冬を越えて
コブシの王都、ベラの宿屋に4人の傭兵が集まっていた。
4人ともウバルド人で、装備は魍魎から剥ぎ取られた素材で作られている。
国の兵士であれば鎧は統一され、その土地で豊富に取れる鉱石や金属で作られる。
魍魎から剥ぎ取られた素材は殆ど出回る事はなく、それを用いて装備を整えている傭兵は即ち自分達で仕留めたと公言しているに他ならない。
その彼等は一部屋に集まり言葉を交わしていた。
「冷えるな、この国は。秋の内にあの男達を見付けられていれば良かったのだが。」
ディミトリが旅装を解きながらぼやく。
「言うな。まさかアケルエント内でただの一つも目撃情報が無いとは思わなかったけどね。」
榛色の髪をかきあげてサンドラは畳にだらし無く胡座をかく。
王女ダーラの命で混血の薬師を捜し求めていた。
周辺の町村は国軍が当たり、コブシとの国境付近はディミトリ達が当たることとなった。
しかし誰一人としてシンカと言う名の混血の薬師の痕跡を見つける事はできなかった。
まるで森の中を抜けていったかの様に人っ子一人彼等の姿を見ていないのだ。
ディミトリ達は2月で国境を越えてコブシに入り、更に2月コブシ国内を虱潰しに探索していた。
「ああ・・・・最悪だ・・・」
窓辺に腰掛けて外を眺めていたテオが頭を抱えた。
「何よ?」
外套の解れを縫っていたキッサが顔を上げる。
「雪が降って来やがった・・・」
全員が押し黙り暫し沈黙が続いた。
「ベラ周辺は軒並み探したし、雪で身動きが取れなくなる前に探すには一か八かの勝負に出るしか無いわよ?」
サンドラの言に一同は眉を寄せて深く考え込んだ。
「そもそも、我等は何故あの男を探しているのか。一体シンカにはどの様な秘密があると言うのだ?」
「分からないわ。ただ、一つ推測があるの。」
テオの疑問にキッサが口を挟んだ。皆がキッサに視線を送った。
「なんだ?話してくれ。」
先を促すディミトリにキッサは頷く。
「シンカの見掛けはアケルエントでは珍しいわ。彼のアガド人とシメーリア人の混血という特徴、心当たりはない?」
「成る程。エッカルト様か。」
ダーラや王国の思惑は分からない。勇者として選ばれたエッカルトが仮にその見た目で選ばれたとすれば。
「勇者はエッカルト様ではなくシンカかも知れないと、ダーラ様は思ってるんじゃないかしら?」
「どの様にエッカルト様が勇者として見出されたか分からんから推測の域を出ないが、その位しか理由は思い当たらん。」
テオは窓の外でちらちらと降り始めた雪を眺めながら答えた。
「勇者って何なのよ?」
サンドラの疑問に答えられる者は居なかった。
「兎に角、駄目で元々だ。今迄の探し方では見つからんだろう。逆に考えるんだ。彼等は魍魎ではない。痕跡が無いのは現れていないからでは無く、痕跡を残さない様に配慮したからだと考えるんだ。」
「変装?でもあれ程の美人を4人も連れ歩いていれば変装でどうにか出来る範疇を越えてるわよ?」
「サンドラの言うことは最もだと思う。村や町に立ち止まらずに森を進んだと考える方が可能性はまだ有る。」
キッサの言葉にディミトリが目を剥いた。
「まさか!?危険すぎる!」
「そうね。保っても3日で魍魎の餌食よ?」
ディミトリにサンドラも同調する。
「だが、確かに変装して旅をするよりも現実味はある。」
テオはキッサの意見に賛成した。
「・・どうせこのまま探しても見つからないか。あれ程腕の立つ男なら森の中も歩き回れるのかもしれないしね。」
「俺には矢張りしっくりこないが、確かに今のままでは見つからんだろう。」
4人は再度考えを巡らせた。
「もし私が森を自由に歩けるなら。コブシに早く辿り着くために楓山を越えるわ。」
絞り出す様にサンドラが言う。
「森に山・・・俺にはそんな事が出来るとは全く思えん。」
「でも南半分の主要な町には目撃情報は無かったもの。それに数月の間何処にも立ち寄らないなんてあり得ないよ。」
「だが、森に山なんて、そんな事が出来るのは人間じゃ無いのでは?」
「でも現実的に何処にも姿はないのよ?そういう可能性も考慮しないと。私達は卑しくも王女殿下に目を掛けて頂いているの。直々に頂いた御下知、成功させないと。」
ディミトリとキッサが口論を始めてしまった。
そんな中サンドラとテオは黙して薬師の居場所について模索していた。
「もし楓山を越えてコブシに入ったとすれば最初にたどり着く町は?」
「南東のイラセか南のヒメミ、南西のビンゴか?」
「そうね。でもそこも何も無し。」
「街に本当に現れず、寒村に身を潜めている可能性は?」
「あの大食い酒飲み達が寒村の貧しい食事で満足できると思う?」
「確かに。」
2人はまた思索に耽り始める。
しかしそれを聞いていたディミトリが声を上げた。
「もし本当に森や山を無事に越えられるなら森に住むことも出来るんじゃないのか?」
「・・・でもそうなると捜しだすことは不可能よ。」
眉間に深く皺を寄せてキッサが答えた。
「・・いえ。食料を自活出来ても色々と物は要り用になる筈。買い出し程度は必ずしないとならない。近場の村に顔を出すはずよ。」
「彼等は薬師だ。その取引は薬で行うだろうな。質の良い薬が出回っている村を探すか。」
サンドラとテオの会話で一か八かの捜索が行われることとなった。
4人は別れて南部へ赴き、大きな都市での薬の出回り方について調べ始めた。
薬師組合に赴き入荷の問い合わせを行なったのだ。
結果ぎ出たのはディミトリが赴いたイラセの街であった。
イラセで転売を行ったと思われる者の出身を確認した。小さな寒村であると分かった。
仲間が向かった街にすぐ様、商人組合を通して文を送り、その村へとすぐに向かった。
家屋が10軒あるか無いかという半ば森に飲まれかけた村にディミトリが辿り着く頃には雪の日が頻繁に続くようになり、細い道は膝下まで雪が積もり、周囲を白く染め上げていた。
夜の帳が降りても雪の夜はぼんやりと周囲が光り、辺りを見通す事が出来る。
そんな中を歩き続け、ディミトリは漸くその村に辿り着いた。
