第5話

地下に続くエレベーターの中で今日はいろんなことがあったなと振り返った。何も話さなくなったレイにルカは静かに優しく寄り添っている。ルカの存在がレイにとって大きな安心感に繋がっていた。心が穏やかになる存在がそばにいる。コバヤシも学生の頃からそばにいてくれていたのに、今まで全く気づけなかった。そのままでいいんだ、ぶつかっていいんだという安心感、受け入れてもらえる優しさに包まれていたのに、全くわからなかった。



古びた寂しい通路を歩く。配属された当初はひどく悲しく苦しい場所だった。毎日ここを通るのが苦痛だった。暗くてやたらジメジメして、電気も少なくいろんなものが痛んでいる。でも、この通路を抜けた先の書籍部が豊かで優しく、面白い場所だとわかった今、自然と心が弾んでいく。書籍部までの道のりがとてもワクワクしたものに変わった。



「勿体ないな。こんなに楽しくて豊かなものが先に待っているのに。俺、自分のことばっかで全然わかってなかった」



答えを求めるわけでもなく、ただなんとなく自分の気持ちを口に出してみた。電灯も少ない静かな地下で、レイの声は遠くまでよく響いた。ルカは今度も何も言わなかったが、優しく笑った気配がした。



厳しいセキュリティを解除し重厚な扉を開ける。ゆったりとしたシューズボックスに靴を収めるとルカとレイはパソコンの前で作業をしているリュウガに会いに行った。ふわふわの絨毯が足に当たりとても気持ちがいい。コウは奥のキッチンにいるようだ。



「戻りました」



「おう」



短い報告から始まる。リュウガはパソコンから二人に視線を上げてにやにやと顔を崩した。手のひらをルカに見せて、何かをちょうだいと言っている。ルカは真面目そうな男から預かった小さな袋をリュウガの手のひらに乗せた。



「ありがとう、二人とも。お姉さまからお褒めの言葉を頂いたぞ。これ、果報物だぞ」



「大袈裟な。あの方はいつも優しく褒めてくれるでしょ。まあ、やっぱり、コウさんのお姉さんなんだなって感じた部分もありましたが」



「俺は、あんまり褒められない。。。恨み言しか言われない。。。」



声が急に小さくなってレイはよく聞こえるように耳をリュウガに近づけた。一応上司なのだし、自分のためにルカを呼んでくれた。書籍部としての初めての仕事を影でサポートしてくれた。信頼できる上司なのだが、いつも突拍子のないことをする。暗い目をしてぶつぶつと独り言を言い出したリュウガを見て、大丈夫ですかね?とルカに聞いてみた。



「あはは!お姉さま、隊長には厳しいんだよね。上司たるもの、男たるものっていつも怒られてる。隊長もお姉さまの言うことは大人しく聞いてるんだ。実行するかどうかは別にしてもね」



「へぇ、珍しいですね」



「きっと、お姉さまは隊長に期待してるんだよ。厳しさは愛の裏返しっていうか。お姉さまが怒る時はいつも相手のことを心から想っている時だもん。隊長にできるって信じてるから厳しいんだ」



もらった小さな袋をいそいそと開けて中身を確認している。真面目そうな男からもらった袋にはクーポン券のような番号が書かれた券が出てきた。リュウガの死んだような目がイキイキと輝きだし、何やらパソコンで検索している。インターネット上で申し込み、郵送されてくる高級スルメらしい。



「。。。そうなんですか。。。信じてるから厳しい。厳しいのは、愛なんですかね」



元気にパソコンを打つリュウガをぼんやり見つめてレイは自分の父親のことを思い出した。父親はいつも自分に厳しかった。成果を上げてもなかなか褒めてくれなかった。さらに上の要求をされて、認められない悲しい気持ちに苛立ちが激しくなった気がする。やってもやっても父親は褒めてくれない。まだ強くならなければならないのか。もっと結果を出さないといけないのか。厳しくされるのが怖くて、イライラして父親に会うのが苦痛になっていった。



「うん、お姉さまは、隊長のことを愛してるんだと思うよ。愛してるから、さらに上の、ちょっと高めの要求を言うんだと思う。褒めないのは、照れ臭いからなんじゃない?」



「照れ。。。」



「だって、この間もすごく怒ってたもの。レイのことで」



自分のことでリュウガはリンから怒られたのか。驚いてルカを見ると、ルカは優しく笑いながら話してくれた。レイが配属されて2ヶ月ほど経った頃だ。リュウガの指示を全く聞かないレイのことを少し愚痴っぽくリンに話したらしい。いつも反発して苦しそうだと相談したら、激しく反論されてしまった。



「リュウガ、あなたねぇ、レイくんは今までとても苦しい思いをしてきたのよ。いろんな人に助けを求めて、人を信頼して、求めて求めて求めたのに、裏切られたの。その悔しさや不信感が、あなたにわかる?」



「。。。。だって。。」



「だって、じゃない!今まで人と接してきてとても傷ついてしまったの。あなたが最後の砦よ。最後のあなたがそんな弱気でどうするの」



怒られたリュウガはしゅんとしている。リンの怒りの声はリュウガのスマホから書籍部全体に響き渡っていた。一緒にいたコウも怒られている気分になって神妙な顔をしている。ルカも自分の席で静かに聞いていた。



「誰も信用できなくなってしまったの。泣くことも助けを求めることもできない。人の優しさや温かさを受け入れられない。それくらい傷ついているの」



「。。。。」



「深く傷ついた心には、尽きることのない優しさが必要よ。どこまでも深く、溢れる優しさで包み込んであげるの。優しさだけの、何もない安心できる場所で」



文句を言おうとしたリュウガを目で制し、リンは強く訴えた。怒りが満ちた声と願いを込めた深い眼差しにリュウガは口を閉ざす。渋い顔で唇をきゅっと引き締め、先を促すように手で合図する。リンは溢れる感情を吐き出すように大きな深呼吸をすると、ゆっくり口を開いた。



「リュウガ、あなたの戸惑いや納得できない気持ちはわかるわ。部下は上司の指示を聞く。社会人として、守るべきルールやマナーがあるもの。でも、お願い。レイくんのために、深く傷ついた心のために、あなた自身が安心できる場所になってあげて。レイくんの心に寄り添ってあげて」



「。。。。」



「あなたが経験してきたことに比べれば、レイくんの状況はとても恵まれていると思う。親がいること、失敗しても庇ってもらえること、責任を負わなくていいこと、周りに人として扱ってもらえること」



「。。。。」



「でもね、リュウガ。それを承知でお願いするわ。レイくんの気持ちに寄り添ってあげて。最後の、頑丈な砦になってあげて。居場所のない心の、帰る場所になってあげて。私も全力でサポートするから」



渋い顔で聞いていたリュウガが拗ねたように口を尖らせた。手のひらをスマホの前に上げて、何かちょうだいと言っている。リュウガなりの承知した、という返事だ。リンはホッとした顔をすると、画面からパンフレットを見せた。



「このスルメ、北海道で水揚げされた立派な生イカを特別な機械にセットして、日干し、熟成させたものなの。シェフたちの間でとても評判がいいわ。一度食べたら病みつきに。。。」



「やる!!!」



「って感じで、怒られてたよ。すごく愛されてるでしょ」



ルカの話から、そうだったのかと新しい発見があったものの、最後のくだりが納得いかない。結局、リュウガは高級スルメのために自分を受け入れたような気がする。ニコニコと笑うルカに素直な疑問をぶつけようとしたら、目の前のリュウガが絶望した声を上げて顔を伏した。



「え、どうしたんですか?隊長。高級スルメは?」



「えーと、申し込めなかったとか?パソコンの画面は。。。シャンパン?15本セット?」



「は?」



高級スルメだと思っていた券の番号は、どうやら高級シャンパン15本だったらしい。死んだように動かないリュウガの両側からパソコンを見ると、リンからのメールが開かれている。



「リュウガ、あなたに必要なのは男としての器だと思うの。男の器を大きくするには、まず胃袋からよ。毎日、3本、味わってお飲みなさい。飲み会までには間に合うわ」



「。。。。間に合うって、何が?何が間に合うんですか?」



「うーん、きっとお姉さま、また隊長と飲み比べするつもりだよ。そのための練習、とか」



「愛されてない!!!!」



伏していたリュウガがいきなり復活し両側の二人に猛烈にアピールし出した。右と左を激しく交互に向きながら、愛されてない!!!と繰り返す。高級スルメは高級シャンパンに変わってしまった。レイは憐れむような目でリュウガを見た。



「愛されてない!!!!愛されてないよ!!!ルカ、レイ、俺、愛されてない!!!」



「もう、しょうがないですよ。隊長。自分の希望していたものじゃなかったとしても、愛は愛なんだから、拗ねないでください。ありがたく受け取ってみんなで飲みましょう。レイの歓迎会ってことで」



「なんか、いろいろと、すみません」



レイとしては、もう謝るしかない。心を尽くしてくれたのに、可哀想すぎる。ルカは言葉でリュウガをなだめながら高級シャンパンをみんなでゆっくり味わういい機会だとワクワクした。



「俺の高級スルメがー。北海道の厳しい荒波を乗り越え、蓄えた生イカの熟成した脂肪がー。お洒落で綺麗なシャンパンの海に消えた。。。」



リンから心を撃沈され、深く海に沈むようにへばりついている。どう復活させようか二人が悩んでいるところにスルメのいい匂いがしてきた。キッチンの方からだ。その手があった!顔を合わせて匂いの元である奥を見た。



「ルカ、ボウちゃん、おかえり~~。どうせそんなことだろうと思った。さっきねー、外でスルメを買ってきたの。肉まんとヒザまんもほかほかだから一緒に食べよう」



「コウ!!」「コウさん!!」



感激したルカとレイよりも早くリュウガが動いた。何も言わず中央の寛ぎスペースに陣取り、何事もなかったかのようないつもの顔で待っている。高級シャンパンはスルーするつもりらしい。コウはため息をつきながらレイに注文するようお願いした。



「姉上からの大切なプレゼントでしょ。逃げないでよ、隊長。ルカ、こっちへ、ボウちゃんも食べてからでいいよ」



「ありがとうございます。美味しそうな匂いですね」



「俺、高級シャンパンなんて知らない」



こたつの上に置いた皿をさっと取って独り占めにすると、芳ばしく焼かれたスルメを味わうように一口食べた。しばらく何もしないだろう。コウは呆れた顔でため息をついて、肉まんをゆっくり食べている。温かいお茶も添えられていた。



「それで、あの、調べものはどうでしたか?リンさんから依頼された件」



美味しそうな肉まんをもらって食べる前にレイは聞いた。ずっと気になっていたクレーム部の録音テープが偽造されていた件だ。真面目な話にコウはもぐもぐと口を動かしながら軽く頷く。飲み込むとレイをじっと見つめて口を開いた。



「ねぇ、ボウちゃん。ボウちゃんも書籍部の一員だから、これからは情報を共有するけど。約束してほしいんだ。知った情報に責任を持つって」



「責任、ですか?」



軽やかで冗談を言うことが多いコウから真剣な目で見つめられてレイは思わずたじろぐ。ここは、はいと答えるべきだろうが、知った情報に責任を持つことが具体的にどんな心構えでやっていけばいいかわからない。自分はみんなも知っての通り何にでも反発してしまう。カッとなりやすい性格だから、言ってはいけないことも咄嗟に言ってしまうかもしれない。じっと考えていつまでも返事をしないレイにコウは真剣だった目を緩ませる。優しい口調で静かに話しかけた。



「そっか。ボウちゃん、結構慎重なんだ。それでいいよ。責任を持つっていう意味を自分なりに考えてみて。ただ、注意してほしいのは、どんな情報も安易に他の人へ言わないでってことなんだ」



「へ?そんな簡単なことなんですか?」



間の抜けた声を出しレイはコウに返事をした。もう少し難しいことだと思ったのに。書籍部の情報に対してどう向き合うかこれからも考えていくが、念を押された条件があまりにも当たり前で拍子抜けしてしまった。コウは優しく笑って、そこが落とし穴なんだよ、と軽くレイを睨む。



「情報の重要性って人によって違うでしょ?ボウちゃんにとっては興味を引かないものでも、別の人にとったら、とんでもなく重要なものになり得る。ふとした小さな情報が大きな影響を与えることだってある」



「あ」



「わかった?こんなことでって思うけど、どの情報が誰にとって大切で、有利不利になるかわからないんだ。自分で判断できないなら、ここで得た情報はすべて他に言ってはだめ」



「は、はい」



言われてみれば、そうだ。難しいものだなとレイは思った。リンから依頼された録音テープのことも言ってはいけないことだと気づく。書籍部だけの情報。ここで聞いたことは他に洩らしてはいけない。情報を整理する必要がある。



「慣れるまで。がんばって、レイ。自分なりのやりやすい方法があるはずだよ。情報と真剣に向き合ってみて」



「は、はい」



ふざけていても二人は先輩なのだと改めて思う。コウもルカも情報に対してとても真摯な想いを持っていた。情報の重要さがわかるまで、なるべく話さないでいよう。とにかく依頼の内容は話すまいと心に決めた。



「知ってて話せないって結構辛いけど、その代わり、ここではいくらでも話していいからね、ボウちゃん。盗聴機対策とってあるし、電波も常に妨害してるし」



「へ?」



「セキュリティ万全だし、何者かが襲撃に来ても大丈夫だよ。コウは空手の有段者だし、俺は、ほら、スタンガン持ってる」



「。。。は?」



なんだか怖い単語が聞こえた。恐る恐るルカを見ると、黒光りのしっかりしたスタンガンを軽々と持っていた。手つきが妙に慣れている。不意にさっと手が動いて、気づいた時にはレイの腕にスタンガンがピッタリと当たっていた。



「こんな風に使うんだよ。コツは気配を気取られないことかな」



「上手くなったねぇ、ルカ。それなら大抵の人は仕留められるよー。そうだ、今度ボウちゃんにも教えてあげるね。簡単な護身術。まあ、軽く気絶させるくらいかなー」



「。。。はははは」



とんでもない人たちだ。まったりとスルメを食べるリュウガが可愛く見えてきた。何があっても先輩たちを怒らせないようにしよう。引きつった口元を何とか動かしてレイは笑ってみせたが、どうしても乾いた笑いにしかならなかった。



楽しそうにきゃっきゃと話す二人を見てレイはしばらくボーッとしていた。変わった部署だと思っていたが、想像以上にとんでもない所かもしれない。学生の頃から一応サッカーをしてきたものの父親の権力の影響からあまり激しくトレーニングをしていない。試合にも出たが、それが自分の実力だったかもわからない。父親の加護の元で生きてきた自分を痛感して恥ずかしいが、それももう良いかなと思えてくる。



「ボウちゃんはどんな攻撃が好きなの?蹴り?パンチ?」



「え、何ですか、それ」



「やるなら、やってて気持ちがいい攻撃がいいでしょ?僕は武器よりも素手が好きだったの。だから、空手。ボウちゃんは?」



素直に好きなものを聞かれてレイは心が軽くなった。自分の好みを聞かれたのは久しぶりだし、好きなものを選ばせてくれるコウの気持ちが嬉しい。そうか、体を鍛えたりするのも自分の好きなものを選んでいいのか。レイはじっくりとどんな攻撃が好きか考えてみた。



「そうですね。。俺も武器より素手がいいです。あと、蹴りより拳が。真っ向勝負したいので」



「ふーん、じゃあ、空手だね。型を丁寧に体に染み込ませて、ゆっくり鍛えていくといいよ」



結果や成果も求められない。自分のペースを尊重して寄り添ってくれる。コウのそういった気遣いと優しさが堪らなく嬉しい。どうしても父親と比べてしまう自分に気づいて、やっぱり今でも父親の影を追っているんだなとレイは思った。



「あ、話が長くなってごめんね。ボウちゃん。ボウちゃんが言ってた姉上の依頼の件だけど」



「はい」



父親のことを考えてぼんやりしていたレイは、静かで落ち着いたコウの声に意識を戻して集中する。自分も書籍部の一員として知っておかなければ。レイの顔がきゅっと引き締まり緊張した面持ちでコウを見た。



「ふふふ、書籍部としての情報の共有だね。結論から言えば、録音テープは偽装されていたよ。新しいクレームが作られて報告されてたみたい。証拠となる内容も似た声で記録されている」



「マジですか。。。」



「それで、今日の朝礼で検証部の部長さんが社長から激しく責められたんだけど、その原因が作られたクレームだったことがわかった」



会社にとって客の声は重く受け止められている。社内でクレームの内容を公開しアイディアを募集することもあった。それくらい客の声を大切にしているのだ。クレームが作られたもので誰も偽装だと気づかないなら、社内の評価も偽装によって歪められてしまう。ルカもレイも眉をひそめて押し黙った。



「きっかけは噂だったんだけどね。清掃部長から、クレーム部へ掃除に行ったらめちゃくちゃ怒られたって聞いて詳しく教えてもらったんだ」



小宮シティでは社内清掃とリサイクルのために清掃部があって、清掃部長とシフトを作る事務員は社員で、所属している清掃員のほとんどはパートやアルバイトだった。中には登校拒否している学生やうつ病で苦しむ人もいる。社会奉献の一環として様々な境遇の人を雇い入れていた。



清掃部の部長は大変な潔癖性で掃除大好きの面倒見がいい人だ。シフトを作る事務員も掃除好きで、急に働けなくなったり会社に行けなくなった人の代わりに清掃もこなしている。データ入力が少ない日には書籍部も清掃部の手伝いをよくしていて仲が良い。



「あ、たまに来ていた優しそうな人ですね。俺が一人で掃除してたら、黙って手伝ってくれました。道具も貸してくれたし」



「ふふふ、頼んでおいたの~~。いい人でしょ?寡黙で優しくて。上の階に慣れたら、行ってみる?清掃の応援」



コウの提案にレイはぜひ!と元気に返事をした。営業部にいた頃、清掃員たちは社員にあまり相手にされなかったが、そんなことよりレイは純粋に清掃部と一緒に働いてみたくなった。その清掃部長がなぜ怒られたのか。話の続きを聞きたくてコウに先を促した。



