血染めの白亜

それは昼下がりの事であった。まだ寒々しい春の中、その日は日差しが心地よく、綻びかけた花の芽から柔らかい芳香が漂っていた。


カヤテ・グレンデルの処刑が行われる2日前の事であった。


人々は家から足を踏み出して往来は賑やかで、子は街路を駆け回り、大人はそれぞれの仕事に精を出していた。

ケツァルの街は穏やかで、犯罪の気配など微塵も感じられない正午の事。


始めに異変に気付いたのは王城への架け橋で欠伸を噛み殺しながら見張りを行なっていた衛兵であった。


「お?」


衛兵とは反対側の袂に黒い人影が立っていた。


「おい、あれ・・・」


堀の枯れて黒ずんだ蓮の葉を眺めていた同僚に声をかけた。


人影は異様な風体であった。

全身を黒い衣類で覆い、顔まで隠した人影だ。

人種も国籍も判別できないが、骨格で男である事だけ分かった。


顔には狐を模した黒い面を付けていたが、目の部分が閉じた造形で遠目では瞳の色も分からない。

狐面の男は無手でぶらりと佇んでいた。


気負いのない立ち姿であったが、衛兵2人が受け取った印象は異なった。

圧倒的な殺意。それが黒い霧となって立ち上がるかの如き幻影を見た。


それ程までの悪意が狐面の男から湧き上がっていた。

衛兵2人は仰け反り、片足を引いた。

気圧されていた。

呼吸すら忘れていた。


「・・・っ何奴!」


思い出した様に槍を構える。

狐面の男は真っ直ぐに異様な雰囲気を纏わせつつ城へ向かい歩み寄ってきた。


「そこの者!止まれっ」


始めに気づいた衛兵が槍を向け声を荒げると、男は首を傾げた。


「1つ質問なのだが。」


徐に声を発する。ひどく緩やかな声は小春日和の温かな空気によく馴染んだ。


「グレンデルの女騎士の処刑をどう思う?」


なぜそんな事を、と始めは質問の意味をよく認識出来ないでいた。

疑問に固まった1人目の衛兵の横で2人目が口を開いた。


「売国奴の事か。穢らわしい女だぜ。死んで当然だ!」


槍を握りながら興奮して話す2人目の衛兵に対し、1人目の衛兵は無言を貫いた。

男はグレンデーラに滞在した事があった。何も知らないが、カヤテ・グレンデルがその様な行いをするとは思えなかった。名高いグレンデル一族の副将が。


風が吹いた。

ふと気になり隣を見ると、カヤテを悪し様に罵った同僚の体が腰上で斜めに分断され、上半身が地にずれ落ちた所だった。

続き崩れ落ちた下半身から腸が零れ出る。


「・・・は?」


狐面の男は無手だ。経を練った気配も無かった。


「ま、まさか・・剣も振るわずに、雷光石火を!?」


衛兵は千剣流を身につけていた。位を得るほどの腕では無かったが、幾度か高弟の技を目にした事があった。

他の流派の技を目にしたことはないが、それが千剣流礼位を得る為に必要な技である雷光石火である事はなんと無しに分かった。


そしてすぐ様衛兵は側頭部を殴打され意識を失った。

抵抗の隙は微塵も与えられなかった。


狐面の男、シンカは確たる足取りで歩を進めた。

王城に向け急ぎもせず歩んでいった。


架け橋から王城までの間に衛兵の詰所が存在する。

常時10名が待機している。

怪しげな黒づくめの男に始めに気付いたのは衛兵となって5年目の若い男だった。


「おい」


短刀で爪を切っていた後輩を小突いた。


「あっ!やめて下さいよ!危ないじゃないですか!」


「うるさいっ!みろ!」


立ち上がり腰の剣に手を掛け詰所を出た。

剣幕に驚いた後輩はぶつくさ文句を言いながらも立ち上がり後に続いた。

衛兵2人の目線の先には悠々と歩く狐面の人影があった。


「止まれっ!怪しい奴め!」


男の威嚇の声を聴き付けて駐在していた残る8名が駆け出た。

王城への道を10人で塞ぐ形となる。

狐面の男は歩みを止めず、衛兵達の目前までやって来た。


「愚かなる盲目たる羊かな。汝等は自らの目で見ることを辞めた家畜と変らぬ。」


狐面の下からくぐもった声が聞こえる。衛兵達を馬鹿にした発言であった。


「何かと思えば馬鹿にして!この不審者め!問答無用!」


始めに気付いた若い衛兵が斬りかかった。

振り降ろされた刃を防ごうと、狐面の男の腕が掲げられた。

その腕は無惨に斬り捨てられると周りの者は信じて疑わなかった。


だがそうはならなかった。

掲げた右手で男は刃をなやしたのだ。


「・・は?」


男はそのまま素早く両手を3回動かした。

斬りかかった兵士と、彼に続いて詰所を出た兵士が崩れ落ちた。


「なんだ!?」


「此奴!何も持ってないのに!?」


若い衛兵達が武器に手を掛け騒ぐ中、中年の中隊長は額にじんわりと汗を掻き油断なく狐面の男を見据えていた。


「お前ら、油断するな。この男、無手で王剣流の奥義を使ったぞ。応剣と三突きだ。応援を呼べ!」


隣に立つ部下を押し増援を呼ばせようとする。

駆け出そうとする部下だったが、一歩進んだ後に勢いのままうつ伏せに倒れた。

頸から皮膚を突き破って赤い棘が生えていた。


「行法だ!」


「このっ」


2人が男に向け躍りかかる。振られた2つの刃は男の肘辺りに向かうと力の向きを変えられて逸らされ、手先で喉元を抉られ地に崩れ落ちた。

暫し喉元を抑えながら憐れな呻き声を上げのたうち回っていたが、その内に動かなくなった。


「無闇に攻撃を仕掛けるな!・・お前、何が目的だ。」


「カヤテ・グレンデルの救済。憐れな女だ。国の為、民の為に尽くし、王家に裏切られた憐れな女だ。無自覚に守られて来た民も兵も、己の権威しか求めぬ輩に陥れられた彼女を何も知ろうとはせず罪人と呼ぶ。」


「此奴、売国奴のなかま」


罵った男の首が飛んだ。


「陛下が裁かれたのだ!我等には逆らえぬ!」


「誰が裁いたかなど関係無い。俺にはな。」


2人が斬り伏せられ、2人が意識を奪われるまでにそう時間は掛からなかった。

血濡れのままシンカは歩を進めた。王城を守る門扉が近付く。

門前に4人の衛兵、壁の上にも2人が立っていた。

壁の上に立っていた衛兵は近付いてくる怪しげな男を呑気に見つめていた。

仮に男が良からぬことを企む人間であったとして、1人で何ができるものか。

そう考えていた。


4人を立ち所に殺害する迄は。


慌てて矢を番えようと矢筒に手を伸ばすと、右手の先が失われていた。

隣に立つ同僚は首から赤い棘を生やして事切れている。

同じ殺され方をするのに瞬きの隙も無かった。


シンカは門に手を当てると土行の技を行使した。

扉を開けること無く穴を開け、悠々と壁を通過しそのまま王城の門を目指した。

白亜の城の重厚で巨大な鉄扉の前には幅の広い階段があり、16人の衛兵が直立していた。

彼らが不審者に気付くのにそう時間は掛からなかった。

顎を突き出して槍斧を左に持ち石突きを石の舗装についていたが、不審者が目に入るや否や、全員が瞬時に槍斧を構えた。


「そこの者!直ちに止まれ!」


1人が声を張り上げた。

狐面の男の衣類は何かの粘液でぬらぬら輝いていた。

黒い衣類にこびり付いたそれは本来の色が分からなかったが、男が歩んだ後には赤い足跡が残っていた。

怪我をしているのか、返り血かは分からないが、堂々たる歩みから味方を殺し此処までやって来たことは分かった。


1人が腰に手を伸ばした。

彼は連絡係を兼ねており、腰に角笛を下げていた。

それを吹き鳴らせば百を超える増援が駆けつける。


過去、この角笛がケツァルで吹かれたことはない。

クサビナは強大で比類する国家は有史の千年一度として生まれたことがなかった。

無理に他国を侵攻せず、良政を施行して民が奮起する事もなかった。


吹かれぬ角笛はその象徴でもあった。


それに、手を掛けるか逡巡の判断をしてしまったのだ。


青い槍が突き刺さった。


破裂音とともに角笛持ちは吹き飛んだ。

風行の一角により角笛持ちは心の臓を止め死ぬ事となった。

鎧と石床に挟まれて角笛は吹かれる事なくその役目を失った。


潰れて八つの意味をなさない塊に別れたのだ。


15人の衛兵は慎重に間合いを詰めた。

相手は行兵。法を行おうとすればすぐ様突き殺すべく油断なく槍斧を構えていた。

問答する気も無かった。


「愚かな王に愚かな家臣、愚かな兵。その血肉は怠惰と強欲で出来ている。己らの過ちを忘れ、同じ所業を繰り返す。その手足は血に塗れ、無為の犠牲に成り立つ砂の城を築き、犠牲から目を逸らし望ましい歴史を騙る。」


