ではないが珍しい。

況してや常に覇権を争い合う2人種の混血ともなれば珍しいを超えてほぼ無いと言って過言ではない。


「・・それが、この前阿保傭兵を連れに行った時に出会ったのよ。少なくともエッカルトよりは見込みがありそうだったわね。」


「一目で分かる特徴は有ったのですか?」


「無いわね。見た目は程々に良いと言ったところよ。」


「そもそもなのですが、欅様の一目で分かるというお告げは欅様の価値による所であるはずです。欅様の一目、とはそのお方の身形を表すものなのでしょうか?」


美しい姿勢で立ちながらカリオピは問いかけた。


「でも私達には見て分かる物なんて見た目くらいよ?」


カリオピの言は理解できる。欅の精が幾ら人に飲み込みやすい様告げられたとしても欅の精は人では無い以上、言葉を額面通りに捉えている場合ではなかったのかもしれない。


「ギギル様ならもしかすると何かわかったのかも知れませんね。」


カリオピが言うギギルとは現在の宮廷行法士長の事である。

先代に勝るとも劣らない優秀な男だ。


「経・・。あり得るわね。欅様が気にするなら見た目より経ね。ちっ、あの男。」


「殿下?何か心当たりがお有りなのでしょうか?」


「さっき言った男よ。もしあの男がエッカルトと同じ日にペルポリスに訪れていたとしたら?私に嘘の到着日を教えていたとしたら?何か知っていたとしたら?」


「私には分かりかねます。申し訳ありません。」


「いいのよ。・・・調べる必要があるわね。誰か!ディミトリとテオを呼びなさい!」


ダーラが命じて四半刻後に2人は場を謁見の間に移したダーラの元にやってきた。


「参上致しました。」


そう言葉にした2人にダーラは楽にする様命じた。


「ディミトリ、テオ。貴方がこの前酒の席を共にしていたあの男。何者か教えてくれる?」


尋ねられた内容が突拍子も無かったのか2人は顔を見合わせた。


「混血の男の事でしょうか?彼ならシンカという名ですが、ダーラ様にお仕えする様誘いましたが断られております。」


ディミトリの口にした言葉にダーラは疑問を覚える。


「仕える様に進めたというの?何故?」


「彼と出会ったのは我々がベルガナの第一次侵攻に参加している時でした。マルンの砦で立て籠もるヴィティア勢を攻める際に彼はヴィティア勢として立ち塞がりました。類稀な戦士であり行法士でありました。彼ならダーラ様のお役に立つのでは無いかと考えまして。」


「行法士?」


「はい。見たことも無い強力な土と水の行法を使いこなしていました。一人で雲梯を潰す程、と言えばその力量がお分かりになるのでは無いでしょうか?」


「うちのギギルよりも優れているわね。剣の腕は?」


「・・失礼を承知で発言させて頂くと、陛下と殿下がお2人同時に戦っても凌ぐのでは無いでしょうか?」


「・・・相当ね。・・・まさかあの男がお告げの・・?」


そこでふとダーラは思い至る。

あの男とその連れにダーラは確実に嫌われている。

人を人と思わぬ随分な対応を行った自覚があった。

あの日、ダーラは前夜に出会った混血の男が随分と気になり翌日思い立つや否や彼の泊まる宿を調べ上げて乗り込んだのだった。


其処には遠慮という言葉は無く、兎に角人品を確かめようという気しか持ち合わせていなかったのだ。


思いの外エッカルトが弱かった事やお告げの事態が起こった際の国への影響を考えるといてもたってもいられなかったのだ。


今となってはその焦りは完全に裏目に出てしまっていた。

だからこそ彼は翌日ダーラと顔を合わせる前に街を出たのだ。


「貴方達は彼の行き先を知ってる?」


「コブシに向かうと言っていましたが・・」


「!?・・国外。・・いいえ。行き先が分かっているだけまだましね。ディミトリ、テオ。貴方達に命令よ。報酬は支払います。そのシンカという男を見つけ、客人として王城へ連れなさい。」