「うん、普段通り、同じ時間に奥の部屋へ入ったんだって。いつも誰もいないからノックも無しにそのまま。そうしたら、知らない若い女性とあるチームリーダーが驚いた顔をして清掃部長を見てて」



「気配とかなかったんですか?」



「それが部屋の明かりも点いてなかったらしいの。夜の19時頃なのに。それで、初めは男女の仲を察して咄嗟に出ようとしたら、すごい剣幕で怒られて。長い時間引き留められたんだって」



「何を言われたんですか?」



清掃部長はいつものように掃除をしただけだ。いきなり怒られて拘束されるなんて理不尽じゃないか。話を聞きながらレイは不機嫌な顔になった。自分が不貞腐れて掃除をしていた時、助けてくれたのは清掃部長だった。



データ入力もできず、掃除さえも上手くいかなくて、湧き上がった苛立ちをぶつけるように雑巾を床に叩きつけた。黒くボロボロになった雑巾が自分のようで、空しくて悲しくて一人ぼっちなんだと無性に泣きたくなった。そんな時、後ろから静かに雑巾をバケツで洗って強く絞り、汚れた床を大事そうに拭いている人がいた。



その人は何も言わなかったが、ただ床を拭き汚れた雑巾を洗い、また床を丁寧に拭いていく。淡々とした同じ作業が美しくて、なぜか優しくて心にあった苛立ちも、嫌で嫌で堪らなくなった悲しみもふんわりと軽くなった気がした。誰かがいるっていいな、一緒に働くっていいなと優しい気持ちになれた。そんな人がいきなり激しく怒られたなんて。怒りを隠さずコウを睨み付ける。コウは軽く息を吐いて話を続けた。



「誰の差し金だ、どうしてここがわかった、こんなことをしてタダで済むと思っているのか。余りにも社員とは思えない雰囲気に、これは男女の仲じゃないって思ったんだって」



「そんな失礼なこと。。。」



「そのチームリーダー独身だもの。別に女性と逢い引きしたっていいんだからさぁ。なのに、慌てるより脅してきたから、何かあるかもって教えてくれた。それで、隊長とその時間帯のクレーム内容を聞いてみたの」



スルメを楽しんでいたリュウガがこちらを向いて、うんうんと頷いている。話の内容が深刻なのに大好物のスルメを食べているからなのか、リュウガの顔は晴れやかだ。レイは何とも言えない気持ちになってリュウガを見た。



「若い女性の声で、商品を扱っていたら怪我をした。これで二度目だ。あなた方の会社はこんな商品を売っているんですか?ちゃんと改善したんですか?だって。気になったから、検証部に聞いてみたの」



「。。。ああ、あの地獄の集団。。。」



「もう!みんないい人たちなのに。やっぱり、そんなクレームは聞いてない。何の商品だって逆に聞かれて。その録音されたクレームの内容を伝えたの。変な感じがするから、ちゃんとした報告書作った方が良いよって」



コウからの情報を元にしっかりと検証した結果、明らかに客の勘違いだとわかった。商品の構造から詳しく解説し、客の意見は物理的に無理だと証明してわかりやすく丁寧に報告書を作ったと言う。いつ指摘されるかわからないので毎日の朝礼に持っていき、今日の朝礼でついに責められたというわけだ。



「検証部長を助けられたってリョウちゃん、すごく喜んでた。お礼に何がいいですか?って言われたから、ルカとレイをよろしくねって言っておいたよー」



「。。。俺は、単純に睨まれて頭を下げられただけ。。。スルメもくれなかった。。。」



皿の半分のスルメを平らげたリュウガが悲しそうな声でぶつぶつと呟いている。お礼はスルメと決めているらしい。食べ過ぎは体に悪いので、ルカはさりげなく肉まんを薦めている。



「じゃあ、ターゲットは検証部長だったんですか?それって、リストラ対象の部長ですよね。噂ですが。。。」



「そうなの!で、隊長と二人で姉上からの録音テープと総計を調べてみたら、一つだけ合わなかった日があって!音が不自然なクレームを見つけたの」



「それって、次に責められる可能性が高いってことですか?どんな内容だったんです?」



興奮したレイは肉まんを手に持ったまま夢中で話を聞いていた。のんびり食べていたルカから薦められて慌てて一口ほおばる。肉汁が溢れてほどよい甘辛さで美味しい。思わず幸せな気分になったレイをルカは嬉しそうに見守っている。



「ごめんね、ルカ。せっかく買ってきてくれたのに。隊長も、食べなよ。。。ってもう食べたの!?え!?ピザまんも!?」



「は、早すぎる。。。さっきまでありましたよね。。。ルカさん、ありがとうございます。めちゃくちゃ美味しいです」



クレームが操作されている事実だけでも驚きで頭が追い付いてないのに、それがまだ続いていて次のターゲットを狙っている。副社長である父親はこのことを知っているのか。現社長とあまり折り合いが良くなく、表向きは中立を保っているのものの、よく思われていないのは肌で感じていた。直接伝えることはできなくても、作られたクレームを阻止できたら。肉まんを食べて幸せな気分になった気持ちをレイはまた集中して引き締めた。



ルカが買ってきてくれた美味しい肉まんとピザまんを食べてほっと息をついた。抹茶入りのほどよいお茶の熱さが喉を通って優しく体を温めていく。張りつめていた気持ちが和らいで、カッカしていた頭が少しずつ冷静になるのを感じた。父親のことや清掃部長が怒られたことで感情的になっていたが、これなら落ち着いて話を聞けそうだ。



「美味しかった~~!隊長、まだスルメ食べてる。誰も横取りしないから、安心してよ。え?拗ねてるの?もう、しょうがないでしょー、あれが姉上なの」



コウも肉まんをゆっくり味わって一息つけたようだ。いつまでも機嫌が悪いリュウガをたしなめて穏やかに笑っている。深刻な顔をしていたレイをルカは心配して優しく声をかけた。



「大丈夫?顔が強ばってたから。衝撃が大きかった?」



「あ、はい。録音テープを偽装するなんて考えられませんからね。そんなことが起こっていたなんて。。。俺、顔に出てましたか?」



感情がすぐ顔に出るわかりやすい自分の性格をレイはあまり気に入っていない。相手に感情を悟られるとロクなことがなかったからだ。からかわれたり、急に態度を変えられたり。どんなに取り繕ってもすぐに嘘だとバレてややこしい事態を引き起こしていた。今だってルカに余計な心配をかけている。何度も克服しよう、変えようとしたが、どうしても変えられない。改めてうんざりした。



「うん。それがレイの良いところだから」



「え?」



自分の、言わばコンプレックスを簡単に褒められる。嫌な想いをしてきた根本を素直に良いと言われレイは不意打ちを食らったかのようにポカンとしてルカを見た。レイの顔にルカは楽しそうに笑っている。



「なんて顔してるんだよ。凄いなぁ、レイは。そんな顔もできるんだ。レイの良いところなんだから、大切にしてよ。認めるだけでもいいからさ」



「認めてはいますが、あまりいい思いをしてこなかったので。。。ルカさんこそ、穏やかで落ち着いてて羨ましいです」



コウのように変幻自在な自由さにも憧れるが、ルカのような誰でも上手く付き合える自然さにレイは強く惹かれた。自分にもこういう落ち着きと冷静さがあれば。ぶっ飛んだリュウガは論外だけど、あそこまで開き直れる図太さにも羨ましさを感じる。あれはあれでいい。逆に大人しかったり素直なら、気持ちの悪さが身体中を駆け巡るし、後でめんどくさい荒波が怒濤のようにやってきそうだ。リュウガやコウよりも誰とでも調和が取れるバランスのいいルカがいい。心の底から尊敬の念を込めてレイはルカに言った。



「俺も、ルカさんみたいになりたかったなぁ。ルカさんなら営業部だって、父とだって上手くやっていけたと思います」



「うーん、でも、それじゃあ、レイの良さが消えちゃうよ。それに、俺ではだめなんだよ、きっと。レイだから良かったんじゃない?」



「そうですかね」



レイは目を細めて不貞腐れた顔をした。どうしても納得できない。なぜこうも自分はスルスルと上手くいかないのだろう。成熟した器用な性格なら良かった。もっと生きやすかった。人と心が通わない寂しさも理解してもらえない苦しみも感じなくて済んだのに。



「俺、好きだけどな。レイの、感情がすぐ顔に出るっていうの。コウも好きだって言ってたよ。隊長は素直でいいって」



「。。。嬉しくないですよ。受け入れてもらえるのはありがたいですけど。そう言ってくれるの、皆さんだけですし」



「そうかなぁ」



ルカは誰かを思い出しているのか、しばらく視線を外しじっと考え込んだ。掘りこたつの温かさが足を通して伝わってくる。話が途切れたのでレイは目の前であーだこーだと言い合っているリュウガとコウを見た。さっきまで真面目な顔で深刻な話をしていたのに。言い合う二人が面白くて思わず笑っていると、隣でルカが指で数えながら一人一人の名前を読み上げた。



「まず、お姉さまでしょ。それから清掃部長、コンシェルジュのコバヤシさん」



「そりゃあ。。。皆さん優しいですもん。普通の人なら受け入れてくれませんよ」



「ふふふ、良いじゃない。周りがみんな優しい人ばかりになるよ。そんな人たちと自然に仲良くなるんだし。何か困ることでもあるの?」



優しくルカから聞かれてレイは困ることを頭の中で探してみた。だが、今の状況ではいくら考えても困ることが出てこない。強いて言えば営業部で上手くいかないことだ。感情がすぐ顔に出るので客に自分の気持ちがすぐバレてしまう。常にライバル視されて張り合っていた営業部ではよく同僚やチーム内で衝突することが多かった。今は競争する相手も足を引っ張り合う同僚もいない。レイは呆然とした顔で、ありませんと答えた。



「あはは!ほら、いいじゃない。変えなくて。受け入れてくれる人たちとのんびり楽しく暮らせば。顔に出ちゃうなら、思いっきり顔に出せばいいんだよ」



「それは。。。勇気がいるな。。でも、良いんですかね。悪いところは克服しないと、社会人として、なんというか。未熟っていうか、向上心がないっていうか。だめな気がするんです」



「そっかー」



顔をしかめながら不安そうに言ったレイの言葉をルカはのんびりと優しく受け止めた。受け入れてくれる人たちに囲まれても、コンプレックスは簡単に消えてくれないらしい。優しくされればされるほど、変わらなければ、克服しなければと自分を追い立ててしまう。悔しいような、苦しいような不思議な焦燥感がレイの心の中に沸き起こった。



「ちょっと、もー!隊長。またスルメ焼いてあげるから、機嫌なおしてよー。これから二人にあのこと話すんだからさー」



「。。。。」



「ほら、アルからもらった資料出して。そう、それそれ。もう、隊長、責任放棄しちゃってて、夕方までこんなんかも。僕から説明するね。。。ってどうしたの?ボウちゃん」



また感情が顔に出てしまった。心配そうなコウに、何でもないですと答えて押し黙る。ぶっきらぼうなレイにコウは吹き出したように笑い、機嫌悪いんだーと楽しげに言った。



「違います。俺は、俺に腹を立ててるんです。お二人に心配かけて、優しくしてもらって、知らないところでもいろんな人に助けてもらって。なのに、全然成長していない。克服していない。これじゃあ、同じことの繰り返しだ」



「そうかなぁ」



「そうですよ。いつまでも助けられっぱなし、迷惑をかけっぱなしじゃ嫌なんです。自分の足で立って、周りを助けられるようにならないと。感情だってちゃんとコントロールして」



「えー。。。」



コウは顔をしかめて、つまんないと呟いた。残念そうに隣のルカを見る。ルカは笑って、しょうがないよと穏やかに答えた。



「ボウちゃんはボウちゃんの考え方があるって思うけどさ、僕はそのままのボウちゃんが良いなぁ。反抗心剥き出しの、感情がわかりやすいブスッとしてるボウちゃん。昔はよくぼーっとしてたよね」



「す、すみません。失礼なことをして。。。」



「まあ、そりゃあね。失礼だよね。でも、それがボウちゃんでしょ。ぼーっとしたり、ブスッとしたり。データ入力さぼったり、掃除したり。仕事に一生懸命だったり、人想いだったり」



何と答えていいかわからないままレイは慌てた。そうだった。配属されてからずいぶん生意気な振る舞いをしていた。今さらだが恥ずかしい。子供っぽい昔の自分を引っ張り出して頭を無理やり下げさせたい。真っ赤になったレイをコウは優しく笑って話を続けた。



「感情なんてコントロールできるわけないじゃん。そんなの、人に心を無くせって言ってるようなもんだよ。成長なんてね、みんなで響き合って一緒に成長していくもんなんだから。ボウちゃんがボウちゃんの音を奏でないと、周りだって上手く音を出せないじゃない」



「そ、そんなもんですかね」



コウの言っていることはよくわからなかったが、それでも申し訳ない気持ちは変わらない。なんとなく自分は自分で良いと言われてる気がして、それではダメだと反発したくなる。反論しようと口を開きかけたレイをコウは睨んで止めた。



「とにかく、ボウちゃんは感情のままに突っ走ればいいの。顔にもどんどん出す出す!成熟した物分かりのいいボウちゃんなんて、つまんない」



「で、でも!!」



「もう、僕の言うこと聞かなかったら、ボウちゃんのこと、ブーちゃんって呼ぶよ。自分の良さを否定し続けるブーちゃん。ブーイングのブーちゃん」



「。。。ボウちゃんがいいです。。」



見守ってくれる先輩二人がこうも口を揃えて強く言うので、レイは感情を思いっきり出してコウに呼び名を変えないでくれと頼む。コウからボウちゃんと呼ばれるのは気恥ずかしい居心地の悪さもあるが、レイ自身とても気に入っていた。それをブーちゃんと変えられるのは嫌だ。素直に懇願したレイをコウは満足そうに笑っている。



「そうそう、それ。ボウちゃんはそうでなくちゃ。これから言うことにも感じたままの考えを教えてほしいなー。遠慮なんかしないで」



「話そうとしていたクレームですね?」



コウは軽く頷くと朗らかだった顔を引き締めて真剣な顔つきになる。ちらりとリュウガを見て受け取った茶色の封筒から何枚かの資料を取り出した。資料には写真と名前、経歴や営業成績、何をいつ売り上げたか細かくまとめられている。資料の内容にルカとレイは顔が曇った。



「これ、営業部の資料ですよね。しかもかなり詳しい。金額も商品も。こんな貴重なものを。。。どういうことですか?」



「順を追って話すけど、怪しいクレームの内容はね、営業部で不正な売り上げがあるっていう告発みたいなものだったんだ。営業部長の降格と、不正を行った社員の解雇を暗黙に要求している。社員の名前はアル。おかしいでしょ?」



「バカな!」



レイはそれこそ憤慨した。営業部でとても優しく的確にアドバイスしてくれたのはアルだ。今でも営業部トップだが、昔もトップだった。予定が詰まって忙しいはずなのに、急な質問にも丁寧に答えてくれたり、怒った客を納得させたり無償で助けてくれた。



「絶対に違います。アルさん、そんなことする人じゃない。する必要ないし、アルさんだからお客様も納得して商品を買うんだ。何か証拠でもあるんですか!?」



「うーん。不正の証拠がないから、いろいろと作って告発してくるんじゃない?ぽっちゃり部長が指示したって言いたいみたいだけど、あり得ないし」



「当たり前です!!」



怒りのまま一気にお茶を飲み干して盛大に息を吐く。怒りで目眩がして頭がどうにかなりそうだ。呑気に隣で幸せそうにスルメを食べているリュウガを怒りのまま睨み付けると、リュウガはゆっくり視線を外して、降参とばかりに両手をあげた。



「ちょっと!隊長!!スルメ食べてる場合ですか!!さっさと真相を暴きますよ!!ああ!!もう!!腹を出して!!犬じゃないんだから!!」



「何か手立てはあるの?その声の主を探すとか?」



ふにゃふにゃになって、スルメのようにこたつにへたりこむリュウガを正すため躍起になるレイの隣でルカは静かに聞いた。ルカは営業部のアルと接点はないが、書籍部の仲間が大切に思っている。心配そうに見つめるルカにコウは頷き、ぜひともお願いしたいと目を輝かせた。



「うん。ルカにはこの資料を見て感じたことを教えてほしい。それと、これに関連した営業部からの報告書を倉庫から探し出して、文字から伝わってくる感情を書き留めてほしいんだ」



「文字から?」



「ルカは書いた人の想いを汲み取る才能があるでしょ?もう一度、やってほしいの。なるべく深く。すごく疲れると思うから、無理しないでほしいんだけど」



コウは苦しそうに顔をしかめた。夕方から予定していた資料整理は、この件が終わるまでお預けのようだ。



「大丈夫。やるよ、コウ。書いた人の想いを筆跡や感覚で受け取ってみる。ちょうど布団も机の横に敷きっぱしだし。寝たり起きたりしながらやるから」



ルカは明るく笑って自分の机の隣にある布団を指差した。お気に入りの部屋着もあるし、お風呂だって入ってきた。図らずとも準備万端だ。



「ありがとう。嬉しいー。アルはね、僕の大切な幼馴染なんだ。ぽっちゃり部長も大好きだし。真相を暴いて、陥れようとしてる奴等をギャフンと言われてやるんだから」



ルカに優しく笑ってコウは珍しく目を鋭く光らせた。託された資料の中に必ず犯人への道筋があるはずだ。絶対に逃すものか。



「隊長ー!!ほら、シャキッとしてくださいよ!!スルメを全部食べたからって気を抜いて!!」



「俺、ちゃんとやることやったも~~ん。後はレスポンスを待つだけだも~~ん」



レイの攻撃をのらりくらりと避けてリュウガはにやりと笑っている。真剣な顔でリュウガを立ち直らせようとしているレイがあまりにも必死で見ていて面白い。まるで子供を叱りつけるようなレイに、リュウガは口をとがらせながらも大人しく従った。