「・・気狂いか?」


「相手にするなっ!」


「愚かな人間共が欺瞞に満ちた歴史を残そうと言うのなら、偽り全てを燃やし尽くし、隠された闇をその業火で照らしてやろう。」


1人が突きを繰り出した。

狐面の男は掌で逸らし、そこから白く小さな稲妻を走らせた。

槍斧を伝ったそれは持ち主を痙攣させる。

爪や髪が焼ける嫌な臭いが漂った。


「手練れだ!囲め!」


囲もうとするが、次の瞬間正面の数名が吹き飛び石床の上に転がった。


「戦陣突破だと!」


「此奴剣を持っていないのに!」


階段の上部に移動した狐面の男に3人が息を合わせて攻撃した。

男は槍斧が迫る直前に背後へ飛び左手を振るった。


「藤壁」

男の手が通った空間から垂れ下がる藤の花の様に稲妻が走り、柵の様に進路を塞ぐ。

3人は勢い余ってそれに突っ込み、身体を激しく痙攣させた後に耳から血を流して命を失った。


戦陣突破で吹き飛ばされた4名は2人が気絶していたが、残りは起き上がろうとしている。

そこへ4条の閃光が放たれた。

風行一角を分岐させた行法で起き上がろうとしていた2名も再び地に倒れ臥す。


「は、半数以上もこの一瞬で・・」


「くそ!増援を呼べ!」


背を向け駆け出した兵に向け一角が突き刺さる。

勢いのまま4間も吹き飛び再び起き上がることはなかった。


「囲め!城に乗り込まれれば近衛兵の名折れだ!」


「何としてでも此処で食い止める!」

残る6人で狐面の男を囲むべく包囲を縮める衛兵だったが、突如男は向かって左に動く。応じようとした右翼の1人は間に合わず懐に入られた。

男の拳が甲冑の腹部に軽く当てがわれた。

とん、と。

瞬間兵士の背が爆散した。


「ぐあああああああっ」


絶叫をあげて倒れた兵がのたうちまわる。


「な、何が・・?」


「駄目だ!俺たちの手に負えないぞ!」


「行法か・・?」


「なんなんだ!?何が目的なんだ!?」


「糞っ糞っ!死にたくねぇ!がっ」


1人、槍の穂先を捉えられ軽々と地に叩き付けられる。

その背を突こうとした1人が素手による鈴剣流奥義、背切りで防がれたあげく、目で認識出来ぬ一撃を顔面に突き込まれて派手な音を立てて石床に転がった。


「逆戸切りかっ!?」


「鈴剣流の仁位か!?」


「嫌だ・・死にたくねぇ・・母さん・・」


「彼女も、死にたくは無いだろうな。」


男が全身を返り血でてらてらと輝かせながら呟く。


「か、彼女?」


「なんだ?それが目的か?」


「母さん・・母さん・・・」


「お前らにカヤテは殺させはしない。俺の前に立ち塞がる全ての障害を怒りの業火で滅却してくれる。盲目の屑どもめが。」


「あ、足が・・」


「なんだ?足が動かないっ!」


仲間の血を踏んでいた2人が騒ぐ。

血溜まりが凍り付き、赤い氷が足を伝って這い上がっていた。


「ま、待て!辞めろ!」


2人の身体は全て赤い氷に覆われ完全に動かなくなった。


「母さん母さん、怖い、助けて・・」


狐面の男は蹲る兵を無視して扉に手をかけた。


昼前の慌しい城内でことは起きた。


城に入りすぐの広間では警備を行う衛兵の他侍女達が何某かの仕事で引っ切り無しに動き回っていた。


常と変わらぬ1日は突如として扉の開く軋みの音と共に終わった。


扉に一番近かった侍女の悲鳴が広間に響き渡った。

黒尽くめの血濡れた人影がぬらりと現れたからだ。


広間に居た侍女や貴族達は蜘蛛の子を散らす様に悲鳴を上げて散り散りに逃げ去って行き、代わりに兵士達が槍を手に集まる。


中には腕に覚えがある貴族が腰の剣に手を掛けてもいる。


「出会え!不届きものだ!」


1人が大声を出した。

その間、狐面の男はじっと佇んでいた。

ちがう。


「此奴!経を練っているぞ!行兵だ!」


口に出した時には手遅れだった。

男は大きく息を吸い込み、背を仰け反らせた。

手を胸の前で組む。


「水行だ!来るぞ!」


何人かが盾を構えて貴族を庇う。

その瞬間男が体を前傾にし、息を噴き出した。

水飛沫が飛ぶ。

細い一条の水流が右から左に駆け抜けた。


無闇に体を晒していた兵士達は上半身と下半身を断たれて命を落とした。

30に近い兵が一挙に退けられた。

盾を構えた兵士は一命を取り留めたが、盾は鋭利な断面を見せて二つになり、鎧も一文字に鋭く抉れ、胸から血を流して蹲った。


「こ、この様な!下郎!王城でこの様な仕業!ただでは済まぬぞ!」


「下賎な輩め、この私が成敗してくれる!」


「行兵など接近してしまえばこちらのものよ!」


3人の貴族が口々に怒声を上げる。

彼らを守る兵は最早居ないが威丈高な態度は消えていない。

剣を構え1人が駆け寄る。

振るわれた剣に対し、男は槍斧の穂先を腕に合わせた。


「ど、ああああああっ!」


自らの力で腕に刃を突き立てた形となった貴族の男は奇妙な悲鳴を上げた。

狐面の男はそのまま感雷を行なって相手を槍斧ごと打ち捨てた。


「装いのみを整えた醜く歪んだ魍魎め。その心は蟲より歪、その在り方は鬼より酷い。己の望みの為ならば親をも売る魍魎にすら劣る外道供よ。俺はその手を切り落とし、命すらをも取り零す木偶へと変えてやろう。」


「なんだ此奴は。気狂いか。」


「此れではどこの手の者か聞くこ」


貴族の男の頭部が縦に割れた。


「割波だと?!無手で千剣流を!?」


残る貴族も直ぐに命を断たれた。



赤鋼軍の副将であるセオドール・サフォークは常と変わらぬ1日を正午まで送っていた。

軍の人事関連の書類確認に、事務担当から上がって来た兵糧状況の確認を終え、そろそろ昼食を持たせようとケツァル王城1階の専用執務室で羽筆片手に窓から流れ込む暖かな風を感じていた。


セオドールは30歳手前の伯爵家次男であった。跡取りは長男がいた為幼少の頃より剣の腕を磨き、武功で立身するべく鍛えて来た。


セオドールは頭の回転が速く、前線で指揮を取りながら剣を振るう内に今の立場まで出世することになった。


子爵位を得て小さいながらも領地を得て、まだ見ぬ子供に受け継ぐものも出来た。

苦労はあったが、順風満帆な生を過ごしていた。


この時までは。


手に持っていた羽筆を筆立てに置くと慌しい足音が扉越しに迫って来た。

貴族同士の諍いでも起こったかと考えながら席を立った。


「セオドール様ぁ!」


部下の1人、アベルがセオドールの返事も待たず、扉を蹴破る様に転がり込んで来た。


「おいおい、嫌な予感がするぞ?何事だ。」


肩で息をする若手に声をかけた。

アベルは息を整える間も惜しみ、途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「ぞ、賊が城に押し入り暴れております!」