表面上どの国もあいも変わらず戦を続けていた。

ベルガナは反乱軍をスライから追い出し砦で治療攻防戦を繰り広げ、メルセテでは三つ巴の内乱を繰り広げている。


コブシは三つ巴どころか各地の守護が同時多発的に後継者争いを繰り広げて、都は三日三晩に渡って燃え上がり、以来全国で争いが続いている。

少しでも北の土地を得たいナルセフがオスラクへ派兵し、ガルクルトとリュギルも国境で小競り合いを繰り広げていた。


人はあいも変わらず同種を殺す事に没頭していた。

国どころか人という種の危機に瀕している等と考える者はごく僅かでしかなかった。




シンカ達が幸福に満ち溢れ、煮詰めた蜂蜜の様な甘ったるい生活を送っている頃、コブシは戦乱の真っ最中であった。

元々今のコブシ貴族にはさしたる権力も無く、各地は守護と呼ばれる軍人が其々治めていた。

中央は将軍家であるガウナ一族が治めているはずが大権は将軍の補佐職である官僚が得ており機能していなかった。100年程前に元々世襲で将軍位を得ていたジウン家を打倒する際、己ら一族の力が足りず各地の守護達の力を借りた。


その為元々中央の権勢に翳りのある治世であった。

それでも当初は王家に匹敵する権力を持ってはいたが世襲を行う毎に力を失い管領や各地の守護達が力を増す事となった。


事が起こったのは17年も前の事となる。

大管領の跡目騒動を他家であるホウセン一族と大守護サンメイ一族が其々後押しする事で王の膝下である都で戦乱が勃発した。

都は三日三晩炎上する事となり、以来其々の派閥に分かれて全国で管領や守護による後継者争いが続いていた。

14年もの間内乱が続いたのだ。


その女は薬師であった。

短髪のウバルド人で、目を見張るほどでは無いが整った顔立ちで男の目を引いた。


女はコブシ南東部のイロイ家が治める都市、イラセに居を構えて日々薬師として生活していた。

女の名はシドリと言った。


彼女は旅の薬師でそれ以前はヴィティア、ベルガナ近隣を旅して回っていたが、戦乱に巻き込まれて辛くも逃げ延びるとコブシへ向かった。


以来一年弱の間イラセで生活していたが、其処でイロイ一族の放蕩息子に目を付けられ、到頭街を逃げ出す事となったのだった。


イロイ一族は落ち目であったし、シドリはそもそもモールイド人は恋愛の対象ではなかった。彼女は自身と同じウバルド人が好みであった。


イラセから逃れたシドリであったが彼女には追っ手が掛かった。

コブシではウバルド人はよく目立つ。町や村に立ち寄る事も出来ず、魍魎に怯えながら只管南東のアケルエントを目指した。


衣服は破れ、転んだ拍子にあちこちを擦りむき、挙句肩には射られた矢まで突き立っていた。

森を彷徨ううちにシドリは到頭道を失い、4日もの間彷徨う事となった。内2日は草の根を食べる様な有様であった。


意識が朦朧とする中、シドリは傾斜を登っていた。ふらつく身体を必死で動かし少しでも前に進むべく辛うじて意識を繋ぎとめていた。


「私は、こんな所で・・」


コブシは最悪の国だ。

すぐ争い親でも簡単に殺し、兄弟と争う。

家族間の繋がりも薄い。

だからこの様な無様な内乱が起こるのだ。


だが川や山岳地帯が多く、また戦いに明け暮れるあまり兵が精強でマルケリアも手出しができていない。


狭い国土の中で親族や友人を裏切り骨肉の争いを繰り広げる醜い国だった。


シドリは病に倒れていた所を師に救われて薬師の道を目指した。

まだ満足に人を救えていないのだ。

辺りは暗くなり何一つ見通せない程闇の帳が下りていた。

手元さえも見通せぬ世闇の中でシドリは手探りで進んでいった。


斜面を登りきった時、シドリは幻想を見ていると感じた。

到頭そこまで来てしまったかと。


目の前に広がる光景を棒立ちで暫し眺めていた。

其処には立派な庭付きのコブシ家屋が立っていた。


貴族が済む様な立派な縁側が設えられた美しく風流な家だった。

白砂の庭に形の良い庭木が程よく風靡に植えられ、小川まで流れている。


白砂が月光を吸い取って輝き、家屋を闇の中に浮かび上がらせていた。

悪霊がシドリの命を奪う為に幻覚を見せているのでは無いか。


そう考えた。

深い森のその先、人の出入りの無い山奥だ。


「あ、はははは。」


思わず笑い声が口から飛び出した。

この先に進んでは命を失うのでは無いか。こんな山中に家があるはずがない。

そんな考えが脳裏を回り続けていた。


