第7話

資料室から運んできた報告書は5月以降のもので調べ終わったファイルを資料室へ戻す必要があるなとレイは考えた。直筆で書かれる報告書から想いを読み取ることは思ったよりもルカの集中力を消耗するらしく自分の席のそばで眠っているルカをそっと見る。起こさないように気をつけながら様子を伺うと規則正しい穏やかな寝息が聞こえた。



「良かった。。。明日の朝までこのまま休んでもらおう。俺はこの報告書を整理して、資料室へ」



ルカの机に置いてある山盛りになったファイルを一つ一つ丁寧に段ボールへ入れる。音を立てないようそっと作業を進めた。自分たちが書いた報告書が大切に保管されているとわかれば、営業部の社員たちも書籍部への見方が変わるかもしれない。それでも書籍部の上司や先輩たちはこの事実を伝えることはないだろう。書籍部に配属になってこの見えない心根を知れて本当に良かった。



「明日の朝御飯、何を作ろうか。。俺が作れるのは味噌汁と卵焼き。。。あーあ、もっと料理やってればなぁ」



どうしても感謝の気持ちを伝えたくて、言葉や態度では照れや反発に勝てる気がしないので、何とか別の方法でやってみようとレイは思った。



「これでよし。この段ボールはひとまず資料室へ戻そう。あ!」



そばで寝ているルカがもそもそと動いて寝返りをうった。起こしてしまったかと心配になり、このまま見守っているとルカは寝ていた首を動かしてゆっくりアイマスクを取る。枕元にあるスマホを探り当て、何時だろうと確認しているようだ。



「おはようございます。。ってまだ夜ですけど。。うるさかったですか?」



「?レイ?いや、全然。俺、結構寝てたね」



布団の中で大きく背伸びをすると上半身を起こしてもう一度ゆっくり背伸びをする。手のひらを広げて気持ち良さそうに起きた感覚を楽しんでいるようだ。



「資料?手伝おうか?」



「あ、いえ。これは俺がやります。ルカさんには、5月より前の報告書を見てもらいたくて。今、整理して持ってきますね」



運ぼうとしていた段ボールを一旦床に下ろし、レイはリュウガの指示をルカに伝えた。ルカは静かに聞いた後、布団から体を出し机の上のファイルを見つめる。固まった体を解すように軽く体を動かした。



「そういうことなら、俺はお風呂に入って朝まで休もうかな。レイは資料整理が終わるまで休まないんでしょ?」



「はい。とりあえず去年の5月から遡って一年分の資料を整理するつもりです。3人の報告書だけをまとめます」



レイの答えにルカは小さく頷いて、じっとレイを見つめた。優しい穏やかな視線が何も言わずただこちらを静かに見つめてくる。急にじわじわと心が落ち着かなくなって思わず視線を外して逃げたくなったが、心地よい優しさにここで逃げてはダメだと怯える心を何とか引き戻しルカの言葉を待った。



「うん。一人で整理させても大丈夫みたい。無理はしないで。自分を追い込んで厳しく接しちゃだめだよ」



「。。え?自分に厳しくするのは当たり前じゃないんですか?みんなのために頑張らないと。これくらい、できて当然ですよ」



「もう。。。」



ルカは優しい表情を曇らせて小さくため息をついた。思わぬルカの反応にレイも何か間違ったことをいったかなと思い返してみても、失礼なことを言ったとは思えない。ただ、自分に厳しく、できて当然だと言っただけだ。今までやっていたことをやっただけ。ルカは目に強い光を宿してレイを見上げた。



「それだから、一人にしておけないんだよ。心配になる。レイ、自分を労るんだよ。資料整理ができてすごいなぁ、よくやってるなぁ、これでみんな助かってるよ、ありがとうって」



「え!?自分で!?自分に!?ち、ちょっと気持ち悪いです。。。」



「大切なことなんだから」



自分で自分を褒める!?さすがに気持ち悪い。さらに居心地が悪い。心から溢れてくる凄まじい拒否反応を思いっきり体で表現してレイはルカを見た。きっと笑っているだろうと予想していたのに、ルカは真剣な目でレイを見上げている。レイは神妙になって大人しくルカと向き合った。



「レイは自分に厳しすぎるよ。資料整理はすごく大変で労力がいる仕事だし、レイみたいに綺麗に早くできるって凄いことなんだから。自分で自分の凄さを認めてよ」



「え、あ、はい。えっと。。。」



「それと、自分を労ること!自分で自分によくやってるね、偉いね、ありがとうって言うの。言葉だけでもいいから!やらなかったら、俺も一緒に資料整理するからね。隣でずっと労って、ずっと褒めてあげる」



「そ、それは止めてください!!は、恥ずかしいです!!」



集中して黙々と資料整理をしたいのに、隣でにこにこと褒められ、労り続けられたら居心地が悪すぎて居たたまれない。どうか遠慮してほしいとレイは頭を下げてルカに懇願した。ルカは嬉しそうに笑って、先輩命令ねと軽く答える。



「じゃあ、約束だよ。自分に厳しくしたら徹底的に労ってあげるから。隊長やコウにも手伝ってもらって」



「。。。あ、ある意味地獄かも。。。」



ルカから褒められても居心地が悪くこんなに苦しいのに、リュウガやコウが加わったらもっと恐ろしいことになる。想像しただけでも怖い。それよりも気持ち悪いし、正直ドン引きしているが自分で自分を褒めて労った方が何倍もいい。資料を綺麗に整理するのは昔から簡単にできたのでいまいちピンと来ないが、ルカの言うように凄いことなのかもしれない。認めないとルカから上乗せで褒められるので、自分は凄いんだ、そういうことにしようと思った。



「うん。そうしてくれたら、レイに任せてお風呂に入ってくる。お腹空いたから、おでん食べるね」



「あ、はい。キッチンにありますよ。お皿に盛ってあるので温めて食べてください」



何とかルカも納得してくれたようで、ホッとする。気を取り直してファイルの詰まった段ボールを持ち上げ資料室へ行こうとすると、自分の席に戻っていたリュウガと目が合った。にやにやと楽しそうな目をしている。面白いものを見つけた!コウにも言おうかなと横目でチラチラ目を動かした。



「隊長。。。黙っててください。もう何もしないでください。俺、ちゃんと自分を労って、褒めますから!大切にしますから!!」



「ほうほう。いや、レイくん、俺、何も言ってないよ。何も聞いてないよ」



「いや、お願いですから!!!」



絶対面白がっている。自分を労るのは慣れないしちょっと間抜けな感じもするが、厳しく接してリュウガにからかわれるのはもっと嫌だ。楽しそうにパソコンを打ち込むリュウガに念を押し素早く資料室へ段ボールを運んだ。



地下の書籍部は上品なランプが所々に置かれていて、目に優しい空間にもなっている。資料室の電気を点けるととりあえず段ボールを床へ置き、綺麗に整頓された棚にファイルを収めていった。書籍部ができてから10年以上だ。ここには営業部の活動した報告書が大切に保管されている。急にその重みと優しさが体に伝わってきて、レイは噛み締めるように棚を見上げた。



「一昨年のファイルは。。。これだ、ここから段ボールへ入れよう。それにしても、たった3人でこれだけの報告書をデータ入力して整理していたなんて。。。凄いよ。。。」



欲しい報告書のファイルをすべて段ボールに入れた後、さらに奥の棚へ歩みを進める。暗く湿気が多い場所なのに、快適な気持ちいい空間になっている。よく見れば空気清浄機があり、最新型の湿度計も備え付けられていた。



「こ、細かい。。。これ、隊長だ。絶対、隊長がやってるんだ」



またリュウガの隠れた配慮を目の当たりにして、あの人はどこまでやってるんだと驚愕する。自分や先輩たちの報告書を心底大切に思ってるんだなと改めて実感した。



「凄いな。。。っと、ヤバい。今は3人の報告書をまとめないと。じっくり見るのは落ち着いてから」



じんわりと心に広がる温かい気持ちを振り払って、1年分のファイルが入った段ボールを持ち上げる。電気を消して自分の席に戻れば、机の上には美味しそうなココアがのんびりと湯気を立てて置かれていた。



「レイ、作業をするのは夜中の1時までね。時間になったら止めるから、やれるだけやって~~」



手元のパソコンをじっと見つめ打ち込みながらリュウガの朗らかな声が聞こえる。打つスピードとは対照的に遅く伸びやかな口調に、レイは思わず笑って、はいと返事をした。この人が自分の上司なのだ。そんな事実を今さらのように強く思った。



机の上に置かれたココアをゆっくり口に含めば、ほどよい甘さと共にふんわりとした温かいものが口を通して伝わってくる。資料室へ行っただけなのによほど力んでいたのか、強張った肩からふっと力が抜けていく。思わず息を大きく吐くとパソコンを打つリュウガがにんまりと笑った。