怒りで目をギラギラさせたレイに叩き起こされてリュウガはふらふらしながらも姿勢をゆっくり正した。ピンと背筋を伸ばし、ちらりと横で監視しているレイのご機嫌を伺っている。まるで悪戯っ子が厳しい先生に説教されているようだ。



「で、なんですか。レスポンスって。どこからの返事を待ってるんです!?」



「はい、先生。僕は怪しいと感じたクレームから、声の性質について分析してみました。以前、開発部に人の声帯を大まかに判別し分析する機械の開発をお願いしていました」



「は!?」



驚きのあまり胡散臭いリュウガの顔を凝視してレイは固まっている。リュウガは上司に報告する部下のようにしおらしく言い、忠実に敬礼をした。先を続けてもよろしいでしょうか?白々しくにやにやしながらレイの反応を楽しんでいる。ムッとしたレイは崩れた顔を真剣な顔つきに戻し、どうぞと手で促し許可を出す。コウとルカは隣でクスクスと笑っている。



「はい、先生!趣味と遊びで開発部に依頼していましたが、まさか真面目な場面で使うとは思いませんでした。その声からわかる身体的な特徴と年齢を教えてもらう予定です」



「いつの間に。。。その返答を元に、動くんですね?」



「はい、先生。ちなみに、開発をお願いした理由は僕が昔から声優さんに憧れていたからです。いろんな声を出せれば、人を驚かせて遊べるからです!!!」



「は!?自分のため!?」



最後の報告はいらない。というかぜひとも開発部に依頼している機械をリュウガに使わせてはいけない。きっとたくさんの犠牲者が出るだろう。開発部から声帯を判別する機械が届いたら絶対コウに管理してもらおう。レイは動揺した気持ちを抑えつつ、救いを求めるようにコウを見た。レイの言いたいことがわかったらしくコウは笑って頷いている。



「隊長ー、またからかって。もう少しで結果が送られてくるんじゃない?これも、ボウちゃんが姉上に資料を届けてくれたからだよ」



「え?」



「ボウちゃん、上の階に行くの苦手で辛いのに、資料を届けてくれたよね。だから、僕たち開発部とゆっくり話ができたの。姉上からのクレームの検証も余裕をもってできたし」



思わぬところでまた褒められた。書籍部に配属されてから何かと褒められてばかりだ。ただ自分に素直になっただけなのに、上の階へ資料を届けただけなのに。この三人は嬉しそうに笑って、ありがとうと言ってくれる。幸せそうな明るい顔をしている。レイは不思議な違和感に戸惑い思わず下を向く。今まで感じたことのない大きな安心感に包まれたような気がした。



「ありがとう、ボウちゃん。僕は気になることがあるからちょっと人に会いに行くけど、僕がいない間、ルカをよろしくね。隊長も声の分析をより細かくするだろうし」



「出掛けるんですか?」



「うん。夕方には戻るから」



残りのお茶を飲み干してコウは穏やかに笑った。安心させるような笑顔に少し不安にもなるが、コウが自分に任せてくれたことが嬉しい。小さな不安を顔に出さないよう気をつけてレイは大きく頷いた。



「何かあったら連絡してください。スマホ、常に見ておきますから」



「ふふふ。ボウちゃん、少しの間にずいぶん逞しくなったなぁ。ボウちゃんなんて、呼べないかもねー」



ヒラヒラと手を振って朗らかに言うとコウは空になった皿を重ねてこたつから立ち上がった。出掛けていくだけなのに、妙な寂しさを感じる。せめて入り口まで見送ろうとレイもこたつから出た。



「もう、どうしたの?大丈夫だよ」



気づかれないよう努めたのにコウにはバレている。レイは諦めて湧き上がった不安を感じるように顔を崩した。リュウガとルカはこたつから二人を見守っている。



「ルカは仕事に集中すると知らないうちに無理をするから。1時間ごとに声をかけて休憩させて。飲み物や甘いものも忘れずにね」



「はい」



「隊長は基本的に放っておいていいけど、変な声を出したら生チョコ出してあげてよ。スルメはタダをこねた時に」



コウからの言葉をしっかり頭に入れてレイは何度も頷いた。優しく笑ってコウは頑丈な扉を開ける。書籍部の居心地がいい温かな雰囲気とは別の、古びた静かな空間が扉の向こうに見える。昼間なのに光が差し込まない。電灯の光だけが通路を照らしている。



「行ってくるね。帰ったら甘いココアを淹れてよ」



見送るレイに優しく笑うと、さっと前を向き薄暗い通路を颯爽と歩いていった。



コウを見送ってこたつに戻ると、リュウガはにやにやと楽しそうに笑っていてレイの湯飲みに急須からお茶を煎れている。ルカは作業を始めるようで、空になった皿を持ち上げてキッチンへ片付けようとしていた。



「あ、ルカさん。俺がやります。仕事、するんですよね。飲み物は何がいいですか?」



「ありがとう。そうだなぁ。疲れるだろうから、ココアがいいな。ココアの作り方、教えようか?」



重ねた皿をルカから受け取って一緒にキッチンへ歩いていく。穏やかなルカがいつもと少し違っていて、纏う雰囲気がピリピリしている気がした。これから仕事をするからだろうか。柔らかだった優しい目は何か遠いものを見ているような、不思議な鋭さを宿している。レイはルカの心を感じるように隣へと意識を集中させた。



「まず牛乳をコップに入れて、電子レンジで温めて。自動を押せばほどよく温まるから。そのあとココアをスプーン一杯。ドバっ!とね」



「はい」



明るく教えるルカにレイは笑って応えた。見かけや動作はいつもと変わらないのに、何かが違う。棚から取り出したコップに牛乳を入れながら、自分が感じている違和感はなんだろうとレイは考え続ける。電子レンジの扉を開けてコップを中央に置いた。



「俺は仕事を始めるね。わからないことがあったら、声をかけて」



「ココアを淹れたあと、俺は何をすればいいですか?」



「うーん。隊長がもらってきた資料を見てみないと。レイ、資料室入ったことある?」



資料室には掃除のために何度か入ったことはあった。書籍部ができた10年前から営業部の報告書がファイリングされ保管されている。所々日付や年代が違う報告書もあるが、ほとんど綺麗に整理されていた。日付順に並んでいないと気持ち悪くて、掃除中に見つければ棚に戻した記憶はある。そういえば、埃まみれの段ボールにぎっしりと見たことのない報告書が大量に入っていたことを思い出す。ルカに伝えると顔を曇らせて、やっぱりと呟いた。



「整理しようと思ってたのに、どこにあるかわからなかったんだ。見つけてくれてありがとう。どれくらいあった?」



「えっと、とりあえず段ボールは3個ありました。奥に置いてあります」



電子レンジが高い音を立てて動きを止めた。温まったコップを出して、ココアをスプーン一杯分入れる。湯気がほんのりと上がる白い牛乳がココアと混ざり、美味しそうな色へと変化していった。



「どうしようかな。。。整理した棚に欲しい報告書がなかったら探してみよう。段ボールの報告書はとりあえずそのままでいいよ」



「え?俺、ファイリングしましょうか?日付順に整理すればいいんですよね?」



「そうだけど。。。レイ、大丈夫?報告書を見ても辛くない?」



心配そうに見上げてくるルカにレイは自分の気持ちなんて見抜かれていたのだなと照れ臭くなる。そうなのだ。レイがデータ入力を頑なに拒み逃げ続けた理由はそこにあった。かつてライバルだった同僚たちの営業成果や顧客情報なんて見たくない。誇らしげに書いたり悔しそうに書いたり。自分も営業成績を見せつけるように報告書を書いた覚えがある。こんなに凄いんだ、こんなに頑張ったんだと、今から思えば自己主張をしたくてしたくて堪らなかった。



「あ、はい。えっと、そっか。俺、感情がわかりやすいんでしたよね。皆さんから見たらバレバレというか。まあ、ちょっときついですが、やってみたいです」



出来上がったココアをルカに薦めるとルカは少し笑って静かに一口飲んだ。温かいココアを味わうように目を閉じて小さく、美味しいと囁く。なんだか嬉しくなってレイは下を向きながら照れ臭そうに笑った。



「俺、やってみたいです、ルカさん。きっと報告書を見れば、悔しさとかコンプレックスとか。知ってる同僚の報告書が出てきたらイラッとして嫌で嫌で堪らなくなるかもですけど。それでも、やってみたいです」



「うん」



「ずっと逃げて見ないようにしてきたんだって気づきました。報告書が嫌だったんじゃない。同僚たちに会いたくなかったんじゃない。自分の感情や気持ちを見たくなかった。感じたくなかった。こんな、嫌な自分を出したくなかった。見たくない自分から逃げていたんだって気づきました」



レイは棚から新しいカップを出して牛乳を入れた。電子レンジの扉を開けて中央に置く。自動のボタンを押して電子レンジの中でゆっくり回っているカップを見つめた。競争していた同僚たちは今でも営業に奮闘している。客にアポを取りプレゼンの練習をし商品を売り込む。報告書を見たり上の階へ行くと、自分は書籍部で何をしているんだと過去の自分が心の中で激しく責め立ててくる。見ないように、感じないようにずっと逃げてきた。逃げる自分を周りに反発することで誤魔化してきた。



やっとわかった。どうしようもなく反発してしまう理由が。見たくないものから逃げ続ける、都合の悪い自分を悟られないように虚勢を張っていただけだった。



「俺、情けないですよ。周りにいつも牙を向いて。俺が戦うべき相手は周りじゃなくて、ここにいた。俺の心にずっといるのに。自分と戦わなくちゃ。俺、堂々と人と接することなんでできないです」



「うん」



「いつまでも周りに反発して、見捨てられるんじゃないかってビクビクして。それって、自分と本気で戦わず、自分っていうものを知ろうとしなかったからなんですね。本気で戦ってないから本気で自分を理解できない。わからない。だから、周りに認めてもらおうと媚びてしまう」



「。。。。」



「俺、わかったんですよ。ずっと周りに媚びてきたんだ。愛して欲しい、理解して欲しい、優しくして欲しい、とか。そういう欲ばかり押し付けてきたんだって」



電子レンジがまた高い音を立てて動きを止めた。ほんのり温かいカップを取り出しココアを入れる。スプーンでかき混ぜると美味しそうな茶色のホットココアができる。ルカのように一口含むと優しい甘さと温かさが口の中に消えていく。苦い心を潤すように体を温めてくれた。



「カッコ悪いです、俺。こんな自分、嫌です。負けてもいい。せめて、真剣に、本気で自分と戦いたい。負けても負けても、何度でも戦って挑戦したい。弱い、情けない自分と」



「うん」



「だから、報告書見てみたい。綺麗にファイリングして整理したい。やってみたいです、ルカさん」



ココアを片手に持ってレイは無邪気に笑った。時々悔しそうに顔をしかめながら、カッコ悪いと繰り返す。どこか遠くを見つめながらゆっくりとココアを飲むレイをルカは見守りながら優しく口を開いた。



「そっかー、レイも自分との戦いなんだね。頑張って。思う存分戦いなよ。俺も、自分と戦う」



「え?ルカさんも?」



「うん。報告書、見てるとね。書いてることと伝わってくる感情が違うことがよくあるの。自分の感覚や直感を信じるのか、目に見える報告書を信じるのか、迷う時がある。それをどうデータ入力に活かすか、迷うんだ」



「迷うって、何をですか?データ入力のやり方とか?」



「何て言うのかな。当たり障りのない、浅いデータにするのか。想いを汲み取った深いデータにするのか。汲み取る深さもね、いろいろあるんだよ、俺の中で。浅ければ浅いほど楽で簡単。疲れないし、早く終わるしね」



ルカもココアを一口飲むと息を大きく吸ってゆっくり吐いた。ルカの中でもいろんな戦いがあるらしい。とても興味を引かれてレイは頷きながら先を促す。ルカは軽く笑って何かを思い返すように口を開いた。



「でも、それって出し惜しみっていうか。自分に負けたって感じがするんだ。データ入力を無事終えてもスッキリしない。晴れやかな気持ちになれない。いつまでもモヤモヤしてて気持ち悪くて、そんな自分が嫌いになっちゃう」



「はい」



自分と同じだ。気持ちがスッキリしなくて妙にイライラして嫌になる。何かに八つ当たりしたくなる。ルカの言葉にレイは何度も頷いた。



「何でかな?って考えた時に、あ、俺、全然戦ってない。自分との戦いを放棄してやった振りをしたんだ、誤魔化したんだって気づいた。浅いデータで満足したんじゃなく、自分から逃げたんだ、楽な方を選んじゃったなって」



「はい」



「だからね、俺も自分との戦いなの。そんなのできない、無駄なことだって決め付ける自分との、形だけ、表面だけやればいいじゃんっていう無様な自分との、ね」



「ぶ、無様!?」



ルカから少し物騒な言葉が飛び出しレイは体を勢いよく引いた。ルカは不思議そうな顔でレイを見上げている。



「だって、無様じゃない。形だけ綺麗で心がこもってないの。自分さえ良ければいい、バレなきゃいい、みたいな。俺、そんな生き方したくないもの」



「。。。。」



「想いや心を大事にしたい。見えなくても、今の自分にできる最高の技術と心を込めたい。だから、浅くて楽な方に行きたがる自分との勝負なんだ。そんなのできない、無駄だって諦めてる自分との。負けなくないの、毎回」



ピリピリとした不思議な緊張感がルカの周りを包み込む。自分が感じた違和感はこれだったんだとレイは思った。ルカがクレーム部から書籍部へ配属になった理由がわかった。過程はどうであれ、データがルカを呼んだのだろう。根拠や証拠は全くないが、どうしてもそう思わざるを得ない強い直感がレイの心に激しく主張してきた。



「レイ、頑張って。俺も戦うよ。自分と」



「はい、ルカさん。1時間ごとに声をかけるんで、無理だけはしないでくださいね」



コウから任された。念を押すよう言うとルカは、コウみたいだと笑う。もう一度美味しいココアを二人で味わって、冷蔵庫から生チョコを取り出しゆっくりとキッチンを後にした。



キッチンから戻ると寛ぎスペースにいたリュウガはテレビ電話で誰かと話し合っていた。開発部からの返答か!レイは衝動に駆られてリュウガの元へ行く。ルカはココアを溢さないようにゆっくりと動きながらこたつの上にカップを置いた。



「うお!?レイ!やる気だなぁ。しかし、そのココアは凶器だぞ。俺にぶっかかりそうだったぞ、おい」



「大丈夫ですよ!半分以上飲んでましたから。それより、誰ですか!電話の相手は」



やってきたレイからの衝撃で持っていたスマホが倒れ、テレビ電話の相手が、なんだね!?と甲高い声を上げている。少々神経質な男の声だ。開発部に行ったことはないが、噂では変人の集まりだと聞いている。リュウガの相手はどんな人だろうとレイとルカは両側からスマホを覗きこんだ。



「なんだね!?君たちは!?全くもって失礼ではないか!リュウガくん、君の部下たちは揃いも揃って無礼だよ。この私が写っている画面を汚すなど」



「ごめんね~~」



長引きそうな説教を強制的に遮りリュウガはさっさと謝った。画面上にはやや冷たい感じの、目をつり上げた男が写っている。メガネのフレームがグレーでいかにも不機嫌な顔をしてレイを睨み、再びリュウガの顔に視線が止まった。



「リュウガくん、君にはいつも素晴らしいアイディアをいろいろともらっているから大目に見ているが、こうも失礼な若者に屈辱を受けると私だって我慢がならない。いいかね、この借りはきっちり返させてもらうよ」



「えー」



「君の部下の声を送りたまえ。徹底的に調べあげて、自由自在に使いこなしてみせるから。さぁさぁ!無礼な君よ!声を上げたまえ!!」



スマホの画面全体を鋭く冷たい目が占領し、ありがたくないドアップを頂いた。レイは大きく後ろに体を引いて逃げる。本能的にヤバいと瞬時に感じた。この人は危険だ。



「逃げるんじゃない!卑怯ではないか!全く、リュウガくん。君の指導はいったい、どうなっているんだね!?これだから、地下の人間はとバカにされるのだ!!」



「ごめんね~~、メガネくん」



画面からギラギラとこちらを見るメガネの男をなだめるようにリュウガは両手を軽く振って、まあまあと笑っている。ルカにこっちへ来て画面を見るよう薦めた。ルカはよくわからないままリュウガの隣に顔を寄せると画面に映る男をじっと見た。目とメガネだけだった画面が急に遠くなり、白衣を着た男の姿が映った。



「な、なんと!?」



「メガネくん、この可愛いルカに免じて許してくれたまえよ。悪気はなかったんだからさぁ」



リュウガは相変わらずにやにやして画面先の男を見つめた。相手の反応がわかるらしく激しい怒りにも全く動じない。そればかりか楽しんでいるようにも見える。レイは画面から映らない所で嫌な予感を感じて、呆れたようにリュウガを見た。画面先の男が居心地の悪そうな顔をして落ち着きなく体を揺すっている。おずおずと視線をこちらに戻した。



「ま、まあ、その、なんだね。誰にでも失敗はある。つ、次から気をつけたまえ」



「えっと。。。はい、気を付けます」



よくわからないまま見守っていたルカにリュウガは小さな声で返事をするよう促す。にっこり笑え!とそばで囁き、画面先の男を指差した。不思議な顔をしていたルカはリュウガの言うとおり穏やかな笑顔を見せ、もう一度気を付けますと伝える。メガネの男は気まずそうに視線を反らしゴホゴホと咳払いをした。



「う、うむ。謝る気持ちをこちらも受け取らねばなるまい。いいかね、年上には礼儀を尽くすのだよ。それは君にも必ず還ってくるからね。」



「え?。。。あ、はい」



「それと、あまり乱暴な行為は慎みたまえ。何より君が怪我をするかもしれないだろう。物は大切に扱ってこそ、だ」



急にしおらしくなったメガネの男をレイはポカンとした顔で見つめた。優しく諭すような男の言葉を聞いてルカは頷いている。リュウガはにやにやした顔を崩さず、レイにゆっくり座ってお茶でも飲めと薦めた。