左方では池に水が流れる音が聞こえる。

それだけが唯一の物音だった。

四半刻も棒立ちになっていただろうか。

シドリはゆっくりと池に歩み寄った。

喉が渇いていたのだ。水を飲みたかった。

池に近寄りしゃがみ込んでシドリはそのまま固まった。


「おや。シドリではありませんか。奇遇ですね。」


悲鳴を上げなかったのが奇跡であった。

池の中に白髪の女がいたのだ。

友人のナウラであった。


「な、な、ナウ・・・なんでっ・・え?」


「なんでとは?ここは私達の家です。寧ろ私の方こそ貴女に問いたいものです。其処までして私の裸体を見たかったのですか?私は女色の気は無いので申し訳ありませんが。」


「ごめん、全然意味がわからない。」


シドリが真顔で返すとナウラは無表情で肩を竦め、やれやれと首を横に振った。

腹の立つ仕草であった。


「冗談は兎も角、血の匂いがします。怪我をしていますね。治療しましょう。まずは染みるでしょうが此処に浸かって下さい。」


服を剥ぎ取られて池に突き落とされた。

水の冷やかさを覚悟したが、感じたのは温かみであった。


「お、お湯?」


「ええ。温泉です。」


「いたたたたたたた!」


肩の傷口が激しく痛んだ。


「自分で身体を洗って下さい。私は傷口を調べます。」


薄暗い中ナウラはシドリの背後に回り傷口を確認した。


「運がいいですね。骨は傷付けていない様です。身体を清めたら治療します。」


シドリの心中は混乱のあまり掻き乱され、思考は停止していた。

夢なのではないかと今だに考えていた。

湯から上がったナウラは手拭いで身体の水気を拭い綿製の赤地に白い小花を散らせた小袖を着込み、家屋に入っていった。


家屋から戻ってくると着替えを手にしており、シドリの身体を拭うと傷口を避けてそれを着せ込んだ。


「さあ。此方に。」


手を引かれて平石を渡って母屋に辿り着くと縁側から上がり、板戸を開く。


「うん。久しいな。」


矢張りと言うべきかナウラの伴侶であるシンカともう1人の伴侶のヴィダードに弟子のユタが囲炉裏を囲んで座っていた。

1人初見のアガド人女性もいる。


「・・これは現実なの?私、さっきまで死に掛けてたのよ?」


「身の上話は後でいい。まず其処に布を引いたからうつ伏せになれ。ナウラ。処置をしてやれ。」


言われるまま横になると麻の貫頭衣に着替えたナウラが現れる。不思議な光沢の手袋を嵌めている。


「少しちくっとします。感覚を麻痺させる薬品を針で打ち込みます。」


ナウラは先端に針の付いた筒に何かの薬を込めてシドリの背、傷口付近数カ所に刺した。

少しすると痛みが引いていく。

ごく小さな短刀を無色の酒に付けるとそのまま矢傷の周りを切り開いた。


「ナウラ。分かっていると思うが、身体を切るときは筋繊維を切断するのではなく、筋繊維の隙間を割り開くように切る事だ。その方が再生が容易で早くなる。つまり」


「身体への負担が少なくなります。問題ありません。シドリ。大丈夫です。傷跡無く癒して差し上げます。」


「・・矢傷は切り傷よりも痕が残りやすいわよ。大口叩いて失敗しても、知らないわよ・・」


この人達がとても優秀である事はシドリも知っている。

最早命の心配などしていない。


鈴剣流の女剣士ユタがシドリに水を運んで来た。


「蜜柑の果汁を絞ってあるから美味しいよ。」


三白眼で可憐に笑うという器用な芸当をこなし、水の注がれた椀を差し出す。

気が削がれた隙にナウラが矢を一気に引き抜いた。


「あああっ!うあああああ!」


痛みに身体が鈍くなっていたとはいえ十分な痛みだった。

漸く息が落ち着くとシドリは与えられた果汁を飲み干した。

ユタの言葉の通りとても美味で、乾ききったシドリの喉を潤した。


急にユタともう1人の名を知らぬアガド人の女に手足を押さえつけられた。猿轡もかまされる。


「痛みます。」


酒に浸された布が傷口に押し当てられた。


「むうおおおおおおおあおおおおおおっ!?おおおおおっ!」


暴れるが押さえつけられて身動きが取れなかった。

激痛が走ったのだ。


「続きます。」


何かの粉薬が傷口に振りかけられる。


「おおおおおあああっ!?」


先よりは痛みに劣るが焼けるように傷口が痛む。

シドリは目の前が白く染まり意識を失った。

次に意識を持った時、シドリは仰向けに寝そべっていた。