すぐ南には楓山の裾野が広がり鬱蒼とした森がのしかかる様に広がっている。
ディミトリは村で唯一牛を飼っている家の戸を叩き、納屋で一晩を過ごした。
聞き込みは翌日から行った。
混血の薬師が現れたかどうか。この村には村人は40人も居ない。聞き込みは直ぐに終わった。
答えは否だ。だが、女の薬師が訪れ日用品を求めるのだという。
時折大きな町からも品を求め、村人に多目の薬を渡して去る事もあるという。
何時も2人で現れ、1人は眉の白いドルソ人、1人は目付きの悪いシメーリア人だと言う。
当たりであった。苦節5月にして漸くディミトリはシンカの間近に辿り着く事ができたのだ。
後は彼等が何処から現れるかだが、村人達にはそこまで分からないようだった。
ディミトリはそれ以来ひっそりと隙間風の酷い納屋に住み着き、時折冬場でも活動する小型の魍魎を仕留めて村人に肉を提供する事でそこにいる事を許され、時が訪れるのを待った。
機会がある事は分かっていた。
彼等は村人に桶4つの清酒を町から手配するように頼んでいると言う事だったのだ。
気前良く前払いとして鹿2頭と解熱剤をそれなりの量渡し、後払いで同じ物を受け渡すのだと言う。
ある風の激しい夜、イラセで合流した3人の仲間達が漸く村に辿り着き、ディミトリは納屋へと招き入れた。
「良くやったわね。ディミトリ。」
サンドラに労われたディミトリの顔は隈で酷い有様だった。
防寒対策は出来ていたが、それでも四六時中薬師の訪れを見張る事は彼の負担となっていた。
「近々、女薬師がこの家に酒の入った桶4つを受け取りに来る。その後を尾ける。」
「十分だ。良くやった。」
テオに褒められたディミトリは目を擦り湿気った藁の上に横たわった。
「寝かせてくれ。」
そう言うと直ぐに目を閉じて寝息を立てた。
状況が動いたのは3日後の事であった。
酷く吹雪く夕暮れの事だった。家の持ち主を訪ねる人影を納屋の板張りの隙間からキッサが認めた。
大荷物を抱え、笠を被った人影だった。
その影姿は認められたが顔までは分からない。
しかし、間違い無いだろう。
2人の人影は直ぐに家から出てそのまま村から出て行った
一行は吹雪で足跡が消えてしまう前に後を追った。
激しく吹き付ける吹雪の中雪面の溝を追い先を急ぐ。
始めは道なりに続いていたその跡はある所で森に折れ曲がった。
声すら届かぬ横殴りの猛吹雪の中で一同は一か八かの博打が核心であった事を悟った。森の中に続く跡を追い、ディミトリ達も化け物達の領域へと踏み入った。
森の中は外に比べ風が弱く、視界も確保できた。
森の中を一直線に続く跡をディミトリは汗をかかぬように注意しながら進んだ。
平坦だった道なりは次第に勾配が付き始める。楓山に踏み入った証だろう。
等に陽が沈んだ頃だったが、森の中でも薄ぼんやりと進路を見極める事が出来る。
時折垣間見える空は白く鈍く明かりを発している。
傾斜がきつくなるが一向に薬師2人が配分を緩める気配はない。
酒のたんまりと入った桶を両手に携えていると言うのに。
足跡も自分たちのものと比べると不自然だ。
それは大きく広く、浅かった。
足跡は軈て澤へと辿り着いた。浅い澤を遡っているに違いない。
村を出てから2刻。一行は腰高の小さな滝を乗り越え立ち上がり、それを目にした。
ぽっかりと樹々の開けた空間に大きなコブシ式の家屋が建っていたのだ。
「は?」
雨戸の隙間から僅かに漏れ出るのはまごう事なき柔らかい火の明かりだ。
ただ森の中に取り残された遺跡などでは無く、人の息遣いを感じさせる立派な家であった。
吹雪の中にそれが立ち塞がっているのだ。
一同は唖然としてそれを暫し眺めていた。
「そんな所に突っ立って何をしている?」
何処からとも無く男の声が聞こえた。
吹雪に紛れて声の出所を把握するのにまた時間が掛かった。
それを見つけたのはサンドラだった。
「ひっ!?」
声を上げてサンドラは尻餅を付いた。
手袋に覆われた指を指し示す。
その方向には池がある。
周囲との気温差に池は湯気を上げていた。
池は岩に囲まれており、その岩にも雪が積もっている。
中央にも岩があるのか、瓢箪型の池の中央にも雪が積もっている。
それが僅かに動いた。
「なっ?!」
雪の下に人の、男の顔を認めることが出来たのだ。
「うん。久しいな。」
池の中から腕が伸び、積った雪の裾野を摘む。
それは笠だったのだ。
笠を被った男が真冬の吹雪の中、池に浸かっていたのだ。
シンカだった。
キッサの身体が崩れ落ちる。
女座りした股座から湯気が立ち昇っていた。
恐怖のあまり失禁したようだった。
ディミトリにもテオにもその気持ちは良くわかった。
「どうしたキッサ。体調が悪いのか?瞳孔が開いている。」
テオがキッサの目を覗き込むとシンカの言う通り瞳孔が開いていた。
しかし吹雪の中、3丈も離れているシンカにそれが見て取れたという事が最も恐ろしい事実だった。
「・・・な・・・何者、なんだ・・・」
絞り出した声は掠れており、吹雪に掻き消された。
「薬師だが。他の何に見える?魍魎、とでも言うつもりか?失礼な奴らよ。」
その声も確と聴き取られた。
正に魍魎だ。そう名乗られても違和感は覚えない。ああ矢張りか、と感じるだけだ。
「どうした?何故動かんのだ?ナウラとユタよりお前達が後を着けて来ていると聞いているぞ。何か我等に用があったのではないのか?」
尾けていた事もこの男だけでは無く2人の女薬師にも看破されていたらしい。
吹雪吹き荒む中呆然としていた。
吹雪の中シンカは立ち上がり下半身を手拭いで隠しつつ悠々と歩いて行く。
全身から立ち昇る湯気が吹雪に吹き流されていく。
「・・寒く、無いのか?」
「全ては経の賜物、と言うわけだ。それよりもキッサ。そこのは池では無い。湯だ。身を清めよ。」
言うと池の直ぐ横の大きな雪山の中に消えていく。
覗いてみると其処は掘られて空洞になっており、七輪が置かれて網の上で目付きの悪い女剣士、ユタが餅を焼いて口にぱんぱんに詰め込んでいた。