「うん。素直でよろしい。そのような態度をとられては何も文句を言えん。先ほどの無礼は許そう。私とて鬼ではないのでな。こら、リュウガくん。隠れてないで出てきたまえ。依頼されていた結果を話そうではないか」



動揺していたメガネの男は急激に上機嫌になり嬉しそうにリュウガを呼んだ。あまりの変わり様にレイは言葉もなく二人のやり取りを見守る。激しい怒りと気迫に恐ろしくなって思わず逃げたが、何なんだこの気持ちの悪い優しさは。感情の起伏が激しすぎる。開発部のことはよく知らないが、画面先の男は間違いなく変人だ。リュウガとはまた違った変人だなとレイは隣のリュウガをちらりと見た。



「ほほほ!メガネくん、いつもありがとう。んで、どうだったの?声の主は」



リュウガの言葉にメガネの男は突然顔を曇らせた。笑ったり怒ったり悲しんだり、本当に表情が豊かだ。メガネの男を見ていると自分の感情がすぐ顔に出てしまう癖も可愛く見えてしまう。上には上がいるのだなとレイは嬉しいような、それでいいのかわからないような不思議な気持ちになった。メガネの男は暗い顔のまま口を開く。リュウガは先を促すように顔を近づけた。



「他言無用でお願いしたい。声の主はおそらく。。。男だ。30代でほどよく筋肉がある。背丈はそうだな、リュウガくんくらいか。声帯が発達しているから、よく声を出す立場だろう」



「話す職業か、おしゃべりな性格?」



「ああ、声をよく使っている。呼吸が浅かったからずいぶん緊張しているようだった。普段はこんなことをするような性格ではない。必要に迫られて、のようだな」



声だけでそこまでわかるのか。やっと核心に近づく回答が得られて、逃げていたレイもスマホをそっと覗きこんだ。気持ち悪いほど冷たい目だった男が悲しげに眉をひそめ絞り出すように話している。



「この声は不本意なことをしている声だ。本当はやりたくないのに、やらざるを得ない。所々、どもったり不要に強く声を上げたりしている。心の中に迷いや葛藤があって、無意識に隠そうとしているのだよ。自分への保身もあるのだろう」



「恐怖を抱えながら声を出してるってこと?」



「うむ。聞いているだけ気の毒だよ。自分の意思と反することをしなくてはならないとは。。。私には到底無理だがね」



そうだろうね。リュウガは軽く頷いて大いに同意した。自分も絶対嫌なことはしないくせに。レイは自然に自分を棚に上げているリュウガを抗議を込めた目で静かに見つめる。レイの視線を気づいているのかいないのか、全く変わらない表情でリュウガはメガネの男の言葉に耳を傾けた。



「リュウガくん。これでどうかね?何か役に立ちそうかね?このような若者が同じ会社にいると思うと、私は心が痛むよ。。。仕事とは自分に誇れるようなものを仕事として選ぶべきだよ。うむ、これは私の持論だがね」



「おうおう」



「自分に恥じぬことを選んでこその仕事ではないか。限りある命の時間を、自分の意に反するものに注ぎ込むとは。。。哀れとしか思えん」



メガネの男は大きなため息をつき可哀想だと呟く。心底クレームを残した男のことを想っているようでレイは驚きながらもメガネの男の冷たい目を見た。恐ろしいほど冷たい目だ。なのに知らない男のために心を痛めている。こんな人もいるのだなと新しい発見をしたような新鮮な気持ちになった。



「リュウガくん、ぜひこの若者を探して突き止めてくれたまえ。そして、伝えてくれ。君の貴重な命の時間を、そんな下らないことに使ってはいけない。欲しいものがあるなら、実力で勝負して相応しい男になればいいのだ、と」



「。。。うん」



「君の欲しいものは人から奪うものではない。奪っても、奪われるだけなのだよ。この若者が傷つくだけだ」



メガネの男は冷たい目のまま苦しそうな顔をしている。リュウガは優しい目をして、そうだねと小さく呟いた。



「君の欲しいものは逃げない。いつでも君のそばにある。何度でも挑戦してやり直せばいいのだ。そして、手に入れればいいのだよ、存分に」



「ふふふ」



メガネの男が言った言葉にリュウガは嬉しそうに笑うと、穏やかで優しい顔をする。夢中になって話していたメガネの男は不可解なものを見るようにリュウガを凝視した。冷たい目がギロリとリュウガを捕らえる。



「なんだね?」



「メガネくん、相変わらず熱いなぁ。俺、メガネくんのそういうところ、好きだわぁ」



「ふん!」



メガネの男は悲しそうな顔をパッと変えて不機嫌な顔になった。心外だとばかりに冷たい目を細めてメガネのズレを正す。近寄りがたい威圧的な空気を醸し出し荒々しく声を上げた。



「全く!もういいかね!?私は忙しいのだよ。リュウガくん、飲み会には来るのだろう?君から依頼された機械を持ってくるから、楽しみにしておくがいい」



「え?もう終わり?メガネくん、早くない?」



リュウガが言い終わる前にスマホの画面がプチンと消える。あっという間に暗くなった画面をポカンと見ていたリュウガだが、楽しげに笑ってスマホの切ボタンを押した。両側にいたルカとレイに、面白い人でしょ?と話しかける。ルカは笑って、はいと答えた。



「すごく、何て言うか、味わい深い人ですね。俺、ちょっと付いていけなかったけど、すんごく激しい人だっていうのはわかりました」



「うんうん。ね、レイ。いろんな人がいるでしょ?面白いよー。開発部は。メガネくんみたいなのが、集団で固まってんの。みんな自分のこと普通だって思ってんだよ」



「は!?あれで!?」



クレームの声の主へ繋がる大切な手がかりを教えてもらったが、開発部の個性の濃さに新しい謎が増えた気がする。メガネの男が普通なら、自分はどれだけ個性のない存在になるのだろう。無知とは恐ろしい。



「心配ないんだよ、レイ。大いに感情が顔に出て、良いんだよ」



胡散臭い笑顔で爽やかに言い放つリュウガに、上司だがその顔をつねってやりたい。力の限り心を込めてつねってやりたい。本能からくる衝動をレイは必死に理性で抑えた。



勝ち誇ったようなリュウガの顔をレイはじっと見つめる。抗議を込めてみたがリュウガにはやっぱり届かない。並々と注がれたお茶を薦められるままに手に取ると思った以上に量が多く、溢さないように慎重に一口飲む。ココアとお茶。まるでルカとリュウガから贈られたものみたいだなとレイはぼんやり思った。



「30代の男ですか。。。営業部なんでしょうか?その人」



「おそらくなー。かなり特定されるぞ。レイとか、レイとか、レイとか!」



「俺は、やりません!!!隊長、アルさんからもらった資料の中にいないんですか?」



昔自分がいた部署なので知り合いは多いし30代くらいならほとんどが先輩や同僚だ。仕事を教わったり指導してもらったり、一緒に営業に行った人もいるかもしれない。ルカに手渡された資料を見ながら、怖いような見てみたいような落ち着かない気持ちがレイの中に湧き起こる。



「それ、俺が見てもいいんですかね?」



見てしまったらもっと混乱するかもしれない。営業部の知り合いに会ったら感情を隠しきれる自信がない。来週には会社全体の飲み会も控えている。足れまといになりたくないが、書籍部として知っておかなければならない気もする。迷いをそのまま顔に出し、レイはリュウガに助けを求めるような目をした。



「うんうん。レイ、見ていいよ。というか、見なくてはいけない。ここ、書籍部はそういうところだからな」



「え、どういう意味ですか?」



「意味。。。難しいなぁ、説明するの。そうだなぁ。。。他の部署ならね、見て見ぬふりをしてもやっていけるんだよ。知らなくても自分の仕事をこなしていればいいけど」



「はい」



何か重大なことを言われそうな予感にレイは口元を引き締めてリュウガと向き合った。いつも楽しそうに遊んでいるリュウガだが、上司として進言する時は一瞬にして纏っている雰囲気が変わる。ふわふわとした元気な子供から重々しく厳しい大人に変わるように。レイはリュウガの持つ空気に飲み込まれそうになりながらも、必死に耐え次の言葉を待った。



「書籍部は真実を知るための部署だから。見えないものを見る。沈んでいるものをあぶり出す。それが人の心の闇だったとしても。深い苦しい傷を抉ることだったとしても」



「。。。はい」



「人を傷つけてでも。幸せで優しい現実を壊してでも。真実を知る。然るべき人に伝える。隠された、蔑ろにされた真実を受け取るために。受け取るべき人に渡すために」



レイは急に胸の辺りがきゅっと締め付けられたような感覚に襲われた。よくわからないが、胸の奥の、今まで知らなかった深い部分が自分に何かを訴えている。リュウガの放つ言葉に得体の知れない強い力が乗り移って、体全体が意味もなく震えた。レイの様子を見守りながらリュウガは慰めるように優しく笑ってゆっくりと口を開いた。



「真実を知るための行動はすべて自分に還ってくるんだ。人を深く傷つければ、自分もいつか必ず深く傷つくし、幸せや優しさを壊せば、自分も同じように壊される時が来るだろうね」



「。。。。」



たとえ真実を知るための行動でも、自分がやったことは必ず還ってくる。その言葉の意味と恐ろしさを感じて震えが止まらない。きっと青くなっているだろう自分の顔をリュウガは優しく見つめている。怖くても情けなくてもいい。リュウガから目を反らしたくない。恐怖からくる震えを何とか抑え、ぎこちなく頷いた。



「人の大切なものを奪えば、自分もいつか大切なものを奪われる。でもね、レイ。深い闇の中に埋めれた真実を掘り起こして、知るべき人に渡す時、一番傷ついて苦しむのは闇を隠していた人たちと隠されていた人たちなんだよ」



「え?」



意外な言葉にレイは震えを忘れて思わず瞬きを繰り返した。いつの間にか力が入り、睨んでいた目が驚きで丸くなる。普段の、元気で素直な目に見つめられて、リュウガは嬉しそうに笑っている。なるべくわかりやすく説明しようと少し考えながら口を開いた。



「うーん。当事者とも、言うね。隠していた人にはそうせざるを得ない心の動きがあって、それが保身や卑怯な心根だったとしても、深く傷ついていることを忘れないでほしい。真実を知るべき人の心も同じように深く傷つくことも、忘れないで」



これは俺個人の考え方だけど。凄まじく厳しい雰囲気が少しだけ軽くなり、リュウガは穏やかな顔をしてのんびりと付け加えた。優しい目を細めていつものようににんまりと笑っている。



「レイも書籍部の一員だから。その苦しみや危険性、知ることへの責任や重圧を感じてほしい。感じて、受け取って、乗り越えてほしい。俺は上司として心から願い、全力でサポートするよ」



「隊長。。。。」



「真実を知ることは辛い。自分の幸せも、喜びも、穏やかな日常も。全部全部壊されて何もかも根こそぎ持っていかれる。あれも、これも。手に入れたはずのものが。でもね、レイ。破壊がなければ、再生もないんだ。すべてを捨てて容赦なく壊されなければ、進化もないんだよ」



リュウガは何かを思い出すようにレイから視線を外して静かに言った。視線の先にはリュウガの好きな抹茶入りのお茶がある。湯飲みを取って軽く揺らせば、お茶の静かな水面にいくつもの小さな波が円を描きながら湧き上がった。



「真実を知ることになっても。身近な人のもう一つの顔を知っても。レイはレイのまま、感じたままを表現してほしいなぁ。俺はレイの心を守りたいよ。あ、コウやルカの心もね」



「ふふふ、わかってますよ、隊長」



真剣に資料を見ていたルカが応えるように明るく笑う。二人の会話を見守りながらルカはもらった資料を一通り読んでしまったらしい。重々しい空気から優しいふんわりとしたものに変わって、レイもようやく体の緊張が解れてきた。



「さ!難しい話はこれで終わり。後は実践でね。ルカは資料を見るとして、レイはこれからどうするの?」



「はい、ルカさんと話していたんですが、資料室の整理をしようと思ってて。掃除していた時に、奥から大量の報告書が詰まった段ボールを見つけたんです。バラバラだからファイリングしようと」



「ほうほう」



ルカに確認するよう目で合図を送るとルカは大丈夫だとリュウガに伝えた。レイはずいぶん落ち着いた顔をしている。定期的に休憩を取るよう念を押し、リュウガはこたつから立ち上がった。



「いい部下を持ったなぁ、俺。超運良いわ~~。最高の金運と人運が俺に限りなく降り注いでるよ。んじゃ、俺は15時のおやつでも。。。」



「へ!?隊長、まだ13時ですよ!!スルメ食べたでしょ!?」



いそいそと空になった湯飲みを片付けて横に置いていたお盆にのせる。まったりするつもりなのか心配になってレイはリュウガを止めようと慌ててリュウガの肩を掴んだ。リュウガはレイに意味深な笑みを返してお盆を手に持つ。そのまま逃げるようにさっと移動し、あっという間にキッチンへ引っ込んでしまった。



「は!?あの人、さっきまであんな真剣な顔で話してたのに!何ですか!?あれは!ただのコソ泥のように。。。」



「ふふふ。隊長、何か美味しいものを作ってくれるのかもね。さあ、レイ。仕事を始めようか。隊長のことは放っておこう」



ルカはもらった資料を綺麗にまとめてレイの前に出した。見たことのある顔写真が目に飛び込んでくる。行動を共にしていた同僚だ。営業成績も細かく書いてあり、売上げた相手も自分と一緒に回った得意先からだった。



「ルカさん、これ。。。俺と時期が同じです。これも、これも。商品だって同じだ。どういうことですか?」



「うん。レイには資料整理をって思ってたけど、アルさんからの資料を見てもらうのが先かもしれないね。俺はこの資料から、変な違和感を感じるよ」



「違和感、ですか?」



レイに軽く頷いて自分が感じたままを伝える。本当に売上を出しているか疑わしい。失礼だけど、と前置きをしてルカは一つ一つ言葉を選びながら静かに言った。



「この人はいつも報告書で迷いのない文字を書くんだ。売上げた商品を詳しく書いて、どこの部分がお客様に選ばれたのかわかりやすく書いてる。でもね、この手書きのところ、すごく躊躇って書いてるんだよ」



「え?どれですか?」



「ここ、あと、ここも。3枚目の売上も、ね」



「。。。ほとんど、俺と一緒に回った得意先です。確かにお買い上げ頂きましたが、クレームになって返品されたような。。。」



ルカが指摘した売上の時期は、いわゆる稼ぎ時というもので客からの問い合わせや注文がとてつもなく多かった。報告書を書くまで手が回らず、同僚にほとんど書いてもらったかもしれない。記憶が曖昧ではっきりしたことは覚えていないが、確かそうだった気がする。



「そっかー。。何だか怪しいね。じゃあ、この人は?一緒に仕事をしたことある?」



「いえ。。。でも、この人、アルさんと回っていた時期があるはずですよ。だって、アルさんの資料やパソコン、触ってましたから」



「え?」



「気になったからアルさんに、いいんですか?って聞いたら、何も言わず静かに笑ってました。。。その時から、何かが起こるって感じていたのかもしれないです」



レイ自身、アルと一緒に仕事をしたことはない。アドバイスはたくさんもらったが、営業トップの手腕を学びたい同僚や先輩は他にもいる。アルの隣はいつも世話しなく入れ換わっていた。



「そうなんだ。営業部って大変なんだね。。。あと、気になったのが、この人かな?どう?知ってる?」



ルカは何枚かの資料を捲って最後にあった資料をレイに見せた。見た瞬間、レイの顔が曇る。知っているも何も自分といつも比べられていたライバル的な同僚だった。本人はとても爽やかで優しく礼儀正しい。よく話す性格で話も面白く先輩や上司受けも良かった。この同僚のおかげでレイはずいぶんコンプレックスを刺激され、劣等感に苛まれたものだ。



「あはは!わかった。わかったよ、レイ。ありがとう。これで、詳しく調べたい人物が特定されたね」



「。。。。俺、まだ何も言ってませんが」



楽しそうに笑われてレイは不本意だと顔をしかめた。残りの資料はどうするのか。ルカに聞いてみるとリュウガとコウに調べてもらうと明るく笑った。



「一応ね、今、コウもいろんな人に会って情報を集めているだろうし。さっきの3人と他の人の資料、別々にしておいて」



レイは素直に頷くとバラバラにならないよう資料を綺麗にまとめてルカに渡した。資料一つでいろんなことがわかる。長い間、営業部の報告書を見てきたルカの目は凄いのだなと改めて思った。



「ルカさん、俺の報告書読んだことありますか?なんか、すごく怒りをぶつけた記憶があるんですけど」



恥ずかしくて聞きたくないが、どうしても聞いてみたい。ルカの目から自分の報告書はどう見えていたんだろう。落ち着かない気持ちを隠すようにレイは並々と注がれたお茶を素早い動きでゴクゴクと飲む。ルカは何かを思い出したのか、楽しそうに笑い口許を手で抑えた。



「すごく真っ正直で、感情が豊かで面白かったよ。ああ、一生懸命なんだなぁって、報告書下りてくるのが楽しみだった」



「そ、そうですか」



ルカにそう言ってもらえて嬉しい。あの頃は劣等感と競争心でギラギラしていた。恥ずかしいことばかりだが、頑張って良かったと心から思う。



「大変だけど、この3人が出した報告書を資料室から持ってこよう。最近の報告書と過去の報告書を見比べて、売上高とも比較して。まず、それからだね」



「はい」



3人以外の資料を茶色の封筒に入れる。もう一口お茶を飲んでルカとレイはこたつから立ち上がった。



こたつから出たルカは自分の机に座り、パソコンの電源を入れた。報告書を入力したデータは過去3年間のものならばパソコン内部に保管してある。資料室にもバックアップを取ったUSBメモリーがあるものの、とりあえず3年間の報告書が見たい。