額に濡れた布が当てられ、ナウラが小まめに顔や身体の汗を拭ってくれていた。


「・・・悪いわね。」


嗄れた声が出た事に少しだけ驚いた。

言葉を聞いたナウラはピクリとも表情を動かさず、


「友人ですから。」


冷たい声音で温かな言葉を発した。

シドリは1年前に彼女と共に少しの間過ごし、彼女が情緒豊かで、茶目っ気に溢れ、優しい人柄である事を知っていた。

強くあらねばならないと気を張り詰めて女1人で旅をして来た。

気の緩みからか、シドリは目尻から涙を流していた。

気の緩み。それは言い訳だ。

優しい友人達を持てたことへの喜びの涙だ。

そんな大切な気持ちにまで肩肘張って嘘をつくのは良くないことだ。



シドリが転がり込んできてから数日が経った。

縁側で買い求めた畳表を裁断し、畳床に貼り付けていると背後から気配を感じた。


「漸く起きたか。」


振り返る事なく声を掛けた。


「・・世話になったわね。」


手元の土瓶の中の冷えた水をぼそりと礼を述べたシドリに注いだ。

シドリは大人しくシンカの隣、人2人分ほど合間を開けて腰掛けた。


まだ残暑が厳しいが、蝉の声は少なくなりつつある。季節は既に秋。冬上月に時期に移り変わる。

この辺りは山の名の通り楓が多く、時折胃腸も見られる。冬中月ともなればさぞかし美しい紅葉を見ることができるだろう。


手作りの少し歪な形の湯呑みで冷えた湧き水の水を飲み庭で組み合って喧嘩をしているナウラとヴィダードを見つめる。


「貴方。今おっさん臭い顔付きだったわよ。娘を見守る父じゃないんだから。」


「勿論女としての愛情もあるが、この感情を一つの括りで縛ることはできない。妹の様であり、娘の様でもある。」


「でも全員抱いてるんでしょ?不潔ね。」


「気持ちが通じ合っているのだから抱かぬ方が失礼だろう。大体ナウラとヴィーは初め俺を薬と酒で潰して押し倒したのだ。俺は寧ろ被害者なのだ。」


「あの2人ならやりかねないわね。」


暫く2人無言で景色を見つめていた。

庭に引いた小川に小魚が泳いでいたらしくユタが突入した。


カヤテは上半身を肌蹴て腕や腹の筋肉の切れを確認している。少しは羞恥心を持って欲しい。

環境への適応とは恐ろしいものだ。


「こんな山奥に住むなんてね。魍魎とか、大丈夫なの?」


聞かれるが、シドリの声音では恐らく心配などしていないのだろうことがわかった。


「魍魎の嫌う木や草を一帯に植えている。茅葺にも嫌われる匂いの煙を焚き込めた。火を炊く時も巻きはそれを使うし、一帯に罠も貼ってある。」


シドリは興味が無かったのか暫しぼんやりとしていた様だった。

状況を整理しているのだろう。


生命の危機にあり、始めてゆっくり物事を考えるゆとりを得たのだ。

当然だろう。


シンカは畳張りに意識を移し只管に時間が過ぎていった。

外ではヴィダードが暴れる余り転んで膝を擦りむいたのをナウラが処置している。


ユタは魚を追い散らした後、浅い川に仰向けになり、ゆっくりと流されて遊んでいる。口には鹿の干し肉が咥えられている。


カヤテは視線に気付いて顔を赤らめ、服を着込むと素振りを始めた。

伊達に腕が良いせいで時折周囲に小さな旋風が巻き起こる。


「私、死にかけたのね・・」


ぼそりとまたシドリが呟く。


「危ないところだった。この家に辿り着かねば十中八九死んでいただろう。」


「貴方達にまた助けられたわね。ほんとにありがとう。この恩は必ず返すわ。傷も綺麗に治ってるし。」


「礼ならナウラに。あれは口では言わんがお前を大切な友人だと思っている。」


「ナウラにもお礼は言うわよ。でもナウラが居なくたって貴方は助けてくれたでしょ?だから、ありがとう。」


シドリの真っ直ぐな視線にシンカは気恥ずかしくなり畳に視線を戻した。


「でも、それだけの能力があればもっと沢山の無力な人達を救える。どうしてそうしないの?・・責めてるわけじゃないわ。純粋に知りたいだけ。」


シドリは以前ヴィティアで出会った時から志が高く弱者に寄り添おうとする聖人の類であった。

彼女がシンカの、森渡りの在り方に疑問を持つのは当然だろう。


「我等が作る薬は矢傷を瞬時に直し、裂かれた腹を合わせ、失われた腕を生やす。戦場でそれはどれ程役に立とうか。それは最早兵器と言えるだろう。サルマ・ベルガナがスライを落とす為に持ち出した大筒と戦に与える影響は遜色ないであろう。国家はそれを得る為にどの様なことでもするだろう。」