「ずいぶんな量になったね。大丈夫?ボウちゃん」



こたつにいたコウがスマホを片手に持っていつの間にかそばにやってきた。時々振動しながら光るスマホの画面を見ては器用に文字を打ち返している。へーとかふーんとか明るい声を上げながらレイに生チョコを薦めてきた。



「会える人が決まったよ。人事部の社員さん。アルのパソコンを見てた人の関係者なんだけどね」



「は、早いですね。。。」



そう?と首を傾げてコウは不思議そうな顔をした。リュウガの指示が飛んでからほんのちょっとしか経っていない。コウの人脈の広さにびっくりする。アルのパソコンを見ていた社員はレイも顔しか知らないので、どんな人物なんだろうと興味をそそられる。



「ショウちゃんからの紹介。会社にも内緒だったんだけど、人事部の社員さんとパソコン見てた人は大学の先輩後輩なんだって」



「ほー!マジかー」



「大学からの。。。ずいぶん長い付き合いですね」



コウはスマホを見ながら物語の続きを読むようにチャットの内容を読み上げた。なんでも古河商事の人事部として働いていた社員にパソコンを見ていた社員から急に連絡が入ったらしい。二人は大学の柔道部に所属し技を磨いた仲で体育会系特有の繋がりを持っているため、人事部の社員は先輩である小宮シティの社員からのお願いを絶対叶えなければならないそうだ。コウは読みながら、うわ!僕、無理!と顔をしかめた。



「先輩から古河商事に入社したいと連絡がありました。急だったので驚きましたが、そういう相談は多いので社内での募集を先輩に教えました」



「ふむふむ」



「まあ、事前にわかるって良いですよね。よくある話じゃないですか」



リュウガとレイもそれぞれ感想を言いながらチャットの内容に耳を傾ける。相変わらずコウは先を読みながら、えー!と嫌そうな顔をした。先が気になるリュウガはパソコンを打ちながら体を大きくコウへ向けている。



「情報ではなくポジションを用意してくれとそれとなく要求され、どうしようか迷いました。しかし私は一介の社員ですから、実現が難しいことを何度も伝えました」



「。。。ポジション。。」



「それはそうですよ。いくら先輩でも」



チャットを読むコウの声から段々と抑揚がなくなり棒読みになってきたが、リュウガもレイも気にしていない。後輩である社員の行動に納得してレイは深く頷きながら分厚いファイルを取り出した。



「先輩の声から何か深い訳があると感じたので、直接会って話そうと誘いましたがなぜか断られました。その後、中途採用が急に始まり何人かの履歴書が届きました」



「ほうほう」



「そのほとんどが小宮シティからの転職で、これは何かあると怖くなり、再度先輩へ連絡しましたが繋がりませんでした。社内で先輩に会っても話をはぐらかされました」



「え?」



ファイルからちょうど話していた社員の報告書が見つかり、レイは付箋を貼ってコウを見た。表情がぐったりしている。目の辺りがピクピクと動いて、口の辺りから小さな呟きが聞こえた。



「もう、何なの?その先輩引っ張って問い詰めればよかったのに。そうできないのが体育会系ってやつ?」



「コウは無意味な上下関係が嫌いだからなぁ。それで、会うことになったの?」



怒りを露にしたコウにのんびりとリュウガは声をかけて、良かったねぇとにんまり笑った。心のもやもやしたものを吐き出せば、人事部の社員も少しはスッキリするだろう。古河商事との繋がりがこうも簡単にわかるとは思っていなかったが、それもショウが真相を暴くために走り回っているのだなとリュウガは感じた。



「目に見えなくても知らないうちにたくさんの人たちを巻き込んでるよ。嫌な想いをさせてなかったことにするってさー。うん、でも良かったかもね。明日会ってくる」



「連絡を取って来たのはいつだったんでしょう?営業部の低迷していた7月から11月くらいでしょうか?」



アルのパソコンを見ていた社員の報告書を眺めてなんとなくコウにも見せた。報告書を覗きこみながらコウは軽やかに口を開く。紙一面にびっしりと書かれた文字を見てまた顔をしかめる。今日はこんな顔ばかり見ている気がするなとレイは思った。



「真面目に書いてるのにね。連絡は去年の5月頃だって。3人の不正な売上が上がった時期と重なるね」



「不正な売上。。。3人で1000万でしたね。商品はノートパソコン。。。」



軽やかに打っていたリュウガが手を止める。一昨年5月の営業成績のデータを手に入れたらしい。話していた二人にちょいちょいと手招きして自分のパソコン画面を見るよう促した。画面には3人の営業成績がデータ化されて商品名と売上がずらりと並んでいる。



「一昨年ってアルのパソコンを見ていた社員はチームリーダーだったんだー。ほら、レイの先輩の成績もあるよ。凄いじゃん!社内で8位!同期の社員はどう?」



「こ、こんなデータがあるなんて。。。俺の成績もあるんでしょうね。。。えーと、あいつは。。。99位。かなり下の方です」



二人ともかなりの成績を上げており、若い同期の社員はノルマをかろうじて達成している。よくある状態で何も怪しいところはないとリュウガとコウは頷いた。



「ここからだろうな~~、何か出てくるのは。それがさー、変な話、去年の5月から遡って調べようとしたんだけど、異様にセキュリティが激しいから一昨年の5月にトライ♪したんだよー。まあ、営業部の成績が一番悪かった時期だから、かもしれないけど、おかしくない?」



「うーん」



「ねぇ、おかしくない?」



リュウガは口を尖らせて、おかしくない?としつこく繰り返した。何か構ってほしいんだろうなぁと妙なプレッシャーを感じて、レイはコウからもらった生チョコをリュウガに薦める。ぶちぶちと文句を言っていたリュウガは、驚いた顔をしてレイを見つめた。



「レイ!!何、その、空気読める感!コウ、レイが急成長を遂げているぞ!!」



「いや、誰でもわかりますよ。隊長、生チョコ食べて機嫌を直してください。じゃあ、データを手に入れるために時間がかかるんですね」



「うん。残念だけど。どうも保存されている場所がバラバラなんだよね。いつもは同じ場所にあるのにさー」



いつもは?なんとなく聞いてはいけないような予感がして、頭に過った言葉を何とか飲み込み机の上のココアで口元を隠した。本当に書籍部は特殊なところなんだなと思う。自分も報告書をまとめて新しい情報を手に入れたい。温かいココアを一気に飲み干し、息を大きく吐いて気合いを入れた。



「隊長、朝礼の資料まとめた?なんなら、僕しようか?隊長は最後の報告だけ書いてくれればいいし」



「おうおう、ありがとなー。ほとんど終わっちったのさ。そうだなぁ。明日は報告書も多いだろうし、今のうちに休んでてくれ。明日は俺もレイと夕方出掛けるし、休めないかもしれないぞ」



「オッケー♪」



人事部の社員とのチャットを終えてコウは笑って自分の席へと戻った。休む準備をするコウを見送って手元のファイルをパラパラと捲る。リュウガも自分のパソコンへ視線を戻し、データの在処を探っていく。それぞれの作業に没頭していると、元々静かだった地下は心地よい静寂の中に包まれていた。



それからどれだけの時間が過ぎたのかわからない。レイが一昨年7月前半の分厚いファイルを閉じた後、フルートの美しい音色が響いて夜中の12時がやってきたことを優しく伝えた。付箋をつけた箇所をもう一度確認してみると、ざっと見ても100枚は越えている。これを全部集中してルカは見直すのかと思ったら、ルカの疲れが心配になった。



「2ヶ月半でこれほどの量なのか。。。調べるって地道だな。。。」



自分が営業という仕事をしている裏で報告書がこのように保管されて、何かあれば報告書を探して深く検証してみる。営業部の頃、先輩たちから厳しく報告書を書けと言われていた理由が少しだけわかった気がした。



「営業に行き詰まった時、書籍部からのデータをたくさん見た。何度も調べた。でも、報告書そのものから調べるって量も作業も全然違う」



付箋をつけた報告書を開いて見てみると、データとは違う自筆の感情を感じた。まるで書かれた文字がその時の感情を受け取って閉じ込めているような。



「地道な作業から得た情報は、ただの情報じゃなくて人の想いが宿っている気がする。膨大な情報の一部だけど、それぞれに想いがあるんだな。。。」



報告書の数と自筆から感じる不思議な力にレイは大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。同じ姿勢で整理していたので、肩の辺りがゴキゴキと痛い。もう12時を過ぎたのかと大きな時計を見上げた。