「なにぃ?!このケツァルにか!?大した度胸だが無謀もいいところだな。で、貴族が怪我でもしたか?」


「怪我どころか!貴族の血族が既に7名死亡!兵士に至っては100を超えます!どうか!我々の手には負い兼ねます!」


「なにぃっ!?俄かには信じ難いぞ!どれだけの規模の敵なんだ!」


「それが・・・」


言い淀むアベルに違和感を覚えた。


「なんだ?」


「それが、たった1人の敵なのです!」


「お前、俺を揶揄っているのか?」


「違います!お願いです!もう3階まで進まれています!玉座の間まで持ちません!」


あまりの剣幕にセオドールはたじろぎ、鵜呑みにはできないもののアベルに付いて広間へ急いだ。

広間はまさに血の海だった。


「これは・・・酷い・・・」


五体満足の死体は無い。それが城の入り口からまるで道しるべの様に上の階に続いていた。


「これを1人で?徳位か?いや、人間技では無い。まるで鬼に襲われた様だ。」


呟いても疑問は解決されない。

脇で嘔吐するアベルを放置して階段を駆け上がった。


2階、3階と階を上がると闘いの気配が漂い始める。廊下を死体を頼りに進むと、玉座の間で戦闘を行う衛兵達と、全身濡れそぼった黒づくめの男が争っていた。


驚いた事にアベルの言う通り本当に1人だった。

赤鋼軍の兵士達が国王と第一王子の壁となり、立ち塞がっている。


数は50程度。これまでの事を考えれば時間稼ぎにしかならないだろう。


「そこのお方!」


玉座の間に飛び込み声を張り上げた。

国王と第一王子が2人とも弑されれば国が傾く。それだけは避けなければならなかった。


「何故此処に参られた!理由を聞きたい!」


刺激しない様言葉を選び問いかけた。

半ば駄目元ではあったが、果たして狐面の男は振り返った。


「お前ら!大人しくしていろ!・・そこの方。宜しいか。」


第一王子が何か喚いていたが無視を決め込んだ。


「カヤテ・グレンデルの身柄を引き取りに来た。」


「グレンデル一族の者か?」


「否。あの者達は民と一族の安寧を天秤にかけ、彼女を見限った。こちらの身上を探ろうとしても無駄だ。何の痕跡も出ない。」


狂人の類いかと考えていたセオドールの読みは外れた。これ程の闘いをしておきながら、狐面の男の声はひどく冷静で、セオドールは何故か釣りを嗜んでいる気分に陥った。


「では何故カヤテを?」


「彼女が無実であるからだ。」


「・・だとしても、貴方の行為は残虐にすぎるんじゃ無いか?」


「俺にはそうは思えんな。彼女の努力でどれ程の民が救われたか。その数に比べれば百や二百の兵の死など瑣末なものだ。」


カヤテ・グレンデルの身柄一つで事が解決するなら安い犠牲なのでは無いかと考える自分は政治に疎すぎるのだろうかとセオドールは考える。


「それは流石に暴論だろう?」


「誰がどう思おうが俺には関係ない。俺にとって、彼女の命は数百の兵よりも貴い。そもそも赤鋼軍はアゾクでカヤテ・グレンデルに救われたのではないのか?その赤鋼軍の兵士は此処で何をしている?何故彼女を助けない?」


セオドールは第一王子の元でロボク制圧に参加していた。

アゾクでの第一王子とカヤテとの間で取り交わされた約束を知っている。


カヤテの事をセオドールは政争に敗れた哀れな一貴族としてしか見ていなかった。

思い返せば彼女は自分の恩人ですらあった。

はて、何故自分はそんな事を忘れていたのだろうと考えた。


「人は自身に都合の悪い出来事を忘れ去る。他人を都合よく利用し、不都合があれば葬って来た。それがお前達醜き者共の歴史だ。我等は決して忘れない。ケツァルに住まう醜き者共は我等一族を物として利用し、虐げて来た。我等は知識を継承される折に必ずそれを教わる。お前達が俺に人の道を説くのなら、俺はこう返そう。鏡を見よ。」


セオドールには何の事か分からなかった。国王も表情に疑問を浮かべている。

しかし男が人間か、或いはクサビナに対して深い憎しみを抱いている事は読み取れた。

亜人か?桁違いの武力の説明も付く。人の国にこれ程の力を持つ武人はあまり存在していない。


「しかし、カヤテは国を売った。そう言う事になっている。」


男の正体を推察しつつ、セオドールは時間を稼ぐために言葉を紡ぐ。


「決めたのは勇敢な兵士達の後ろで縮こまっているそこの2人だ。だから俺は此処に来た。」


「まて。判決を覆すには証拠が必要だぞ。カヤテ・グレンデルがマニトゥー大使を殺害していないという証拠はあるのか?」


セオドールが狐面の男を落ち着かせるために頭を回転させ、言葉を選んでいると男は暗くくつくつと笑い始めた。


「何故そんなものが必要なのだ。面白い事を言うな。そんなもの、そこのでっち上げた本人に白状させれば良いのだ。」


セオドールは戦慄した。

この男はそれだけの為に王城に討ち入り、城を守る兵士達を打ち倒し、今や王族に後一歩で手が届くところまで到達しているのだ。


力だ。圧倒的で揺るぎない力。


どうやらこの国、いや王族に対して恨みすらも抱いている事に間違いは無いようだ。


額に脂汗が浮く。

安易に武力行使を行えば血の海をまた一つ作るだけだと自制する。


信じがたい事だが、この男は此処にいる全ての人間を相手取って尚、無傷で窮地を脱する事が出来る自信があるのだ。


「カヤテを釈放すれば手を引くのか?」


「なっ!それは赦さぬぞ!」


答えたのは男ではなく第一王子のエメリックであった。


「ほう、やはりお前だったか。分かったぞ。お前はロボク侵攻で力を見せつけたカヤテを恐れたのだな。彼女の機転で敵の罠から難を逃れ、命を救われ、手柄を譲られたにも関わらずそれが明るみに出る事を恐れ抹殺を考えた。世間や父王に知られれば王位の継承に影響をきたす。」


「出鱈目だ!陛下!私は決してその様な!」


歯を剥きエメリックは叫んだ。


「脈が激しくなった。顔色もわずかに白んだぞ。図星か。」


国王はじっと1点を見つめていた。

考え事をしているのだろう。


「まあいい。では教えて欲しい。エメリックよ。お前の指示でアゾクに部隊が侵入したならば、どうやって砦に侵入したのだ?」


「そんな事か。抜け道み見つけそこから侵入させたのだ。」


「その抜け道は何処に?」


「そんなもの私は知らない。抜け道を探させ、見つかった。細かい場所は知らん。」


「案内人は?」


「斥候だ。」


「ならばその斥候を呼べば分かるな?」


「・・さあ、名前までは私は把握していないからな。戦闘で死んだ可能性もある。」


「成る程。なら、別の質問をしよう。敵将サムフィン・ギネスを打ち取ったのは誰だ?」


「・・・」


「おかしいな。敵将を打ち取った者が見当たらない。賞賛されるべき武功だ。教えてやろう。彼を打ち取ったのは、カヤテ・グレンデルの副官、ウルクという千剣流剣士だ。」


「・・・・」


「お前は自らの名声を高める為に、代替の者を立てなかった。瑣末で愚かで下らない失敗だ。」


「・・・実際誰がやろうと大将は私だ。兵も民も私についてくる。」


「そうかもしれないな。・・だが、グレンデルは付いてくるだろうか?」


「従わせる。」


エメリックが言うと男は実に軽やかに笑った。


「知らないのか。次期当主ミトリアーレ・グレンデルはカヤテを実の姉の様に慕っているのだぞ?」


「なに?」


エメリックのだからどうした、という言葉を遮り口を開いた者がいた。国王だった。


「どう言う事だエメリック。」


「陛下。その様な事実、瑣末な問題では?」


「瑣末?何を持ってして瑣末と断じるのだ?グレンデル次期当主が慕う者に濡れ衣を着せる事が瑣末だとお前は考えるのか?・・・お前はその程度の考えしか持たぬ愚か者だったか。」