「・・・そうね。」


シドリは可憐な口元に細い指を当てがい考えた。


「我等はそうして同胞を玩具の様に扱われた過去を持つ。」


「ごめんなさい。そこまででいいわ。有難う。貴方は権力が憎いのね。」


そう言ってシドリは目を伏せた。

シンカも畳を張る作業を止めず、黙々と手を動かした。


「お前にこれらの薬の知識を教えることもできない。みすみすお前が権力者に狙われる状況に置くわけにはいかん。ナウラが悲しむ。」


シンカがそう言うとシドリはからかう様な表情を浮かべる。


「あら。貴方は悲しんでくれないの?」


「悲しいさ。友人だと思っている。当然だろう?」


手を止め目を見据えて言うとシドリは顔を赤く染めて照れ隠しにシンカの肩を叩いた。


「貴方も勝手に野垂れ死ぬんじゃないわよ。」


暫くの後シドリはシンカ達の家を去っていった。秋も更ければ冬眠の前に魍魎達が活発化する。その前に彼女を送り出した。


ナウラはシドリが泣いて謝るまで雛豆を煮潰したものと焼き上げた麵麭を餞別に食べさせ続けた。


シドリは去り際にこの家に名を付けていった。

夜凪亭と。シンカはとても気に入っていた。


彼女が去ったのは落葉が始まり、楓が色付き始めた頃であった。

シンカ達は戦場や敵中を駆けた記憶をさっぱり塗りつぶしてしまうかの様に緩やかに過ごした。

軈て楓が真っ赤に紅葉して山を一面美しく彩り、所々に目に鮮やかな黄色に銀杏が色付いてもその日々は変わらなかった。


木の実や果実、茸を取り冬に向けて蓄え始める。

ナウラは鳥や獣をユタと共に狩って燻製や干し肉、塩漬けにし、ヴィダードは買い求めた野菜を自作の糠床で漬け始めた。


何処かで話した様に、ヴィダードはコブシの料理が口や身体に合った様で食べる量が増し、少しだけ、ほんの少しだけ肉付きが良くなった。


誤差の範囲内とも言えたが本人がとても喜んでいたのでさしものナウラも無言で憐れみの目を向けるだけで終わった。


夏場から多めに買い集め、少しづつ米も蓄え、狩った鳥の綿羽を集めて厚手の掛布団までこさえていた。


シンカ達は5人で紅葉を眺めながら酒を楽しんだ。


「はぁ。此処でこうしてゆっくりしていると自分が何者であったのか忘れそうになるぞ。」


怪しい台詞をカヤテが呟く。


「大丈夫か?身体の筋肉が落ちた分脳が筋肉になってしまったか?」


「そ、そんな事が起こるのか!?不味い。鍛錬を増やさねば!」


カヤテは顔色を青ざめさせて慌て始めた。


「カヤテ。揶揄われていますよ。」


「なんだとっ!?騙されたのか!?」


ナウラに指摘され眉を釣り上げる。


「いや、自分の名前も覚えられないと言うから・・」


「其処までは言っておらん!」


ほんの数瞬前まで穏やかに庭を眺めていたと言うのに直ぐに姦しくなる。


「・・カヤテ・・・こんなに風情があるお酒の席なんだから少し静かにしようよ・・」


先程までナウラと浅ましく摘みの奪い合いをしていたユタがカヤテを窘めた。

お前には言われたくないとシンカは思ったが、賢いので口に出しはしない。


「綺麗ねえ。」


ぴたりとシンカの右側に張り付く様に座ったヴィダードが両手でお猪口を持ちながら呟いた。

白砂の庭にヴィダードが植えた形の良い楓も綺麗に色付き庭を彩っている。


