細雪
半刻後、シンカは3人の長と18人の兵それにナウラと供に割れ目を目指して居た。
荒地を抜け、岩山の斜面を登ると割れ目に到着する。
精強というだけあり全身を使った岩登りとなっても息一つ荒げ無い。
振り返り星明かりの下で彼らの顔を見るが、鎧と兜を身に纏い脇目もそらさず黙々と岩場を登っていた。
グレンデルは戦狂い。
有史以来彼等はそう恐れと供に語られて来た。
先のロボク戦線でも誰一人として背を見せず、正面から倍の兵力とあたり何刻も耐え忍ぶのだからその評価に誤りは無かった。
星空の下ギラギラと輝く青や緑の瞳には恐れの一文字は存在していない。
難攻不落の大要塞アゾクに忍び込み暴れる事しか考えていないのだ。
それが余所者のシンカにでさえ分かった。
戦争の悪い部分であるが、集団の中にあると意識が高揚してしまう。
自分が感化されない様努めて冷静に保ち進んで居た。
異臭の漂う岩の割れ目を抜けて砦内部の岩山の中腹やや上に抜け出た。やはり要塞の中では煌々と火が焚かれ、隊列を整えるべく兵達が動き回っていた。
「助かったわよ。薬師。薬師の身で単身悪名高きアゾクに乗り込み敵の策を暴いた。私達の一族はこれより我等の歴史が続く限り、貴方を讃えるわぁ。貴方は間違いなく、英雄です。」
天幕でははしゃいでいたダフネが限界まで研ぎ澄まされた劔のように鋭い面差しでシンカに告げた。
「カヤテ様の目は確かさ。これが終わったらうちに来ないのかい?」
ウルクが鋭い目つきで眼下を見渡しながら揶揄してくる。
「それは何度も断っている。俺は一所に留まる事が出来ない。」
「私も何度も誘いましたが頑なです。難しいでしょう。」
「シャーニちゃん最初はあんなに噛み付いてたのに何があったのぉ?やらしい事したんじゃないのぉ?」
「ばっ、馬鹿なことをっ。私と彼はそんな関係では有りません!」
「1日目は延々と文句。2日目は必死で無言。3日目は鬼に襲われ赤子泣き。4日目は蟻に囲まれ小べ」
「辞めなさい!口外しない代わりに酒を奢ったじゃないですか!」
「それは6日目に」
「あっあっあっ、駄目!辞めてっ!」
「随分と仲良くなったみたいだねぇ。良いことだよ。」
皆が緩みのかけらも無い視線で様子を探りながら冗談を飛ばしているうちに全員が割れ目から抜け出して来た。
「付いて来て頂きたい。」
言うとシンカは比較的降りやすい場所を伝って降り始めた。
遠くには松明に照らされたグレンデのは本陣が見て取れる。
しかし今、あの場からは続々と兵が抜け出ている最中だろう。
カヤテは全軍を退かせる上申に無事成功し、ロボク兵が夜襲に出てくるのを待っている状況である。一部兵士を残し地に水を撒くことで退路を確保し、火の手が上がった際に慌てる様を演出する予定となっている。歩哨も減らすことはできない。此方も水を撒き退路を確保している。
この策を考えた者は今どのような気分なのだろうか。
戦い方で油断を誘い思う場所に陣を敷かせる。
人の国では殆ど知れ渡っていない火薬を用いて罠を仕掛け、その罠も天候を熟知した上で一月も前に施し、違和感を与えないよう慣らしていたのだ。
その智謀は計り知れない。
少ない消耗でクサビナの精鋭を壊滅させる事が出来ただろう。
シンカさえ居なければ。
アゾクは岩山をそのまま加工した要塞。峰の一つが物見台に加工されており、そこに兵が一人立っている。
物音を立てずに滑り寄り顔が見える位置まで近付いた。
シンカは懐から竹筒を取り出し、息を吹き込んだ。
空を裂き針が飛ぶ。兵士の眼球に突き立つ。
そのまま無言で崩れ落ちる所を近寄って支え、ゆっくりと降ろした。
クサビナの東方、ラクサスを超えた先にあるヴィティアに生息する虹百舌鳥と言う鳥が分泌する毒液を針に塗っている。
煮詰めて更に毒素を濃くしている為ほぼ即死する。
針を抜き入れ物にしまい背後を振り返る。
此処からは会話は危うい。手信号で合図を出した。
岩肌に刻まれた肩幅程度の通路を歩み、時に刳り抜かれた穴を抜け、昼に見た壁を目指す。
クサビナ方面の壁を目指し、時折歩哨を殺害して素早く歩んでいく。すぐ背後のナウラも、その後ろの長や兵士達もごく僅かな物音を立てるだけで問題なく付いて来ている。峰に刻まれた通路を通り階段を下ると、とうとう昼間にクサビナ軍が攻めても攻めても破れなかった壁にたどり着いた。
壁はシンカの肩ほどの高さまでせり出し、通路は幅が二間程、長さに至っては50間近く、岩山に沿って弧を描くように延びていた。
そこに30名程のロボク兵が詰めている。
夜襲の追撃を退ける為もっと多くの兵が詰めているかと予想して居たが、指揮官は余程自分の策に自信があるのか、追撃を想定して居ないと判断した。
確かに、クサビナ軍野営地一面に敷き詰められた火薬が爆発し、要塞の全軍を以って夜襲を仕掛ければ逃げ惑うのに手一杯となるだろう。
絶対に罠が露見しないと信じて居たのだろう。確かに罠を見破っていればこの位置に陣は敷かないはずで、また日が落ちるまでクサビナ軍は悠長に陣の設営を行なって居た。
後は何処か着火点から火を点けるだけだ。
背後を確認し、意思を問うた。
案の定ダフネ・グレンデルがにたりと嗤った。
各々が端から順に敵の背後から忍び寄り、次々と物音一つ立てずに殺していった。50間先の一番端にぼんやりと立つ最後の一人を、名も知らぬ青鈴兵が殺すまで大した時間は掛からなかった。
後は山肌に所々穿たれている坑道脇に待機し、事が起こるまでの間に壁に訪れる敵を葬るだけだ。
一刻が経った。シンカの立つ位置からでは確認できないが、一人の要塞内の広間を確認していた兵士が合図を送って来た。
どうやら隊列が整った様だ。
彼らは馬に乗り門前に勢揃いしたいるのだと手信号で伝えてくる。
火矢が上がった。岩山中心部からだ。そこに司令官がいる。
クサビナ側を見ると、闇夜に小さな灯火が5つ点き、一直線にクサビナ陣目掛けて火が走り始めた。
それらがクサビナ陣にたどり着いた時、眩い閃光と供に2里も離れたこの城壁まで爆音と振動がやって来た。
カラカラと岩肌を小石が幾つも転がり落ちてくる。
そして重たい金属が擦れる音が聞こえた。
馬蹄の音が幾重にも重なり地鳴りとなって響き渡る。手信号を送りシンカは坑道に突入した。
が、一旦戻り燃え上がるクサビナ陣を見詰めるナウラの首根っこを捕まえて引きずりながら再突入した。
坑道や通路に掲げられた松明を光源に走り抜け、時折遭遇する敵兵を拾った槍で葬りながら中心を目指していった。
一度先程兵が集っていた広間に出、そこからは一直線に中心の岩山を目指した。
真っ直ぐに伸びる階段を登り始めると、異変を感じ取った居残りの兵が剣を抜いて寄ってくる。
青鈴兵は扇状に広がり幾分か速度を落としたものの階段を駆け上がっていく。
隣のナウラも斧を抜き、柄頭でロボク兵を突いて吹き飛ばしていた。
吹き飛ばされた兵士の鎧は大きく陥没し口から血を流している。