「お、お待ちください!どういう事ですか!私は!」


「分からぬか。そこの狐男。教えてやれ。」


男は楽しそうに笑っている。


「お前が国王になり、またミトリアーレがグレンデルを継いだ時、グレンデルはお前の寝首をかこうとするだろう。しなくとも、その可能性は常に潜在し続ける。グレンデルは国王のお前に対し協力的な態度を見せるだろうか?二公の信頼無き国王を諸侯が軽んじるは必定。内乱にまで発展しなければいいなぁ?」


「馬鹿な!唯の可能性の話ではないか!」


「まだ分からぬか愚か者が!可能性がある事が問題なのだ!」


国王が怒声を上げた。

顔が赤らみ表情険しく、見るだけで怒り心頭である事がわかる。


対し第一王子は父王の横で必死の形相で慌てふためいていた。


「此れだけの大きさを持ち、此れだけの国力を持った国の舵取りがいかに難しいか、お前は学んでこなかったのか?グレンデルを従わせる?一体どの様に従わせるというのだ!」


「勅命にて諸侯にご」


「質実剛健の一族を相手に一体どれ程の領主が参戦するというのだ。兵を挙げた時点で内乱であろうが・・。何故言っても分からぬのだ。ロドルファスなら言わずとも分かるのであろうな。」


「ま、まさか父上!?」


「手柄の横取りなどどうでも良い。儂はそれも、為政者の必要な手腕の一つと考えている。政敵を追い落とすのも良い。必要な事もあるだろう。だが、建国以前から王家の忠臣であり、朋友でもあったグレンデルに謀叛の濡れ衣を着せるなど。真実であったのなら必要な処置であった。だが濡れ衣を・・お前を信じ沙汰を下した儂の顔にまで泥を塗りおって・・」