「隊長、疲れました。休みます」



「おー、レイが自ら進んで休もうとするとは!何とか役に立ちたいと力んでいたレイが自ら休もうとするとは!」



「何度も言わないでくださいよ」



本当はもう少しやりたかったが、疲れた状態で不思議な力が宿っている報告書を整理するのはなんとなく失礼な気がした。誰に?なぜ?と頭の中で自分に問いかけてみたが、胸の辺りにある心が、失礼だと思うから休むとはっきり伝えてくる。にやにやと嬉しそうに笑うリュウガに、このことは伝えたくないなと思い、休みます!と強めに言って軽く睨んだ。



リュウガの嬉しそうな顔が照れ臭くてレイは少し乱暴にファイルを片付けた。帰ってくるルカに見てもらう分を綺麗にまとめると、もう一度大きく息を吐く。日の当たらない静かな地下の知らなかった心地よさに、心が震えたような気がした。



「レイくんや、朝から働きづめでなかったかい?お風呂に入って、のんびりまったりしたくないかい?」



「何ですか?それ」



反抗的な態度を取ってもあいかわらず楽しげなリュウガの方へ視線を向けると、先ほどまでパソコンに向かい合っていた姿は跡形もなく消え去り、ウキウキと荷物をまとめて出掛ける準備を終えたリュウガがいた。いつの間にそんな身支度を整えていたのだろう。自分はファイルを簡単に重ねただけだ。



「ほらほら、ボーッとしてないで!レイくんや。面白い。。。いや、寛げる穏やかなお風呂に行くぞ」



「え?あ、は、はぁ」



ものすごいスピードでレイの荷物がバックへと詰め込まれていく。これもいる?あれもいる?などとテンポよく聞かれ、凄まじい迫力と期待を込めた目に何とか頷いたり首を横に振ったりして意思を伝えてみた。たどたどしいレイの返事に臆することなく俊敏に応え、あっという間に外へ出る準備ができてしまった。



「ほらほら、着替えて、着替えて。あ、それでいいなら、行くよー。夜中だからパジャマでも違和感ないから」



「え?いや、ちょっと。さすがにラフ過ぎます。ちゃんとシャツを着て。。。って何ですか!?隊長、その服!!」



リュウガの背中には、行ってきますという大きな文字が書かれ、ズボンのお尻付近には捜さないでくださいと可愛く書かれてある。服に付いたパーカーには熊のヒョコっとした耳も垂れ下がり、何かの仮装パーティーにでも出席したかのようだ。



「た、隊長。それで外へ行くんですか?え?いつもこれで行ってた?頭にパーカーを被って?」



「おうおう。夜中だからなー!やっぱ、こう影の如く、ささささっと外に出たいじゃん。顔を隠すのは忍者の鉄板だからね」



「。。。。」



そういえば聞いたことがある。営業部の先輩たちがプレゼンの打ち合わせに夢中になり真夜中まで会社に籠って仕事をしていた時期。夜食を買いに行こうと外へ出掛けた社員が顔を真っ青にして戻ってきた。財布だけをかろうじて握りしめ、ガタガタと震えながらしばらく何も話そうとしない。ただ事ではないと判断した先輩たちは震える社員が指差す方向を思わず見つめた。



視線の先で何か大きな得たいの知れない丸い耳を持った黒い物体が音も立てずに動いている。ゆっくり動いていたかと思えば信じられないほど速く動き、時には身もよだつような声を上げて社内を動き回っていた。



このままではいけない!ここは仕事場なのだし、もしこの世に未練を残した幽霊ならきちんとお祓いをしよう。とにかく正体を暴こうと社員たちは決意した。得たいの知れない黒い影が去った方向を見計らって、体格のいい社員が二人かがりで待ち構える。息を潜めて気配を探っていると、突然目の前が真っ暗になり、気づいたら営業部の自分の机で気を失っていたそうだ。



「レイ、信じられるか?ご丁寧にもその幽霊は、それぞれの席に社員を座らせてコーヒーまで淹れてくれたんだぞ」



「俺たちはやめたよ。正体を暴こうなんて野暮なことをするのは。きっと、幽霊のように振る舞ってシャイな奴がコスプレを楽しんで本当の自分を解放しているのさ」



「いいじゃないか、秘密くらい。シャイな奴の舞台を汚しちゃいけないよ」



それからというもの営業部の残業は大幅に減り、夜中の社内では一人で仕事をすることが禁止されたのである。



「あなただったんですか。。。先輩たち、みんな微笑ましく見守っていましたよ」



「え?レイもやりたいの?しょーがないなー!今度、コウに色違いを買ってきてもらうから。何色がいいの?黄色?青?」



楽しげに歩き出したリュウガに続いてレイも後ろをついていく。お風呂に行くつもりだと言ったので、ずっと行きたかったスーパー銭湯かもしれない。いつも自分のマンションに帰りシャワーを浴びていたレイは一緒に行ける喜びを隠しながら、いりませんよ!と隣のリュウガに言った。



机のそばで布団の心地よさを楽しんでいたコウは二人に軽く手を振ってゆっくりと休んでいる。セキュリティのため分厚い扉を静かに開けて薄暗く光る古びた通路を歩き、エレベーターの前でボタンを押した。



「隊長、ほんと自由ですよね。。。どんな風に育ったんですか。どこでも生きていけそうな気がします」



「ほほほ!レイくん、自由なんて求めれば誰でも手に入るのさ。自分を縛ってるのは案外自分自身なのだよ」



静かな暗闇にリュウガとレイの声が響く。シンと静まり返った空気に不思議と恐怖を感じず、なぜか温かい。リュウガの言った意味がよくわからなくて、レイは感情を隠さず渋い顔をした。



「誰が好き好んで生き辛い道を選択しますか?俺も自由になりたいです」



「ほー、レイは今の環境に縛りを感じるの?」



のんびりと聞き返すリュウガに無言で頷いてレイは面白くなさそうにエレベーター内部へ視線を向けた。古びた内部には傷がたくさんあるものの明るい照明のおかげで寂れた感じはない。書籍部に配属されて過ごしているうちに強烈な焦りや苛立ちは少しずつ小さくなっていったが、自由というのびのびした感覚には到底なっていなかった。



いつも心のどこかで父親や営業部や人の目を気にしている。自由を謳歌しているリュウガやコウ、穏やかなルカと一緒にいても、どこかで誰かが自分のことを見張っているような、責めているような居心地の悪い緊張を感じた。



「あれはダメ、こうでなければならない、こんな自分は最低だ。もっとがんばって努力して立派にならないと」



「ならないと?」



「。。。ダメな気がするんです。根拠ないですけど。もっとがんばって、努力するのが偉いっていうか。自分を追い込んで凄くならなきゃって」



書籍部のメンバーと一緒にいると、認められたい褒められたいという飢えにも似た渇望が消えていき、自分は自分でいいんだと安心できる不思議な心地よさを感じる。それでも一旦地下を出て外へ踏み出せば、自分への厳しい監視の目は激しく存在を主張しどうしても緊張してしまう。レイの話を聞きながらリュウガは珍しく、うーんと唸った。



「こりゃ、思った以上に辛かったのねー。ごめんね、レイ。俺、レイの悲しみや苦しみをナメてたよ」



「え?」



リュウガはゆっくりと手をレイに向けて優しく何度も頭を撫でた。撫でられているレイは何が起こっているのかわからなかったが、頭の辺りを柔らかい物体が何度も動いているのをとりあえずそのままにしておいた。リュウガはリュウガなりに反省しているらしく、頭を撫でながら何かを考えている。レイが何か言おうとした瞬間、リュウガののんびりとした声がエレベーター内部にじんわりと響き渡った。



「レイは自分に厳しくなっちゃったのね。自分がもっとがんばって、もっと努力して。そんで、お父さんを助けてあげたかったのかな」



「え?」



「お父さんが誇れるような、お父さんが笑顔になるような。凄くて立派な息子になってお父さんを幸せにしてあげたかったのかな」



何度も撫でてくる温もりがなんとなく父親のことを思い出させた。自分よりも大きく、よくわからないけれど心をざわつかせる存在が自分を大切だと伝えてくれる温もり。幸せにしてあげたかった。リュウガのこの言葉に胸の辺りから何かじんわりとした落ち着かない悲しみがジクジクと音を立てて溢れてくるのを感じた。



「レイはすごくお父さん想いなんだね。お父さんのこと、大好きなんだね。うんうん。よしよし。いっぱいがんばったねー」



「。。。。」



「今はわからないかもしれないけどさ、お父さんの幸せは、レイが幸せになることなんだよね。レイが幸せなら、お父さんも幸せなんだよ」



リュウガの言っていることがよくわからない。まるで中身のないペラペラの言葉を頭から浴びているようだ。普段よりも落ち着いた穏やかな声からリュウガの深い優しさが伝わってきて、レイは何とかこの言葉の意味を理解しようとじっと耳を傾けた。