ナウラとカヤテもおり、桶の蓋を開いて酒を飲んでいる。
シンカはヴィダードに身体を拭かれ、小紋を着せられていた。
「なにしてんの?」
ディミトリの口から思わずそんな台詞が零れ落ちた。
「見て分からぬか?雪見酒というやつだ。」
「・・・ん?」
カヤテの言葉によく分からない、と言う様子でテオが眉を顰める。
「雪?・・そういう規模か?・・・俺が、可笑しいのか?」
錯乱しているのだろう。恐らく自分達は何も可笑しく無いとディミトリは考えた。
「・・君たち、ちょっと臭うよ?牛の糞の臭い。お風呂で流しなよ。」
感覚が麻痺していたが、牛と共に納屋で過ごしたせいで体は臭うはずだ。
ディミトリ達は無理矢理纏めて池改め露天風呂に叩き込まれ、体を清める事となった。男女同時であったが彼らにとってそれは今更だった。
「なにこれ。」
湯に浸かりながらサンドラが呟いた。
「何故彼奴らはこんな吹雪の中山奥で酒を飲んでいるんだ?」
「分からないよ。」
ディミトリの疑問にキッサが首を振りながら答える。
「外で湯船・・素晴らしい・・」
テオは既に思考をやめて吹雪の中天を見上げていた。
確かに露天風呂とやらは素晴らしいものであった。
「ねえ。」
サンドラは短く言葉を発する。
「私達、大分苦労したわよね?」
返事は返されなかった。
ペルポリスを出てからの苦労が脳裏に浮かんでいた。汗水垂らして国境を走り回り、微細な情報も見逃さんと血眼で村々を探し回り、近付く冬と魍魎、コブシの野盗を恐れながら北上し、寒さに凍えて納屋で待ち続けたこの4月を思い返した。
「腹が立ってきたわね。」
何か騒ぐ声が聞こえて振り返るとナウラとヴィダードが吹雪の中拳大の雪玉を撃ち合っていた。
「本当に何をしているんだ彼奴らは?此処は山の中だろう?」
額に1発着弾したナウラが顔を雪で覆ったまま憤怒の雄叫びを上げた。
何か叫び合っているが吹雪で声は聞こえなかった。
小紋姿のシンカが現れて一瞥ののちに家屋へ背を向けて去っていく。
あの男だ。全てあの男が悪い。
諸悪の根源だ。
4人が全員そう考えた。
自分達が苦労している間あの男はずっと温泉に浸かっていたのだ。
頭のおかしい嫁を4人もこさえて好き放題させているのだ。
風呂を上がると着替えが与えられて立派な家屋の中に通された。
木材から良い香りが漂い鼻を刺激する。
何より囲炉裏に下げられた鍋や火にかけられた魚の干物から良い匂いが漂っていた。
「・・・おなか、減ってる?」
目付きは悪いが優しげな微笑でユタが囲炉裏端の座布団を指し示す。
カヤテが鍋の汁ものを椀に誘ってくれる。
「信じられん・・俺はあの赫兵に食事をよそってもらっているのか?」
テオはやはり完全に思考を放棄している。
そもそもこの様な山中に家を構えている時点で頭がおかしいし吹雪の中温泉に入るのも、吹雪の中雪蔵の中で酒を嗜むのも全て頭がおかしい。
何から何まで間違っている。
此奴らは全てにおいて常軌を逸している。
元気良く礼を述べて食事を始めたテオに引き摺られて残る3人も食事を取り始めた。
暖かく、身体に染み渡る。碌な食事も最近取っていなかったことを思い出した。
「客間に床の用意をした。泊まっていくだろう?」
疲労困憊の4人に抗う選択肢は存在しなかった。
その晩4人は男女に分かれて就寝した。外は依然として吹雪いていたが、隙間風も家の軋みも無く、敷布団は厚みがあって柔らかく、掛布団は中に入っている柔らかいもののせいか、軽いにも関わらず暖かく、熟睡することができたのだった。
ゆっくりと休み気力も回復した翌日、朝餉を馳走になった後サンドラは満を持して口を開いた。
「シンカ。王女ダーラ様がその方を客分としてペルポリス王城に迎え入れたいと仰せであります。我等と共にペルポリスへ同道頂けるでしょうか?」
シンカの切れ長で鋭い目を正面から見据えて告げた。
大変栄誉なことである。
「何故殿下は俺を?」
それでもシンカは頷かず質問をした。
「それは我等は聞かされていない。」
「そうか。では辞退する。」
にべもなく断ったのだった。
サンドラ達は断られるという想定をしておらず内心取り乱すこととなった。
「何故か聞いても?」
ディミトリが恐る恐ると言った様子で尋ねる。
「権力に惹かれる人間であれば此処には居ない。我等は此処で穏やかに日々を過ごす。争いには疲れた。やって来る争いは仕方ないが、自ら首を差し入れる事は無い。」
価値観が異なり過ぎた。
サンドラ達は名を成し栄誉を得、名付きとなって不自由の無く煌びやかな生活を送りたいと考えて努力を続けて来た。
彼等はそれに見向きもしないのだろう。
「・・なんとか一度だけでも来てもらう事は出来ないだろうか?」
ディミトリは尚も食い下がった。
このまま引き下がれば自分達へのダーラの評価は地に堕ちる。
「流石にこの積雪の中長距離の移動は行いたく無い。書を認める。新緑の季節迄は此処に居たい。出直して確と使者を立てて欲しいと書く。それで問題なかろう?」
傭兵は仕事を果たした。そう書いてくれるという事だ。
確かにこの時期に出歩くのは酷な話だ。彼等にそれが可能であったとしてもだ。
恐らく彼等が真の勇者なのだろう。
エッカルトとは役者が違った。
腕も法も智も格が違う。
そうして雪が収まるまで数日間を彼等が夜凪亭と呼ぶ家に滞在し、穏やかな生活を送った後帰国の途についた。保存食まで渡されて、である。
積雪で帰りは遅くなり、彼等がペルポリスに着いたのは稍暖かくなり始めた頃であった。
シンカ一行は冬の間に装備を丁寧に整えつつも勉学に励み、鍛錬を行った。
気付けば雪の頻度は減り、ヴィダードが何処かから引き抜いて来た梅が赤い花を控え目に付けていた。
白銀の雪景色の中に小さく咲いた梅の花は可憐で皆大層気に入っていた。
カヤテはその景色も絵にしていた。
梅の芳しい香りを楽しみながら昼から酒を嗜み、変わらぬ生活を続けた。
この頃からシンカとナウラは怪しげにこそこそと額を付き合わせて何かを計画し始めていた。