「父上・・私は・・国の為にと」


「聞きとうない。国の為?己の為の間違いであろうが。」


セオドールはふと見渡し気付いた。

狐面の男が居ない。


「き、狐男は何処だ!?」


見回すが玉座の間に姿は無い。


「何処だ?!探せ!?陛下をお守りしろ!」


セオドールは慌て玉座の間を出た。


無闇に駆けずり回っても徒労に終わる可能性がある。

彼の目的はカヤテの救済。ならば目的は地下牢である。

貴族を拘留するのであれば本来はまともな部屋に軟禁を行う。


しかしエメリックはカヤテがグレンデル一族を除名されたのをいい事に、地下の薄汚い牢に拘束した。


通路に行きにはなかった死体が増えている。恐らく居場所を突き止めただろう。


階段を下り、廊下をかけた。背後を幾人かの兵士が付き従う。

一階の広間にもどり、地下牢へと続く階段に辿り着いた。

鎧の擦れ合う音と共に赤鋼軍の兵士が30名程馳せ参じる。


「セオドール様、突入しますか?」


「待て。不用意に突っ込めばやられるぞ。それに奴の目的は女だけだ。攻撃しなければ命を取られることは無いはずだ。」


だが、このままでは赤鋼軍の威信に関わる。

たった1人の賊相手にこれ程の醜態を晒せば失脚も十分考えられる。


「武器を構えていろ!だが絶対に此方から攻撃は仕掛けるな!」


地下へ続く階段を扇状に囲み剣を構える。

固唾を飲んで張り詰めながら動きがあるのを待った。

最早鎧の内に来ている肌着は汗でしとどに濡れそぼっている。


軈て階下から足音が聞こえてきた。


赤鋼兵達が一斉に剣を構えなおし、鎧が擦れる音が一帯に響いた。


ぬらりと狐面が現れる。


「いいか!絶対に此方から斬りかかるな!防衛行為しか許さんぞ!」


取り囲んだまま見合う。

もう1人、階下から黒髪の女が姿を現わす。

縛は無い。

そして剣を持っている。


「カヤテの身柄は貰っていくぞ。無実である事は明るみに出た。問題あるまい?」


「待て。今回の事は陛下の決が下っている。陛下から撤回がなされてからでなければ!」


「そんなものなされるわけがない。王は過ちを認めない。」


「セオドール様!同胞を此れだけ殺されては収まりが付きません!」


「顔を隠した卑怯者め!我等例え命尽きようともその意思は死せず!」


「辞めろ!無駄死にをするな!全力で掛かろうとも傷一つ付けられんぞ!」


その時だ。大勢の兵が場に雪崩れ込んできた。

近衛兵である。その数50。

近衛兵は赤鋼兵を押し退け武器を構える。

近衛兵の背後から剣呑な表情のエメリック第一王子が宮廷行兵15を引き連れ姿を現した。


「赤鋼軍ともあろう者共が怖気付いたか。邪魔である。私が片付ける。」


「お前が?出来るかな?」


狐面の男がくつくつと笑う。


「王族を馬鹿にしてただで済むと思うな・・汝等さえ始末すれば・・父上は私の廃嫡を撤回なされるはず。」


「はっはっはっ!お前は廃嫡されたのか!確かにお前の様な愚か者にこの大国は収められんだろうな。」


「・・・許さんぞ!」


ぴりぴりとした緊張感が漂う。

敵は狐面の男に千剣仁位カヤテ・グレンデル

対して此方は赤鋼兵30余、近衛兵50、宮廷行兵15。

そしてセオドール、エメリック、行兵長のルダル・バルカン。

空気がひりついている。

決壊寸前のイブル川堤防を前にしている様だった。


先手は狐面の男が取った。

屈み、地に手を付いた。

同時に赫兵カヤテが右手を振り火行を行う。

近衛兵の中心に白い光の球が浮かぶ。


「下がれ!退け!退けっ!赤鋼兵は後退しろ!俺の部下は下がれ!」


セオドールは貼り叫んだ。

西部戦線でこの技を見たことがある。


火行・火岸花。大量殺傷を行う超高火力行法で、カヤテの十八番だった。


この法をもってカヤテは赫兵と呼ばれる。

白く輝く光の球が周囲から熱を奪う。

周囲にいた6人の近衛兵が身体の動きを止めて騒々しい音と共に石床に倒れた。


「盾だ!盾を構えろ!来るぞ!」


赤鋼兵に指示を出す。

向こうで石畳を変化させて土行・岩戸が迫り出し、カヤテと狐男を守っている。


熱を吸い切った光球が一際激しく輝き、吸い取った熱を熱波として放出した。


盾持ちの背後に隠れたセオドールすらも衝撃を受ける強烈な火行が炸裂した。

まだ視野が効かぬ内にセオドールの耳は異音を拾った。


ちりちりと紙が擦れる様な音だ。

目を開けその方向を見遣ると狐面の男が身体に青白い何かを纏い両手を突き出していた。


風行の仕草であるが、何かは知識にない。

男の手先から青白い波動の様なものが迸った。


最前面で衝撃にたじろいでいた兵士7名が身体を痙攣させて崩れ落ちた。

光が完全に消え失せ周囲の様子を伺うと、21もの近衛兵が地に伏していた。


「やれ!」


ルダルが顔色一つ変えずに指示を出し、自らも風行・鎌鼬を行なった。


16人から一斉に風の刃が放たれ、2人の狼藉者に殺到する。

迫り出した岩戸が風の刃を受けて削り取られて行く。


「3人ひと組となり抵抗の隙を与えるな!そのまま削り殺せ!」


じり貧だ。2人は完全に抑え込まれ、岩戸の影から顔を覗かせる事すら出来ていない。


「はっはっはっ、愚か者が!この私を!次期国王である私を辱めた罪を償うが良い!」


エメリックが暗い嗤いを零し、憎しみの篭った瞳で岩戸を睨め付けた。


「堕龍」


ルダルが行法の名を呟き両手を突き出した。

岩戸の上空、天井付近で風のうねりが大蛇の様に蜷局を巻く。

十分に経を練った強力な行法だ。効果範囲が限定的な法で使い勝手は悪いが現状では友好的な一手だ。


避ける事は出来ない。


「苦しめる事が出来ないのが残念だが、いいぞ。散れ!」


傲慢に背を逸らし威丈高に嗤う王子だったが、この男が王になる事はないとセオドールは考えた。

前代未聞の襲撃だった。百を超える兵士がだった1人の賊に殺害された。

この件は恐らく第一王子の革命行為として処理される。


それを彼は理解できていない。


一条の線が岩戸から伸びていた。

細い絹糸の様な線だ。

岩戸から真っ直ぐ伸びたそれは、ルダルの額にまで続いていた。


「・・・」


言葉一つなくルダルが目を裏返し、崩れ落ちた。

線は燕が舞い飛ぶ様に幾何学の模様を描き行兵達の間を駆け巡った。


水だ。行兵達の背後、石壁が糸によって切られている。


その周囲に水が飛び散っている。

あれは水なのだ。何が起きているのか分からない。


水が石壁を縦横無尽に切り裂いている。

ばらばらと8名の行兵と周囲の兵士6名の体が大小様々な塊に別れて床に散らばった。


「な・・?」


驚きの声を上げた。

行兵達の連携が崩れた。

頭上のおどろおどろしい大気のうねりは霧散した。

岩戸が同じ様に崩れて行くのと同時に人影が躍り出た。


その眼前には巨大な火球が浮かんでいる。


「いかん!守りながらさらに後退!盾から体を出すな!」


赤鋼軍が更に後退する。

火球がもこもこと不気味に蠢く。

来る。


「鳳仙火!」


カヤテが右手を振るった。

大きな火球が分裂し拳大の小火球となると、周辺に無差別に射出される。

悲鳴と共に何人もの兵士が火球を受けて倒れていく。

重厚な甲冑の腹部を貫き、兜を弾き飛ばして兵士を屠る。


軈て術がやむ。

騒々しい破裂音が止むと、近衛兵の正面には狐の面があった。

優しさすら感じる緩やかな挙動で甲冑に掌が押し当てられる。

直後、爆音と共にその兵士は吹き飛んだ。


「お、おのれっ!この狼藉者を始末せよ!行兵!何をしている!?」


怖気付く兵達に怒声を飛ばして兵を鼓舞する。


「ま、待て、やめっ、ぐ、ぁぁぅ」


兵が1人袈裟に切り捨てられた。

千剣仁位のカヤテが剣を振り切っていた。


「駄目だ!速すぎる!」


「これが赫兵・・・」


カヤテは瞬く間に2人、3人と切り捨てて行く。

対する狐面の男は素手で鎧ごと兵の体を貫き、それを打ち捨てて振るわれた武器を躱して掌を胴に当てる。


背後からの攻撃に風行・一角を飛ばし、カヤテの背後に回り込もうとする兵士を氷柱張りで屠り、正面から斬り掛かって来た兵士の体を素手で左右に断ち割った。


赤鋼兵は戦闘から大分遠ざかり様子を伺っていたが、エメリックの顔色は悪い。


カヤテと男は優秀な戦士である。


手練れであり経験豊富であり、何より人を殺し慣れている。


戦場を知り、その中で生き抜く術に長けていた。

彼らは戦士であると共に極めて能力値の高い行兵でもある。


彼らは動けば敵を倒し、止まれば経を練る。

彼らを倒すには躊躇無く集団で囲み押しつぶすしか無い。


そして現状、彼らを押しつぶす程の兵力を赤鋼軍も近衛も持っていない。


そして今のエメリックの様に、たじろぎ隙を見せれば。


「旭火!」


声高らかにカヤテが叫んだ。

セオドールの知らない法だ。

朝の陽光の様に激しく輝く赤味がかった白い球体が崩れた岩戸の前に浮かぶ。


カヤテが右手を振ると人の高さ大の玉が直進する。玉が通った後には何も残らなかった。


抉れた床石の表面はてらてらと輝き、その熱量を推しはからせる。

全てを溶かし、壁に穴さえ空いている。


残る近衛兵は15程。


今度は狐面が大きく息を吸い、足元に向けて息を吐いた。

口腔から白い煙が吹き出されすぐ様空間を覆い隠してしまった。

水行の霧系統の法、鯉霧だろう。鯉の腹のように濃く白い霧が濛々と漂う。


「何処だ!?絶対に逃すな!」


喚くエメリックであったが、濃霧に怖気をなした近衛兵達は様子を伺い動きを止めている。

そうこうしているうちに一帯は白い霧に完全に包まれた。


時折絶叫が響き渡り、それも次第に少なくなっていく。


セオドールは動くことができなかった。元より部下を無駄死にさせるつもりはなかったが、攻撃の意思を一度でも持てば狐男はそれを敏感に察知し、セオドール達赤鋼兵をも標的にする事は明白だった。


近衛兵達の絶叫はじきに無くなり、霧が立ち込めてから四半刻立つと徐々に視界が効くようになってきた。

ポツンと立つ人影が薄くなる霧の中に垣間見えた。


エメリックだった。

それ以外に立つ者はいない。


「・・殿下」


エメリックは茫然自失と言った様相で兵達が転がる空間を見渡していた。


手に引っ提げていた雅な剣が無機質な音を立てて石床の上に転がった。

彼は全てを失ったのだ。


「たった、2人に・・?俺の近衛兵精鋭が・・・」


このままでは巻き込まれる。そう考えてセオドールは部下を引き連れてこの場を後にする。


セオドールは部下を死なせていない。

いの一番に報告を上げる事で非難の矛先をエメリックに向けるべく奔走を始めた。


陽の光の届かない地下の一角。石造りのそこは微量の地下水が滲み出る為か、ジメジメと湿り、窪みの水溜りに松明の灯りが乱反射していた。


ある程度の掃除は成されているのであろうが、こびり付いた糞尿や囚人の垢等の匂いが充満し鼻がひん曲がりそうな異臭で空間は満ちていた。


僅かな間隔で三度、男の絶叫が石造りの地下牢に響いた。


広大な地下牢の彼方此方で凶悪な犯罪者が歓声をあげた。


全身黒づくめの男が1人、迷いの無い足取りで地下牢を歩んで行く。

牢と牢の間の通路を足音無く歩む。


普段は通行する者に野次を飛ばす収監者達だったが、今回は誰1人として声をかける者はいない。

闖入者が濃密な死の気配を漂わせていたからだ。


犯罪者達は大なり小なり身の危険に対する危機管理能力を持ち得ている。


もしくは人の死に浸り、通常よりも身近に死を感じている。

だからこそ、この男に纏わりつく死の気配とそれよりも濃い血の匂いに押し黙っていた。


何処かで水滴が滴る音が反響する中、僅かな衣摺れの音と共に男は周囲を伺う事も道に迷う事もなく歩み続け、一つの牢の前に辿り着いた。


牢には見目麗しい黒髪の若い女が幽閉され、簡易寝台に浅く腰掛けていた。


薄汚れた牢の中、女の美しさや気高さは何一つとして損なわれていなかった。


「・・・久しぶりだな。」


女が口を開いた。

耳に良く馴染むやや低い声音だった。


「・・・・・」


「再開は嬉しいが、この様な形は望んでいなかった。私を見ないでくれ。」


だが女の声は常の凛とし、溌剌とした物とは打って変わり深い諦念と悲哀が澱の様に沈んだ陰鬱な声だった。


「手紙を送ったであろう?迎えに来た。」


男は一言告げた。

滑らかで艶のある声が地下牢に響いた。

女はぐっと声に詰まり、瞳を僅かに濡らした。

しかし態度には表さず全てを心の内に飲み込んだ。


「・・・それは、無駄足となったな。一族に迷惑は掛けられない。」


「お前は国や一族の為に身を粉にし、挙句名誉のみならずその名と命を失う。これ以上失うものがあるのか?」


「・・・私は・・・」


「お前の罪が第一王子の捏造である事が知れた。だが、王が裁定を覆す事はない。罪の所在が明らかになろうともお前は失った名を取り戻す事は出来ないだろう。・・十分、お前は苦しんだ。失うのはそこまででいいのでは無いか?」


「・・・?」


「お前が逃てしまえば。誰も追う事はない。ミトリアーレは無実の罪でお前を失った事を終生恨み続けるだろう。国王はグレンデルの次期当主の恨みを買うことを望んではいない。国王は裁定を覆す事は出来ない。グレンデルもその上でお前を勘当し、名を奪った事実を覆す事は出来ない。だが、お前さえ逃げてしまえば、これ以上の恨みをグレンデルから買う必要は無くなるのだ。」