自分が幸せになることが、父親の幸せ。自分が幸せなら、父親は幸せになる。



今まで考えていたことと真逆の、しかもずっと自分の幸せなんて考えず痛め付けることばかりしていたレイにとってどうしても強烈な違和感を感じた。



「え?そ、そうですか?俺はそう思えません。俺なんて幸せになっても。。。幸せを感じて心から笑っても評価や結果を出さなきゃ、父親は認めない。。。」



「。。。。」



「優しく、穏やかに笑ってくれませんよ」



遠い昔、頼もしくて誇らしい父親の大きな手が好きだった。優しく強い力で頭を撫でられるのが大好きだった。時が経ち成長するにつれて優しく大好きだった父親は変わってしまった。何かに怯え何かを背負い、昔のように笑ってはくれなくなった。



「俺、何が悪かったんですかね。どうすれば良かったんでしょうか、隊長」



あの頃と同じように自分の頭を何度も撫でてくれるリュウガにレイは言った。優しかった昔の父親に聞いてみたい。真っ直ぐに見つめるレイにリュウガは何も言わず、ただ優しく頭を撫でるだけだった。



しばらく撫でられているとエレベーターが1階に着いたことを知らせる軽やかな音が鳴り響いた。リュウガは手を静かに下ろし開いた扉の先を見つめる。真夜中の社内に残るわずかな光に包まれて豪華なエントランスが二人の前に広がった。



「楽しいことをしよう、レイ。心がワクワクすることを。心から笑えないのなら、笑えるものを一緒に探せばいいのさ」



いつもの軽い口調でリュウガははっきりと言った。薄暗い視界なのに不思議と恐怖を感じない。リュウガに釣られるように前を向けば視線の先には外から帰って来たルカが嬉しそうに手を振って駆け寄ってくるのが見えた。



小宮シティの薄暗い照明が所々にエントランスを照らし、嬉しそうにやってきたルカを優しく出迎えた。出掛けた時よりもスッキリした顔で二人に笑いかけ、穏やかな目で見つめている。



「これからお風呂?隊長、一段落ですか?」



「おうおう。真面目なレイくんに楽しい遊びを教えるだよ。分かち合いさ~」



「あはは!」



レイに話しかけた後リュウガに調査の進み具合を聞いたルカはリュウガの答えに思わず明るく顔を綻ばせた。隣にいたレイに、いってらっしゃいと明るく言うとまだ閉じていないエレベーターへ行こうと歩き出す。じわじわと溢れてくる感じたくない痛みに気を取られて、レイはぼんやりとしている。そんなレイを気にすることなくルカは明るく話しかけた。



「あ、そうだ。レイ、俺のおすすめはプラネタリウムだよ。温かいお風呂に入って、クールダウンに寝っころがるの。やってみてね」



「え?プラネタリウム?スーパー銭湯にあるんですか?」



応えるようにルカは楽しそうに笑いじっとレイを見つめた。その笑顔がだんだん消えていき不思議そうに首を傾げている。どうしたのかなと思って思わず目を反らすと、すぐそばで小さな息のような微かな音が聞こえた。



「隊長。。。レイ、元気ないです。やっぱり無理しちゃったのかも。。。」



「でしょ?でしょ?俺もそう思ったんだー。だから、とっておきのお風呂に連れていこうと思って」



ルカの心配そうな声にリュウガは大きく頷くと持っていたバックからビニールのようなものをちらりとルカに見せた。ルカは安心したように、大丈夫ですねと嬉しそうに笑った。



「明日は忙しくなるから、ゆっくり休んでね。コウも今頃布団のなかでぬくぬくしてるから」



「はい」



優しい顔のまま嬉しそうに頷くとルカはエレベーターへ歩いていく。何も言えずボーッとしていたレイは慌てて声をかけようとしたが、ルカには届かずタイミングを逃した手がブラブラと目の前で揺れた。リュウガは取り出したビニールをバックに閉まってのんびりと見守っている。



「俺、そんなに落ち込んだ顔してます?」



「ほほほ」



あまり心配させたくないし、できれば自分の感情は自分で決着をつけたい。誰の手も借りずに誰にも気づかれることもなく。心の中に湧き起こった苦しいほどの不思議な痛みを感じていると、隣にいたリュウガは楽しそうな足取りで小宮シティの玄関を出ていく。自分の気持ちとは正反対のリズミカルな動きに何とも言えない脱力感を抱えレイは後を追った。



真夜中の肌寒い空気が玄関から一気に吹き付けてくる。顔や指先で冬の冷たい痛みを感じると急に頭がクリアになっていって妙に冷静になった。そういえばこんなに感情的になる自分は珍しい。成果を上げたり役に立つ存在だと知らしめることばかり考えていたのに。いつも通り楽しく前を歩く背中をレイはぼんやりと見つめた。



家族連れや仕事帰りのサラリーマンに人気のスーパー銭湯は小宮シティからほどよい場所にある。今までの銭湯とはイメージが異なり、大きなプールのような大浴場から一人の時間を楽しめる個室まで様々なお風呂が用意されていた。初めて来たレイは豊富なお風呂の種類と数に圧されてポカンとしていたが、リュウガは迷うことなく突き進む。夜中だと言うのに利用客は多く、色っぽい女や体格のいい男が横を通り抜けていく。想像以上の利用客に気を取られ思わず興味を引かれて見ていると、不意に筋肉ムキムキの背の高い男と目が合い上からじっと睨まれた。



「。。え?。。え!?」



目を反らすタイミングを逃してしまいどうすればいいかわからない。口から戸惑いの声が情けないほどはっきり聞こえてくる。どうしようもなくてただ見つめ返していると、急に男はレイに片目を閉じて、うふ♪と嬉しそうに笑い、何事もなく去っていった。



「。。!?。。!!??」



「あーもー、レイ。何ボーッとしてるの。ここ広いから、はぐれちゃうよー」



いつの間にかリュウガがそばにいる。強い力で背中を押され体がバランスを崩し転びそうになった。咄嗟に足を踏みしめ、こういう時は手を引いてくれるものだろう!と突っ込みたくなったが、27にもなって上司に手を引いてもらう自分を想像してげんなりした気持ちになる。出そうになった文句を何とか飲み込んで背中を押すリュウガを振り返ると、当の本人は気にすることもなく知らない人たちに向かって楽しそうに手を振っていた。



「おや、リュウガちゃん。今日は一人じゃないんだね」



「そうなのよー。寂しい想いを抱えたウサギさんを一緒に連れてきちゃった!ほら、寂しそうでしょー」



「誰がウサギですか!!」



知らない人たちから、穏やかなまなざしを受けてなんだか生温い空気が漂う。ここに来られて良かったねぇと爽やかに微笑まれレイはどう反応していいのかわからなくなった。



「寂しさはどうしようもないよねぇ。ほら、これあげるから元気出して。美味しい牛乳が飲めるよ」



レイの目の前にキラキラ光る名刺くらいのカードが差し出された。わけもわからずカードを見ていると何か期待を込めた目で見られ、周りにいる穏やかな目が一層細められた。受け取らなければならない気がする!リュウガを見るとうんうんと大きく頷き、良かったなぁと呟いている。



「え、あ、ありがとうございます」



「そうそう。寂しいウサギちゃんにはあったかい愛だよねぇ。そのカード見せたら特典があるからね。来るたびに見せるといいよ」



レイが金ぴかのカードを受け取る姿を見届けて、周りに集まっていた見知らぬ人たちはそれぞれの好きな場所へゆったりと歩いていく。まるで渡り鳥が次の場所へ飛び立つように優雅に去っていく背中を見つめながら、レイは隣でウキウキとビニールを膨らませるリュウガに、どういうことですか?と聞いてみた。



「ここはさー、真夜中でも開いてるじゃない?24時間営業だから当たり前だけど。でね、悩みを抱えた人たちが気晴らしにやってくるんだわぁ」



「お風呂にですか?」



「そうそう」



持ってきたビニールが膨らんで徐々に形が見えてきた。水の上でも寝転がれるかなり大きいサイズらしい。リュウガはバックからもう一つビニールを取り出しレイに空気を入れるよう促した。なんとなく話の続きが気になって受け取ったレイはリュウガの隣でビニールに空気を入れていく。二人のそばを今度は10代くらいの金髪のグループが通りすぎていった。



「ここのオーナーはとても面白い人でね。若い頃からいっぱい悩んで。悩んで悩んで悩みすぎて気が休まらなかったんだって。んで、唯一心がほっと楽になったのはお風呂だったんだってさ」



リュウガが大きく息を吸ってビニールに空気を入れると弱々だったビニールの表面がピン!と強く弾いた。空気を入れる穴をしっかり閉めるとリュウガは満足そうに笑って片手にビニールを持ち上げる。準備ができたと言わんばかりのリュウガにレイは慌てて勢いよくビニールに空気を入れていった。