そんな様子を興味無さそうにユタは眺めつつだらしのない格好で酒に漬けていた果実を頬張り、カヤテは書き溜めた絵に色を着けて微笑しながら眺めていた。
ヴィダードはシンカとナウラの周りをうろうろと歩き回り様子を伺っていた。
軈て徐々に雪が解けて雪面を割って蕗の薹が緑の頭を出し始めるとシンカとナウラは毎日怪しげな様子で手帳を見比べてユタを嫌な気分にさせた。
彼等は毎日を楽しんでいた。
朝起きて食事を作り、家事をしてから体を鍛える。汗を流して昼を取り、座学を学んで自由に過ごす。後は晩飯を皆で作り、夜は時々肌を重ねる。
それは女が複数人いなければ至極健全な夫婦生活と言えただろう。
少なくとも彼等自身にとってはそうであった。
そうして日は過ぎ雪が解けきって暫くすると正面の丘が桜色に色付いた。夜凪亭の庭もにも一本桜が植えられており、5人は木の根元に集まって食事と酒を楽しんだ。
「シンカ。本当に山が一面桜色になるのですね。」
「コブシはテュテュリス人の侵略に合わなかった土地だ。植物は古来の種が多く残る。昔に植えられた物が今もまだ残っているのだ。」
じっと向かいの丘を眺め続けるナウラの頭を柔らかく撫でた。
「嘘など言うか。」
「想像が出来なかったのです。とても感動しています。」
ナウラの瞳が潤んでいた。
シンカはナウラの襟足に手を差し入れて頭を寄せて、唇に口付けを落とした。
余韻に浸りたかったが直ぐに背中にヴィダードが貼り付き荒い鼻息で存在を主張して来る。
各地の絶景を脳裏に刻み、また妻、弟子とその景色を共有する。
数十年後に当時の思い出を振り返り子供に自慢出来るならそれはとても良い思い出となるだろう。
背に張り付いていたヴィダードをあやしながらそんな先の事を考えた。
それから10日も経たないうちに満開だった桜が散り始めた。
カヤテはその様子を熱心に描き、シンカ酒を煽りながらその様子を隣で見守っていた。
「初めはミト様にお送りする為に描き始めたが、惜しくなってしまった。自分でも持っていたい。その時の記憶を鮮明に思い出せるように。」
「書き写せば良いだろう。」
「うむ。少しづつ始めている。」
「花を摘んで書籍の間に挟めば色や形を残したまま乾燥させられる。やってみてはどうだ?」
言うとカヤテは目を輝かせた。
「それはいい!やってみよう!ナウラの書籍に挟み込むか。」
数日後には春の花でナウラの書籍が大変な事になったが、ナウラ自身は汁の着いた紙を見て少し嬉しそうにして口元を緩めていた。
風に吹かれて舞い散る桜は矢張り幻想的だった。
その袂に美しい女が立っていると桜の精であるように錯覚される。
「この様に楽しく充実した日々が遅れるとは思わなかった。」
しみじみとカヤテは言った。
「最近はどうだ。まだ辛いか?」
隣に腰掛けてシンカは尋ねた。
「済まない。気を使わせて。私はお前の妻失格だ。お前には私が後悔ばかりしているように見えていたのだな。」
絵を描く手を止めカヤテはシンカの肩に頭を凭れさせた。
「妻に資格など無い。まず共にいる事が一番大切なのだと俺は思う。多くを失ったお前を支え、背負うのが俺の役目だ。」
「有難い話だ。シンカは素晴らしい夫だ。私の誇りの1つだ。・・・ミト様が苦しんでいないか心配で張り裂けそうになる事はある。だがそれだけではない。お前とこうして共に居られる事を嬉しく思わない日はない。」
滑らかなカヤテの頬を撫でる。カヤテは甘えて頭を肩に擦り付ける。
「ミトリアーレ嬢への気持ちを捨てて欲しいと思った事はない。」
言うとカヤテは頭を起こして首を振った。
「認めたくないと思う自分がいるが、今の自分があの時、グレンデーラから去るお前に旅に誘われたなら。私は紙一重でお前との旅を取ってしまうだろうと思うのだ。我ながら初志貫徹出来ず情けない。」
それを聞いてシンカはとても嬉しく感じた。実家よりも夫を取る。そう言われて喜ばない男は居ないだろう。
「天秤にかける必要は無いだろう。」
ミトリアーレを取ったとしてもシンカは自分の妻を助ける。
自分が捨てられたわけでは無いのだから。出来る範囲にはなるだろうが。
そんな思いを抱きながら静かにカヤテの瞳を見つめていると彼女が口を開いた。
「お前と居るのが楽しいのだ。」
心からそう思ってくれている事がシンカには伝わった。
「もう離れたく無い。お前と別れた時、私は自分の心がばらばらに砕けると思った。足がふらついて腰が砕けそうだった。そんな思いはもうしたく無い。」
「俺の義妹が危うくなったら2人で助けてやればいい。そう言う事だな?」
冗談めかして言うとカヤテは朗らかに笑った。
桜が半分以上散り、葉が芽生え萼が目立つ頃、一向は夜凪亭を後にした。
アケルエント王都ペルポリス。王城二階王女の執務室でダーラは使いの報告を受けていた。
「何ですって!?」
甲高い怒声を発する。
使いに出していた男は身を萎縮させた。
「報告にあった山中の家屋に・・」
「2度説明しろと言ったわけじゃ無いわよ!」
思わず立ち上がっていた姿勢を正し、再び椅子に座る。
この男が悪いわけでは無いのだ。
「で?手紙が何ですって?」
「は。家屋はもぬけの殻でしたが書が残されており、中には」
「寄越しなさい!」
ダーラは男が差し出そうとした書を引ったくってすぐさま広げた。
書から香の匂いが香った。香を焚き込めていたようだ。
つまらなさそうな表情の混血の男の顔を思い出しダーラは苛ついた。
書にはこう認められていた。
偉大なる西の覇王、その御息女であらせられる王女殿下の足元に、非才なる身で侍るはは分不相応と考え身を引かせて頂きたく御座います。
高貴な血の一雫たりとも流れぬ卑しい身なれど輝かしき聖なる欅の袂、陛下の王居に足を踏み入れたる事こそ避けるべき悪行と分かりし見聞は持ち合わせるもの也。
お伺い出来ぬ事、伏してお詫び申し上げ候。
ダーラは無言でその文を破り捨てた。
「で?」
使者の男は首を縮めて脂汗を流している。
「探してる訳よね?」
「は!」
「見つかったの?」
「いえ!」
「とっとと探して来なさい!」