ダフネは短槍を巧みに操り素早く敵の弱点を突いて屠っている。
ウルクは千剣流の速く力強い太刀筋で大の男を真っ向から迎え撃ち、堂々と打ち破っている。
シャーニは多彩な剣技で相手を翻弄し、隙を突く一撃で体格差のある相手を葬っていた。
選び抜かれた精鋭達も皆欠けることなく追随している。
シンカもロボクの槍でダフネ同様の春槍流の槍術を披露して行った。
「薬師!拾った槍でその冴えた技!後で試合ましょうねぇ!」
前に出会った鈴剣流剣士のユタといい、この手の人種には付き合いきれない。
試合うつもりはないが、死ぬ事も怪我を負う事もなくこの場を切り抜けたいものだと考える。
全ては命あっての物種である。
やがて一人当たり5人を超える敵を打ち倒し、階段を登りきった。
扉の脇を固める4人の兵をシャーニとウルクが葬って扉の取っ手に手を掛けた。
二人掛かりで重たい鉄の扉を開くと23人の勇者は司令官がいるであろう建物に踏み入った。
暗闇で兵を率いて佇んでいたカヤテは火の手が上がった時興奮と安堵を同時に感じていた。
思惑通りに策がなって行く興奮と上申通りに事が起こった安堵である。
夜襲はありませんでした。等という事態に陥ればグレンデルの名は地に堕ちる。
眩い閃光に目を焼かれぬ様目を閉じ、爆音と振動に耐えていると陣に残した囮の兵が燃え盛る陣地の中阿鼻叫喚する演技を行い、罵声や悲鳴が聞こえて来た。
いや、あれ程の爆発だ。彼等は演技を忘れ本気で騒いでいるやもしれない。
そして直ぐに地鳴りが起こり始める。
騎兵が掛けてくるのだろう。
本当に思惑通りに進んでいる。
もし、この罠に気付かなければ。
それを考えると背筋が泡立ち、嫌な汗が背を伝う。
これで3度目だ。彼に助けてもらうのは。
その恩人を今カヤテは死地に立たせている。
カヤテに出来ることは1つだ。
出来るだけ多くの敵兵を殺し、なるべく速く要塞を落とす事だ。
要塞を落とす事が出来なければ送り込んだ精鋭達も、血族の部下も、大恩ある彼も殺されてしまうだろう。拷問すらされ兼ねない。
囮の兵が逃げて来る。雲霞の如く迫り来る騎兵だが、目指すのは自分達ではない。分かっていても緊張は付きまとう。
そうしてただじっとはやらずに耐え忍んでいると、とうとう燃え盛る陣地に突入して行った。
今頃無人である事に混乱しているだろう。
そこへ、陣地の南東に控えていた赤鋼軍が横合いからぶつかった。
炎に照らし出される戦場で、赤い布で鎧を飾った精強な兵が襲い掛かる。
横っ腹を見せていた敵騎兵は態勢を整える間も無く戦闘に突入し、泡を喰っているがこうなればどうしようもない。
戦とはこうならぬ様に斥候を放ち、可能な限り優位に立ち回る様心掛ける。
アゾクは自らが仕掛けた策が露見せぬ様斥候を増やす事が出来なかった。火薬に火を点けるまで、要塞の門すら開かなかったのだ。
開けば企みがばれる恐れがあるから。
カヤテは陣の真西に陣取っていたが戦闘が開始されると北西に移動し、そこから反転して押されて後退する騎兵にぶつかった。
途端露骨に陣形は崩てしまう。
カヤテ自身も剣を振るい、敵を切り払って行く。
一方で王子率いる赤鋼軍の背後を抜けて北上する一隊があった。
ランドルフ伯率いる諸侯の兵達である。
攻城を開始する一万数千に対し、アゾク側は反撃すら無く、雲梯が複数取り付き1人の兵士が一番乗りを名乗った時に初めて坑道から姿を見せた。
図らずしもシンカ達潜入組が物見の兵を始末していた為に要塞に兵が集っている事に気付くのが遅れていた。
そもそも要塞の殆どの兵が未だ戦場におり、壁を登りきったクサビナと要塞内部への完全な侵入を防ぐ水際の坑道戦の様相を呈していた。
ロボク兵はアゾクが落ちれば国土が犯される為、窮鼠の様に激しい抵抗を行い、諸侯の兵達も日中に失った同僚の恨みを晴らすべく過激な程の攻撃性を見せており、一進一退の状況が続いていた。
事が起こり一刻から一刻半程で会戦の行方は見え始めていた。
周囲を同時に攻められて耐えられる軍勢など早々はない。
ましてや大陸最強と名高い青鈴軍に、赤鋼軍が相手である。
ロボク勢は最早虫の息であったが、カヤテの目に頑なに抵抗を続ける一角が目に映る。
「彼処を切り崩すぞ!続け!」
張り叫び馬を駆る。
背後にはサルバや麾下の兵が続く。
先頭を駆け道を切り開くと猛然と暴れる兵の1人を斬り捨てた。
「ほお。こんな所で会えるとはな!」
片腕の剣士が赤鋼兵を1人斬り捨て、狂貌をカヤテに向けた。
左腕にだらりと剣を持ち、全身に返り血を浴びた様は血肉を食う鬼の様であった。
「ルシンドラとやらか。何時ぞやは世話になったな。」
彼の兵がダフネの弟、ナツネを殺している。
ここでカヤテが打ち取ればなんと言うだろう。
いや、右手を失ってはいるがこの男はダフネでは倒せない。
「お前のせいでなぁ、右腕が痛むぜ。どうしてくれる?」
「お前の腕を切り取った覚えはない。」
「お前のせいなんだよ。全部な。へへへへへ。責任取れよ。なあ?」
口の端から泡を吹いている。この男は剣士の命の腕を失ったと同時に人の心も失ったと見える。
彼の様な、人の道理を失った物こそを鬼と呼ぶのでは無いかとカヤテは考えた。
「お前のお綺麗な顔をぎたぎたに斬り刻んで厠女にしてやるよぉ。」
彼は鬼だ。左腕のみとは言え油断すれば破れる。
カヤテは頭を半分切り取られて尚戦い続ける兵士を見た事がある。
生き物は、人を含めて時に常軌を逸した力を発揮する事がある。
カヤテを厠女にすると発言した際、サルバや周囲の青鈴兵が怒気を発したが馬から降りて左手を上げる事で制する。
この程度の戯言に動揺するカヤテでは無い。何故なら
「それは難しいであろうな。仮にお前の薄汚い子種を注がれようとも、私の子袋は受け入れぬ!私が受け入れる男はただ1人だ!それはお前では無い!既に決まっている!」
背後でサルバが頭を抱えた。
対して見据える先のルシンドラは顔を怒りでどす黒く染め、歯をむき出しにした。
「薬でもなんでも使ってお前を狂わせてやる!お前に娘を産ませ、その娘も壊してやろう!」
「もう良い。・・・・誰も手を出すな。借りを返す。邪魔だて無用。」
剣を構えた。息を吐く。
「千剣仁位、カヤテ・グレンデル」
「同じく。ルシンドラ」
千剣の構えは3つある。1つは正眼、右足前。カヤテの好む構えだ。
対してルシンドラは左持ち上段、右足前。
呼吸を見せず相手の一挙手一投足を捉えるべく見据える。其処彼処で剣戟や男達の絶叫が聞こえる中、神経を研ぎ澄ませ機会を伺う。
「雷光石火!」
カヤテが動く。
千剣の奥義が一。迅速で身体の全てを効率的に早く力強く動かして放つ技である。
千剣流剣士はこれを身につけるために何十万と素振りを行う。
対し遅れてルシンドラも動く。
雷光石火は躱せない。防いでもそのまま経ち割られる。
であれば。
ルシンドラは雷光石火を遅れて放ってきた。2人の中間で線が交わる。
すかさずルシンドラが動く。
離れながらの左斬り。