「レイ、資料室でこの3人の報告書を探して持ってきて。気になったところや想いが強い部分はデータに入力してあるんだけど」



「もう一度見直すんですね。俺も一緒に見たいです。かなりの量になりますが。。。」



顔を曇らせたレイに構わないと軽く答えてルカはパソコン画面を見つめた。マウスを動かし過去のデータを取り出すと、一つ一つ丁寧に見直していく。気になる箇所をメモ紙に手書きで書き記し、激しくマウスを動かした。データを見るスピードが速い。あっという間に画面が切り替わっていく。



「あ、これ。そうだ。この部分、どうして?って思ったんだ。濁すように書いてた。だから、データも濁っちゃったんだよね」



「濁った?データが、ですか?」



不思議な表現だがとても興味を引かれる。レイは集中して作業するルカの横に寄り添い、画面上にあるデータを見た。ルカがマウスでわかりやすくラインを引いて、ここだよと指摘する。レイも見てみたが、ルカの言う濁りがよくわからない。自分なりに何度も読んで感じてみたが、他の文章と同じに見える。



「違和感があるんですか?」



「うん。この人は売上や商品について端的に短く特徴を捉えて書くんだけど、ここだけ本質とは別のことを書いてる。何かを隠しているような、そんな書き方をしている気がするんだ」



そういうものなのか。全くわからないレイは顔をしかめてルカを見た。ルカは思わず笑って、ごめんねと軽く言う。違和感を感じた報告書を先に持ってくるようレイに指示すると、またマウスを動かして別のファイルを開いた。



パソコンの画面が次々と変わり、ルカのメモ帳に日付と報告書のナンバーがどんどん書かれていく。レイはルカのメモ帳を受け取って素早く奥の資料室へ飛んで行った。



「どうして気づかなかったんだろう。この人、少しずつ売上成績が下がってたんだ。他の二人も。いや、待てよ。このお客様の名前、どこかで。。。」



ルカはパソコンに保存してある過去3年間のデータから特定した3人のデータのみを選び、一つ一つ新しいフォルダの中に入れていった。営業部全員のデータがパソコンに保存してある。その中から選び出すのは大変な作業で、同じ動作を何度も繰り返していく。所々ゆっくり見ながら同じ時期の報告書を見比べてみた。違和感を感じる箇所が増えたのは去年の6月頃だ。



「去年、営業部の成績はどん底だった。他の会社への転職が増えたり、良くない噂が流れたり。そういえば、不正に売り上げてるっていう批判もあったっけ」



ルカは3人それぞれのフォルダを作り、去年の6月からのデータを急いで振り分けた。一つのフォルダに膨大なデータが積み重なるように増えていく。6月分のデータ量だけで100以上にもなり、7月分を重ねて加えると200以上にもなった。



「とりあえず、ここから始めないと。。。6月始めの報告書では、お客様の名前はキサラギさん。大口のお客様はニシハラさん、か。。。」



会社の重役だろうか。同じ商品を20個購入している。家庭用のものではなく会社関係の商品なのでおかしな所はない。他の二人の報告書データを見ても同じ客ではないし、大量購入の報告もない。ルカは次に日付が近いデータを見た。



「次の日、売り上げたのは若手の人だ。同じ商品を別のお客様に売ってる。今度は30個。。。需要があったのかな?消耗品だとしても、こんなに売れるなんて。何に使うんだろう」



他の二人の報告書データを見ると小さな売上はあるものの特に目立った報告はない。その日アポを取った客の情報や欲しい商品、壊れた商品のクレームなど、当たり障りのないデータだった。



「次の日付のデータは。。。今度はこの人が同じ商品を大量に売ってる。変だよ。こんなに同じ商品が売れたら、どういうことなのか上役から指摘がくるはずなのに」



ルカは今まで見た日付のデータをそれぞれ画面上に出し、売上高を計算してみた。こんなに売上を出しているのに6月の営業部成績はどん底だった。それもおかしい。



「クレームがあって返品されたとか?だとしたら、報告書に上がってくるはずだし。。。他の人たちの営業成績が悪かったの?えっと

アルさんからの資料では。。。」



特定した3人の6月分の営業成績を見てみる。3人とも他の月より売上高は減っており、日付に従って売り上げた商品を探してみたが、アルの資料にはどこにも書いていなかった。実際には売り上げていなかったのか。それとも報告書に書かれた売上が営業成績に入っていないのか。



「架空だったってこと?だったら、なんで報告書に書いたんだろ?売り上げたのに、上司には報告してない。上役からも指摘がない。変だな」



このデータをリュウガやコウにも見てもらおうととりあえず保管する。結局同じ商品は全部で90個短時間で売り上げたことになっていた。総額にしておおよそ1000万円の売上だ。



「次のデータは。。うん、いつもの通り、端的にわかりやすく書かれてる。この人はどうかな?」



「ルカさん」



次のデータを見ようとするとすぐそばからレイの声が聞こえる。画面から視線を外して声の主へ向けると大量のファイルを持ったレイが心配そうにルカを見つめていた。ゆっくり机にファイルを置いて、休憩ですとやや強ばった声で言う。



「ありがとう、レイ。かなりあるね、ファイル。去年の6月から見てみたいよ」



「その前に一息いれてください。なんか、集中し過ぎてて怖いくらいでした。コウさんが言ってたの、わかる気がします」



もう少しだけ、と置かれたファイルに手を伸ばすルカを叱るように軽く睨むとレイはマウスをルカから奪い、強制的にパソコンをスリープ状態にした。暗くなった画面を残念そうに眺めながらルカは席から立ち上がる。体を動かしてみると肩の辺りが痛い。腰も固くてゆっくりと伸ばしながら背伸びをしてみた。



「もう1時間経ってたんだ。早いなぁ。レイ、変な箇所を見つけたよ。売上を上司に報告しないって、営業部であるの?」



「は?ないですよ。お客様に買ってもらったら、チームリーダーに伝えます。在庫確認して、納品日の相談もありますし」



ルカの机を簡単に片付けながら大量のファイルを綺麗に並べる。名残惜しそうなルカを見ながら寛ぎスペースを指差した。ルカは頷いてスタンドの電気を消しレイの後に続く。



「会社に帰ってきたら、チームのみんなとミーティングですよ。何が良かったか悪かったか。もう一度お客様にやったプレゼンを再現することもありましたね。それで報告書を書いて」



「部長さんには、直接報告しないの?」



「ええ。部長への報告はチームリーダーの役目ですから。確か、リーダーはチーム全員の状況をまとめて部長に報告してたはずですよ。自分の分と、チームの分と」



レイから座るよう促されてルカは大人しくこたつに足を入れてゆっくり座った。休ませるように瞼を閉じれば、暗闇の中でじんわりと目が痛くなってきた。目の前でお茶が注がれる涼やかな音がする。閉じた目が痛くてしばらくじっとしていると、温かいタオルのような感触が目の辺りを静かに覆う。人の気配がして机の上からコツンと軽い音がした。



「うわ!何ですか!?それ。隊長、作ったんですか?」



「ふっふっふ!俺特製、ふわふわホットケーキだ!!可愛いだろー。猫さんだぞ。こっちはウサギさん」



こたつの机にはほどよく焼かれたホットケーキが何枚か可愛く盛り付けられていた。生クリームの上にイチゴが乗せてあり、メイプルシロップがゆったりとホットケーキの上に流れていく。四角のバターが表面の熱で溶けてメイプルシロップと混ざっていた。



「これ、本当に隊長が作ったんですか?てか、何でこんなに可愛く。。。」



「レイ!!デザートは盛付けも大切なの!心がワクワクして楽しくなるのがデザートなの!ただ食べるだけじゃないんだからね!」



予想外の力説にレイは力の抜けた返事をし、リュウガと皿に盛り付けられたホットケーキを交互に見る。この人からこれができるのか。あまりにもギャップがありすぎて、どんな顔をしていいのかわからない。



「隊長、何でもできるんですね。盛付け、どこで覚えたんですか?」



「ふふん、俺、ケーキ屋さんでバイトしてたもん。簡単なお菓子は作れるのさ。時間があれば、手の込んだお菓子も作れるのさ」



ルカの目を覆っていたタオルをゆっくりと外しリュウガは勝ち誇った顔でにやりと笑う。用意していたもう一つの蒸しタオルをルカの目に当てて、食べなはれとレイに言った。



「食べるの勿体ないですよ。どこから食べていいか。。。耳?顔?」



「みんな頑張ってるからなー。もう、俺、おでん仕込んじゃった。夜食はおでんね」



「おでん!?作ったんですか!?この短時間で!?」



食べようとしたレイが驚いてリュウガを凝視する。コウといい、リュウガといい本当に器用だなと感心する。一緒に味噌汁を作った時、ルカも手際がよかった。なぜこうもここの人たちは家事能力が高いのだろう。



「さて、ルカ。目はどう?ゆっくり開けてごらん」



覆っていたタオルを取ってリュウガはルカの顔を覗き込む。何度か瞬きをしてルカは静かに息を吸ってゆっくり吐いた。視界がはっきりして頭が軽くなっている。目の辺りの痛みもだいぶ治まったようだ。



「楽です、隊長。ありがとうございます。わぁ!今日も可愛いなぁ!」



「うんうん。良かった良かった。さあ、食べて食べて。んで、何か気になることがあったんだね?」



蒸しタオルをお盆にのせてリュウガはルカを見た。ルカはホットケーキを一口食べて、先ほどデータを見ながら感じた違和感と報告されていない売上を伝える。話を聞いたリュウガの目が鋭く光り、それで?と先を促す。ホットケーキを食べながらレイは資料室から6月分の報告書を持ってきたことを伝えた。



「休憩したら報告書をもう一度見直す予定です。見落とした部分があるかもしれないので」



「うん」



「それと、7月までデータを見比べてみます。営業成績が伸びたのは12月から1月くらいでしたよね?」



ルカの問いかけにリュウガは、そうだと頭を縦に振る。特定した3人以外の資料を封筒から出して何かを考えている。いつもの長考に入ったのか一点を見つめたまま動かなくなった。



「それにしても美味しいです、このホットケーキ。厚さといい、柔らかさといい、絶妙で。隊長、特技いっぱいありますね」



「若い時にたくさんアルバイトしてたんだって。隊長がケーキに囲まれてるの、見てみたかったかも」



データのことは気になるが、根詰めてやっても大切なものを見落としてしまう。リラックスした状態が一番力を発揮できるとリュウガから強く言われていたルカは、軽く体を動かし甘いホットケーキを食べた。レイもそう言われたのか、焦る様子はない。



「食べたら、報告書のファイルを見るよ。レイも一緒に見る?」



「はい。気になることがあったら、言ってもいいですか?」



レイに、もちろんと優しく笑ってルカは小さく切ったホットケーキを一口頬張った。甘く優しいメイプルシロップと生クリームが口の中に広がり、ゆっくりと体へ溶けていった。



片付けをリュウガに任せてルカは自分の席に戻った。机の上にはレイが資料室から持ってきた6月分と7月分のファイルがある。一緒に来たレイに椅子を持ってくるよう伝えると、まず6月分のファイルを手に取った。気になるデータの元になった3人の報告書を探して丁寧に見ていく。



「この報告書だ。綺麗な字だけど、少し歪んでいるかも。でも、全体的に見てそんなに変なところはない。次はこの人だな」



素早く報告書を捲っていき、レイが一緒に営業先を回っていたという社員の報告書を見つけた。疑惑の報告書以外に他の得意先で商品を売り上げたと書かれてある。レイが一緒に売り上げたと言っていった商品だろう。



「単独で売り上げたにしては、金額も商品も大きすぎる。上からチェックが入らなかったのも不思議だ。目を通しているはずなのに」



報告書の上には役職の欄があって、疑惑の報告書にも当たり前のように役職の印鑑が押してあった。レイが隣に椅子を持ってきて座る。気になる報告書を見せると、当日どのように行動していたか思い出しているようで、難しい顔をして押し黙った。



「次は若い社員の報告書だけど。これも上からチェック済だ。報告書の数が多いって言っても、30個も売り上げたんだもの。表彰とかされそうだね」



「ああ、営業部ではよくありますよ。お客様に喜んでもらえたとか、売れてなかった商品を購入していただいたとか。そういう時に営業部全体のミーティングで発表されます」



この3人は表彰されなかったのか?と聞くとレイは首を傾げて、覚えていませんと答えた。そもそも売り上げた商品は存在していたのか。営業成績が落ち込んでいた時期にわざわざ架空の売上を作ったのか。それとも、報告書通りにちゃんと商品は売れて、売上だけが報告されなかったのか。



「わからないですね。。。上も把握していたのに実際の売上には反映されていない。ヨシザワ部長が知っていたら、もう大々的に褒めるはずですよ」



「うん。そうなったら、落ち込んでいた時期だもん。隊長やコウにも話すだろうしね。でもあの頃の営業部は本当に苦しそうだった」



6月頃の営業部の雰囲気は殺伐としていて、部署内でも分裂や決裂が多かったとコウが悲しそうにため息をついていた。リュウガも何とか上手くいってもらいたいと様々な部署にいる同期たちと協力していたようだ。



「次、7月分の報告書を見てみようか。いろんなお客様を回っているみたいだけど、特に変わったところはないようだね」



「あ!待ってください、ルカさん。6月に売り上げたお得意先に挨拶へ行った報告がありません。他のお客様のことばかり書いている」



レイはルカから受け取った6月分のファイルを急いで捲り、大量に売り上げた報告書の得意先を指差した。これだけ商品を購入してもらった得意先に足を運ばないのは営業部としてあり得ないとレイは言う。報告書には商品を買ってもらえなくても客の情報や好みを書いて提出するのが慣例だ。アポを取り会いに行ったのなら、書いているはずだ。



「俺、新人の頃、購入していただいたお客様に会いに行かなかったら、先輩にめちゃくちゃ怒られましたもん。行ったら行ったで必ず報告書に書け!って。だから、営業部みんな挨拶回りに行って報告書に書くはずです」



「そうなんだ」



ルカは7月分の報告書を最後まで見直してみたが、大量に売り上げた得意先の名前は見当たらなかった。妙に引っ掛かる。ルカは一旦ファイルを置いて、おもむろに席を立った。



「どうしたんですか?」



ファイルを見ていたレイが慌てて顔を上げ焦った顔をしている。ルカは笑って、資料室に行ってくると明るく言った。



「営業部の売上が劇的に増えたのは、12月から1月だ。その時期に、このお得意先の名前がないかな、と思って。まあ、8月、9月も見てみたいけど」



「なるほど。。。絡んでるのかもしれないんですね。ルカさん、じゃあ、俺は大量に商品を売り上げる前に、そのお得意先とどう関係を築いてきたのか、6月から遡って調べてみたいです」



「!そっか!商品をこれだけ購入するんだもの。それなりの付き合いがあって、定期的に回ってるだろうし、報告書にも書いているはずだもんね」



机の上にある6月分と7月分のファイルを二人で手分けして持ち、資料室へ歩いていく。他に気になる点はないか、とルカはレイに問いかけた。



「そうですね。。。俺のわがままですけど、こいつ。。いや、ライバルの。一生懸命だなって感じました。俺への闘志っていうよりも、仕事の成果にすごくシビアでしたから」



「報告書から伝わってくるでしょ。そうなんだよね、だから、俺、データ入力好きなんだ」



ルカは嬉しそうに笑ってファイルを持ち直した。大量に保管されているファイル一つ一つに営業部の社員が書いた想いがたくさん詰まっている。体にいろんな重みがずしりと伝わってきてレイも思わず優しく笑った。



「あーあ、俺、もうちょっとこいつのこと見ていればよかった。案外不器用なのかもしれないです。器用だって思ってたけど。勝負や結果ばかりにこだわってて、全然気づかなかった。恥ずかしいですよ」



「ふふふ、それだけレイも一生懸命だったってことだよ。いいじゃない。今からでも連絡取ってみれば」



ルカの提案にレイは渋い顔をして、それは出来ませんと絞り出すような声を出した。直接相手と話をするのはどうしても心が拒否してしまうようで、心が穏やかになっても嫌だと首を振る。だいぶ営業部を冷静に見れるようになったにしても、悔しさや競争心が根付いているようだった。



「生意気かもしれませんが、面と向かって褒めるのは。。。認めるのは悔しいです。俺だって、まだやれる!って威張りたい気分になります」



「ふふふ、そうなんだ。レイは営業部の仕事、好きだったの?」



重みを感じるファイルを持って資料室に着いた。丁寧に棚に戻しながらルカはどこか楽しげにレイを見つめる。ルカに改めて聞かれて、自分は営業部の仕事をどう捉えていたのかなとレイは考えた。好きだったのだろうか。好きとは何だろう。父親の会社に就職して当たり前のように営業部に配属されて。成果を上げることばかりで、好き嫌いなど考えたことがなかった。



いつまでも答えないレイを気にすることなくルカは持ってきたファイルを綺麗に並べて調べたい12月分と1月分のファイルを取った。なるべくじっくり見たいので、まとめて自分の机に持っていこうとする。レイはハッとしてルカから大量のファイルを奪い取るように持ち直した。



「これは俺が運びます。ルカさんは席に戻っていてください」



「ありがとう。大丈夫だよ。それより、レイは営業部の仕事、好きだったの?楽しかった?」



もう一度ルカから聞かれてレイはどう答えていいか、どうしても言葉が出なかった。好きと言われれば好きだったかもしれない。ライバルの報告書を読んで自分もまた得意先を回りたい気持ちになってくる。あいつがやるなら、俺もやってやる。そんな闘志が溢れてくる。これは好きだからなのだろうか。



「。。。もしかして、営業部の仕事、好きじゃなかったのかもしれないね」



「え?」



まだ何も言ってないのにルカは穏やかに笑いながらのんびりと言った。普段と変わらない様子でレイが見たかった4月分と5月分のファイルを棚から取り出している。レイの中で急に焦ったような落ち着かない気持ちが溢れてきた。なぜか否定しなくてはいけない気がして、レイは慌てて、好きでした!と咄嗟に言った。いつもより大きな声になり、静かな資料室に異様なほど響いた。