「ゆっくりいいよー。それでね、とにかく自分はお風呂を作りたい。悩んでいる人には心が安らぐようなプレゼントを贈りたいって言ってこのスーパー銭湯を作ったんだって。ここに来れば一人で悩むより明るくていいだろうからって」



「。。。。」



「銭湯だけどさー、いろんな人がいるんだよ。一人でお風呂を楽しみたい人、大勢で一緒に入りたい人。美容のために来る人もいるよね」



持ち上げたビニールをポンと軽く天井に向かって投げて弾力を確認してから横に置き、軽くストレッチをするように腕を伸ばした。天井にはほどよく光る照明がたくさん設置されていて大きなスーパー銭湯を明るく照らしている。



「でも真夜中ここに来る人って結構悩んでいる人が多いんだわぁ。この時間帯で明るいところって周りに少ないし。だからかもしれないけど、寂しいとか悲しいとか聞くと、みんな何かを与えたがるんだよ」



リュウガの話を聞きながらレイは何とかビニールに空気を入れ続けた。先ほどそばを通りすぎた若者たちが大浴場でのんびりとお風呂を楽しむ老人たちと話をしている。髪の毛を触ったり背中を流したりなんだか楽しそうだ。



「何かを与えると顔が明るくなるんだよね。んで、明るいところが好きになって悩みが少し軽くなる。今まで思い付かなかった、いろんな考えや世界を感じられる」



空気を入れたビニールがしっかりと形になって、抑えても跳ね返るくらいの弾力を持った。もう少しリュウガの話を聞きたいと思ったレイは真面目な顔をしてリュウガを見つめる。視線を受け止めながらリュウガは穏やかに笑って、この先の温水プールへ行こうと歩き出した。



大人一人乗れるくらいの大きな板になったビニールを抱えながらリュウガとレイは温水プールがあるという奥へと歩みを進めた。温泉施設と言っても利用客は水着を着ており、さながら巨大なリゾート施設のようだ。これで入場料がお手頃価格なので、人気があるのも頷ける。



「ルカさんが言っていたプラネタリウムの部屋も行ってみたいです」



「ほうほう。んじゃ、温水プールを楽しんでから行こうかー」



奥へ行くほどに利用客が減っていく。リュウガおすすめの温水プールはあまり人気がないのかなと思いながら軽い足取りに着いていくと、トンネルのような暗いドームが見えてきた。近づくにつれてどんどん暗くなっていく。大浴場の昭明と比べて、数が少ない照明が小さな光を放つ星のようにぽつぽつと輝いていた。



「ここからこのビニール板に乗って行くよー。ささ、準備して」



「へ?」



ぼんやり光る看板に、ここから温水プールですと光る文字が浮き上がっている。強く光るわけでもなく注意を促すわけでもない、ただぼんやりとした淡い光になんだかやる気のなさを感じて、レイは思わず口元が緩んだ。このくらいのゆるい感じが心地よい。賑やかで明るかった大浴場もそれはそれで元気が出たけれど、この薄暗いのんびりとした温水プールも良い。



「準備ってなんですか?わ!それに乗って?」



リュウガは温水プールの入り口と書かれた看板のすぐそばにある、ほどよい温度の水面に大きなビニール板を浮かべてその上に自分の体をゆっくりと乗せた。仰向けに寝転がって気持ち良さそうににんまりと笑っている。



「レイもおいで~~」



のんびりとした声が温水プールの流れに沿って遠くに離れていった。想像とは違って川のように伸びている不思議なプールだ。慌てて持っていたビニール板を温かい水面に乗せて体を思いっきり乗せてみると、バランスを崩して足がプールに勢いよく入ってしまった。緩やかな流れに身を任せたリュウガは、先へ進んでしまってもう見えない。



「なんなんだ、このプールは。それにこの天井。ジャングルの中にいるみたいだ」



案外底が浅いプールに足を着けて立ち上がるともう一度ビニール板に自分の体を慎重に乗せた。ひっくり返るかと思いきや、見た目以上に浮く力が強いらしい。レイが何とかビニール板に乗って足が離れると、水の緩やかな流れに従ってゆっくりと押し流されていく。少し体を大きく動かして体制を整えてもビニール板はビクともしなかった。



「何だろう。。。この流されてる感じ。。。」



リュウガのように寝転がる気分になれず慣れない状態のまま何もすることがないので、目の前の視界に展開されていく風景をぼんやりと見つめてみた。一面を覆う木々の映像が両側からゆっくりと通り過ぎていき、よく見ると所々ふんわりと揺れている。重なった緑の隙間から美しい青と輝く光がチラチラと目の中に飛び込んできた。



力を入れてもビニール板は崩れない。川のように流れる温水プールのスピードもそんなに速くない。よく見るとプールを囲むドームはすべてスクリーンになっていて、木々や飛んでいる鳥たちは映し出されている映像のようだった。今は森の中らしい。



「面白いなぁ。こんなお風呂あるんだ。。。」



鳥たちの軽やかな鳴き声や風がなびいて木々を揺らす音もどこからともなく聞こえてくる。どんな仕組みになっているのかわからないけれど、だんだんこの温水プールがこういった映像と共に流れていくものだとわかってきて、座っていた体をゆっくりとビニール板に横たわらせてみた。



水の上にプカプカと浮いている独特の感触。何もしなくても心地よいペースで進んでいく水の流れ。寝転んだ視線の先には綺麗な緑と光が穏やかに広がっている。



やがて緑の木々が少なくなっていき、はっきりとした青空の色が次第に淡くなっていった。薄い水色になったかと思ったら藍色の深い濃い色に変わっていく。視界の大半を占めていた木々や飛び回っていた鳥たちも姿を消して藍色の色彩を背景に不思議な星たちがゆっくりと輝きだした。



月がレイの右上にある。月の光に照らされて星の大群が辺りをぐるりと囲みだす。青々とした美しい緑の木々が影のように寄り添って視界に広がる星の大群は群れを成すように静かに動き出した。



どこまでも広がる星たちの世界。優しい光を放つ月。地面のそばで静かに揺れてそっと見守っている影の木々。暗闇の静かな時間。レイは何も考えず、ただ目の前にある星たちの世界を見つめた。



辺りがぼんやりと明るくなる。先ほどの暗闇から少しずつ光が強さを増していき、藍色と光が混ざりあって仄かな紫色の柔らかい世界が広がった。そのまま見上げていると映像が消えていき、機械的な天井が視界の中に入ってくる。流れていたビニール板の速度ものろのろと遅くなり、やがて静かに止まった。



ビニール板から体を起こして周りを見渡してみると、ほどよい距離にリュウガがいて体をほぐすようにストレッチをしていた。



「レイ、どうだった?気持ちよかったら、あの通路を歩いていくと良いよ。また乗れるから」



「温水プールってこれですか?」



「うーん、プールはプールであっちに大きいのがあるんだけどね。みんなは川の温水プールって呼んでるよ」



不思議なプールだった。プールと言っていいのかわからないが、とても心地よかった。正直に気持ちを打ち明けると、珍しくリュウガは静かに優しく笑った。



「あー、もうすぐ3時かー。そろそろ戻らないと。レイも休んでおかないと明日が辛いねー」



「え?そんなに時間が経っていたんですか!?早いなぁ。それにお客さんがたくさんいて、とても夜中の3時には見えませんよ」



温水プールの終着点はビーチのように明るくゆったり寛げるオープンカフェになっていた。コーヒーや牛乳を片手にそれぞれの場所で思い思いに時間を自由に過ごしている。幻想的な世界からいつの間にか見慣れた風景に戻ってきたかのようだ。



「もらった金ぴかカードで牛乳をもらえるよ。せっかくだからもらって帰ろう」



リュウガがビニール板から空気を抜いていきクルクルに丸めて小さくしている。レイも同じように空気栓の穴を開けビニール板を丁寧に折り曲げていった。膨らますのは結構大変だったのに、片付ける時はあっという間に小さくなる。リュウガはレイからビニールを受け取ると二人分をバックに入れて、出店のような受付に歩いていく。リュウガも金ぴかのカードを持っているようで少し離れたレイにもカードを見せるよう促した。



「牛乳お二人ですね。温かいものと冷たいものとありますが」



「俺は温かい方がいいなぁ。レイは?」



「温かい方!?俺も温かいものをお願いします」



リュウガのことだからきっと冷たいものを選ぶだろうと思っていたレイは訝しげにリュウガを見た。繊細なんだよねーと胡散臭い笑みを浮かべるリュウガに何も言うまいと気を取り直して受付に注文する。わざとらしい。レイの視線を気にせずリュウガは受け取った牛乳をレイにも手渡してのんびりと出口の方へ歩いていく。道を知らないレイはその後に続いていった。