怒鳴りつけると男は転がるように退室して行った。
ダーラは考える。
何故あの男、シンカが登城を避けるのか。
ディミトリ達の報告では権力に近づく事を厭うている可能性があるとの事だった。
加えれば自分が好かれていないのだろう。
文には体の良い理由で断りが入れられていたが、あの様な事は微塵も考えていないのだろう。
「非才なる?・・笑わせるわ!」
机を強く殴りつけた。
その文字は流麗で達筆。文法も高度な教育を受けている事が伺われる。
「この私が?・・この私が手玉に取られていると言うの?!」
肩を怒らせて千切った紙片を床に叩きつけた。
勇者エッカルトは依然としてダーラに打ち勝つ事が出来ていない。
打ち負けるどころか3人のエッカルトと余裕を持って戦える程だ。
シンカを探し出そうとしても、行き先が分かった上で4月も時間が掛かったのだ。行き先が不明ともなれば探し出す事は至難の技だ。
ダーラは確信する。
勇者はシンカだ。恐らくエッカルトとシンカは同日にペルポリスに訪れたのであろう。
先に訪れたのがエッカルトだった。
輝ける相貌のエッカルトを見て兵士が勘違いしたのだ。
詰まる所将の駒が手の中から零れ落ちたのだ。
であれば、次の手を考えなければならない。
勇者の供を選抜し龍退治を行わせる。
強者を集め、中央に派遣して龍を倒す。それしか無い。
例え死ぬとしてもダーラも向かわねば足りないだろう。
後継は幼いが弟がいる。
若葉が育ち森が濃緑に染まる頃、1人の女が苔色の笠と外套を身に纏い生まれ故郷を旅立った。
女を見送る者は居なかった。
焦茶の長髪に焦茶の瞳。シメーリア人だった。
眉が太く二重がくっきりとしており、同じシメーリア人の女の中でも異国情緒あふれる風貌をしている。
憂げにその視線は伏せられ、故郷を隠す竹林を1人歩み去っていく。
溜息が漏れ出る唇が妖艶だがそれを見とめる者は居ない。
女は1人だった。
シンカ一向は王女の使いを避けるために桜が散るや否や夜凪亭を去り、行きと同じ道程で楓山をアケルエント側へ降りた。
そこから進路を東に取り長峰山に向かった。丁度笠山の裏側に当たる位置からシルアが翼蛇龍の巣があると教えてくれた道筋を通り、スライ方面へ抜ける。
翼蛇龍は蛇と名が付くだけあり温度を感知する。
シンカ達は川に浸かり体温を下げる事で見つかる事なく縄張りを通り過ぎた。行きは川を下流へ向けて流れる事が出来なかったので出来ない通過の仕方だ。
平地へ出ると南東へ一直線に進路を取りラクサスに入国する。
まだ春の内にシンカはラクサスの王都ガジュマに到着した。
しかし何時もなら早速観光や飲酒へと走るシンカ達だが、今回は何時も主導権を握るシンカが緊張しており只管装備の確認を続けていた。
「コブシを出る前にも話したが。」
シンカは一度言葉を切る。
「齢の森に入る。ラクサス南の齢の森は浅層から近い位置に存在する。だがそれは危険度が減る理由にはならない。夜凪亭で作った耐塩基性装備全てを再度確認してくれ。指揮はナウラが取れ。」
ナウラが唾を嚥下した。
知識もある程度納め、魍魎との戦い方を学んだナウラにとって、これは最後の試練となる。
北西方面から入り齢の森を横断してサウリィ王国方面へ到達するのだ。
齢の森の定義とは植生が最終段階に到達し、砥木で森が構成され、強塩基性の障苔が蔓延る事である。
魍魎も独特の種が生息する。
ナウラが緊張している事が分かる。
2日後の早朝、5人は街を出た。
直ぐに森へ足を踏み入れて浅層を踏破した。中層からは強力な種や個体が増える為更に慎重さを要する。
2日で中層を踏破し更に奥へ進む。
深層に突入して初日、順調であった道程の雲行きが怪しくなった。
先頭を歩かせていたナウラが立ち止まり手信号を送る。
合図は停止、鬼、足跡、新。
新しい鬼の足跡を見つけた様だ。
全員が動きを止めた。
ナウラは屈んで足跡を調べる。
右手の指を立てて額に拳を当て、口を開閉させている。
恐らく喰鬼なのだろうが仕草が可愛らしく笑うのを堪えた。
ナウラは再度手信号で合図を出した。
獣、6、接近、火、雷、禁止、血、禁止。
火と雷を禁止したのは匂いを極力発生させない為だろう。
流血も同様だろうが難易度が高い。
シンカの耳にも獣6頭の足音が聞き取れている。
移動速度が速い。直接敵する。
大樹の影から姿を現したのは巨大な狼だった。
ナウラの従罔バラカが尻尾を巻いて縮こまった。
その体毛は黒々としており、金に目が輝いている。
黒狼の群れだ。
体高は7尺を超えていた。
ナウラが地に手を着いた。
大地が隆起した。
岩がせり上がって駆け来る黒狼を強打した。
2頭が宙に跳ね上げられて悲鳴を上げた。
直ぐ後ろから迫る4頭がナウラへと飛びかかった。
ユタがナウラの前に薄い水膜を張った。
それは黒狼の突撃を防げる厚さではない。
2頭がそのままナウラに突撃し、残る2頭に向けてシンカが手を握り合わせた。
口腔から大量の水流が流れ出て2頭を押し流した。
ナウラへと向かった2頭は、しかしナウラを噛みちぎる事はなかった。
水行 蜃水膜。
ユタが創り出した水の幕はナウラを屈折した位置に映し出していた。
狙いを違った2頭の内1頭の首にナウラは斧背を叩き付ける。
脊椎を破壊された狼は勢いのまま転がり動かなくなる。
残る1頭にシンカが手を伸ばす。
黒狼の心臓位置は把握している。
それを凍らせる事は容易い。
水行法 水噴で飛ばされた2頭が再度迫るが、加減されたヴィダードの月鎚で身体が破裂しないぎりぎりて全身を破砕され、苦しげな小さな断末魔と共に生き絶える。
残る2頭は初めに腹部を強打されて暫くのたうち回った後に漸く立ち上がるが、カヤテに剣の平で頭を殴られて頸椎を損傷して動きを止めた。
ナウラが直ぐに手信号で合図を出す。
この場からの移動だ。
その後は喰鬼の目から逃れて更に奥へと足を踏み入れた。
微かに届いていた光が全くなくなり黒山毛欅や笹葉小楢に混じって砥木が散見される様になる。
徐々に砥木の比率が高くなり、到頭障苔が繁茂し始めた。