「す、好きでしたよ!ほら、成果を上げたり褒められた時なんて、すごく幸せな気持ちになりましたし。こいつに勝った時は先輩たちと祝杯をあげたり」



「うん」



「それに、お客様から怒られてもまたがんばろうって思えたし。仕事なんだから、嫌でも苦しくてもやらなくちゃって」



「ふーん」



聞いていたルカはどこか必死で訴えるレイを横目で見ると取り出したファイルを綺麗にまとめた。なんだか取り残された気持ちになってレイは渋い顔で押し黙る。妙に心がもやもやする。すっきりしない苦しさになぜかイライラしてきた。



「俺、なんでこんなに嫌な気分になってるんですかね。さっきまで穏やかで優しい気持ちだったのに」



「。。。自分の気持ちに嘘ついてるからじゃないの?俺はレイが営業部の仕事、好きだったようには思えなかったよ」



調べたいファイルはすべて棚から取り出した。沈んだ顔をしているレイに、行こうと明るく言ってルカは資料室を出ていく。置いていかれたような寂しい気持ちになって、レイはルカの後に続いて歩き出した。資料室の電気を消すと急に周りが暗くなり悲しい気持ちになる。とぼとぼと元気のない足取りで付いていけば、ルカは振り返って吹き出すように笑った。



「もう、レイ。わかりやすいなぁ。ほら、そんな顔しないで。6月から遡って調べるんでしょ?アルさんを助けなくっちゃ」



「。。。その前に、俺を助けてほしいです。ルカさん、俺、営業部の仕事、嫌だったんですかね?苦しくても、きつくても、やらなきゃって思ってました」



明らかに落ち込んでいるレイをルカは自分の席へ促すと持ってきたファイルを机の上に置いた。スリープ状態だった画面を立ち上げて保存しているフォルダをクリックする。そこにはルカが入力したデータがたくさんあって、ルカはその中の一つを開いた。



「凄いです。。とても見やすい。手書きでは文字に癖がでて読みにくいものもある。これなら、すごく便利だ」



「お客様の名前を検索すれば、名前の入ったデータ丸ごと出てくるから情報が無駄なく手に入るんだ。でもね、このデータ。検索されなきゃ、このまま埋もれちゃうんだよ」



ルカは開いたデータを閉じてもう一度フォルダの中にある大量のデータをレイに見せた。今まで報告してきた営業部の情報がまるで海のようにフォルダを埋め尽くしている。レイは何も言わず大量に並ぶデータを見つめた。



「誰かに必要とされれば、表に出るんだろうけど。検索されなかったら基本的にこのフォルダの中にある。あるのに表に出ないから、ないみたい。眠ってるようでしょ」



「。。。。」



「褒められもしないし、綺麗に入力したって表彰されることもない。むしろ、当たり前って素通りされる。間違えて入力したらものすごく責められるよ」



ルカはマウスを一旦置いて持ってきたファイルを取った。12月分のファイルを捲って書かれた報告書を慈しむように撫でた。



「それでも、すごく楽しい。誰にも認められなくても褒められて感謝されても、楽しい。それとは別に、すごく楽しいんだ」



レイは何も言えなくなって口を閉ざした。ぼんやりと画面上のフォルダを見て、大量のデータを見つめる。ゆっくりマウスを動かしてスライドさせれば、綺麗に並んでいるデータが波のように動いた。1日の報告書の数はどれくらいだろう。一枚の報告書を大切に入力していく。丁寧に入力しても雑に入力しても、検索されるまで目を向けられない。レイにとって想像もつかない世界だ。



それなのに、ルカは楽しいと言う。



「凄いな、ルカさん。俺、無理かも。誰かに反発して、誰かに闘志を燃やして、やっぱ、誰かに認めてほしいし褒められたい。そうじゃないと、仕事なんてしたくない」



「ふふふ」



「仕事なんて辛いしきついし、頭を下げないといけないし。。。自分のペースを恐ろしく乱してくる人たちと接しないといけないし。。。いつも相手の機嫌をとって本音も言えないし。。。」



自分の気持ちをそのまま言ってみたが、なぜか仕事に対して不平不満ばかり出てくる。仕事が好きなはずなのに、嫌な気分になって心がまたモヤモヤしてきた。



「。。。これって、俺、営業部の仕事、好きじゃなかったんですかね?」



負けを認めたくない、と顔に書いてあるレイにルカは何も言わずただ面白そうにケラケラと笑った。



営業部の仕事が好きではなかったと心の中で呟くと急に軽くなりスッキリとした気持ちになる。これが自分の心に素直になるということか。好きではなかった。好きになろうと無理やり思い込んでいた。と試しに言ってみたら、また心が軽くなり先ほど感じた寂しい気持ちも薄らいでいる。隣でファイルを開いているルカを見れば、わかりやすいと楽しげに笑った。



「どう?悩みは解消された?」



「はい、驚くほど楽になりました。心ってわかりやすいですね!」



レイにとって大きな発見だ。嘘をつくと心の奥がもやもやして意味もなくイライラする。素直に感じたことを言ってみると楽になって楽しくなってきた。ルカは良かったねぇと優しく笑いながら12月分のファイルをさらに捲っていく。営業部が劇的に売り上げた得意先や商品を調べてメモ帳に書いていった。



「これで心置きなくアルさんの力になれます。俺は、4月分から見ていきますね」



気になる得意先がいつ頃訪問されているのか、とは別にレイには調べたいことがもう一つあった。自分と一緒に回っていた先輩だ。あの頃、とても忙しくて目の前の仕事をこなすのが精一杯だった。ライバルや成果を上げることばかりに気を取られていた。今のように落ち着いて報告書を見れば、あの頃見えなかったものが見えるかもしれない。



「あ、俺のだ。ちゃんと保管されてるんですね」



「そうだよ。レイが書籍部に異動したのってちょうど、営業部の成績が落ち込んだ頃だったね」



「はい。俺が異動になって半年ほどで営業部は持ち直し、最高の売上を記録したでしょ。もう悔しくて悔しくて。ふて腐れてました」



ファイルを一旦机の上に置きレイは自分の目を軽く吊り上げた。鬼のようにルカを睨むと口を尖らせて不機嫌な顔をして見せる。ルカは笑いながら、知ってると答えた。



「それで掃除に勤しむわけだ」



「ご存知の通りです」



ファイルを持ち直しリラックスした状態で一枚ずつ報告書を見ていく。リュウガからリラックスする重要さを面倒なほど聞かされていたので、ちょっと意識してみた。なるほど、体と心が軽くなり報告書を見ることが面白くなっていく。無理やり何かを探してやろうと意気がっていた気持ちが、スッと整ったような不思議な心地がする。



「ルカさん、隊長って案外凄い人なのかもしれません。仕事が楽しいなんて、初めて思いましたよ」



「?さっきは、営業部の仕事、楽しかったって言ってたのに。褒められたりライバルに勝ったりしたら楽しかったんでしょ?」



ルカも落ち着いた様子で軽快にページを捲っていく。柔かく優しい口調にレイは思わずほっと息を吐いた。穏やかに受け取ってくれるこの空気が心地よい。レイは感じたことをそのまま口に出してみた。



「いや、その、今まで感じていた楽しさ、誰かと競ったり比べたり。それで勝ったから楽しいじゃなくて、何て言うか、何もなくただ、楽しいんです」



心に浮かんだ気持ちが形を変えることなく口から飛び出てくる。優しく心地よい空気に心の奥を押し上げられて、溜まっていたものが次々と溢れ出るかのようだった。ルカは、うんと頷き手元のメモ帳にまた何かを書いている。



「仕事をするには、リラックスするのが必至だ!!とか言われて、はあ!?って納得いかなかったんですけど。なんか、そうなのかもって思ってきました」



「どうして?」



「はい、俺、営業部にいた頃、とにかく自分に能力がないって思ってたから、何でもやろう、奪い取っても仕事をしようって思ってやってました。自分には何も取り柄がない、価値がないって思ってましたから」



レイは報告書を捲りおもむろに手を止めた。自分の報告書だ。乱暴で落ち着きのない字だなと我ながら思う。空欄を無理やり埋め尽くそうと躍起になっていたことを思い出した。



「でも、隊長からリラックス!!って心臓を射ぬかれるような目で言われ続けて、力を抜いて遊びながら仕事できるか!ってまたイライラして。感じたままに答えていいって言われて」



「うん」



「それを繰り返してるうちに、もしかして、隊長もルカさんも、コウさんだって。俺そのものを認めてくれているのかなって」



ぼんやりと思ったことをルカに言ってみた。リュウガやコウ、ルカはいつも自分を見てくれているような気がする。表面の社会人とか、会社の仲間とかではなく、もっと深いもの。



「俺の中にある、培ってきたものや考え方、感じ方や見方を尊重している。求めてくれている。信じてくれているのかなって」



「ふふふ」



リラックスする、と心に決めると嫌でも素の自分が顔を出してそれ以外のものを持つことができなくなった。根拠のない、なんとなくというものがたくさん出てきて、意味もなく調べてみたい衝動に駆られる。それをして何の得になるのか、と聞かれれば何もありませんと答えるしかないが、とにかくやってみたい。自分の感覚が気になることを追求するのが堪らなく楽しい。



「ルカさんの言ってた楽しいって、こんな感じですか?リラックスして、自分の中にあるものを信じて、開放していく。根拠のない、なんとなくを信頼する。それがものすごく楽しいです」



「うん」



ルカは嬉しそうに笑いファイルを閉じた。もう一冊目の資料を見終えたようだ。レイは慌てて、すみませんと謝りながら手元のファイルを急いで捲っていく。ルカは笑って新しい資料を持った。



「レイ、リラックスだよ。レイのペースでいいんだから。マイペースはベストペースって隊長も言ってる。俺より厳しいよ」



「隊長って変なところで厳しいですよね。イマイチ隊長の厳しいツボがわかりません」



ルカに優しく言われてレイは捲るスピードを落とした。注意深く報告書を見ているが、気になる得意先のことは書かれていない。特定の3人だけではなく、すべての報告書に目を通し探しているのに見つからない。



「おかしいですよ、ルカさん。何の付き合いもない会社が急に1000万円も商品を買ってくれますかね?高額な買い物をするなら、もっと付き合いが密になるのに。商品だってどこにでもあるノートパソコンですよ」



「うーん、そうだね。12月分の半分まで見たけど見つからなかった。大きなプレゼンに挑んで、見事選ばれているよ。これが劇的な利益に繋がったみたい」



当てが外れてがっかりしているのか、ルカはファイルから目を外すと休憩するように天井を見上げた。プレゼンの内容は報告書に書かれていない。どのように説明して購入してもらったのかわからないが、確かに12月頃から大きな勝負に出て好成績を上げていた。



「この報告書、変なところがないのにどうしても気になる。。。どうやって調べればいいんだろう?」



「どこが気になるんですか?アルさんの資料をもう一度見直してみたら?それか、アルさんにプレゼンの資料があるなら、見せてもらうようお願いしたら?」



「そっか!」



ルカは明るく笑って力強く頷いた。自分の気になる部分をレイに伝える。書いていたメモ帳はたくさんの文字に埋め尽くされていた。



「低迷した5月6月に営業部の主力メンバーが転職してるね。それからポツポツと会社を去ってる」



「はい、お得意先も一緒に離れていきました。俺も異動になったし。そこから半年後、業績は一気に上がります」



ルカは12月分のファイルを置いてメモ帳をレイに渡した。箇条書きにされたルカの気になる点を一つ一つ読んでいく。答えられるものがあったら答えたいと営業部にいた頃の状況をなるべく鮮明に思い出そうとする。もう少し周りに気を配っていればよかった。



「えーと、この取引先ですが、ヨシザワ部長の古い友人ですよ。急に商品を購入したのも頷けます。次に、このお客様ですが、会社名が変わってますので昔からのお客様です。それから、この人はアルさんのお客様で。。。」



知っている得意先や客の名前を消していくとメモ帳はいよいよ黒のインクで読みづらくなった。それでも消されず残った名前もある。



「隊長に見てもらいますか?知ってる人がいるかもしれませんし」



「うん、そうする。レイは?何か気になったことはないの?」



ルカに聞かれレイは小さな声で、実はと切り出した。特定の3人が同じ得意先から売り上げたにもかかわらず、3人の共通点がない。チームも違うし行動範囲も違う。報告書の書き方から指導を受けた先輩も違うはずだ。営業部はざっと120名配属されている。同期でもなく、出身も違う。レイが3人を知っていたのは、たまたま自分やアルの身近な人物だったからだ。



「アルさんは俺の先輩を知らないし、ライバル視していた同期も知りません。忙しい人ですから。もう一人の人も俺が偶然、アルさんの隣で見かけただけだし。。。」



「うーん」



気になる点をはっきりさせようと調べているのに、調べれば調べるほどわからなくなってくる。ルカもメモ帳に新しくレイが気になった点を書き記して難しい顔で唸った。



混乱した頭を整理するようにルカは大きく背伸びをする。情報を整理しようとレイに話しかけ、小さなホワイトボードを取り出した。営業部の成績が落ち込んだ5月6月に疑惑の売上、1000万円があって上役や全体の売上にも報告されていない。その時期に幾人かの社員が転職し、小宮シティを去った。7月から驚異的な売上を叩き出す12月まで低迷が続くことになる。



「7月分も持ってきましたよ。見てみますか?」



「うん、あとでね。ねぇ、レイ。プレゼンでお客様に選ばれ続けるって実際にあるの?」



「どうでしょう。。。アルさんみたいにずば抜けて戦略的で魅力的か、地道な努力が功を奏したか。どっちにしろ、稀ですよ」



レイは顔をしかめて考え込むように目を閉じた。ルカはボードに特定の3人の名前を書いて、それぞれの年齢や特徴、感じたことを書いていく。共通点がないことも書き加えた。



「それにしても、なんですが。最高の売上を記録したのに、チームの仲間たち、そのことをあんまり口にしないですよね。一緒に回っていた先輩も話してくれなかったし」



「そうなの?」



不思議そうな顔をするルカに、はいと答えレイはさらに顔をしかめた。書籍部に配属なって悔しさと嫉妬でぐちゃぐちゃだったが、それでも心のどこかではほっとしていた。自分がいなくても営業部は回っていくし上手くいく。悔しいが、一緒に働いていた先輩や同期が結果を出し最高の売上を記録したことは誇らしい。嫉妬と安心感と絶望が入り雑じった、複雑な心境だったと今なら冷静に思える。



「戦力外で外されたとはいえ言ってくれれば。。。悔しいけど思いっきり祝福したのに。。」



「顔に出てたんじゃない?俺がいない間に成功しやがって~~!みたいな」



「全く、俺はそんなに子供じゃないです。先輩やチームの仲間とは苦楽を共にしたんですよ。たくさん助けてもらったし」



レイは肩をすかしてどことなく寂しそうな顔をした。書籍部に異動になってからあまり連絡を取らなくなったと言う。レイもその頃は自分のことで精一杯だったし気持ち的に余裕がなかった。きっと営業部の仲間や先輩も同じだろう。今まではそう思って深く考えなかった。



「書籍部になったから、営業部のことは話せないんですかね?それか、俺に気を使ったのかな」



「どうかなぁ。でも、言われてみれば営業部の人たち、静かだったよね。落ち込んだ成績が爆発的に上がれば、部署全体も盛り上がるだろうに」



レイの指摘にルカも疑問が大きくなって首を傾げた。ボードの12月、1月に部内静かと端的に書く。リュウガやコウは営業部が持ち直したことをこの時点で知っていたのだろうか。



「じゃあ、俺は1月分を見てみる。このメモ帳は隊長に見せよう」



「諸君~~、休憩の時間だよ」



「わっ!!何ですか!?その格好!?どっから持ってきたんですか!?」



メモ帳を机に置いてファイルを開いた時薄い影がヌッと前にやって来た。全く気配を感じなかった。レイは思わず体を勢いよく後ろに引き座っていた椅子が大きく揺れる。ルカはちょうど良かったと嬉しそうに笑った。リュウガの突然の出没に驚いた様子はなく、穏やかに笑っている。



「何ですか!?そのフライパンとオタマは!!エプロンまで着けて!」



「もうそろそろ疲れて寝てる頃だと思って。起こすにはこの、伝説の目覚ましセットだろう。さあ、起きた起きた!!」



フライパンに持っていたオタマを勢いよくぶつけて鳴らそうとした手を慌ててレイは体を伸ばし何とか捕まえる。必死に起きてます!!と訴えてリュウガの手からオタマを奪い取った。ただの嫌がらせとしか思えない。リュウガは楽しそうににやにや笑っている。



「あら、起きちゃったの?つまらないなぁ」



「起きてますよ!!どう見ても!!それより、隊長、このメモ帳に書いてある人名やお得意先に心当たりありますか?営業部が持ち直した時期、急に商品を購入したお客様です。しかも、大きな金額で」



奪い取ったオタマを一旦置いてルカが書いたメモ帳をリュウガに見せる。納得して消された名前以外のものをわかりやすく丸で囲んでいたのできっとリュウガにも伝わるだろう。ルカは書いていた小さなホワイトボードもリュウガに見せて返事を待った。



「どれどれ、うーん、これが12月に購入してもらったお客様なの?」



「はい、どれも新規ばかりなんです。1月分のファイルはまだ見てませんが、増えていくかもしれません」



「知らない所ばかりだなぁ。製薬会社だなんて、何を売ったんだろう。これ、ちょっと借りるね」



リュウガも渋い顔になりメモ帳を持ちながら今度はルカのホワイトボートを見た。12月1月の営業部の様子を聞いてみると、確かに静かだったと頷く。ヨシザワやアルからも売上が伸びたことは知らされてなかったらしい。