「・・私は」


「名も知れぬ、顔も、民族も、種族すらも判然としない何者かが処刑予定の罪人を連れて逃げる。国王は出来ればこの罪人を処刑したく無い。」


「・・私は、分からないんだ。何もかも失って。処刑された方が」


「それ以上言うな。」


鋭く男が言葉を出す。


「俺から見れば、お前は充分過ぎる程家に尽くした。勿論主にもだ。もう、お前個人の幸せを求めてもいいのでは無いか?」


血濡れた男が幸せなどと言う言葉を使う様は何処か滑稽であった。


「・・・・」


「何処か静かな所に行こう。共に旅をしよう。各地で短剣を集めて飾ろう。」


男が落ち着いた声音で語りかけると、囚われの女は身体を丸めて額を膝に付けた。其の肩は小さく震えていた。


「・・・いいのかな。」


「ミトリアーレを護り、グレンデーラを護り、ロボクを征し、最期に全ての汚名を被り引き受けた。誰が文句を言うものか。そんな者がいると言うなら俺が叩き潰してやる。現に此処まで来たでは無いか。文字通り、お前の敵を叩き潰しながら。」


「お前はいつでも私の危機に駆け付けてくれるな。」


「惚れたか?」


「いや。惚れ直した。本当に、いいのかな。」


「お前の前に立ち塞がるなら王子も王も、青鈴軍やミトリアーレですら切り裂いてやろう。」


「やめて。・・でも、嬉しい。本当は辛かった。張り詰めて、1人で立とうと踏ん張って。少し疲れたから、寄りかからせて貰おうかな・・」


「背負う事だって出来る。」


女の表情は疲労と後ろめたさに沈んでいたが、その中には確かに、まだ見ぬ先を求める前向きな想いと、未だにくすんではいるものの確かな笑顔があった。



白い石甃に斑点のように血溜まりが広がっている。石甃の繋ぎ目の溝をゆっくりと赤黒い液体が這って伸びて行く。


素早く駆ける2人の人影に行く先を塞ごうとする甲冑の男達が次々と屠られていく。


その後方には100に及ぶ衛兵が集結し2人の後を追っていた。

一方で彼らの最後の障害となるケツァルの西門にも100程度の衛兵が武器を構えて待ち受けていた。

此処に来て200の武装兵士に囲まれる事となったのだ。


待ち受けていた門前の兵士が一斉に武器を構える。


「ケツァル兵の意地を見せろ!命に代えても此処を通すな!」

「ケツァルの門は未だ破られた事の無いクサビナの象徴だ!此処は絶対通さん!」


指揮官2名が気炎を上げて吠えた。


「流石に厳しいか?」


カヤテが駆けながら槍衾を作る前衛を睨む。

シンカは無言で経を練り始める。

練度の高い兵だ。赤鋼兵には劣るが近衛兵よりも全体的に腕が立つ事が構えや呼気、雰囲気に見て取れる。


「来るぞっ!撃て!」


矢が射られ弦がなる音が前方より無数に聞こえた。

立ち止まり土行で壁を作れば足が止まる。

ならば。


カヤテの前に躍り出て駆けながら両の掌を開き、頭上に掲げた。

シンカが扱う素手の武術に名はない。

身体を、経を武器として用いる体術である。

全ての武術の根幹であり、源流である。


或いは武器など通用しない魍魎に対して身体一つで抗するべく渡りの一族が編み出し、数千年に渡り研ぎ澄まして来た技術であった。


その武術の技の一つ、雨傘をシンカは行う。

掌に集中させた経は皮膚を、肉を、骨を硬化させる。


類稀なる動体視力により自分達に向かう矢を見切り、巧みに腕を動かし降り注ぐ矢を弾き始めた。

まるで傘に弾かれる雨粒のようにシンカとカヤテを目掛ける矢は撃ち落とされ、その足を緩めることすら出来なかった。


「な・・・!?・・密集陣形で近寄らせるな!」


統率された兵達は盾を構え、その隙間から槍を突き出す毬栗の様な陣形を組み、その背後から矢を降らせる陣形を模った。


「シキミ様が来るまで持ち堪・・・」


指揮官が急に指示を止めた。

何事かと思い彼を見やった兵達は頭に矢を立て崩れ落ちる指揮官を目撃することとなった。

兵達が放った矢であった。

放たれた矢を握り掴み、投げ返したのだ。


指揮官の1人が死に戸惑う兵士達に向けてカヤテが右手を振った。


「秋霧!」


カヤテの体から吹き出た経が熱を持ち、火の粉を散らしながら兵士たちに吹き付けた。


「あ、あつっ?!」


「よ、鎧が!あつっ、熱い!」


人を焼くほどの熱は無い。だが鉄を熱し、火傷を負わせる程度の温度は持ち合わせていた。


盾や槍を取り落とし慌てふためく一団にシンカは突撃した。


技の精度を落とし殺傷ではなく戦闘不能にする事に重点を置く。


輪中、揺籠、雨傘。群がるケツァル兵に対し技を駆使し門への道を切り開こうとするが多勢に無勢で、大技の行法を使う余裕も与えられず、軈て勢いも止まってしまい、囲まれながらの立ち回りへと戦闘の形は移り変わった。


「そのまま囲んで押しつぶせ!」


「経を練る隙を与えるな!」


「見合うな!味方が倒されても怯むな!」


怒号を上げて押し寄せる兵士達を2人で捌く。

普段は賑やかなケツァルの一画が兵士の怒号、悲鳴、鎧の軋みで戦場と化している。

直径9尺程の円を保っていたが、時間の経過と共に徐々に範囲が狭まりつつある。


「これまでか・・?」


「・・・」


どれ程た闘い続けたか、激しく動き身体が軋み始めている。

流石に息も荒く、肩で息をし始めていた。

カヤテも徐々に技の切れが悪くなりつつある。


「いいぞ!後少しだ!押し切っ」


やや後方で指示を飛ばしていた2人目の指揮官が倒れた。

矢が飛来し、兜と鎧の隙間の首筋に突き立った。

周囲に弓を構えた人影は見えない。


飛来した角度にある建物は遠くの、6町も離れた宿屋の屋根だけである。

あれ程遠くから弓矢を射かけ、兜と鎧の隙間を狙い撃つ事などシンカ自身にすら出来ない芸当だ。

出来るとすれば・・・


鳥肌が立った。


6町先の高い屋根の上に、身を低くして弓を構える人影が見える。


「なんだっ!?どこから撃って、な、なんだ?何だお前は!?ぐ、あああっ?!」


門に近い位置にいた兵士の腕が宙を舞った。


「て、手練れだっ!鈴剣流剣士だぞ!」


続いて岩が砕かれる音が聞こえる。

門の上部から舞い降りた人影が無骨な斧を門の白い壁に振るい、斧の柄を足場に息を大きく吸い込んだ。


右手が振られ、外套の頭巾に隠れた口部から激しい火炎が吹き出された。


放射される火炎に焼かれ、ケツァル兵士達の絶叫と、焼かれ地に転がり踠く音が騒々しく響いた。


「どういう事だ?味方か?あの斧は・・」


危険だから着いて来るなとあれ程念を押したのに。

知らず目尻から流れる涙をシンカは感じていた。


熱い。

肺腑か心臓か、或いは鳩尾なのか。

何か熱いものが腹の底から湧き上がる。


感情が高ぶり気持ちが込み上げ、呼気が乱れた。

ぼんやりとこの高まりが、込み上げるものが一体何なのかを考えた。


熱いものと一緒に経が丹田からこみ上げて来る。

肌が粟立ったまま治らず、身体の中で経が荒れ狂っているのを感じる。


経は気力だ。気とは気持ちであり意思だ。


「おおおおおおおおおおおあああっ!!」


全身を経が薄く覆う。

包囲網の一瞬の緩みを見逃さず身体に雷を纏った。


「寄越せ!」


突き出された槍を掴むと雷が流れた兵士は痙攣して絶命する。

奪い取った槍を担ぎ狙いを定める。


「私も、まだ終わらないぞ!」


カヤテの持つ剣に炎が纏わりつく。


「炎剣だ!炎剣だぞ!」


「赫兵だ!倒せるのか?!」


カヤテの背を弓で狙っていた兵の眉間に矢が突き立つ。

6町先の屋根の上、棚引く頭巾の下から白く鋭利な顎が見えている。


門前で人影が舞い上がる。頭を下にして宙を舞い、適切に急所を突く。

鈴剣流の奥義だ。


斧の上に乗り火炎を吐いていた人影の頭巾が煽られ目が合った。


情け無い。


守らなければならない相手に守られて、自尊心の為に危険に晒している。


挙句、今自分は諦めようとしていた?