シンカが最後に齢の森に訪れたのはカヤテと出会う少し前の話だ。
長く齢の森に潜り、漸く抜け出て直ぐに争う青鈴兵と鉄鬼の団員と遭遇したのだ。
血の匂いに騒つく森に戻るよりも女騎士の前に身を晒す道を選んだ所からシンカとカヤテの縁は始まった。
あの時の女騎士が今は妻として日々を共にしているのだ。
人生とは数奇なものである。
ナウラが手信号を出した。
停止、装備、交換。
齢の森用に装備を交換する。
酸腐鯰の腹皮を塩揉みし、滑りを落とし鞣した素材で設えた装備で全身を覆い、
目の部分のみ火渡蜥蜴の脱皮鱗を酒に漬ける事で透き通らせた物を嵌め込んで全身を耐塩基性の装備で覆い終わると再び進んでいった。
因みに子狼バラカにもナウラは装備を用意した。
自分の装備よりも時間を掛け、ヴィダードとユタに協力して貰いなんとか頭の装備も完成させていた。
障苔は踏むと水分を染み出させる。ただの水分ではない。強塩基性の粘液で、一度触れれば直ぐ様爛れ、1刻も付着させていれば肉は溶け落ちてしまう。
怪我を負えば擦り傷でも死に至る可能性がある。
幸い空気自体は害が無いが、飛沫が飛び散る可能性を考慮して全てを覆うのだ。
成る可く砥木の張り出した根を踏む様に歩き、更に奥を目指した。
一行の耳が異音を聞き取ったのは齢の森に入って2日目の事だった。
ナウラが手信号を出す。
獣、戦闘、向かう。
ナウラは敢えて魍魎の元に向かい戦うと言う。
半刻程進むと異音は更に大きくなり、その音源が視界に入った。
大きな熊だ。
身の丈12尺の芋熊が後脚で立ち上がり異様に長い爪で砥木を切りつけていた。
爪研ぎだ。
芋熊は暗緑色の薄暗い森の中でも全身がしとどに濡れそぼっているのが分かる。
あの獣はこの森で生きる為に強酸性の体液を分泌しているのだ。
ナウラが手信号を出す。
シンカ、雷。
闇の中でも目に経を集めていれば薄暗がり程度には視界が効く。
離れた位置で狂った様に腕を振るい続ける芋熊に視線をやる。
芋熊は齢の森の王者だ。
酸性の毛皮を纏う魍魎を敢えて捕食する魍魎など存在しない。
シンカは手を突き出して大気に経を放出する。
細く一直線に。
直後、その線に沿って稲妻が走る。
風行法 青綱
芋熊の濡れた体は雷を通し易い。
低出力で体毛や肉が焦げて匂いを発する前に心肺を停止させる。
断末魔すら上げさせずに巨体が地に崩れ落ちた。
排除を確認するとナウラは歩を進める。
芋熊が爪を研いでいた辺りを注視すると懐から小さな瓶を取り出して抉れた障苔に溜まる白い結晶を採取した。
この結晶は森渡りの秘薬だ。
水に解いて塗布すれば、皮膚、筋肉下の神経を再生する事が出来るのだ。
高濃度であれば脳をも再生出来る。生きていればだが。
耳に垂らせば痴呆症を軽減することもできる。
一部やらされている感が拭えない者もいたが、全員が採取するとまた先へ進んだ。
齢の森に入り10日。
より砥木は太く、障苔は厚くなる。睡眠は蟲の粉で砥木を削り取った隙間で取っていたが、日に日にその位置も高くなる。障苔が高い位置まで繁茂していくからだ。
その小さな隙間に5人で身を小さく縮めて体を休める。
11日目、前を行くナウラの肩をシンカは掴み、歩みを止めさせた。
手信号で意思を伝える。
合図は蟲。
ナウラは動きを止めた。
そのまま周囲に意識を割き、進行方向の一本の砥木に目を止めた。
其処には擬態している蝋灰蟷螂が潜んでいる。
両の鎌を折畳み身動ぎ1つせずに待ち構えている。
ナウラは手斧を取り出し投擲した。
蝋灰蟷螂の頭部に吸い込まれる様に向かい、斧は頭を2つに割って背後の砥木に当たって弾かれ、明後日の方向に飛んで行った。
それを拾う事なく更に先へ進んだ。
12日目の昼頃、前方が薄明るくなっている事に皆が気付いた。
しかしそれは陽の光では無い。
不気味に色を変え辺りを照らしている。
色紋蛞蝓。頭部を極彩色に光らせて他の魍魎を誘い、酸を吐き出して為留めて養分を吸収する蟲である。
近付くとその全容が明らかとなる。
赤青緑、その為ありとあらゆる色に頭部を輝かせる気色の悪い姿が露わとなった。
ナウラが粉末化した珪藻土を小袋ごと投げ付けると水分を座れて粘液を放出しながらのたうち回り、生き絶える。
齢の森はこうした変わった個体が多い。
そして14日目、一行は深い森の中で幻想的な光景を目の当たりにしていた。
鬼火蛍の群れに出くわしたのだ。
青白く尻を光らせて小指の先程度の蛍が無数に飛び交っていた。
覆いの中で皆が息を呑む音がシンカの耳にも聞き取れた。
辺りを青白く照らしながら至る所にしがみ付き、或いは飛び交っていた。
ユタが腕に止まった一匹をしげしげと見つめる。
バラカは興奮して飛び跳ねようとし、ナウラに強く諌められる。
たっぷり1刻も眺めて一行は再び先へ進んだ。
足元の障苔や砥木が疎らになり始めたのはそれから2日後の事だった。
装備を水行法で洗い流した後通常装備へと変更して更に南東を目指す。
足の向く先はシルアに聞いたルーザース西、霧笠山のウバド峰だ。
先ずは霧笠山山麓を目指す。
森を渡りながら数日歩き続けサウリィ王国を斜めに通過していると、時折樹木の枝葉の間から一際高く目立つ山の頂が伺えた。
霧笠山の一の峰。
先ずはその頂を目指す。
霧笠山の一の峰は大陸で最も標高が高く、晴れた日に遠くからでもその姿を望む事が出来る。
聳り立つ姿を男根に例え、子宝を望む者からの信仰も厚い。
実際山頂付近は常に薄っすらとした雲ががかかり、男根の先端に見える。
非常に険しく森渡りでも道を誤れば命を落とす。
そんな山をシンカが先頭になり登っていった。3日かけて登ると森は途切れ、膝丈も無い草花が殆どとなる。
「ヴィー。これがお前の髪留めの元だ。」
白く可憐な5枚の花弁を持つ花がぽつりぽつりと花開いている。
ヴィダードは近付き屈むとその花弁をそっと指先でなぞった。
「このお花、きっと株ごと持って行っても枯れてしまうのよねぇ?」
残念そうに言うヴィダードの頭を撫でた。