「何故だ・・まるで私が悪いみたいではないか。シンカが私を苛めた所為なのに・・」


「苛める。ふふ。随分と胡乱な言葉が出て来ましたね。にあ」


「言わせぬぞ!私も子女だ。現に苛められて国から落ち延びたではないか。なあシンカ。私は女らしくないのか?」


カヤテは目を努力して潤ませようとしながら上目遣いにシンカへ問うた。


「その様なことはない。ないが、俺が憧れた気高い女騎士は消えてしまったのだな。」


「どう言うことだっ!?」


眉を釣り上げてシンカの肩を掴み揺さぶる。

カヤテの手が届く前に素早く清酒を飲み干し酒が溢れるのを未然に防いだ。


シンカがカヤテに揺さぶられるのに合わせて隣のヴィダードも揺られ、彼女の酒がお猪口から溢れた。


本当に穏やかな日々だ。

出自も立場も何の関係のなかった5人がこうして出会い、一同に暮らしている。


意識した事は無かったが改めて考えるととても不思議な、奇跡的な出来事に思えた。


夜になれば5人は皆で露天風呂へ赴いた。

小さな松明をヴィダードが植えたいくつかの紅葉樹の袂に飾り、風呂から照らし出される紅葉を眺めた。


「風流だ。素晴らしい。ミト様にお見せしたい。ミト様と一緒に。」


辺りは暗く伺う事は出来なかったがカヤテは泣いている様だった。

彼女にとってシンカは二番手だ。それは分かっている。

伴侶より妹の方が大切で悪い事などない。少し悔しくはあるが、それがカヤテだ。


それでも、一族に居られなくなったという理由であっても好いた女と過ごせる事にシンカは感謝していた。

彼女の一族がこれからどうなるかは分からない。

だがミトリアーレ1人程度ならシンカの腕で守りきる事はできるだろう。


始めて彼女達と出会った時、そうした様に。

カヤテが自分を好いてくれている事は分かっている。

何も無ければ自分とずっと居てくれるであろう事も。

それで十分だ。後は必要な時に自分が間違える事なくカヤテを支えればよい。


「この紅葉が終われば直に雪が降る。雪景色もまた風情なものだぞ。」


「雪が。グレンデーラも雪は降るが、あまり積もらんのだ。」


「エンディラもです。エンディラは風が強く乾燥しており降っても一寸程度。それも直ぐに吹かれて消えてしまいます。」


「・・・・狩幡は結構積もるよ。でも寒過ぎて直ぐに固まっちゃうんだ。・・・鈴紀社も冬は出歩けない程で男の人が言ってたけど外でおしっこすると直ぐに凍って出口が塞がって履物にかかるんだって。」


「ユタ。淑女はその様な事を話すべきでは無いぞ。」


「僕だってみんな以外にはこんな話しないよ?」


ユタが薄暗がりの中淡く笑うのが見えた。可憐さに思わず凝視してしまった。


ヴィダードは直ぐに逆上せてしまい、今は岩の上に腰掛けて脚だけを湯に浸けている。

冷気に晒されて薄桃色の可憐な乳頭が小さくしこっているのが目にとまる。


薄暗闇の中で純白の肌が浮かび上がっている。

ナウラは岩に頭を乗せて足の先まで体を伸ばし、湯に浮いている。

豊満な乳房が水面から顔を出し、滑らかな黒い肌を水滴が伝い落ちる。


思わず手を伸ばして乳房を柔らかく掴んだ。

ナウラは一度片目だけ開けてシンカを一瞥した後再び目を閉じた。

深く体を沈め、天を見上げた。



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