予想より振りが早い。いや、これは奥義だ。普通ならば行わない腕を痛める攻撃だ。千剣の奥義左の太刀だ。
回避は間に合わない。
刃がカヤテの右側から首筋に向けて迫る。
しかしこの程度で破れていては仁位の名が泣く。
剣を挟み一撃を流して今度は下がる男に追い縋る。
続け様に斬りかかる。
力強い4撃を放ったがルシンドラは左手一本で防いでしまう。
体勢を立て直したルシンドラであるがカヤテは間髪入れず奥義を放つ。
「雷光石火!」
瞬速峻烈の一撃をルシンドラは同じ奥義で防ぐ。
「雷光石火!」
更に奥義を一撃。そこから3度斬りかかり、
「雷光石火!」
これもルシンドラは防ぐ。
しかし身体は倒れかけており、地に伏すのも時間の問題であった。
だが。
更なる追撃を仕掛けた途端、ルシンドラは剣をカヤテに投げ付けて来た。
回転し、顔に向かう刃。不意を突いた一撃であった。
「割波!」
凶刃は断ち割られた。
刃は投げた本人の体と同じ末路を辿った。
ルシンドラの身体は頭から股まで真っ二つに斬られてその断面をさらしていた。
抜けたカヤテは残心の後、剣の血を拭った。
「好いた男の手前、他の男の誘いははっきりと断る必要がある!私は一途だ!」
そんな理由で殺されたく無いと思ったのは死んだ剣士だけでは無いだろう。
要塞中央の建物に侵入したシンカ達は50の兵に取り囲まれていた。
扉を開けた途端に放たれた矢に兵士の1人が倒れ、2人が足や肩に負傷を負った。
第2射が放たれる前にシンカとナウラが土行の礫時雨を、シャーニが風行の鼠車、矢に倒れた兵士が力を振り絞って火行の火山弾を行なった。
シンカ、ナウラと兵士の行法は敵の動揺を誘い、シャーニの行法はいくつかの弦を切断することに成功する。
この僅かな時間でダフネ、ウルク他数名が突入し斬り結ぶ。
遅れてシンカ達が突入し先陣を支えた。
「此処は我々が!ダフネ様、先へ!」
1人の兵士が腹に剣を突き立てられながら叫んだ。
腹に突き立てられた刃を腹筋で固定している。
彼の雰囲気が変わる。
理解した兵達は彼を避けて戦いを始める。
「グレンデルに栄光あれ!」
兵士は自らに剣を突き立てた敵と、横合いの敵を捕まえて急激に経を生成し、切りかかってきた3人目を巻き込んで業火と共に爆散した。
「立派よ、ベイル・・・。あんた達任せるわよぉ!」
ダフネが叫んだ。
ナウラが斧を背後に構えて体勢を低くした。
二歩をゆっくりと、三歩目で体を回転させ、四歩目からは急激な回転と共に兵士達が守る中央の扉に向けて突き進んだ。
独楽の様に回り続け、数人の敵兵を上下に分断する。
怖気付いた敵が道を開けるとその隙間にダフネ、ウルクが滑り込みすかさず二、三人を切り捨てた。
彼女らが開いた穴に兵士達が集まり扉の前を半円状に固めた。
離れた位置で二人の弓兵が矢をつがえていた。
鏃は回転を止めて背を晒すナウラに向いている。
「っ!」
脳内で何かが切れた音がした。
矢を番えた弓兵の全身から赤い氷の棘が生えた。
だが時既に遅く、一本の矢はナウラに向けて放たれた後だった。
シンカの脳裏に出立前のナウラとのやり取りが浮かび上がった。
ナウラを失うかもしれないと怯えるシンカに、ナウラは全幅の信頼を寄せた。
シンカは全てを守ると自身に誓った。
誓いを、決意を破るのか。
自身が持つ最大の力で。身体を動かし射線に入った。打ち払う余力はなかった。
肩と肩甲骨の合間に焼け付く痛みが走った。
守れた。俺は守る事が出来たのだ。そう実感した。
反対より3人の弓兵が此方を狙っていた。
ナウラを抱き、そのまま行法を行う。
同時に吹き矢を放った。
2人を殺し、残る1人の矢を握って止めた。
それを投げ返して3人目を仕留める。
シャーニが扉を開けている。
「油断をするな!」
「せ、先生、矢が・・」
「抜いてくれ。」
矢が抜かれる。同時に僅かに肉も抉り取られた。
ナウラの様子が気になる。
何か、何時もとは異なる。
しかし怪我はしていない筈。これ以上意識を割くことは出来ない。
弓兵は全て倒した。残る兵は30程。14人の兵士で相手取って貰わなければならない。
開かれた扉の先は無骨な広間であった。武器のみが飾られ、夜半の闇を松明が押し開いていた。
広間には12人の男が此方を向いて立っていた。
「山茶花ぁ!」
口火を切ったのはダフネ・グレンデルであった。
手を振り、拳大の鮮やかな赤い火炎弾が無数に発生し、12人の元に疾った。
対して敵の行兵2人が掌を眼前で合わせた。
水行方 水幕が12人の男達を覆う。
行われた水の壁にダフネの散弾が防がれる。
「炎弾!炎弾!炎弾!」
ダフネが手を振り、三連続で火行法を放つ。
人の頭大の火の玉が3つ、敵へ向かう。
再度、2人の行兵が手を合わせる。合わせようとする。
先にダフネの火行を防いだ水をシンカは氷に変えた。
水行方 氷雨
鋭く尖った鋒は一番手前で全身を鎧で覆っていた2人の男と水行兵2人と残りの行兵1人に突き刺さった。
最前列の2人の内、1人は視界を塞ぎ防いだが、残る1人は顔に三本の氷柱が突き刺さり、絶叫を上げてのたうち回った。
3人の行兵の内1人は声も出せず喉元に突き刺さった氷柱を押さえて蹲り、やがて動かなくなる。
直ぐに2人は死亡して地に伏した。
発射された三発の炎弾は先頭の全身鎧の男が全て切り払い、消失する。
残る行兵2人が掌を突き出す。
「鎌鼬!」
「・・・」
襲い来る風の刃2本に対し、地に手を着いたナウラが無言で岩を隆起させて防ぐ。
そしてシャーニが手を突き出す。
「滑降風」
凝縮された強烈な風の一撃が2人の行兵を薙ぎ払い、壁面まで吹き飛ばした。
力無く横たわったまま動かない。
残ったのは6人。
先頭の全身鎧、背後に鉄鬼の団の鎧を纏った中年の男。その脇に同じく鉄鬼の団の若い男。
鉄鬼の団員背後には30台の長髪の男と、如何にも武人風の50台短い白髪の鎧姿の男の2人。
そして最後尾に如何にも女に騒がれて居そうな、
優男が立っている。
最後尾の男が口を開く。
「いやあ、行兵同士の戦いは素晴らしいですね。」
笠の下でナウラに視線を送る。
力量的にナウラは鉄鬼の団の若い男にだけ唯一優っていると思われた。
「皆さんが此処に来たという事は私の張った罠が見破られていたという事ですよね?」
奥の武人風の男はこの中で誰よりも腕が立つ。あれはカヤテやユタ程度の腕が無いと相手は出来ないだろう。
ダフネが手信号を出して来る。
薬師は後方支援をしろと。
それもいい。だがシンカはこの強者達と供に肩を並べる事に意義を見出している。
「我々グレンデル一族を舐めないで貰いたいわぁ。小賢しいだけの血の匂いも知らない男に戦場を支配するなんて無理な話よぉ。」
ダフネの足が小刻みに震えている。
飛び出すのを我慢しているのだろう。
「王剣礼位、ハルア」
「千剣王剣礼位、カルカンダ」
「千剣礼位、ザラ」
先頭の全身鎧、鉄鬼の団の中年、鉄鬼の団の青年の順で名乗りを上げる。
「千剣礼位、サルバトーレ・カルヴァン」