「プラネタリウム見せたかったなぁ。今日の川の温水プール、流れがゆったりだったから今度ね」



「え?いつも同じじゃないんですか?」



毎回あんな風じゃないのか。てっきり同じ映像が繰り返し映し出されると思っていたレイは驚いたように後ろを振り返って流れてきた川の映像を思い浮かべた。



「温水プールの担当者が毎日好きなように変えてるんだよー。流れの速さも好きなように。だから、どんな映像が見れるかはお楽しみなのさー」



「へー!凄いですね!じゃあ、また来ようかな。。。」



かなり凝っている。オーナーに限らず従業員もよほどお風呂が好きなようだ。ほとんどの利用客が大きなサイズのビニール板を持っている。きっとあの映像を見てここにたどり着き、明るい場所でゆったりと寛いでいるのだろう。柔らかい笑みを浮かべていたレイの隣でリュウガは美味しそうに牛乳を飲んでいる。出口に向かって歩いていると、リュウガのポケットから聞き慣れた着信音が流れてきた。



ポケットからスマホを取り出すとリュウガはのんびり画面をスライドさせて耳に当てた。嬉しそうににんまり笑うと小刻みに首を縦に振っている。器用に温かい牛乳を飲んで、そっかーと穏やかな声をあげた。



「んじゃ、戻ったら確認してみるわー。はーい、暖かくしてねー」



にやけた顔のまま通話を終えてうふふと笑っている。良いことがあったようでいつもより尻の辺りがふりふりしていてレイは後ろから何とも言えない気持ちになった。今までいろんな上司や年上の先輩たちと一緒に過ごしてきたが、こんなに楽しそうで気を使わない上司は初めてだ。仕事の延長なのに気を抜いていていいのかなとも思う。



「ルカがね、気になったみたいで報告書を見てみたんだって。一昨年の5月分ね。そんなに不審な点はなかったけど、レイの先輩、かなり好成績を上げてたみたいよ」



「本当ですか!」



レイは昔の先輩を思い出した。一緒に仕事をしたのは去年の5月、不正な売上が出た頃だ。初めて挨拶をした時に優しく握手を求めてきた姿がふっと頭に思い出された。



「報告書は25枚で丁寧に書かれてて、ルカが感じたのは充実感と達成感。とても幸せなんだなぁって感じたって」



「じゃあ、この頃は順調。。。それが先輩の本来の姿なんですね」



仕事先への挨拶回りも丁寧に教えてくれてとても頼りになる人だった。夜遅くまでプレゼンをした帰り道、二人で夜空を見上げながら缶コーヒーを飲みお互いを労ったこともある。早く成果を上げたいと片意地張っていたレイにとって数少ない心が休まる時間だった。



「うん。それからどう変わっていったか、だなー。んじゃ、着替えたら帰ろうか」



脱衣場に着くとリュウガは用意されている個室へ入り水着から普通の洋服へガサガサと音を立てて着替えていく。レイも隣の部屋で濡れた水着を袋に入れて普段の洋服へ着替えた。不思議だが他人と一緒にいるのにあまり緊張しない。以前は誰もいない自宅のマンションへ帰るだけだったのに、今はこうして着替えてまた仕事場へ帰ることになっている。しかもその仕事場には自分を待っている先輩がいるのだ。



「なんか、こういうのいいな。。。」



仕事に没頭して楽しいと思ったこともあったけれど、それはどこか早く認められたい、自分の力を見せつけたいというギラギラとした競争心だったのかなとも思う。隣の部屋から扉が開く音がして人の動く気配がした。いつも感じるがリュウガはいろんな動作が早い。



「おや、リュウガちゃん。もう行くの?外は寒いよー」



「今日は一段と冷え込むね。首にマフラーをしっかり巻いていくんだよ」



大浴場への道でもよく話しかけられていたが、リュウガはとにかく人から声をかけられる。社内でも何かと構われてにんまり笑いながら適当にのらりくらりとかわしていたことを思い出した。



「お待たせしました。大人気ですね、隊長」



「ほほほ!みんな優しいからねー。優しさをもらうと心も体もぽかぽかさぁ。帰り道はこっちだよー」



こういうのんびりとした、それでいて楽しそうなリュウガに惹かれていくのかなとレイは思った。リュウガを見ていると自分を大きく見せようとか部下に無理やり何かをさせようというそわそわしたものを感じない。好きなようにやればいいさ。口には出さないがそんな風にいつも言われているような気がした。



「これでうまく回ってるから不思議なんだよな。。。なんでだろう?」



「ん?何が?」



無意識に出た小さな呟きにリュウガは後ろを振り返ってレイを見た。聞かれていたことに驚きつつも、何でもないと慌てて答える。リュウガは首を傾げたがレイが言わないとわかると気にすることもなく前を向いて歩き出した。



「レイさぁ、人ってそのまんまで自分も人も幸せにするすごい才能を持ってるんだぜー。特徴は一人一人違うんだけど」



「え?」



「俺はさー。人を、この人はそのまんまで素晴らしい価値がある!って見てんの。この世に一つしかない唯一無二の素晴らしいものを持ってる!って」



「は、はぁ。。。」



リュウガは突然拳を握りしめると、すげぇ!と一人気合いのこもった声をあげた。二人の両側を利用客が笑いながら通りすぎていく。どうやら片手に持っている牛乳の味に感動して声をあげたと思われているらしい。つくづく人目を気にしない人だなとレイは目があった利用客に軽く頭を下げた。利用客は微笑ましく笑っている。



「自分も人も幸せにして豊かに暮らしていく力がある!って確信してるのよー。だから、うまくいかなかったり苦しかったりするのは、ちょっと迷っちゃったり道を間違えたからだと思ってるのね」



「。。。。」



リュウガの言っていることはよく理解できないが、そんな考え方もあるのかと正直驚いた。少なくとも自分は自分のことを何の取り柄もない、ただ幸運にも親が大企業の副社長だっただけだと思っていた。自分じゃなくてもよかったんだとも。むしろこれまでの人生を振り返ってみると人に嫌な顔をされたり、マンションや洋服など親から与えられたものを知られると嫌味ややっかみを言われたものだ。大した能力もないくせに親の力で営業部に配属されて。そんな陰口も飽きるくらい聞いてきた。



「だからさー。その人が何で迷っちゃったんだろう。自分で自分を追い込んでわざわざ苦しみや悲しみを選び続けたんだろうって考えてみたいわけ」



「先輩や俺の同期や、アルさんのパソコンを見ていた先輩のことですか?」



「そうそう」



人は本来自分や人を幸せにする力がある。にこにこと笑うリュウガを見ていると、この人は本当に幸せな人だなとレイは思った。自分のことも副社長の息子として特別扱いしなかったし、嫉妬や嫌味も言わなかった。レイが持っているマンションや会社での待遇もあまり気にならないらしい。



「隊長は何も思わないんですか?ほら、俺、副社長の息子ってだけでマンション持ってたり、特別に早く帰らせてもらったり」



「?」



「すごくいいお客様を紹介してもらえたり、売れやすい商品ばかり回してもらったり。それで営業して成績上げた時もありましたよ」



「ほー」



それが親からの支援だったと気づかず簡単に営業部で上位に入り有頂天になっていた頃もある。後からコネだとわかって居たたまれない気持ちになった。もうあんな思いをするのは嫌だし、自分の実力で何もかも成し遂げたい。苦しい気持ちが溢れてきたが、ふとリュウガだったらどうしたのかなと気になってきた。



「隊長だったら、どうしましたか?親が会社の副社長で小さい頃から何かと贔屓されて」



「ふむふむ」



「マンションも営業部の仕事も。。。何もかも親から手伝ってもらって。周りは妙に優しくて。でも、本心から笑ってなくて」



「ほうほう」



「気持ち悪いくらい、影では自分のことを無能だって言ってて。もっと苦労するべきだとか。楽してずるいとか」



話していて嫌になるが、どういうわけか言葉が次々と出てきて止まらない。話せば話すほど心の奥が少しずつ楽になっていく気がした。こういうことは誰にも話したことがない。自分は恵まれているのだから文句を言ってはいけない。愚痴や苦しい気持ちを抱えてはいけないと思っていた。



「本当に自分を見ているのか、親を見ているのかわからなくて。できることは全部やって、がむしゃらにやって。うまくいっても、それは影から親の援護を受けていたって気づいて」



「ほうほう」



「苦しくて苦しくて。悔しくて。どうすればいいかわからなくて。もやもやばかりしてて」



「ふむふむ」



夜中も繁盛しているスーパー銭湯からのんびりとした歩みで寒い冬の空の下を進んでいく。いつの間にか外に出て、レイから吐き出される息が白くなっても話が尽きることはない。まるで安心したかのように外へ出ていく言葉たちをリュウガは相づちを打ちながら静かに聞いていた。