「森は高山には分布出来ない。知識では知っていましたが、いざ目にすると感慨深いものです。」
笠を外し夏でも寒さが残る風に髪を靡かせナウラが言う。
屈み、花に触れるヴィダードと白髪を風に靡かせるナウラの背後に広がる小花の構図でカヤテが急ぎ鉛筆で模写をしている。
完成した絵は是非シンカが貰いたいと思っていた。
花を踏まぬ様岩を跳ねながら尾根を渡る。
一の峰へと向かうがこれ以上登ることはない。
ヴィダードが欠伸を繰り返している。恐らく軽度の睡眠障害、高山病だろう。
標高を維持しつつ峰を回り込む。登山開始から5日後到頭一行は峰の南側へと回り込んだ。
遥か先にはムスクアナの砂漠が微かに見える。
それより手前は矢張り一面の緑だ。
小さく森がくり抜かれている辺りは王都のゴダリフだろう。
手前には山の峰がいくつか続いている。
「・・・あれかな?」
ユタが指差す。
森に覆われた谷はいくつもあるが、高さにして1里弱から見下ろせばその違いも目に見える。
その谷は山々を筒状に抉りながら形成されていた。
1つの山に至っては袂の3分の1が綺麗な半円状に抉られている。
何故崩れないのか理解ができない。
「あれがウバド峰ですね。」
シルアから聞いた通りだ。抉れた峰、ウバド峰。
一行は下山を始める。
1日後には可憐な高山植物が繁茂する地帯を抜ける。
樹々が茂り始める手前で花々を眺めながら心安らげる最期の休息を大きな水晶に背を預けながら取った。
「・・・あれ?」
少し歩みを進めるとユタが小さな声を出した。
シンカがユタの方を振り返るとユタが今まで休んでいた場所を振り返っていた。
「どうした?」
ユタは両目幼い仕草で擦り立ち尽くしている。
「・・・気の所為かな?今あそこの水晶の所にお爺さんが居たんだけど・・?」
「痴呆の類いでしょうか?」
首を傾げるナウラにユタがぷりぷりと怒った。
「もうっ!意地悪言うのやめてよ!もうナウラとお話ししないよっ!」
「・・・それは困ります。」
高山病の症例には幻覚も存在する。
この様な所に老人がいるわけは無い。
山を下り森へ入る。ウバド峰を見失わない様丁寧に進み、数日後その麓まで辿り着く。
峰の抉れた位置まで赴く。
間違い無くウルク山遺跡、エラム太湖遺跡と同様の材質であった。
「火の遺跡は火口の中、水の遺跡は湖の下でした。風の遺跡なら何処でしょう?空?」
一の峰から見下ろした限りでは遺跡の姿は見えなかった。
空に何かが浮いていると言うことも無いし高い塔が立っていた訳でもなかった。
だが周辺を調べていると半径10尺程の穴が壁面に開いており、そこから新鮮な空気が吹き出し、ひょうひょうと音を鳴らせていた。
其処が入り口に違いなかった。
壁面は今迄目にして来たウルサンギア人の遺跡と遜色ない。
横穴は短かった。15間程の長さで、両の入り口から入り込む明かりで薄暗い程度で済んでいた。
出口を抜けると同じ材質の黒い一本道がうねりながら続いていた。両脇は絶壁で、遥か上空に青い空が垣間見えるが、切り立った崖の合間に僅かに見えるだけで、まるで川が流れている様に感じられた。
どうやら風の通り道になっている様で、夏場にもかかわらず風で涼しく感じる程だ。
黒い一本道はうねりながら四半里程続き、正面の苔生した長大な絶壁の前で階段へと変わっていた。階段は上へと伸び、崖の中央に開いた大きな楕円形の穴へと続いている。穴からは一雫の涙の様に青く澄んだ空が見えていた。
「青いね。」
ユタの感想は短かったが、景色の特徴を端的に表していた。
三白眼だが穏やかな表情だ。
一行はその道を辿っていった。
シンカはウルサンギア人がどの様な人種だったのか、思いを馳せた。
自然を崇拝し、高度な技術を持ち、10000年以上前に今よりも優れた文明を築いていた。
これまで巡った遺跡も含めて自然を如何に敬っていたかを五感を通して感じる事が出来た。
あまりに壮大な天上への階段と天上の門。シンカにはそう感じられた。
道を進み階段へと辿り着く。一団が半尺程の緩やかな段が遥か高みの青い楕円の門まで続いている。
ゆっくりとシンカ達はそれを登っていった。
中間まで登り振り返ると自分達が潜り抜けて来た反対側の絶壁に楕円の陽だまりが出来ているのが見えた。
一の峰から見下ろした時はこのウバド峰に割れ目がある事も確認出来なかったし、位置的に楕円の穴を見ることも出来なかった。
オスカル達とサウリィ王国を通過した時にこの峰も垣間見たが、その時も穴は確認できていない。
半刻に1度休憩を挟みながら登り切る頃には夕刻になっていた。
青かった空は茜色に色を変えている。階段は組成の分からぬ艶やかな黒いものだったが、楕円の巨大な穴は天然の岩石である。
穴は恐らく高さが1と半町、幅は半町はある。
余りにも大きな穴だ。
階段を登りきり穴を呆然と見上げた。
強い風が通り抜けており外套の裾が激しく棚引く。
一同は笠が飛ばされない様鐔を抑えた。
穴は奥へ半町と少し続いていた。更に緩やかに上り坂となっており先に黒い艶やかな石造りの社が見えた。
坂を登り近付く。
それは崖から迫り出した細い橋の向こうに建っていた。
柱の様に細い歪な円柱状の断崖に質素な霊殿が鎮座し、こちらに向けてその間口を広げている。
霊殿は広いが中は矢張り質素であった。
他の遺跡もそうで有ったが、見るべきは内装ではなく自然だと言わんばかりに装飾が無い。
社の中は円形で、天井は外縁の24本の太い柱で支えられている。
壁は無く風が吹き込んでいる。
天井は半球状に膨らんでいるが中央に穴が空いており、社の中心部から立ち上った風の渦巻きが吹き抜けている。
「・・シンカ、ナウラ。・・・ここ、すごく居心地悪いよ?・・・また10日もいるの?」
遺跡に全く興味が無いユタが拒絶感を表した。
確かに常に風に煽られており居心地は悪い。
しかし2人とも黙殺した。
「これで3箇所目です。遺跡を全て調べ書を残す。私とシンカの共同著書です。」
取り出した手帳の背表紙を撫でながら大きく息を吸った。
「共同・・・?ヴィーも共同よぉ!」