「・・王剣仁位、サムフィン・ギネス」
「春槍礼位、ダフネ・グレンデル」
「千剣礼位ウルク。」
「鈴剣、王剣礼位、シャーニ・グレン」
「柳斧礼位、ナウラ」
「春槍徳位、シンカ」
「「!?」」
シャーニの手信号で初動が決まる。
「「「火山弾」」」
3人の火行が放たれる。
その間にナウラが回転を始め、シンカが壁を利用して高く飛び上がった。
対し敵はハルアと名乗った王剣流剣士が盾を構えて迫りばら撒かれた火山弾の多くを防いでしまう。
その盾に遠心力を乗せたナウラの一撃が入る。
盾は真っ二つに割れ、盾自体もハルアの手を弾いて彼方へと飛んで行く。
勢いをそのままに独楽の様に回転斬りを放とうとするナウラを避けたハルアの頭上を槍が通過して行く。
シンカは飛び上がり、春槍流の奥義を放っていた。
技の名は落雷。雷に迫る速さで撃ち落とされる投槍の一撃である。
動き出したばかりのサルバトーレには避ける術も防ぐ術もない。
だがサルバトーレを狙った槍は王剣仁位の老将サムフィンの技により防がれる。
いや、防がれそうになる。
奥義、応剣でなやそうとしたサムフィンであったが、刃が槍に触れた瞬間その動きを止めた。
止められた。
槍にはシンカの風行法 紫電が纏わりついていた。
紫電はサムフィンの剣を通して伝導し、掌を焼き、腕を痙攣させ、臓器を焼いた。
サムフィンは呻きを上げ、しかし再度剣を握り直した。
サルバトーレは外套を棚引かせ、笠の鍔を押さえながら落下する薬師の風体を認め、そのまま命を落とした。
ナウラを避けたハルアはダフネの槍を受ける事となる。
素早い連撃を王剣流の確実な防御術で捌いていく。
一方、回転を続けるナウラに鉄鬼の団2人が向かうが、迂回したシャーニがカルカンダに風行 飛燕を飛ばし足止めすると、ザラと分断した上で斬りかかった。
カルカンダはそれを受け、反撃に移る。
ウルクは手負いのサムフィンへと走った。
サムフィンは口の端から血を垂らしながらも応戦し、確実に攻撃を逸らした。
残るザラは回転を続けるナウラの動きを見極め首を跳ねに掛かったが、ナウラは突如動きを止める。腕だけで振られた斧でその斬撃は弾かれるた。
ナウラは遠心力にて加速された斧を右手左手と持ち替える事により活かし、隙のない立ち回りを行った。
三撃、四撃と打ち込まれる千剣流の強烈な斬撃は勢いの乗った斧に確実に阻まれ、また異様な音を立てて踊る斧の一撃も躱されて相手には当たっていなかった。
シンカは着地すると腰の翅を抜いた。
さっと周囲を見渡しまず危ういのがシャーニであると判断。
シャーニはカルカンダと切り結んでいたが、鈴剣流の奥義で足を狩る穂刈を放った際に躱されて背後に回られ、賺さず背斬りを放つものの王剣奥義戦陣突破で攻撃ごと身体を弾き飛ばされて壁にぶつかり戦闘不能に陥ってしまう。
追い討ちを掛けようとするカルカンダに向かっていたシンカは吹き矢を吹き、弾かれると翅で斬り掛かった。
「き、貴様!その技!?」
応剣で受ければ確実に武器ごと身体を切り裂く翅を、恐らくそうと知らずになやすカルカンダであるが、シンカ相手には分が悪いのか徐々に押されている。
ダフネとハルアは一進一退の攻防を続けている。
春槍流の攻撃は王剣流とは相性が悪い。
素早い連撃が売りの春槍流は王剣流の厚い防御を破れないのだ。
王剣流の防御を破れるのは千剣流の雷光石火だけだ。後は隙を突くしかない。
ウルクとサムフィンの攻防も優劣が着かぬまま続いていた。
雷光石火を放とうとするウルクに対し、巧みに立ち位置を変え技を放ち奥義を出させぬ熟練の攻防を行っていた。
時折反撃の奥義を放つサムフィンであったが、ウルクも上手く躱し決定打を受ける事は無かった。
「ぬぅぅ、歯痒い!私は!カヤテ様の!剣の師だぞ!主人に誓って破れるわけには行かぬ!うおおおおおおっ!」
ウルクの刃に炎が纏わりついた。
炎剣だ。使える者の少ない行法である。
此処で趨勢に変化が起こる。
先の戦闘で戦闘不能となっていた行兵が1人意識を取り戻した。
彼は朦朧とした意識のまま一番近い位置で戦うカルカンダに助成を始めた。押していたシンカは防戦の体制となる。
「いいですよ!まずはその男を!」
観戦するしかない優男が叫ぶ。
行兵は手を突き出す。
皆薬師が風行法を受け死傷すると考えた。
だが。
シンカは片手を突き出し風陣を行い、鎌鼬を散らした。
目を剥いた行兵は今度は地に手をつき土行を行う。
シンカはカルカンダに三度の斬撃を放ちながら足を踏み鳴らし、盛り上がる岩の槍を同じ土槍で向きを逸らし難を逃れる。
ロボク行兵は鎌鼬、竜巻、岩弾、礫時雨、滑降風を放ったが全て相殺される。
そして。
「青兎」
シンカが口に出した途端青い雷がまるで駆け回る数匹の兎のようにジグザグに散らばりうち一つがカルカンダへ接触した。
「ぐ、おっ・・」
びくりと痙攣した次の瞬間には彼の首は宙に舞っていた。
「団長!?」
鉄鬼の団の青年が悲痛な声音で叫んだ。
シンカは行兵が放った大技、封圧を避けて行兵の首も跳ね飛ばした。
ナウラは叫んだザラに奥義を放つ。
振った斧の力を利用し、突如として数回転し斧を乱打する技である。
柳斧流の奥義が一、松毬である。
近い間合いで突如として予測不能な三撃を受けたザラは体勢を崩す。
「己れ!波割!」
同時にナウラも技を放つ。素早く、慈悲なく竹を割るように斧を振り落とす燕潰。
ザラの割波はナウラの頭部にあたり、笠を弾き飛ばした。
ナウラの被害はそれだけであったが、彼女の一撃はザラの兜を割り、鎧ごと身体を縦に分断した。
頭巾が解けて胸元までの白髪が晒された。
次に決着がついたのはウルクであった。
ウルクの灼熱した劔は、サムフィンの劔と打ち合い、組み合う毎に熱し、サムフィンの膂力は徐々に鈍り始めていた。
じり貧と見たサムフィンが奥義を放とうとした瞬間だった。
「雷光石火!」
機を伺っていたウルクが千剣流最強の奥義を発した。
サムフィンは即座に応剣で逸らそうとしたが、剣は弾き飛ばされ、鎧の左から右へとウルクの剣が抜けていった。
サムフィンは腹を抑えて膝を付き、一度激しく吐血した後に地に伏した。
「くそっ、手を出さないでよぉ!」
ダフネが声を上げる。
五駿と言う俊速の連撃を剣と鎧で防がれた彼女は再突きを放ち、
「山茶花ぁ!」
火行を放つ。顔に向けて。
籠手で顔を覆ったハルアだったが、一時視界が塞がれる。
「完痛!」
突き出した槍が鎧を貫通し、背後まで刃が抜ける。
「・・・同じ手を、2度も・・・」
槍を持つダフネを斬り捨てようと剣を振り上げたハルアだったが、甲冑内に炎弾を打ち込まれ、絶叫を上げながら生き絶えた。
「な、なんという事だ・・ロボクきっての剣豪達が・・」
呻く優男を尻目にシンカはシャーニに駆け寄り容態を見る。
頭を切って血を流している。
切傷用の軟膏を取り出し傷口に塗る。
頸椎や脊椎を損傷した気配はない。手足の骨も正常である。