200人の兵士が何だ。


紫雷が纏わり付いた槍を投げた。

春槍流 落雷。


放たれた槍は前方の兵士を薙ぎ払い深々と白亜の門に突き立ち周囲に罅を入れた。


ぽっかりとう穿たれた兵士達の隙間に滑り込むと、斧を引き抜き降り立ったナウラが罅割れた門扉に振るった。


1000年に渡って硬く王国を閉ざしてきた白亜の石門が打ち砕かれて大きな崩落音と共に崩れ落ちた。


「・・・門が」


兵士達は唖然と崩れた門の残骸を見つめていた。

そこへ兵士達を掻き分けて人が2人現れた。


1人は30代、波打つ赤毛に白い肌、琥珀色の瞳。

ファブニル一族だろう。


もう1人は20代後半、刈り上げた黒髪に白い肌、花萌葱の瞳。グレンデル一族だ。


「罪人カヤテ。」


長髪のファブニル一族の男が口を開く。


「シキミ・・」


刈り上げがシキミと言うらしい。


「王国に弓引く行為。所詮はグレンデルか。」


「・・・ザミア殿。彼女は既にグレンデルの名を剥奪されている。我等はカヤテを王国に引き渡している。脱獄に我等が関与していないのは明らか。」


「そこの男はグレンデルの手の者なのだろう?」


「・・瞳を見ろ。茶色だ。我等の血族では無い。それよりカヤテ。この男の言う通り、お前の行為でグレンデルの立場は危うくなるだろう。大人しく縄に着け」


醜い。

余りにも醜い。


「ねえ。斬ってもいい?」


ユタがシンカの耳元に囁いた。

大人しくする様肩を叩いた。


「・・・私は、もうグレンデルでは無い・・その名は剥奪された。知っているだろう?」


「ならばただの人斬りと言うことだ。斬り捨ててくれる。」


剣を抜いたシキミをザミアが止めた。


「シキミ。口封じをする気か?説得をするのだ。大人しくしていろ」


シキミ グレンデルは舌打ちをして一歩下がった。


「下らない罪状を幾つも並べ立てていたが、彼女は無実だ。そんな事など王宮にいた汝等なら分かっていた事だろう?身内を庇う事もせず。女1人を犠牲にして何が一族か。名高いグレンデル一族も地に堕ちたものだ。」


「・・・」


シキミは自覚があるのか押し黙った。

そっと、シンカの右手が握られた。

豆が潰れて硬くなった剣士の手だ。忠誠と努力の手だ。

全てを捨てて此処まで来た。そんな彼女の行く先が尽くしていた一族に使い潰されるだけなどあって良い事では無い。


「グレンデルがカヤテを不要と言うのなら、彼女は俺が貰い受ける。」


「・・・彼女には、王宮の兵を殺めた責任を取ってもらう。」


「それをやったのは俺だ。俺を。俺を捉えて見せよ!此れまで充分すぎる程に尽くして来た女に全ての責を負わせずに!汝等に睾丸が付いているなら!女の1人守ってみせろ!・・・・ああ、汝等には出来なかったのだったな。だから俺が救う事にしたのだった。」


怒りに、興奮に手が足が震えた。

気を抜けば意識を失いそうな程頭に血が登っている。


「っ」


シキミが剣を構えた。


「では、お前を打ち倒し王宮襲撃の責を取らせよう。恐らくカヤテは身分の剥奪の上流刑となり命は長らえるだろう。だが、そんな事はどうでもいい。我らを侮辱した貴様を俺は許せん。倒し、正体を暴いてくれる!」


「下らん。何が一族か。女を守れぬ者共に繁栄は無い。まあいい。お陰で俺は好いた女を求められるのだからな。汝を倒しこの娘を貰い受ける。」


槍を拾い、構えた。

言い訳はさせない。完膚無きまでに打ち砕く。


カヤテを見やった。

シンカをじっと見つめていた。


何を考えているのだろう。

体温が高い。興奮をしている。

脈拍もだ。戦闘によるものとは別だ。


いや、よそう。後で聞けば良いのだ。


意識をシキミ グレンデルに向ける。

僅かに足が震えている。興奮によるものだろう。


彼にとって自分は何か。


一族を危機に陥れる厄災か。


様々な思惑があり、様々な動機によって此処まで状況が悪化した。


それをこの黒づくめと共に持ち去り、全てを焼き捨てる。それがシンカの計画であった。


彼等にとって大切な物は個人では無い。


その価値観を覆す事はできない。彼等にとってはそれが唯一の正義なのだ。


土地と武と名誉。

金も地位も不要だが、脈々と受け継がれて来たグレンデル一族と言う名を最も尊ぶ。


シンカの価値観と合わないからといって責める事は本当はできないのだ。


だがカヤテやダフネ、シャーニ、ウルクが活躍し、次期当主がミトリアーレである様に、女性を尊重して来たからこそ彼等の繁栄があるのでは無いかとシンカには思えてならない。


いや、よそう。


思い直してシンカは槍を構えた。


「千剣仁位・シキミ グレンデル」


「流派、階位、名は名乗れんが。」


じり、と靴が石甃を踏み躙る音。緊迫感を孕んでいる様に聞こえる。


「雷光っ」


八相から右足を送りながらの奥義。

グレンデル一族らしい先手必勝の心構えである。

しかし放たれる直前のそれをシンカは槍の穂先を腕の軌道に合わせる事により封じる。


自身が千剣流の奥義を扱えるからこその立ち回りである。


そもそも、奥義とは一体何なのか。

人はそれを追求し続けている。


雷光石火という技がある。


目にも留まらぬ豪速で剣を振り対象を断ち割る。

生半可な防御は通用せず全てを叩き斬る。


では何故このような芸当が可能なのか?


全ての流派、全ての奥義に当てはまる事だがこれは決して特別な芸当では無い。


超常的な現象でも経のなせる技でも無い。


人が出し得る最大の力がある。

しかし普段は無意識に力を抑制し、最大の力を出す事が出来ていない。


奥義とはその力を引き出した結果をいう。

人間が出し得る最大限の力を発揮するための手脚や重心、体勢、足運び。


それら全てを辿る事により発揮される体術に名を付けたものが奥義である。


人間は限界を発揮する方法を奥義という形でしか知らないというだけのことだ。


剣の振り方、手足の動かし方を訓練するのでは限界が見えている。

本当は体の動かし方、使い方を学べばその技は素手であっても、流派の型を辿らなくとも奥義と呼ばれる力を発揮する事は容易いのだ。


だからこそ。目に優れ人の体を知り尽くしたシンカにとって、人一人を相手取る事は児戯に同じだった。


シキミは動きを止められ一瞬の隙間を生じさせていた。

彼が再び構えを取った時には、シンカは既に距離を一歩詰めて槍をつぎ込んでいた。


「ぐ・・・・・」


鳩尾に突き込んだ槍の柄は胸部鎧を陥没させシキミの呼吸を奪っていた。

返し刀で右手の剣を打ち払い武装を解除させた。


「ザミア ファブニル。この女は俺が引き取る。一族を追放された、無罪の憐れな女だ。いくらお前達が言葉を並べ立てて引き止めようと、この女は幸せにはなれない。俺が幸福を与えてみせる。国王にでも伝えよ。」


「・・・カヤテ。・・・お前は、それで・・いいのか?ミト様の、事は・・・いいのか?」


蹲り腹を抑えながら苦しい表情でシキミはカヤテに問うた。


カヤテは目を閉じてしばし考え込んでいたが、やがて顔を上げ口を開いた。


「ミト様の側にいつまでもお仕えしたい。その気持ちは今でも持っている。だがそれはもう叶わない。無理に戻っても迷惑をお掛けしてしまう。」


「そこの男の、言う事は正しい。我々は、お前を・・・使い潰し、最後は切り捨て・・たのだ。お前が個人の、自由を求めるなら・・このまま此処を去るべきだろう。此処に、残らなければならぬ・・義務は、お前には、もう、無い。だが、お前が勘当された一族のことを、思うのならば・・・大人しく縄につくべきだろう。お前が脱獄した、事により・・我らに降りかかる火の粉の、事を・・・考えれば。」