心の奥に沈められた想いが温かい優しさに触れてするりと口から出ていく。恥ずかしいとも悲しいとも思わず、ただふわりと外へ零れ落ちて深い夜の闇へと飛び立っていくようだ。言葉は目には見えないけれど、もしこの言葉たちに形があるとすれば、丸く淡いぼんやりとしたものに小さな翼が生えて、広い広い夜空へと羽ばたいて行っただろう。



「忘れられない姿があるんです。父の。あの頃はまだ母が家にいて」



「おう」



レイの両親はレイが中学校を卒業して、ほどなく高校生活が始まった時期に別々の道を歩み出した。母親はいつの間にか去っていて、父親はあまり家に帰らなくなった。家族三人で暮らした一軒家は、にこやかな顔をした男たちが何度も訪れ、やがて売家となった。小さな頃ピクニックと称して弁当を広げたささやかな庭も、探検すると言って潜り込んだ屋根裏も今では他の人のものとなっている。



時が経つのは早い。家族で住んでいた一軒家は小宮シティから電車で行ける距離なのに、まるで何万光年も離れた地球と小惑星のように果てしなく遠く、昔よく利用した駅を通り過ぎただけで胸がジリジリと痛む。それでも星空の下で繋がっていると思えば、少しは寂しさも紛れる。絶妙なタイミングでリュウガが相づちを打つもんだから、悲しい思い出もなんとなく美しい思い出として話せているような気がした。



「両親の離婚の原因って、ぶっちゃけ母の浮気だったんですよ。俺が小学生くらいかな。父の仕事が忙しくなって」



「うん」



「いつも休みは家族と過ごしていたのに、会社からの呼び出しが多くなって。約束していたキャンプや映画や、買い物とか。行けないことが続いて」



レイは夜空に向かって大きく息を吐いた。勢いのあった白い息はあっという間に外の空気へ溶け込んでいく。何度強く息を吐いても同じように跡形もなく消えていった。



「ただ広いだけの家がどんどん豪華になっていったんです。見たこともないソファーや絵画、大きなテレビ。母の服装も綺麗で洗練されたものに変わっていって。家の中でもイヤリングやネックレスを身に付けていたな」



毎週のように母親と買い物に行った。きらびやかで上品なお店やキラキラ光る不思議な石がたくさん並んでいるお店。母親は商品を見ながら店員と話し、たくさんの紙袋をレイに渡してきた。



「母が笑うのは買い物をしている時だけでした。俺といても楽しくなさそうで。本当は父と一緒にいたかったんだと思います」



「うーん」



「寂しかったんでしょうね、母も。一人の女性ですし。俺、父がいないから母を守らなきゃって、そればっか考えてました」



父親のいない時間が長くなればなるほど母親は外へと買い物へ出掛けていく。やがて一人でも外へ遊びに行き、夜遅くまで帰ってこない日がだんだんと増えていった。



「お手伝いさんが帰りを待っていて、俺と入れ違いに帰っていく。母はどこに行ったかわからなくて。父に言った方がいいのか迷いましたが、なぜか、言えませんでした」



「んー」



「言ったら、きっと、傷つくだろうなって。父はたまに帰って来て、嬉しそうに仕事の話をしていましたから」



子供のように顔を綻ばせて幸せそうに話す父親に母親の現状を話そうとは思わなかった。母親もそんな父親を傷つけたくないのか、父親が帰ってくる日はいつも家にいて、よく家族で過ごした幼い日々の母親になってコロコロと笑っていた。幸せで穏やかな時間があっという間に戻ってきた。



「だからこれでいいかって思っていたんです。母も苦しいだろうから、黙っておこうと思って。でも、不思議ですね。本当の姿っていつかわかる時がくるんですね」



「ん。。。」



「母が他の男の人と付き合っているのがわかって。どういう経緯で知ったのか話してくれなかったけど。それから喧嘩が増えて」



「うん」



「毎日が嵐のようでした。学校から帰ってくると外まで声が響いてましたもん。近所の人たちが気を使って家にしばらく置いてくれたり」



当時のことを思い出そうとしてもうまく頭に浮かんでこない。とにかく知らない人の家を転々として、馴染みのない部屋にあったテレビの映像をぼんやりと長い間見ていた気がする。目の前の机に置かれるものがお茶だったり紅茶だったりして、飲んだのかすらも記憶がおぼつかなかった。



「母がいなくなって父は変わりました。表情や動作は相変わらずだったけど、なんか中身が。うまく言葉では言えませんが、こう、固くなったっていうか。緩みがなくなったって言うんでしょうか」



「ほうほう」



レイは下を向いて急に押し黙った。ふっと暗くなった後ろをリュウガは背中で感じつつ静かに歩みを止める。前を行くリュウガが止まったので、レイも釣られて歩くのをやめた。



「忘れられない姿があります、隊長。学校から帰ってきて、前のように喧嘩の声が聞こえないからすごく嬉しくて玄関を開けたんです。いつも通り大きな鏡があって、綺麗な花が飾っていて」



「うん」



「リビングからはテレビの声が聞こえてきて、やっと嵐は終わったんだって思った。また昔のように家族みんなで笑って過ごせるんだと思っていた」



「うん」



レイは勢いよく顔を上げた。息を大きく吸って力の限り空に向かって吐いた。視界にはスーパー銭湯でぼんやり見つめた夜空がどこまでも続いている。空は広い。どこでもどこまでも続いている。



「うなだれた父の背中なんて初めて見ました。明るい夕方なのに、父の周りだけすごく寒い。冷たい。暗いんです。周りが」



「。。。。」



「寂しかったんです。家族のために仕事に夢中になって。仕事が好きで楽しそうに話していたんじゃない。家族と一緒に過ごせることが嬉しくて、幸せそうに笑っていたんです」



「。。。うん」



「俺、その時、初めてわかって。遅かった。ちゃんと母のこと話せばよかった。父の感じていた幸せを母に伝えればよかった。寂しさを抱えていた母を父に話せばよかった」



寂しそうにうなだれた父の背中を今でもはっきりと覚えている。他の記憶は曖昧でよく覚えていないのに、明るい光が差し込む窓辺で父親は何も言わずに一人椅子に座っていた。家族三人で楽しく笑い合ったテーブルだ。父親はいつもその椅子に座っていた。



「俺は、父を幸せにしたい。寂しそうに座る父に、一人じゃないって伝えたい。俺は居なくならないって、いつでもそばにいるって。だから、俺は」



「うん」



今でも父親は一人で戦っているような気がする。大切なもののために一生懸命になる父親だから。不器用でがむしゃらで大切なものをほったらかしにするような父親だから、今も一人で無理をして、寂しそうにうなだれているんじゃないだろうか。



「強くなりたいって、どんな環境でもしっかり生きていける存在になりたかった。寂しそうにうなだれたあの背中を、守れるような強い人間になりたかったんだ」



立ち止まった背中が父親の背中と重なる。リュウガはレイの言葉に、うんと小さく頷いて振り向きもせず前を見つめていた。



空は優しい。月の光も夜の寒い風も。暗闇になって初めて、輝いているんだと実感する星も。時々強く吹き抜ける風に飛ばされそうになりながら、どこか楽しげに木々の枝にくっついている葉っぱが暗闇の薄暗い光の中で立ち止まった二人を見守るように上から見下ろしている。



夜は好きだ。人の気配がして無意識に体が強ばっても暗闇は自分の存在を静かに隠してくれる。顔に出やすい性格も今感じている感情も。きっと優しく包み込んでくれるだろう。



前で立ち止まったリュウガが顔だけこちらに向けてにんまりと笑っている。ずいぶん久しぶりに弱音を吐いたからどんな表情で自分を見るのだろうと思っていたレイに、いつもと変わらない態度のリュウガはなんとなくありがたかった。こうやって立ち止まって、誰かと夜も一緒にいて。自分らしくないことをたくさんやっているなと思う。



小さな頃の記憶も改めて口に出してみると、自分は自分なりによくやったなと口元が自然に緩んでいく。自分の素直な気持ちを忘れるくらいいつも緊張していて、周りや誰かの評価を自分の気持ちよりも優先させていたことに気づいた。いつの間にか自分の気持ちを周りの意見と照らし合わせて、周りに受け入れられるような自分になろうとしていた。



いつでも、無条件に、自分は自分でいいと思えたらどんなに楽だろう。立ち止まった少し大きな背中とすっかり冷えきった指先を感じてゆっくりと握りしめた。



「レイ、手を繋ごうか」



「え?」



訳もなく握りしめた拳を少し大きな手のひらがゆっくりと包み込んでいく。外の冷たさに硬くなった拳が楽になった気がした。自分への怒りも思い出したくない悲しみも忘れられない父の背中も。誰かと手を繋ぐなんてどれくらいぶりだろうか。