闘えない者に用は無いのか、ダフネはすぐ様身を翻し、未だ部下達が戦う背後へと向かって飛び出していった。ウルクもそれに続く。
「そこの白髪の美しい貴女。私は闘えはしませんが、頭脳には自信があります。私はルドガー・レジェノといいます。今後、クサビナ王国で役に立つ事が出来るでしょう。口添えをお願い出来ませんか?」
男は取り繕ってナウラに声を掛けた。
相貌を見せ付けるように髪をかきあげるが、ナウラは頭巾と笠を被り直すとシンカを見つめた。
「ナウラさんと言いましたね。貴女は何処の国の人なのでしょうか?貴女の様な美しい民族は見た事がない。教えて貰えますか?」
「・・・」
ナウラの返答はない。
そうこうしているうちに戦闘を終えたダフネ、ウルクが戻ってくる。
「シンカ!シャーニは!?」
「無事だ。」
「お願いよぉ。瀕死の兵達がまだ居るのよ。」
「分かっている。」
ウルクの背後からは9人の兵士しか付いて来ていない。
急ぎ駆け付け、息のあるものの手当てをして行く。始めに矢で射られた者は一命を取り留めた。足を射られた者も出血が多かったが処置を施した。
腹を貫かれた者も助けられる。
首が分かたれた者が1人、失血死した者が1人、そして爆散した者が1人。
ナウラが隣で精霊への祈りを捧げている。
18人の勇者の内3人が死に、6人が重症。残る9人も何処かしら手傷を負っていた。
シンカは思わず熱い気持ちが込み上げ、涙を流さぬ様堪えながら、火行を暴走させて自爆した兵士の身体の一部や散り散りになった装備を集めた。
望まぬ戦争に参加し、死ぬ可能性が高い作戦に従事させられた兵士達。
そして最後まで同胞の為に戦い命を散らした。
彼等の親族は何と言うのだろう?
遠くで騒ぎ声が聴こえる。
とうとう門が破られたのだろう。
此処にも兵が雪崩れてくる。
6人の治療を終えると9人の軽傷者の手当てに移る。
これはナウラと共に行う。
ルドガーと言う男は拘束され床に転がされ、ダフネに顔を蹴られていた。
「卑劣な男!味方が殺されようとも剣一つぬかないなんて!姑息な罠を張って!」
「や、やめっ、これは、せ、戦争でっ」
見苦しい。
「辞めろ。もうすぐ諸侯軍が此処まで来る。向こうの重傷者や遺体を運びたい。」
自分が居ない間に何があったのかは分からない。まともな神経なら武術を修めていなくとも同僚が戦っており、況してや危機的状況であれば一助にでもなればと剣を抜くだろう。
この男はこれまで死した誰1人の事も同僚や仲間、見方の類と考えては居ないのだろう。
駒なのだ。そんな者と関わり合いになどなりたくない。
「ナ、ナウラさん・・・私、は・・・」
ナウラも同じ様な感想を抱いているのだろう。無表情の上に僅かに眉が寄り嫌悪の感情を見せて居た。
「貴女は何故私に執着するのでしょう?申し訳有りませんが、お導きは既に示されました。私は1人の男性にのみ心と身体を許します。ね、先生。シンカ。」
「ん?」
そうこうしている内に諸侯の兵達がこの場に攻め寄せて来た。
本来であれば問答無用で斬りかかるのだろうが、道すがら血溜まりに沈むロボク兵を見て来たのだろう。部屋に佇むのが青鈴兵だと鎧で判断すると、貴族が1人人垣を掻き分けて姿を現した。
「私はクサビナ王国第二軍を預かるアーチボルト・キャンベル辺境伯である。そちらの所属を伺いたい。」
「私は青鈴軍第一師団長、ダフネ・グレンデルよぉ。この建物は既に我々が制圧してる。そこのルドガー・レジェノと言う男以外は戦闘の上止む無く殺害したわよ。」
「おお!カヤテ卿の従姪の!見掛けも装備も確かにグレンデル一族。それにそこの男は確かにロボク将軍のサムフィン・ギネス!しかし、我々は壁を乗り越え最初に此処に到達した筈だが?」
「そこな薬師に抜け道を見つけさせのりこんだの。この男は其方に引き渡すわぁ。」
「良いのか?敵の抵抗が思ったより緩かったのは貴殿らが此処で軍の幹部を相手取って居たからであろう?」
「構わないわよ。そのかわりと言ってはなんだけど、負傷兵の搬送を手伝ってもらえる?」
「その程度であれば。」
こうしてシンカ達一向は犠牲があったものの、カヤテの元に戻る事となった。
クサビナ軍の死傷者は凡そ1500、ロボク軍死傷者は4500にも登り、残りが捕虜となった。
捕虜は人道的な扱いを受け、数日後には武具没収の上釈放される事となる。
一方でアゾクに立てこもって居た首脳陣は、記録上その全員が戦闘の上討ち取られたとされている。
ロボクにおいて名高い将軍サムフィン・ギネスと、剣技指南役サルバトーレ・カルヴァン、そして平民上がりで兵士長まで成り上がったハルア、行兵長フレデリック・スタンリーの死は残されたロボク諸侯の戦意を根刮ぎ奪い、その後王都モルンパーチまで抵抗という抵抗も無く、そして王都も制圧される事となった。
敵将らを討ち取った者の名は無く、第一王太子の戦功が華々しく語られる事となる。
そしてマニトゥー大使を殺害し、クサビナに罪を着せようとした罪状でマリク・ケンネルを処刑、同時に高齢と、アゾク陥落の報を聞き他界した国王ユリウス3世に代わり10歳のラミウス5世を擁立。ラムダール伯爵を執政としてモルンパーチに残しクサビナ軍は王都から引き上げる。
アゾク要塞には3000の兵とアーチボルト辺境伯を残し、残る全軍は国境を引き返した。
森歴192年冬下月の事であった。
うす青い街に綿の様な雪が降る。
水分を含まぬ軽い雪は踝まで降り積もり、踏みしめるたびに心地の良い音を立てる。
夜にも関わらず、雪の夜は空がほの明るい。
厚手の外套を着込んだシンカとナウラはグレンデル一族の宴会に呼ばれて居た。
とは言っても参加者は行軍中親しくなったシャーニ、ウルク、サルバの3人だけであるが。
ダフネはあれで身分も高く、生死を共にして其れなりの親近感は抱いて居たものの気は使いたくないというのが心情であった。
「お前の里も今頃は雪が降っているのか?」
シンカの袖を掴み、顔を無表情で見上げてくるナウラに向けて訪ねた。
「・・・」
返事は無い。
最近、ナウラの様子がおかしい。
表情はいつも通りであるが、シンカの顔をじっと見る機会が多くなった。
梟のようで少し恐ろしい。
そして端々に垣間見える感情に怒り、苛立ち、悲しみが多分に含まれる様になった。
原因を考える。
ナウラの身体に意識を向けると、体温が高く脈が早いことがわかる。
悪いものでは無い。病では無い。
興奮と緊張。それが共にいる多くの時分に見て取れる。
原因は何か。
シンカとナウラは四六時中共にいる。
風呂さえも一緒だ。
そういえば、もう今更なのか風呂で乳を手拭いで隠さなくなった。
見はしないが。
たまに視界に入る其れは兎に角存在感がある。
彼女と常時共にいて、その様な状態になる出来事は起こっていない。
脅されているだとか、嫌がらせを受けているだとか、そう言った事象は確実にありえない。
ではなんだろうかと考える。
シンカに対する感情の変化でもあったのだろうか?