「・・・ミト様」


「次期当主に普及する影響も図りしれんだろう。カヤテ。お前は自分を育てた一族を・・・ん?」


ザミアの言葉の途中1人の兵士が駆けてくる。

手には書状を携えていた。


「ザミア様!」


「なんだ。何事か。」


「此方をお読みください!」


膝を付き書状を掲げた兵士からザミアはそれを受け取り目を通した。


「・・ふむ。成る程。」


書状を暫し見つめていたザミアだったが、懐にしまい込むと口を開いた。


「カヤテ。お前を捉える事は諦める。此処より早々に去るが良い。・・・だが狐面の男よ。お前を裁かぬ訳には行かぬ。お前は兵を殺しすぎた。」


周囲の兵が武器を構え直した。


「カヤテ。先に行け。」


敵の狙いはシンカだけだ。彼女らが此処に残る意味は無い。


「しかし!これ程の数!いくらお前でも!」


チリチリと虫の羽根が擦れるような音が耳に届く。


「此処からなるべく離れろ。あれらを呼ぶ。」


「!先生、本気ですか!?」


反応したのはナウラだった。


「いけ!」


叫ぶとナウラとユタが身を翻して駈け去った。


「お前が死ねば、私は幸せにはなれないぞ。」


「そうは思わないが、しかし言葉には責任を持つ。行け。」


カヤテは掛けて行った。


「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あっ」


声帯を絞り異音を発する。


「者共!掛かれ!」


ザミアの号令に兵士達が動き出す。

チリチリと言う音が大きくなる。

シンカの体に紫の雷が纏わりつく。


駆け寄る兵達を前に雷が身体から放出され、2丈程の半球を象った。


それに触れた兵士は痙攣して倒れ込み、焦げ付いた嫌な臭いを発した。


「周囲を囲め!長くは持たん。法が切れるのを待て!」


ザミアが離れた位置より指示を飛ばす。

地に横たわったシキミが引き摺られて後方に下げられていく。


「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」


「なんだ?気でも狂ったか?」


「気味が悪いぞ。どういうつもりだ?」


「行法か?聞いたこともないが・・」


兵士達が警戒し、囲みを広げる。


「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」


「な、何をしている?貴様!?何を企んでいる!?」


「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ」


ザミアがシンカを睨み付け、口角から唾を飛ばしながら叫んだ。

その時、シンカの足は微細な振動を感じ取った。


「シキミ グレンデル。俺はグレンデル一族を敬っていた。かつて肩を並べたかの一族の戦士達は勇猛で気高く、その末端兵士に至るまでも土地を愛し、街を愛し、仲間を愛し、家族を愛していた。だがお前や当主は家名だけを愛している。家族を、血族を守らず何を守ろうというのだ?俺には理解が出来ぬ。故に。守るべきは下らぬ利権ではないことを思い返すがいい。その大いなる自然の前に、真に守らなければならぬ物を思い出させてやる。感謝をしろ。」


うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ


門の外よりシンカのものよりはるかに大きなく野太い鳴き声が聞こえて来た。


「うぅいっ、おあ、あ、あ、あ、あっ」


シンカが喉を鳴らすと共に門の外より地響きが聞こえた。


シンカはひたりと壁に張り付く。

頭上を巨大な影が飛び越えていくのが目に付く。

地響きを立ててその巨体が王都の内部に侵入を果たした。


「も、魍魎?王都に魍魎だと!?」


「け、獣だ!魍魎が出たぞ!」


黒い巨体が5条近い白亜の壁を乗り越えてその威容を顕にした。


黒箆鹿。


獣の中で五本の指に入る巨体を誇る魍魎である。

特に目につくのは独特な形の巨大な角で、方角だけで優に大人が3人寝ころぶことが出来る。体高は3丈、体長は4丈。好戦的な獣である。


シンカは彼らが仲間を呼ぶ時の声音を真似、呼び寄せたのだ。

東門から1番近い森まで約2里。黒箆鹿の生息区域までは5里もある。


だが、巨大で扁平な独特の角で彼等はそれ以上の距離の音を感知する。

そして強靭な脚で大地を駆け、強靭な角で樹々を薙ぎ倒し、体の倍近い壁を飛び越えてここまで現れたのだ。


「お、お、お前は・・一体何者なのだ・・」


ザミアが呟いた瞬間魍魎は雄叫びを上げて角を振るった。

兵士達はシンカの事などとうに忘れ、半狂乱で黒い魍魎に打ち掛かって行く。立ち上がったシキミが再び剣を構えて指揮を取り始める。


ザミアは魍魎の巨体を口をあんぐりと開けて見上げていた。


北の方角を見るとヴィダードが退避せずに此方を見ているのが見えた。

手信号で撤退を合図し、シンカも砕いた門を抜けてケツァルから撤退した。


背後では魍魎の咆哮と兵達の絶叫が聞こえる。

暫し走っていると後方にヴィダードが現れた。

南方に王都に向けて一直線に走る巨大な黒い塊が二つ見えた。どうやら3体もの黒箆鹿を呼び寄せる事に成功した様だ。


全ての罪はこの3体の獣が引き受けてくれるだろう。


生きる事は難しい。

ましてや森に囲まれ、強大な自然の力の狭間で生き延びねばならないのだから。


時には人同士で争い、殺さなければならない。

シンカに大切な人がいる様に、戦う相手にも大切な人がいる。


お互いに主張がある。


自分に都合の良い物を正とし、都合の悪い物から目を背ける事は悪ではない。


同時に自分の大切な物を守るために戦う事は善ではない。


シンカはそう考えている。


自分の中の正は相手にとっての正では無いのだから。


カヤテを助ける為に多くを殺した。

その事に後悔はしていない。

しかし、彼等の遺族がシンカの前に立ちふさがった時、シンカは語れる言葉を持たないだろう。

それが戦いであると考えている。


そして何よりも憎まねばならないのが、そうした個人の意思のぶつかり合いにより生じる戦いを、国や地域などの大きな区分に昇華させ、利権や誇りを巡り会う戦争である。


この世に悪霊がいると言うのなら、熱に浮かされ道徳を捨て、正義も善もなく暴力を払う彼処にこそがまさにそれがいるのだとシンカは考えていた。


「貴方様?」


「うん?」


「何をお考えですか?」


「・・いや、詮無い事だ。」


「まさか、ヴィーの事を捨てるなんて、考えてはいませんよねぇ?」


振り返ると空恐ろしい未知の表情で半笑いを浮かべるヴィダードがいた。


「・・・」


「貴女様私はあの様な女知りません私の知らない女に貴女様は告白を許せない私は色物扱いなのにあの女はこんなきっと捨てられて人間に売られて知らない男の子を孕んでどこかの町の薄汚れた路地裏で病気を貰って身体が腐っていくのそうに違いないのそれでも私は貴女様を愛し続けるしかないのに貴女様はあの女と仲睦まじく子を作り幸せに過ごす許せない精霊の」


「煩い。」


ごく軽く肩を叩く。


「お前にそう言う病的な一面があるから一歩引いてしまうのだろうが。俺は穏やかな心持ちで日々を送りたいのだからお前も協力してくれないと俺との関係は成り立たないだろうが。」


「ひんっ」


「でもな。うん。やっぱりお前達には負けるよ。男は女には勝てない。だがそれでいいと思う。いつの世も女子供が喧しいくらいが平和の証という。」


森が見えてくる。

先に向かった3人が待っているだろう。


「うん。ありがとう。」



森歴194年春上月、クサビナ王国王都、ケツァルを魍魎3体が襲撃。ケツァル兵に甚大な被害が生じる。


鎮圧に当たった第1王子エメリックは魍魎を前にして逃亡。シキミ グレンデル指揮の元辛くも討伐を行う。エメリックは臣民の信頼を失い事態を重く見た国王は王子の継承権を剥奪する。


同年春中月、ロボク王国と内通しクサビナ王国の凋落を企んだとしてカヤテ・グレンデルが処刑される。公開処刑は行われていない。また同罪に関与した疑いがあるとしてザミア・ファブニルが紫財務官位を退き流刑となる。


編纂されたクサビナ王国史書の記載内容である。

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