「貴女は何もしていないではありませんか。そもそも私達が何をしようとしているのか分かっているのですか?」
ナウラが苛立ちながらヴィダードを諭す。
「子作り?」
「阿保ですか。ヴィーはユタと違い興味が無いだけだと思っていました。残念です。」
「・・?」
荷を解いて塩漬け肉を炒め始めていたユタが惚けた顔で振り返った。
「呼んでいません。」
ぴしゃりと言い放つが特に気分を害した風もなく目の前で良い匂いを出し始めた豚の塩漬け肉の厚切りをシンカは一枚摘む。
「あっ!僕のだよ!」
食い意地が相変わらず張っている。
「お前に里の蔵書館を見せてやりたいな。お前でも死ぬ迄に全て読み切ることは出来んだろう。だからこそ簡易的に纏めて教えるのだがな。」
「私と貴方の書がそこに加わるのが今から楽しみです。」
「俺はもう一冊納めるつもりだぞ。」
シンカはにやりと笑った。
「初耳です。何について書くのでしょうか?」
興味津々という様子で顔を近づけて来た。
その顔を離そうと背中に張り付いたヴィダードが額を指で押していた。
「お前達2人についてだ。」
「?」
「ヴィーのこと調べるのねぇ。こんな所で服を脱げと仰るのぉ?恥ずかしいわぁ。」
仕様もないことをいうヴィダードは捨て置く。
「お導きについてだ。この事象について調べ纏められる者は俺しか居まい!」
旅装を解いたカヤテはバラカを回ぐりながら自分の馬鈴薯の芽を担当でくり抜いてからユタの起こした火にかざしている。
シンカは無視されて背中で暴れるヴィダードをあやしながら周囲に目を向けた。
サウリィ王国やムスクアナの広大な砂漠が見渡せる素晴らしい景色だった。
柱の合間から吹き込んだ風が中心で蜷局を巻いて、向こう側を揺らめかせている。
日が時期に暮れようと、茜色の空が微かに見える白山脈の白い峰々の向うに沈んで行くところまで見渡せた。
「僕夜凪亭に戻りたい。目がしばしばして来た。」
風に煽られて付けた火が消えユタが苛ついている。
シンカとナウラは皆が暴発する前に調査を終えてしまおうと急ぎ取り掛かった。
調査には9日掛かった。2人で記録を取り、調査を進めた。
その間ユタとカヤテは何方が先に階段を降りて再び上がってこれるか日に一度競争をしていた。
この競争は幾分かユタに有利だったのか、全て彼女に軍配が上がり、遺跡探索が終了した後に戻るラクサスの王都ガジュマでカヤテはユタに短剣をふた振り買い与える事となっていた。
ヴィダードは相変わらずでずっとシンカに張り付いていた。シンカも慣れたもので、背に張り付かれようが腹に抱き着かれようが余り気にならなくなっていた。
5日後全ての解読を終えると5人で階段の一番上に腰掛け、楕円形の陽だまりを見詰めながら話し始めた。
「シンカは常々大陸の西の端から東の端、これは私の里の事ですが。皆が同じ言語を扱う事に疑問を持っていました。」
話し始めはナウラだった。
「ダゴタの民もミンダナの民も、我等アガド人も南のネラノ人も、ドルソ人もモールイド人もウバルド人も確かに同じ言葉を操っているが、それの何が疑問なのだ?」
カヤテには未だその違和感が分からないらしい。
「我々人類は太古からそのままの姿だった訳ではない。里の物好きが発掘した化石の中に道具を使う毛だらけの男の物がある。彼は人は猿から進化したと仮定した。ならばその化石は人と猿の間という事になる。彼はそれを類人猿と名付けた。」
正確には高い知性を持つ猿等も類人猿と類されるがこの歳それはいい。
「人と猿はその骨盤の形が非常に似通っているそうです。そういった化石からシンカの里の人達は人は猿が進化したものと断じたそうです。」
「猿が進化して人となる。では竜が進化してミンダナの民となっても何ら不思議はない。白山脈の東で彼等は人間の干渉を受けず独自の生態系を築いたと考えれば不思議な事はない。」
「ヴィーはどうなのぉ?何から進化したのかしらぁ?」
「恐らく別の類人猿から進化したのだろうな。ナウラとヴィーの骨格は似ている。肩甲骨の形状、肋骨の湾曲、骨盤の腸骨の張り出し。人とは些か異なる。」
ユタがナウラの筒履きをめくろうとして手を叩かれた。
「魍魎達を見ていれば他種同士が意思疎通を図る事が無い事実は一目瞭然だ。なのに何故ミンダナの民も川の民達もジャバールの民もシャハラの民も言葉が通じるのだ?不自然ではないか。」
シンカの言葉にカヤテが頷く。
「確かに。言われてみればそうだな。」
その横でユタは指の甘皮を剥いていた。
「この遺跡の言葉はアガド人によって残されたものでした。大きな目の民に彼等は言葉と文明を与えられたのです。太古のアガド人はウルサンギア人を別の呼び方でも呼んでいました。大イナル父と。」
「ふむ。言葉を与えた、な。確かに親が子に言葉を教える様だ。」
ユタが短剣で削った爪の欠片がシンカの顔に飛来し頬に当たって地に落ちた。
「そして彼等はアガド人だけでは無く他の人種や精霊の民の容姿を持つもの達を集めて教育を施していたと思われる記載があった。彼等が我々大陸に生ける全ての知的生物に言葉と文化を与えたのだ。」
シンカは興奮していた。人類とその文化の格が異なりすぎるのだ。
人間が言葉も無く呻き裸で這い回っている頃、彼等は既に言葉と文化を持ち、それを与える事すらして見せたのだ。
「成る程。そのお陰で私はナウラやヴィーと話せているのだな!」
カヤテに言われてナウラは無表情のまま眉をなぞった。
照れているらしい。
「ですが、ウルサンギア人が何故その様な事をしたのかが分かりません。今迄の遺跡全てに共通していますが、この床や柱の文字は彼等から駅を受けた我々の祖先の言葉であって、ウルサンギア人の言葉では無いのです。大陸の皆に言葉を与え、彼等は何を求めたのでしょう?」
「きっとみんなを仲良くさせる為だよ。見た目が違って言葉も違ったら怖いもんね?」
穏やかな口調でユタが述べる。
本当にそれが理由ならとても夢がある。
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