偶に意地悪をする事もあるが、其れもお互い冗談であると理解している認識だ。
嫌われたと言うことはないだろう。
いかんせん不動の鉄面皮の為把握し難いが、其れはない・・筈である。
では好意かと考えるが其れも腑に落ちない。
元々彼女とは良好な関係を築いていた筈である。
取り分けて好感度が上がる出来事があった記憶もないし、況してやナウラはエンディラの民。
精霊がお導きを下し、エンディラの民同士を結びつけるのだと言う。
本当かどうか知らないが、たいそうな自信の元発言されていたし、発汗の傾向から嘘は付いていない事も分かっていた。
其れに一度唐突に名を呼ばれた以外特に何か特別な事を言われた記憶も好意を示された記憶もない。
怒りや悲しみを抱かれる覚えも無い。
八方塞がりとはこの事か。
薄青い傘を差したナウラは傘に積もる雪を見詰めていた。
シンカも黒い傘を少し掲げ雪空を見上げた。
今夜は冷える。
初めは旺んに遊んでいた白い息も、今や身体が冷えて薄くなっている。
グレンデーラの北町の一角、高級店と中級店の合間。
質は良いが気安い食事店での待ち合わせだった。
店へ入ると既に3人は既に席に着いていた。
「おーっ!遅いぞ!」
サルバが陽気に手を振った。
「すまん。雪が降っていたので傘を求めていた。」
「はあ。あんなに森の中を縦横無尽にかけるのに傘がいるのかい?」
「街では文化的に過ごしたい。森に長く踏み込む分。」
ウルクに答えて同じ卓に着いた。
ナウラが隣に座る。
「ではまずは祝杯だな!本当はダフネ様も来たがったんだが、あの人はあんなだが、知らない店に行くのが怖いってんで、今日は来てない!酒も飲めないしな。」
あの脳まで筋肉で出来ている様な女傑がそんなに繊細なものを持ち合わせているとは思い難い。
「シャーニとは何度か潰れるまで飲んだが、ウルクとサルバは飲めるのか?」
「馬鹿にするなよ?何なら飲み比べるか?」
「ああ。あたしはサルバより飲めるよ!」
「私が一番ですけどね。」
シャーニがしれっと言うと、2人は苦虫を噛み潰したかの様な顔をした。
シャーニとは先行した十数日で大分仲が良くなった。
途中の村に泊まった時もナウラと3人で飲み明かしたりもしている。
特にナウラは年の近い同性という事もあってか、かなり親しく付き合っている。
麦芽酒を全員分頼み、手元に杯が揃うと祝杯を上げた。
「いや、でもあんたの腕には驚かされたよ。ダフネ様も手合わせしたいと騒いでいたよ。」
「魍魎を相手取るにはあの位使えなければ。」
「其れだが、薬師ってのは魍魎の目を盗んで薬材を揃えてるもんだとばかり思ってたが、魍魎とも戦うもんなのか?」
「力も知識も無い薬師はそうかもしれんが・・。」
「そうでなければ困りますよ。薬師組合の方が下手な軍隊より力があるなんて話しになればどうなる事やら。」
「今回の戦で我等は力を誇示した。王子様からの覚えもいいはずさ。」
「まあその辺は当主様やミト様がなんとかすんだろ。」
戦の話しを肴に酒をどんどん頼んで行く。
「しかし、まだきちんと聞いてないが、潜入はどうだったんだ?厳し戦いだったのか?」
「厳しいも何も、私はやられましたからね。傷は綺麗に直してもらいましたけど!」
「そうだったな。誰にやられた?」
「カルカンダ。鉄鬼の団団長です。」
「あー、こっちでもルシンドラって奴をカヤテ様が斬ってたぞ。」
「そいつの右手を落としたのは俺だ。」
あれからもう直ぐ一年となる。懐かしい。
「情けないです。負けたの、私だけですよ!?」
「精進しろ。」
言うとシャーニは怒って不貞腐れた。
「カルカンダの奥義を貰って白目剥いて涎垂らしていただろ。薬師風情に助けられるなんて軍閥貴族の名が泣くな。」
「し、白目は剥いてません。」
にやにやと笑いながら揶揄うと大人しくなった。
「そうそう、ダフネ様が槍の稽古を付けてくれと言ってたが。」
「断る。寒いから南へ行こうと思っていてな。」
「何処まで行くんだい?」
「砂漠を超えてグリューネに。」
「王侯貴族でも寒いから南、暑いから北なんて生活は出来ないよ。」
「ナウラは半年前に避暑で訪れたランジューで拾った。」
「拾ったとは人聞きの悪い言いですね。」
「浜辺で全裸で倒れていたでは無いか。」
「服は着ていましたが。誇張するのをやめてください。」
「狩幡で体を」
「いい加減にしてください。其れは言ってはいけない類の事です。」
肘で肋骨を抉られた。
「でも、ナウラはいいですね。色々なところに連れて行ってもらえて。代わってもらえませんか?」
「無論、お断りいたします。」
「こいつには世間というものを見せねばならん。まだまだ教える事も山程あるからな。開放は出来ない。」
「あーあ。あいされてますよねー。」
「まあな。」
「・・・」
ナウラが杯を呷った。
彼女は既に5杯は酒を飲んでいる。
其れに配分も早い。そろそろ酔っている筈だ。
「シャーニ。話があります。」
「はい?いいですけど。」
「ここでは話せないので、少し外までいいでしょうか?」
「いいですよ」
2人が席を立ち、店の外に出て行く。
「変な男に引っかかるなよ!」
酔い始めたサルバが大きな声を送った。
卓には3人だけとなる。
周囲の程々の喧騒もあり、居心地の良い店だ。
「2人は何時もここに来るのか?」
「まあね。でも2人っきりでは・・あったっけ?」
「いや・・無いな。」
「サルバは結婚はしてるのか?」
「おま、繊細な事を」
「いや、俺もそろそろ所帯を持たなければならない。結婚とはどんなものなのか知りたかった。沢山の子供に囲まれて平穏な余生を送りたい。だから妻は5人は欲しい。」
「こいつ、馬鹿か?」
「そう思うのも分かる。理解してくれる女も少ないだろう。だが、決して抱きたいからという性欲や多くの女を自分の物にしたいという所有欲では無い。俺の育ての親は5人の妻を持っていた。皆仲が良くて、犬の子のようにちっこいのがわらわら走り回っていて、喧しくて・・・。1人で森を渡ると、どうしようもなく自分が1人である事を感じて、懐かしく思うのだ。俺もあんな賑やかな家族を持ちたい。」
「いい話なんだけどね。難しい気がするよ。そんな事よりナウラとはどうなんだい?」
そんな事と切り捨てられてしまった。
シンカはもう一杯酒を飲み干した。
今日の酒はうまい。やはり賑やかだからだろうか。
「ナウラは大切な弟子だ。そして俺の家族だ。妹であり、娘でもある。」
「へえ。向こうはそうは思ってないんじゃないのかい?」
ウルクに根掘り葉掘り訊かれる。
普段なら答えないだろうが、酒が進み答えてしまう。
「あいつは人間とは番にならない。種族の特性らしい。」
「種族?よくわからないよ。情愛なんて種族だなんだでどうにかできるもんとも思えないけどね。」
「うん。まあ可愛いとも思うし、弟子として家族として愛してもいる。きちんと大切にしているさ。」
更に一杯酒を煽る。
「時に、あー、ウルクとサルバは何故相思相愛なのに一緒にならない?」
「っ?!は、な・・え?」
「おい、またお前・・ん?」
2人とも露骨に狼狽え、最後に疑問を顔に浮かべる。
反応がそっくりで笑ってしまった。
「ああ、お互いに気付いていなかったのか。それは済まない事を。」
「ちょ、ちょっと待ちなよ!なんで、あたしが・・」
「うん。今日ウルクが俺たちの顔を見る回数は俺を27回、ナウラを21回、シャーニを31回、サルバを6回。意図的にサルバをみないようにしていた。だが、盗み見た回数は42回だ。今も脈拍が上がっている。顔も酒とは異なる赤面だ。間違いないだろう。」
「・・・」
「サルバも言うか?」
「・・・いや。」
2人とも真剣な顔で手元の料理を眺めている。
いや、実際は料理など眺めていない。感情の整理をしているのだろう。
余計な事を言ってしまっただろうか?