時々冷たい風が勢いを増して飛び込んでくる。美しく整えられた街道の規則正しく並んだ木々が、むき出しになり残った枯れ葉はかろうじて枝先にくっついて吹き飛ばされないよう耐えていた。



リュウガは前を見たまま背中を向けている。今は夜中の3時だ。一番暗いと言われている寒空の、キラキラ光る星を見上げている。レイは自分の拳を包み込んでいるリュウガの手をじっと見つめた。



「上を向いていても、下を向いていても」



「?」



「左を見ていても、右を見ていても」



「え?」



雲に隠れていた月がゆっくりと姿を表した。ポツポツと灯っていた街灯と月の光で、薄暗かった景色がほんのりと明るくなる。スーパー銭湯から夜の闇に出て目もだいぶ慣れてきた。カサカサと音を立てて枯れ葉が飛んでいく。強い風に運ばれてあっという間に空へ消えていった。



「例え、お互いが忘れてしまっても」



遠くへ飛んでいった枯れ葉は、もう二度とここへは戻ってこないだろう。あまりにも軽くて自分の力だけでは行きたいところへ行くことさえもできないのだ。



「例え、お互いを憎み合っていたとしても」



「。。。。」



「繋がっている」



前を向いていたリュウガがゆっくりと振り返った。いつもの明るい顔で楽しげに笑っている。包み込んだレイの拳を顔の前に持ち上げて目を細めながらブラブラと左右に振った。



「繋がっているんですか?」



「うん」



「すれ違っていても」



「まあ、こうして」



試しにレイは包まれている拳を逃げるように強く引いた。リュウガの手のひらを振り落とすように動かしてみる。包み込んだ手のひらはどうするのかな?と様子を見てみると、気にせずまったり追いかけてきた。



「心っていうのは、案外簡単に離れないもんよ?特に親子はさぁ」



「何ですか?それ。隊長はご両親とどうだったんですか」



この個性的なリュウガを育てた家庭だ。怖いもの見たさで知りたい気もする。もう一度、そうなのかと念を押して聞いてみると、短い返事をしてリュウガはのんびり星を見上げた。釣られてレイも空を見上げる。



「そういえば、隊長、よく星を見上げてますね。好きなんですか?」



「うん」



繋がれた手を上に挙げてまるで星空に見せるように小さく左右に振った。星たちは静かに輝いてこちらをじっと見守っている。しばらくそのまま星たちにアピールしていたが、ゆっくりと手を下げてレイの拳からも離れていった。



「さて、レイくんや。星空への報告も終わったし、書籍部へ戻ろうか。気になる3人の心境の変化を探っていくぞよ」



「報告って何ですか?まあ、何があっても隊長なら何でもありって感じですが」



先ほどの静かな雰囲気が嘘のようにニヤリと笑って急に走り出した。何事かと追いかけてついていくレイに、俺が先に着いたらスルメ焼いてね!と爽やかに笑う。嫌な予感がする。何も危険なことがないように聞こえるが、何か嫌な予感がする。レイは返事をせず、さっと前を向いて本能のままに全速力で会社へ走った。後ろからリュウガの残念そうな声が聞こえた気もするが、振り返らず力の限り走った。



ひんやりとした冷たい空気の中をあえて全速力で走ると、体の奥から不思議な温かさが広がって思わずテンションが上がっていく。背中に感じるのんびりとした気配も穏やかな安心感を加速させているらしい。少しずつ上がっていく鼓動を白い息が伝えてくる。高いビルの合間から見える深い夜が美しい。



「レーイ、どうしてそんなに必死なのー?スルメを焼いてっておねだりしてるだけなのにー」



「おねだり!?脅迫でしょ!!っていうか、何でそんなに元気なんですか!」



苦しくなってきた息をなるべくゆっくり吐きながらレイは後ろを振り返った。スーパー銭湯から会社まで歩いて30分ほどの距離だ。走ればあっという間に着いてしまう。学生の頃、サッカーで鍛えた筋力は今でも衰えていないと思うが、それにしてもリュウガは軽やかにひょいひょいと付いてきた。



「簡単だよ、スルメ焼くの。ふわっとパリッと、それでいてジューシーに!!」



「それが難しいんですよ!!」



一度コウに付きっきりで丁寧にスルメの焼き方を教えてもらったことがある。コウは簡単にコンロの上でスルメを炙り、細かく様子を伝えてくれた。何度もスルメを炙っていると香ばしい食欲をそそるいい香りが鼻をそそる。つい顔を近づけてスルメの香りを楽しんでいると、すぐ後ろでリュウガがキラキラ目を輝かせて、さっとスルメをかっさらっていった。



「こんな感じ。隊長の好みは軽く炙るだけなんだよ。火の強さもそんなに強くなくて。ほら、レイもやってみて」



「はい」



自分好みのスルメをリュウガはもう半分以上食べている。すばやい動きに少しビビりながらも、火の付け方からレイはやってみた。すんなり付いた火を中火にしてまだ焼けていないスルメを見よう見まねで炙っていく。先程コウがやったようにしてみると香ばしい独特の香りが辺りを漂い始めた。



「どうですか?」



「うん、美味しそう。ほら、隊長、レイが焼いてくれたよ」



「ほうほう」



一枚目のスルメを食べ終わり満足そうなリュウガに焼いたスルメを手渡す。リュウガは何度も頷いて噛み締めるようにしみじみと口を動かした。



「うむ。パリッとしてるね!」



「え?終わりなの?」



コウは胡散臭そうな目をリュウガに見せる。レイはよくわからずコウと同様に疑いの目を向けた。



「スルメを、ただのスルメだと思っている焼き方だね」



「いや、スルメはスルメですよ。。。」



「うーん、ボウちゃんにはまだ難しいかも。隊長、また買ってくるからさー」



ふふんと不適に笑うリュウガをコウはなぜか慰めている。何か変なことをしたのかと自分の行いを振り返っても、思い当たる節がない。思わず恨みのこもった目を向ければ、今度はニヤリとリュウガは笑った。



「鍛練だね!鍛練しかない!!」



スルメを炙るだけの鍛練なんてやってたまるか。レイは背後に迫ってくる軽やかな気配にちらりと視線を向け、会社のエントランスまで力の限り走った。



オフィス街の美しく並べられた樹木や花壇を抜けると小宮シティがある。大きくて広い駐車場や自転車通勤している社員のための駐輪場、電気自動車用の充電器具を通りすぎると、見慣れた大きなビルの入り口が見えてきた。



会社の入り口がこんなにありがたいと思ったことはない。まるでスキップをするように後から付いてくるリュウガに底知れぬ恐怖を感じて、勢いのままビルの入り口を抜けた。



「もう~~、ひどいなぁ、そんなにスルメを焼くのが嫌なの?」



「嫌、ではないですが!!なんか、怖いです!!」



全速力で走りきった体は足も肩も苦しく、大きな深呼吸を繰り返しても落ち着かない。大人になって社会人になって、久しぶりに必死で走った。人目なんて気にならなかった。リュウガは肩で息をするレイを気遣うように、ポンポンと軽く背中を叩いた。



「いやー、いい走りだったよー。俺、めちゃくちゃきつかった。いい運動になったわー!」



全然きつそうじゃない。抗議の気持ちを込めて顔を上げると、リュウガは嬉しそうにストレッチをしている。どこにそんな体力があるんだ。文句の一つも言ってやりたくなったが、無邪気で元気な姿に毒づくのがバカバカしくなってきた。



「明日、朝礼ですよね。これから寝るんですか?」



やっと息も整ってきた。ゆっくり地下へと続くエレベーターに乗り込んで、いつもの古びた内装を見つめる。安全に地下へ運ぶこの機械が妙に落ち着き、穏やかな安らぎを感じた。金属製の音がして扉が開く。薄暗い通路の間を、白い小さな光が点々と輝いていた。



「まぁねー。レイもちゃんと寝るんだよ。明日は夕方、女装カフェに行くんだからさぁ」



「忘れてました。。。」



いつもの夜も寂しさを感じない。寂しさを感じている暇がない。次から次へと何かがやってきて、そばには誰かがいて、孤独を感じている暇がない。



「今度、金ぴかの棚を買おうと思ってるんだけどさー、良いものない?」



「金ぴか!?いや、書籍部には合わないでしょ。。。木目が美しいナチュラルな棚がいいんじゃないですか?」



あまり人が通らない静かな空間に二人の声が響く。何でもない話をダラダラと続けてセキュリティの厳しい書籍部へと歩みを進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この世は優しくて甘い @meiousei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