「まあ、それは仕方ないだろうなぁ。それだけ売上が出れば、クレームや返品の可能性が普段よりも大きくなるだろう?きっとお礼の挨拶回りをしてたんだよ。部長もアルもそういうところ、めちゃくちゃクールだし」



「それでも、落ち込んだ時期が長かったんですよ。部署全体が静かだったって変じゃないですか?」



確かに、とリュウガは呟きメモ帳をまた見つめた。とりあえず休憩しなさいと寛ぎスペースを指差していそいそとこたつに入る。相変わらず動作が素早いなぁと感心しながらレイはその後に続いた。こたつの上には温かいココアが淹れてあって、甘くて優しい生チョコもある。



「気になる3人以外の資料を見てみたんだけどさぁ。みんな転職した社員に近い人物なんだよね。部下とか先輩とかチーム仲間だとか」



こたつの暖かさにふぅ~~と気持ち良さそうな声を上げて楽しんでいたリュウガがふと報告するように口を開く。ルカは温かいココアを一口飲んで、そうなんですか?とリュウガを見た。レイは生チョコを口に放り込んで、それはそうですよと答えた。



「だって転職した先輩たち、チームも違うし入社した時期もバラバラだって聞きましたもん。アルさんの資料にある残り7人に共通してても不思議じゃないです」



「そうかなぁ。転職するって相当勇気がいるよ?転職先が決まってても、今までやってきたことや人間関係を手放すわけだし。転職先でそれなりの保証や安心がないと踏み切れないんじゃない?」



「保証や安心か。。。そうですよね、ほとんどの方にご家族がいらっしゃる」



リュウガから指摘されてレイはなんとなくもやもやしたものが心の奥から湧き上がった。営業部が一番叩かれていた時期に転職。仲間を置いて、転職。どうも理解できない。リュウガからもう一度資料をもらってじっくりと一枚一枚を見てみた。



「この資料の社員すべてが12月から2月に驚異的な売上を出してますね。去年と比べても圧倒的に。それでアルさん資料を集めたんでしょうか?」



「カンのいい奴だからなぁ。良いことがあっても正当ではない方法で得たなら、そのぶり返しが来るって感じたんだろ。だから、ヨシザワ部長も何も言わず取引先を回ったんだと思うよ」



リュウガもココアを飲みながらぼんやりした顔で言った。営業部の二人を思っているようで遠い目をして生チョコを頬張る。ずいぶん和んでいるなとレイは横目で見てこっそり笑った。



「そのメモ帳、どうするんですか?あと、アルさんにお願いしたいことがあって」



「ん?なんだね?」



「12月分のプレゼンの資料があれば送ってほしいです。報告書を見て何も問題ないけど、なぜか気になって。。。大きなプレゼンにどうして選ばれたのか、資料を見たくて」



ルカの真剣な声にリュウガはすぐさまスマホを取り出しテレビ電話をかけた。どうやらアルに電話をかけているようだ。忙しいのにいいのかなとレイは不安になったが、アルはリュウガの元部下でもあるし連絡しても大丈夫なんだろう。営業部の憧れの存在であるアルにこうも簡単に連絡が取れるリュウガを、ちょっと凄いなと密かに思った。



「お、エレガント嬢。ごきげんよう」



「ふふふ、リュウガさん、ごきげんよう」



「。。。は?」



てっきり黒髪の静かなアルが出てくると思ったのに、リュウガのスマホに出てきたのは美しい金髪の美女だった。艶やか髪は豊かにカールされていて落ち着いたカフェの雰囲気に馴染んでいる。首元のストールも上品な色合いで美女の美しい顔立ちを引き立てている。レイは一瞬何もかも忘れて画面先の美女に見惚れポカンとしたまま動かなくなった。



「ぷくくく!エレガント嬢。調査中にごめんね。これ、見てほしくてさぁ」



「?」



画面先の美女、アルにメモ帳を見せて知っている得意先がいるか聞いてみる。アルはしばらくじっと見ていたが、何も知らないと首を横に振った。



「それ、何ですか?」



「詳しくは報告書に書くけど、劇的に売り上げた商品をお買い上げいただいたお客様。突発的でさぁ。繋がりがないわけよ」



リュウガの答えにアルは静かに視線を落とすと、もう一度知りませんと答える。リュウガは軽く息を吐き口元をきゅっと引き締めた。



「あとね、12月から2月の劇的な売上を出したプレゼンの資料があれば送ってほしいんだ。どんな商品が売れたのか、見てみたいし」



「いいですよ、僕のでよろしければ。他のプレゼンの資料も部長が持っているはずです。メールでお願いしておきます」



「助かるわ~~」



明るい声を上げてリュウガはありがとうとアルに伝える。隣で魂を抜かれたように見惚れていたレイが慌ててリュウガの耳を摘まんだ。責めるように強く引き寄せて、よく聞こえるように口を耳元に持っていく。



「隊長!!こんな時にナンパして!!何やってるんですか!!アルさんに電話しないで、こんな美人と楽しく会話して!!」



「あた!!あたたたた!!痛いよ!レイ!!落ち着いて!!あのね、ここにいらっしゃるエレガント嬢は、アルの双子のお姉さまなのよ!!アルは忙しいから、お姉さまにかけたの!!」



「へ?」



パッと手を離して画面先の美女を見る。アルは優しく微笑んで手を軽く振ってみせた。悩みを相談した時に笑って答えてくれたアルと仕草が美女と重なって、しかし、余りにも美しいのでレイはドキマキしてしまう。憧れのアルにも似ているし慣れない美女からの優しい微笑みに自分のキャパが越えたようだ。頭と顔が発火したかのように熱くなり視界がボーッとしてきた。



「え?レイ、ちょっと!!大丈夫!?」



リュウガの声が遠くから聞こえる。顔の頬からペチペチと軽い音がしたがレイには届かない。こたつの机が見えていた視界がぐるりと回り、天井が見え、後頭部辺りでドン!と鈍い音がした。



「あーあ、からかい過ぎちゃったよ。んで、どう?調査の方は」



豪快に倒れたレイにルカは隣で笑いながら席を立つ。冷やしたタオルを持ってくると言い、キッチンの方へ歩いていった。楽しそうに歩いていくルカを見送ってリュウガは画面先のアルを見た。



「レイくん、元気ですね。異動で落ち込んでいると聞いていましたが、安心しました。女装、面白いですよ。男性が頬を染めてオドオドしています」



「あー、そりゃそうだろうね」



アルの女装は普段あまり動揺しないリュウガでも、かなり心臓に堪えた。アルだとわかっている今でこそ落ち着いて話せるが、知らない人だとやっぱり心臓がドクドクとうるさくなる。不思議そうに首を傾げる仕草も優雅で妙に色っぽい。アルに任せて安心だと思ったが、ちょっとやり過ぎちゃったかなとリュウガは頬を掻く。



「いいお店を見つけましたよ。僕が今いる場所なんですが。女装も完璧に教えてもらえます。衣装や靴、バックにアクセサリー。化粧道具や大きな鏡もありましたよ」



「ほほう!」



「お店の奥で着替えもできますし、好きな色やデザインがあればオーダーメイドで作ってもらえます。お店自体はご覧の通り、とてもお洒落なカフェでお客様も上品な方ばかり。おすすめです」



アルはスマホを動かして自分のいる店内を映して見せた。今は15時くらいで外は明るいが、このカフェは薄暗い。間接照明を所々に置いて顔がはっきり見えないよう工夫されている。店内のインテリアもとても上品で高級感が溢れ見ているだけでゆったりと心がほどけてくる。



「良いところだなぁ。よし、んじゃ依頼主を連れていく前に俺とレイで行ってみる。アル、時間作ってくれ!」



「わかりました。あと3件ほど回ってみますから、他のお店も良かったらお連れしますね」



優しく微笑み静かに頭を下げてアルからの通信は途絶えた。ほぼ気絶しているうちに女装することが決まったレイは何も知らずうなされている。冷やしたタオルを3枚ほど持ってきたルカがキッチンから戻ってきてレイの額にそっとのせた。



「レイ~~!良いところに連れてってやるからなー!口紅つけて、フリフリのドレスも着ないとなー」



「口紅?ドレス?隊長、また新しい遊びですか?」



冷たいタオルのお陰で火照った熱が引いていく。徐々にはっきりしていく視界にリュウガのにやにやしたしたり顔が飛び込んできた。ぎょっとするレイの隣でルカが不思議そうに聞く。リュウガはうんうんと楽しそうに笑いながら頷いた。



「ルカがお化粧したら、それこそ心を打ち砕くハンマーになるよ。あちこちで惨劇が。。。レイがお化粧しても、そこそこ楽しいからな!」



「。。。は?」



意識が戻って体を起こしたレイに、がんばろうな!!と気合いを入れる。嫌な予感しかしない笑顔に思わず体がぶるりと震えた。



ルカが持ってきた冷たいタオルを額に当ててレイは胡散臭そうにリュウガを見る。化粧なとどいうよくわからない単語が出てきたが、何のことか考えたくない。俺は男だぞと強気な目線をリュウガに送ると、リュウガはこれ見よがしにため息をついてレイを見た。



「レイ、女装を変な目で見てるかもしれないけど、それって偏見なんだぞ。そもそも、女装したことあるの?」



「え?。。。いや、ないですけど。でも、俺、化粧なんて無理ですからね」



絶対に嫌だとさらに強く睨んだレイにリュウガはまたため息をつく。ルカはココアを飲みながら、やったらいいのにと明るく笑った。元々綺麗で優しい顔立ちのルカが女装をしたら目の保養になるだろうが、自分のような厳つい顔の男が女装をするととんでもないことになる。そんな趣味はないと訴えてもリュウガの残念そうな顔は変わらなかった。



「女装をやったことないのに、どうして拒否るのかなー。知らないのにイメージだけで、どうしてダメだって決めつけるのかなー」



「いや、どう考えても女装は嫌です。俺、女になりたいなんて思ってないです」



「はぁ。。。どうして女装=女になりたいって思ってんの?それ、誰が決めたの?」



わざとらしく横目で見られて何が言いたいんだと直接聞きたくなったが、リュウガの問いにもう一度自分の心を感じてみる。女装と聞いて思い付くのは気持ち悪いという言葉だった。男なのに口紅をして美しく着飾る。心が女性ならそうしたくなるのはわかるが、男性なのになぜわざわざ女装をしたがるんだろう。



「俺の勝手な推測ですが。良いんですよ、俺がそう感じてるんで。嫌だから、嫌です」



「そっかー。うーん、残念だなー。んじゃ、コウにお願いしようかな」



「へ?」



急にコウの名前が出てきてレイは思わずリュウガの顔を凝視した。驚いたようなどこか不満そうなレイの目線をにんまりと受け止めてリュウガはスマホの画面をスライドさせる。コウにテレビ電話をかけるつもりらしい。コウが女装をする。きっとコウなら明るく快諾するだろう。コウもルカと系統は少し違うが整った顔立ちをしている。女装をすればさぞかし美しく変貌し、目にした人たちを魅了するに違いない。レイの中で妙にざわめいた嫌な気持ちが広がった。



「ちょ!!ちょっと待ってください!!コウさんに女装なんてさせられません!!俺、絶対嫌です!!」



「でもー、俺一人で女装しても寂しいし。コウだったら、一緒にしてくれるかなって。レイ、全力拒否するしー」



「わ、わかりました!!俺、女装します!!!させていただきます!!!だから、コウさんにお願いするのやめてください!!」



自分がやって恥ずかしいと思う女装を先輩にさせたくない。居たたまれない気持ちでどうしようもなくなる。リュウガのスマホを取り上げてぜひさせてほしいと懇願した。リュウガはしょんぼりしていた顔を嬉しそうに上げて、そう?と明るく笑った。



「いやー!そう言ってくれると助かるわ~~。レイ、ぜひ女装した時の感想を聞かせてね。それと、どうしてそんなに女装を毛嫌いしてんの?」



「だって、あり得ないでしょ。いろいろと。なんで意識がそっちにいくんですか?」



「うーん、頭ごなしだなぁ。理屈じゃないってことなのね。その気持ち、忘れないでよ。今、女装をするのに最適のお店を調べてもらってるから、ちゃんと同行するように」



リュウガはわざとらしく咳払いをして威厳に満ちた顔を作り上司らしく指示を出した。なんだか根回しされたような気もするがしょうがない。渋々頷くとリュウガは満足そうに笑った。



「明日の夜、行くからね。予定空けておいてよ」



「ずいぶん急ですね。まあ、予定なんてありませんからいいですけど。はぁ、女装かぁ」



営業部の驚異的な売上を調べていたのにとんだとばっちりだとレイはため息をついたが、コウが女装するよりだいぶ良いと気持ちを切り替える。不満げな気分をそのまま顔に出し、アルからもらった資料を取り出した。この7人の売上も調べてみたい。社員が転職した先の会社や社員との関係性も気になる。



「もしも。もしも、ですよ。転職する何かしらの条件がこの7人の売上に絡んでるってすれば、それこそヤバいですよね。だって、この全プレゼンの責任者ってヨシザワ部長とアルさんですし」



「うん」



「売上はそれぞれ社員の成績になってますが、ヨシザワ部長とアルさんの責任者としての成績が変に良くなっている。ちゃんとしたプレゼンの資料なら疑惑をかけられても対応できそうですけど」



「そうでないと、ちとマズイな。それに責任者として二人が全部把握してても、7人それぞれに転職した社員との繋がりがある以上、そこを突っ込まれると疑惑になっちゃうね」



リュウガはこたつから立ち上がって自分の机へと歩いていった。怪訝そうなレイにスマホを見せて机の上のパソコンを立ち上げる。引き出しから綺麗に並べられたUSBメモリーをパソコンにセットしてデータを保存しているようだ。リュウガのスマホにはメールが開かれていて、アルから資料を送りましたと短いメッセージが届いていた。



「早いなぁ、アルさん。アルさんのお姉さんもすぐに知らせてくれたんだ。今度会えたらお礼をちゃんと言わないと」



「レイ、すごく嬉しそうだね。アルさんのお姉さん、とっても綺麗だったし優しかった。良かったね、レイ」



嬉しそうに隣で笑うルカに、お礼を言うだけですよ!と強気に言い返してレイは皿にある生チョコを乱暴に取った。我ながら美人には弱かったかなと思い返してみたが、今までこんなにドキドキしたことはなかった。男として憧れているアルと双子だから似ているのは当然だが、纏っている雰囲気がアルそのもので女性なのにとても頼もしい。とにかく初めて会った気がしない。アルは忙しいからと遠慮してしまうが、姉ならもう少し気軽に話ができそうだ。



「嬉しそうだね~~。レイはそうでなくっちゃ。あ、ちゃんとエレガント嬢に言っておくから。レイはエレガント嬢にドキドキしてるよ~~、気づいてないよ~~って」



「何ですか、それ。にやにやした顔で言わないでくださいよ。で、アルさんからプレゼンの資料届いたんですか?」



リュウガも楽しそうにこたつへパソコンを持ってやってきた。いそいそと足を入れて近くにあるコンセントにアダプターを差し込む。両側にいる二人が見やすいように添付されたファイルを大きく開いた。資料には企業に紹介する商品の良さやコンセプト、問題が起こった時のアフターサービスなどプレゼン内容の他に、手書きで客の反応やよりわかりやすい表現など細かく記されていた。



「アルさん、凄いなぁ。どこまでも良くしようとしてる。これなら、内通容疑をかけられても切り抜けられそうですね」



「うん。隙がないねー。だって、転職した社員と口裏を合わせて商品を売ったんなら、ここまで細かく、さらに改善しようとしないからね。アル、いつも全力だな!ヨシザワ部長からの資料はどうだろ?」



リュウガはメールに添付されていたもう一つのファイルをクリックし画面上に開いた。ルカやレイも丁寧に見ていく。プレゼンの内容に関する流れや質問された時に予め準備しておいた答えなどこちらもしっかり作成されている。だがマニュアルのようだと指摘されれば、そう見えなくもない資料だった。



「この予測された質問も、その通り実際にされてたなら、印象は悪いね。質問がかなりマニアックだしなかなか思い付かないもの。用意されてた、みたいな」



「うーん。マズイですね。もし、転職した社員とプレゼン担当者が内通してたってなれば、ヨシザワ部長が責任者になってるプレゼン、全部に疑惑がかかります」



「そうだよねぇ」



リュウガはマウスを動かしたら心配そうな顔をして大きく息を吐いた。営業部ではライバル会社と内通して不正な売上を上げていないか、個人をチーム内でお互いに監視している。だがプレゼンはチーム一丸となって取り組み全力でサポートし合うため、監査するという概念はなかった。



「しかも、今年の営業部は社員がどんどん転職し始めた5月から、このプレゼン前の11月まで低迷してて成績も過去最低でしたからね。部長がやらせたっていう線も現実味を帯びてきますよ」



「うん。。。成績が芳しくないから、追い詰められてやらせたんじゃないか。あり得る!調べろ!何!?驚異的な売上の全プレゼン責任者がヨシザワ部長とその部下のアルじゃないか!これは明らかにおかしい!!みたいな」



「そんな風になりますよね。。。」



疑惑を持たれるのが自然なことのように思われる流れにレイも顔をしかめて難しい顔をした。リュウガとレイがそれぞれ自分の思考を巡らせて静かになった中、ルカは休憩前から気になっていた12月のプレゼン資料をもう一度始めから見直してみる。なぜか引っかかる報告書に書かれていた資料を見てみると、見たことのある言い回しや文章が目に飛び込んできた。



「?これ、この文章の書き方。あの人の書き方に似てる。商品を使っているような感覚で書く、レイがライバルだって言ってた若い社員の。。。」



ルカの呟きは深く考え込んでいる二人には届かなかったが、ルカは気にせず画面をスライドさせてさらに集中してプレゼンの資料を見つめた。



12月のプレゼン資料はコンパクトによくまとめられていた。報告書と同様に資料作りもマニュアルがあり、形式などほぼ同じように作成されるがやはり個性が出る。資料に12月のプレゼンには参加していないはずの若い社員の影を感じルカは首を傾げた。報告書を見た時に感じた違和感はこれだったのだ。