「2人で歩いてきたらどうだ?」
「あ、ああ。」
「会計は俺がしておく。餞別だ。」
にやりと笑うと複雑そうな顔をした。
禿頭の大男が恥らう姿は目に悪い。
一方のウルクは、顔を赤らめて無言で俯いていた。
化粧っ気は無いし、着飾ってもいない。目が細く鋭い顔つきではあるが見目が悪い訳では無い女性だ。
普段は蓮っ葉な態度であるが、今は可愛らしく目に映る。
その姿を見た禿頭の大男もうっと声を詰まらせる。
しっしと追い払うと更に酒を呷った。
「俺も嫁を見つけねばなぁ」
繁華街の片隅で2人の女が向かい合っていた。
被り布を被った艶のある褐色肌の女と、黒髪短髪の気の強そうな釣り目の女だ。
「シンカに訊かせられない話なんて珍しいですね。」
「・・・」
「まさか、何かされたんですか?・・いや、あれだけナウラを大切にしているシンカに限ってそれは無いですね。・・・わかりません。」
短髪の女が頭を抱えた。
「私は、人では有りません。遥か東方に里を持つエンディラという民族です。貴方方が言うところの亜人という者です。」
「まあ、何と無くそうなんじゃ無いかとは思ってましたけど。」
「エンディラの民には人の持たない風習が幾つもあります。」
「同じ人でも東西南北風習の違いはありますからね。」
「その一つに精霊の御導きと言うものがあります。これは、ある日ある時、同じ精霊の民同士が互いに強烈な結び付きを覚えるもので、その2人は婚姻し、番いとなって将来を送るのです。」
褐色肌の女は表情一つ変えず話す。
「それは、なんと言いますか。好きでも無い相手と結婚しなければならないと言う事ですか?」
「いえ。元々好意はあります。好意が無い相手との御導きは下されません。」
「わかりませんね。必ず互いに好きになるとは思えないですけど。」
「元々決められているのでは無いかと私は考えていました。結びつくべくして出会い、好意を持ち、導かれる。理解は難しいと思うのでそう言うものだと思ってください。」
「わかりました。」
「お互いは同じ時にお導きが下り、互いを特別な終の伴侶として認識し、生涯を送ります。」
「何と無く分かりました。それでそれがどうしたのですか。」
「これから話すので落ち着いて聞いてください。」
「私はこの上なく落ち着いてますが・・」
褐色肌の女は少し俯き、口を閉ざした。
黒髪の女は辛抱強く待っている。
少しして漸く口を開く。
「私にお導きが下りました。」
「・・・・」
「何かないのですか。」
「え、今私が何か話すところだったんですか・・」
「まあいいでしょう。兎に角、私にお導きが下ったのです。」
「では故郷に帰るのですね・・寂しくなります。」
「違います。お導きは面と向かっていなければ下されません。」
「うーん、一体何が言いたいのか分かりませんね。私は貴女以外にエンディラの民と見受けられる人物に出会った事は有りません。恐らくグレンデーラには貴女以外に存在しないでしょう。」
「シャーニ。人は伴侶を選ぶ時どうしているのですか?」
「家どうしで決められた相手と政略結婚をするか、自由恋愛をするかですね。」
「政略結婚をすれば、情が無い相手でも情は芽生えるのですか?」
「人それぞれですね。日々を共にするうちに愛情を持つ場合もあれば、死ぬまで互いを認められず、互いに別々の相手を持つこともあります。」
「理解出来ません。」
「仕方がないんです。望まない結婚もあるんです。それが人です。」
「自由恋愛は如何でしょうか?」
「人が心の赴くままに人を好きになります。此方の方がそのお導きとやらには近いですけど、必ずお互いの事を好きになるとは限りませんね。」
「率直に言いますが、私に下されたお導きの相手は先生です。」
「あ、そうなんですか。え、でもシンカは人間ですよね?」
「はい。以前に酔った際、俺はアガド人とシメーリア人の混血だと言っていました。」
「ああ、でも身体的特徴は殆どアガド人ですね。気質と骨格はシメーリア人かな?」
「私は、人間相手にお導きが下ってしまったのです。ですが先生は、シンカはそんな様子もなく何時ものままです。」
「ちょ、ちょっと!如何して泣いてるんですか?!」
「感情が制御できません。」
「無表情でそんなこと言われても!」
褐色肌の女は黒く輝く瞳から涙を流していた。
表情は微塵も変わっていなかったが。
「シンカにはお導きは下らないのですか?」
「下らないでしょうね。」
「では私は如何すればいいと言うのでしょうか?」
「いやあ・・普通に好きだと言えばいいんじゃないですかねぇぇ」
「元々先生の事は好きでした。愛してもいました。しかしそれは家族として、と言った方が良い感情でした。」
「そもそもどうやって知り合ったんですか?」
黒髪の女が尋ねると、褐色肌の女は回想するように遠くを見つめてから口を開いた。
「そうですね。元々はここから遥か東、赤金山脈と言う山々に作られた我等の里に家族と共に住んでいました。
私は両親との3人暮らしでしたが2人は伝染性の病に倒れ他界しました。赤金山脈は厳しい土地です。木々の生え無い赤茶けた高地で15歳の、お導きも下っていない私には生きる事が難しく、私は1人山を下り見識を深めつつ生き永らえるための手段を探す事にしました。今思えばそこまでたどり着いたのも奇跡なのでしょうが、当て所なく彷徨った結果、小さな荒れ果てた港に出る事となりました。そこには人がおり、私は彼らに捕まり船に乗せられ売り払われる事となりました。」
「悲しい事があったんですね。それにしても人身売買。如何なる国家でも第1級の犯罪行為です。」
「ええ。両親を失った時は大層落ち込んだものです。」
「もう少し悲しそうな顔をしてくれると此方も感情移入し易いんですけどね」
「ですがあの男共に捕まった事はシンカと出会うための、精霊のお導きであったのだと確信しています。大分経った頃男達は性欲を抑えられなくなり、私を犯すと言いました。人には分からないかもしれませんが、我々にとって、お導きが下されていない相手に触れられる事は苦痛です。況してや犯されるなど。私は泳げませんでしたが、彼らの手を逃れ海へ飛び込みました。その時背中も斬られ、また泳げない私はすぐに意識をうしなってしまったのです。」
「見た目からは想像が付かない突飛な行動を偶に取りますよね、ナウラは。」
「次に意識が戻った時、シンカが意識を失った私を護りながら大量の蟲と戦っていました。思い出すだけでも震えが来る絶望的な戦いでしたがシンカは私を見捨てず護り切ったのです。」
褐色肌の女の肩が僅かに震えていた。それを見たもう1人が肩を摩った。
「そこらの女だったら其処で既に惚れるんでしょうけどね。」
「はい。私は軽くはありません。」
「ナウラは軽いんじゃなくて重い方だと思いますよ。」
「先程から喧しいですね。ともあれ、其処からは面倒を見てもらっています。」
「私には寧ろ其のお導きが下るのが遅過ぎるように感じる程ですけど。何時お導きは下ったんですか?」
「アゾクでの事です。矢から護られた時に。」
「ああ成る程。いえ、アゾクでのシンカは惚れ惚れするほどの漢っぷりでしたからね。気持ちは分かります。普段は飲んだくれですが。」
「里でエンディラの民同士であれば、お導きが下った時から夫婦となります。ですが、私とシンカは・・・」
褐色肌の女は無表情で再び涙を流した。
「本来ならば女を泣かせる男が悪いと言うんですけど、状況が特殊ですから・・」
うーん、と黒髪の女は考え込む。
「そもそもなんですけど、異性として好意がある事、伝えてないですよね?」
「?」
「何か、シンカにわかるように伝えてます?」
「はい。顔に熱い視線を向けています。」
「あー、その顔でですよね?」
「私にはこの顔しかありませんが何か?」
「いやー、これは前途多難ですねぇ。」
かぶりを振る。
「良い雰囲気を作って接吻に持ち込めば良いんじゃ?」
「良い雰囲気とは如何すれば作れるのでしょうか?」
「・・・私だって男がいるわけじゃないのに。貴女に上手く伝えられるなら私にだって恋人の1人や2人できていますよっ!」
「貴女は分かっていません。お導きが下った以上、シンカが死んでも、他の女と所帯を持っても、私はシンカだけを愛し続けるのです。」
「それは・・」
「まだ里に居た際に聞いた事があるのです。エンディラの民と祖を同じくする別の精霊の民に、人間の男に対するお導きが下ってしまい、当て所なくその男を求めて彷徨っていると。私は、そうはなりたくありません。きっとその精霊の民はもう気が触れているでしょう。そういうものなのです。」
「大変ですねぇ。」
「如何して鼻を穿っているのですか?」
「・・・」
「シャーニ?真面目に聞いていますか?」
「私も恋人欲しいなぁ。頭にきちんと脳味噌が詰まっている恋人が。」
「私、かなり切実なのですが。」
「五月蝿え。努力してから出直して来い!何がお導きだ!楽してるんじゃねえよ!そもそも貴女、散々人間にお導きが下る事はないとか言っていましたよね?あの時は何の事やら、変な宗教かと思っていましたけど、そんなこと言っていたらシンカだって貴女が異性としての興味なんか持つ筈がないと思いますよ。自業自得じゃないですか!」
「・・・」
「ああっ!また泣いて!貴女は何でも良いから行動や言葉に出して好意を伝える!それを実行して駄目だったらまた相談してください!」
雪が降り酒を嗜んだ翌々日、シンカとナウラはグレンデーラの南門に立っていた。
今日も疎らに細かい雪が舞っていた。
「本当に行ってしまうのか?」
お忍びで見送りに来たカヤテが眉を寄せて尋ねた。
他にもダフネ、ウルク、サルバ、シャーニの親交を深めた面々が旅立ちを見送りに来ていた。
「着いて来るか?」
シンカの誘いを聴き彼女は深く悩んだが、やがて首を横に振った。
「・・私には、支えなければならない人が居る。・・行く事は出来ない。」
「そうか。カヤテとはもっと色々な話をしたかったが。」
「本当に、残ってはくれないのか?」
カヤテの問いにシンカは直に頷いた。
「敵を殺すのは止む無しと考えているし、屑を見かければ進んで命も奪って来た。だがどうしても俺には、戦争が受け入れられなかった。」
「・・・わかった。・・・・・・もし」
「?」
「もし私が、軍を退く事になったら。私が一人落ちぶれる事になったら・・・迎えに来てはくれないだろうか?」
シンカは笑った。
「約束する。」
苔色の笠を被る。
「では。」
カヤテの手を取り別れの時に渡そうと思っていた物を手渡した。
短刀である。カヤテにその意味は分からないだろう。
東方の人間が獣人と呼び蔑む民族が大切な人間に渡すある種の儀式で、男が女に渡す事により自分の身を守れる様にとの思いを込めるのだ。
「奇麗だ・・こんな・・・」
シンカが歩き始めるとシャーニと話していたナウラが話を追えて追いついて来る。
「お?」
ナウラから繋がれた手を見た。
自分は何をするべきなのか。
カヤテの様に目標に縛られ、雁字搦めになってはたまらないが、成すべき事を見いだせる事は羨ましくも感じている。
繋がれた手を握り返してやりながらまずはこの娘が何処に行っても生きて行ける力を身に付けられる様育てなければと決意を固めるのであった。
二人が平地を横切り麦粒よりも小さくなってもカヤテは彼らを、いや彼を見つめるのを辞めはしなかった。
カヤテの部下達も、普段凛々しい彼女が涙を流して佇むのを止めようとは思わなかった。
カヤテの手に握られているのは鞘に納まった短刀であった。
見た事も無い硬質な濃い灰の素材で出来た鞘、その鞘の中には美しく煌めく澄んだ翡翠色の刃が収まっている。
カヤテは、嘗て世界を巡り短刀を集めてみたいと語った自分の話をシンカが覚えていてくれたのだと分かった。
一朝一夕で拵えられる代物ではない。カヤテと同じ翡翠の目を持った王族が居ても献上できる程の品だ。
こんな物は市場に出回る筈が無い。見た事の無い材質。
別れの日に備えてシンカが時間を掛けて作っていたのだと分かったのだ。
シンカに旅へ誘われた時、断るのに時間が必要だった。
カヤテはそれ程にシンカに対する好意を抱いていた。
それでもミトリアーレを置いて行く事が出来なかったのだ。
やがて涙を拭ったカヤテは一行と伴に城へと戻る道を辿った。
途中、一人の怪しげな人影とすれ違う。
頭巾を深く被った女で、地に這いつくばりぶつぶつと独り言を言いながら鼻を効かせていた。
「・・ああ・・新しい匂いねぇ。新鮮な今日の匂い。ああ・・やっと見つけたわぁ。貴方様ぁ。」
おかしな人物には関わる事無くカヤテは城へと戻って行った。
その日は一日部屋から出る事は無く、カヤテは短剣を抱きながら涙を流した。
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