「プレゼンに参加していないのに資料を作っているってこと?この書き方だと売れるのを確信しているみたいだ。いつもの、商品の良さを伝えようっていう熱意が感じられない」



若い社員がレイのライバルだと知らなかったが、報告書から伝わってくる想いはいつも一生懸命だった。売れるかわからない不安から商品を必要以上にアピールする書き方が特徴的で、レイもそんな報告書を見て不器用なんだと優しく笑ったほどだ。外見や普段の態度から見えなくても文章は不思議なほど個性を伝えてくれる。そんな書き方が12月を境に変わっている。



まるで売れるのが当たり前だとわかっているかのように機械的な書き方に変わり、必死に商品の良さを伝える熱意も消えていた。



「イキイキしていた光も無くなっている。不安を隠そうとする焦りも商品が売れたことへの喜びも。なんだか怪しいな。。。」



ふと気になって持ってきたホワイトボードを見る。7月から11月の報告書を見ていないが、12月の報告書から確実に書き方が変わった。レイが一緒に回っていたという先輩の報告書やアルと近かった社員の報告書も形式的には変わりがなくても印象が少し違う。明らかに架空の売上から小さな変化が感じられた。



「架空の売上って何だったんだろう?今となっては調べることもできないけど。アルさんのプレゼン資料からはとても凄まじい勢いを感じる。文字そのもののパワーが強くてまるで生きてるみたいだ」



チームリーダーでもあり営業部トップのアルの報告書はデータ化されず上層部に保管されているので、書籍部の元に下りてくることはない。かなり重要な情報源になっているようで営業部でもよく資料の取り合いになった。それを見かねたヨシザワが役員たちに相談し、役員専用の資料室に保管するようになったという。ルカにとってアルの文字を見るのは初めてだった。



「強い光だなぁ。こんな文字を書く人ってどんな人なんだろう。お姉さんはとても綺麗な人だったし、本人もすごく綺麗な人なんだろうな」



ふっと心が和んで思わず微笑みながらマウスを動かして資料をスライドさせる。次はヨシザワからのプレゼン資料を開いてみた。形式的に似ているが文字から感じる印象はとても暗いものだった。何かに縛られている。これから商品をアピールするのに淀んでいる。プレゼン自体に緊張感がなく決められたことを伝えているという印象だった。



「これは本当にプレゼンなのかな。。。アルさんの資料とは大違いだ。どうしてこんなに違いが出たんだろう。同じチームなのに」



ルカはふと気になってじっと何かを考えているリュウガを見た。ヨシザワはプレゼンの準備などに参加するのだろうか。またプレゼン前に資料やチーム内の打ち合わせを確認するのだろうか。真剣な顔つきで一心不乱に考えているリュウガに話しかけるのは忍びないが、気になるものはしょうがない。遠慮がちに肩を軽く叩くとリュウガは機敏な動きでルカを見た。



「ごめんなさい、隊長。ヨシザワ部長ってプレゼン前に資料を確認するんですか?」



「いいんだよ、ルカ。いつでも言って。うーん、どうだろう。全プレゼンってかなりあるし、部長だし。当日だけっていうのもあるんじゃない?」



リュウガに報告書の書き方が変わった点とプレゼン資料での気になったことを伝えた。リュウガはルカに言われてマウスを動かし若い社員が書いたかもしれない資料をもう一度丁寧に読み返している。ルカの話を聞いていたレイも静かに考えるのをやめて、驚いた表情でパソコンの画面を食い入るように見つめた。



「それって、どういうことですか?プレゼン内容って他のチームにも秘密厳守ですよ。練習も個室で行われるし。あいつが資料作ったんなら、明らかに変ですよ」



「営業部の中では考えられないね。まあ、俺とレイは秘密厳守っていう思い込みがあったから、気づかなかった、てか、思い付かないよ」



「そうなんですか?」



ルカは営業部に配属されたことはない。営業部内の常識やルールを全く知らない。いつの間にか営業部にいた頃の習慣にとらわれて根本的な変化を見過ごしてしまったようだ。リュウガとレイはさらに顔をしかめて難しい顔をした。



「そういえば、低迷した7月から11月のプレゼンには信じられないほど選ばれなかったんだよね。その資料も見てみよっか」



「あ!そうですね。どうして負け続けたんだろう。資料には。。。アルさん手書きでまた書いてる」



「朝礼でヨシザワ部長が、仲間同士で勝負するとは思わなかったって言ってた。転職した社員と鉢合わせしたみたい」



レイはリュウガの話を聞いて苦しそうにため息をつく。部下想いのヨシザワはどれだけ心を痛めただろう。ヨシザワのためにも早く隠された何かを見つけたい。アルの資料を見ると商品の特徴や良さに丸をつけて、見落とし、クレーム、不具合などの単語が書かれてあった。



「この資料から見ると、こちらのプレゼン内容が相手に筒抜けだったんじゃないかなと思うよ。アピールしようとした単語、全部突っ込まれてる。逆手逆手に取られたみたいだね」



「本当だ。アルさん、全部書いたんだ。この失敗を元に12月のプレゼンでは見事選ばれてますね」



「うん、改善されている。だけど、アルが特定の会社に全敗だなんて。。。いくら不調、相手に情報が漏れていたとしてもあり得ない。アルは元々負けるプレゼンはしないよ」



7月に続いて8月のプレゼン資料を見てみる。そこにも商品の良さを徹底的に潰されて完敗したと詳しく記されていた。プレゼン後に集めたであろう検証結果と類似商品の資料も一緒に添付されていた。9月も同じ商品ではないが、ことごとく資料の逆を突かれ完敗している。



「転職した社員からプレゼンの内容が漏れていたのは間違いないでしょうね。だけど、アルさんだってうまく切り返している。なのに、この完敗ってどうなんでしょう?」



「うーん。。。プレゼンで競い合った相手の会社、全部ピックアップしといてよ。メガネくんに調べてもらう」



「え?メガネくん?あの、ルカさんにメロメロだった開発部の変人さんですか」



レイの問いかけにリュウガはにこにこしながら頷く。開発部は客や社内の要望に応えて商品を開発する部署のはずだ。自分の世界だけで生きている個性の強い人物になぜ頼むんだろうとレイは胡散臭そうな目を向けた。



「レイ、遠慮なしに言うようになったねぇ。これはもう、明日のお化粧思う存分してもらわないと!メガネくんにもメールで送ろう」



「ごめんなさい、隊長。素直すぎました。でも、なんでメガネさんなんですか?」



明日の女装を思い出し、とりあえず謝っておこうとレイは軽く頭を下げた。それでいいんだよ~~と朗らかに笑ってメモ帳に相手の会社を書いているルカを見守る。7月から11月にかけてかなりのプレゼンがあったが、毎回完敗したのは5社だった。



「ありがとう。んじゃ、これをメガネくんに送って。。。他に気になった点はある?」



「いえ、まだ7月分の報告書を見てないのでわかりませんが、ずっと感じていた違和感がわかってスッキリしました」



「よかったー。レイは?」



「俺は。。。複雑です。あいつ、ライバル視してた奴や先輩が絡んでて。。ちょっと怖くなってきました」



レイの返答にリュウガはゆっくり頷いて軽く息を吐いた。自分が知らなかった報告書を書いて提出していた先輩の顔が頭を過りレイも眉をひそめている。書籍部に配属されてから先輩と連絡を取っているのかと聞かれ、レイはしかめた顔をさらに歪めて激しく首を振った。



「俺、先輩に直接聞きたくなりました。5月に上げた報告書の内容、低迷してた営業部のこと。なんで何も言ってくれなかったのかって」



「うーん」



「でも、ダメなんですよね。今、俺が感情のまま先輩に聞いたって、俺たちが今営業部のことを調べてるってわかったら、警戒されてしまう」



悔しそうに言ったレイにリュウガは口元をきゅっと引き締めて、うんと大きく頷いた。レイは自分を納得させるように何度も軽く頷くと、机の上の生チョコを取って口の中に放り込む。沸き上がる自分の感情を噛み砕くように生チョコを噛み続けた。



「もし、営業部の低迷も劇的な売上も、相手の会社から操作されていたとすれば、この先の狙いって何でしょうか?今、営業部も会社全体も歓喜で勢いがありますよ」



「うん、そうだね。俺もそこを考えてたんだ。それに、俺にはどうしても転職した社員たちが気になる。本当に残った社員たちと連絡取ってないのかな」



リュウガはゆったりと湯気が立ち上る湯飲みを取って静かにお茶を飲む。ルカは不安げな顔をして画面の資料を見つめた。過去はどうやっても変えられない。でも、過去を見て流れを感じ目に見えない何かを捉えることができれば。やってくる未来に対して何かしらの対処や準備ができる。



「ルカ、疲れるだろうけど、7月分からの報告書をもう一度見直してみて。少しでも違和感があれば教えてほしい」



「はい」



心配そうに顔を見ておずおずと気遣いながら生チョコを薦めるリュウガに、ルカはなるべく明るく笑って返事をした。いつの間にか少なくなった生チョコをゆっくり頬張ると張り詰めた緊張が優しく解れていく気がする。煎れてもらったお茶を飲んで、ルカは目の前のイライラしたレイに再開しようと声をかけた。



ルカの呼び掛けに待ってました!と顔を輝かせレイは頷く。残りの生チョコを一気に頬張るとこたつからすぐさま立ち上がった。ルカも自分の湯飲みを持って机へと移動する。元気に飛び出していく二人の背中をリュウガは嬉しそうに見守りながら、いい部下持ったわぁと呟いた。



「7月分の報告書ですよね。俺も見たいです。一緒に見てもいいですか?」



「うん、その前に8月から11月の報告書もこっちへ持ってこようか。低迷してた時期の分を一気に見たいし」



レイは納得したように何度も頷いて素早く資料室へ向かった。動きが速くなったなぁと感心しつつルカも後を追う。薄暗い資料室の電気を点けて綺麗に整理された棚からファイルを一つ一つ取り出した。



「あれ?ルカさん、8月分の報告書が少ないようです。10月分の報告書も」



「。。。本当だ。売上がそんなになかったから、報告書も少ないのかな?」



「いいえ、たとえ売上にならなくても報告書はみっちり書かされました。データ化した時、報告書少なかったですか?そんな月ってありました?」



レイからの問いかけにルカは去年の8月を思い返してみる。レイが異動してきて2ヶ月ほど、そんなに忙しくなかったものの少ないという印象はない。普段通りリュウガやコウもデータ入力していたし、残業だってちらほらあった。



「もしかしたら、整理してない段ボールの中にあるのかも。あの頃、なんだかんだと営業部から雑用が入って。。。入力した報告書を綺麗に整理する時間がとれなかったんだ」



思い出した。報告書の量はいつも通りなのに営業部からの呼び出しが多くて報告書を整理するまで手が回らなかった。落ち着いたら整理しようと思ったが、清掃部からのヘルプや報告書データの手直しなど細々とした雑用が多かった。残念そうに顔をしかめたルカにレイは頬を掻きながらおずおずと口を開いた。



「俺も隊長の指示を全然聞ききませんでしたからね。そういえば、資料室の整理を頼まれたような。。。結局、掃除に走りましたが」



配属されてむしゃくしゃしていたのであんまり思い出したくないが、上司からの指示の中に資料整理もあった気がする。罪滅ぼしのつもりでやりますと言えば、一緒にやろうとルカは笑った。



「どっちにしろ、一緒に見た方がいいよ。ファイルの閉じ方も教えるし」



「じゃあ、椅子を持っていきましょう。かなりの量でしたから」



レイは隅にあった段ボールを中央の広いスペースへ持っていくと資料室を出ていった。埃がついている段ボールを開ければ、8月分と10月分の報告書が入り雑じって乱雑に置かれている。こんな乱暴に資料を扱った記憶はなく、営業部からそのまま送られてきたようだった。



「ちょっとコウに聞いてみよう。うわっ!すごい埃だなぁ」



とりあえず8月分と10月分に資料を分けて、持ってきたファイルへどんどん収めていく。日付順に並べたいところだが、そこまでやったら今日中には終わらないだろう。



「前半と後半に分けられれば。えっと、これはレイの先輩の報告書だ。これは若い社員の」



大量の報告書から二人の報告書を見つけて一旦整理を止める。じっくり読み返してみると、5月分のようなイキイキとした書き方ではなかった。商品を売り上げていないのに焦った様子もなく、淡々と書いている。他の商品を薦めたり要望を聞いたりなどの記載もなかった。



「やっぱり。。。5月の架空の売上から変わってしまっている。なんだか、寂しい文字だなぁ。この先輩の報告書も。商品が売れてるのに嬉しさも何も感じない」



ルカはなんだか悲しい気持ちになって小さく呟いた。書籍部の仕事が楽しいのは報告書から伝わってくる人の想いに触れられるからでもある。感情のない義務的な文字を見てもつまらない。生きているキラキラとしたものや個性がなく、まるで単調な灰色の空を見ているみたいだった。



「ルカさん、椅子持ってきました。あと、新しいファイルも。ああ!そんな直に座って!姿勢だって悪いし。夢中になると、他のものが見えなくなるタイプでしょ」



「そうかなぁ、ほら。ちゃんと埃を払って綺麗になったよ。こうやって背伸びをすれば、姿勢が悪くても何とかなるし」



そういう問題じゃないと顔をしかめてレイがたしなめるように言うとルカは珍しくそっぽを向いて視線を外した。夢中になっていたルカを椅子に座るよう促してもう一つの段ボールを開ける。見つけた若い社員と先輩の報告書をレイに見せて、自分が感じたことを伝えた。ルカから手渡された報告書を真剣に見ながら唸るような声を上げ重々しく口を開いた。



「相手の取引先も知りませんし、先輩の書き方、確かに変わったような気がします。言われてみれば、こいつの書き方も。でも、まあ、そんなに売り上げていませんね」



「それにしても、この資料の乱雑さはひどいよ。どんどん投げ込まれてるって感じだ。いつもなら、入力しながら綺麗に整理するのに」



あまりにもひどいのでルカはコウにメールを送って聞いてみた。二人がデータ入力したならある程度まとめられているはずだ。それなのに段ボールにある報告書は手付かずのように8月分と10月分が入り雑じっていた。



「隊長にも聞いてみますか?どうしてこんなぐちゃぐちゃに」



「後から提出されたものかも。たまにそんな報告書をもらってたっけ。あ、メール。コウからだ」



軽やかな音がして届いたメールを開いてみると、11月の始め頃に報告書だと言われ段ボールを受け取ったそうだ。整理するにも時間が取れず、そのまま資料室へ置いたらしい。メールを読んだ後、スマホが光りコウからの着信が届いた。



「ルカ?メールありがとう。読んだよ。そうだった!すっかり忘れてたけど、営業部から報告書があるって言われてさぁ。取りに行けないから、届けてくれって何度も頼んだの」



「そうだったの?」



かなり急なことだったようで、しかもわざわざ取りに来いと言われ半分ぶちギレながら持ってくるよう伝えたらしい。結局、営業部が段ボールを持ってくるようになったが、その時散々嫌味を言われたようだ。



「感じ悪かったよー。書籍部のくせにって言ってきたから、はあ!?って僕、キレちゃって。嫌味言った本人の情報ぜーんぶ調べあげて報告書みたいに突き出したら真っ青になって黙っちゃった」



「わー。コウの調査って洒落にならないもんね。。。徹底的に調べあげるから。。。」



「ふふふ、まあね」



楽しげに笑ってコウは後から提出されたものだと言った。営業部からの指示でデータに入力しないでいいとも言われたらしい。



「確かにおかしいと思ったけど、その頃の営業部って低迷が続いて、お互いにギクシャクしてたから。転職した人が出てきたのも同じ時期だったでしょ?」



「うん」



「情報が飛び交って混乱してたからねー。チーム内でも探り合いがひどくて。。。引っ掛かったんだけど、そのまま放置しちゃってた。ごめんね、ルカ」



謝るコウにルカは軽くありがとうと答えた。後から提出されたものならますます調べてみたい。隣ではレイが椅子に座って段ボールの中から素早く報告書を分けていた。



「もう少しで僕も戻ってくるよ。一緒に手伝う。何か収穫はあった?」



「うん。いろいろ。でも、まだわからないし、はっきり見えてこない。どうして実績のあるヨシザワ部長とアルさんをターゲットにしたのか。本当の狙いは何なのか」



「そうだね。。。」



電話の先でコウも押し黙った。低迷時の報告書を見直しても何もわからないかもしれないが、なぜか胸騒ぎがする。無意識に出たため息に電話越しのコウは優しく笑って励ますように口を開いた。



「きっと見えてくるよ、ルカ。大丈夫。一つ一つの小さな気づきを集めて、一緒に考えてみよう。焦っちゃだめだよ」



「うん。でも、コウ。報告書を見ても断片的にしかわからないんだ。見つかるものがバラバラで意味のないようにも見える。根拠がないのに気になるんだよ」



報告書を見直してから様々な気になることを見つけたが、これといった確証がない。調べれば調べるほどわからなくなってくる。このまま大変な労力をかけて資料を整理し、わざわざ見直して何か得るものがあるのだろうか。急に不安になってルカは隣で資料をまとめているレイをそっと見つめた。



「ふふふ、いいじゃない。何も得られなくても。ルカがそうしたいって思ったんなら。なぜか気になるんでしょ?」



「うん」



「いいのいいの。最後までやっちゃって、ルカ。僕は転職した社員たちを調べてるんだけどさ。必要か必要じゃないか、いまいちわかんないんだよね」



「そうなの?」



ルカは驚いて電話の声に耳を澄ませた。なぜ転職した社員を調べたのかと聞けば、気になったからだと明るくコウは答える。いつもの朗らかな声を聞くと、先ほどまでざわめいていた不安が少しずつ消えていき、不思議なほど気持ちが落ち着いてきた。



「ルカと一緒だよー。根拠も確証もないけど、気になったから調べてる。だって、知りたいじゃない?同じ会社の社員が転職した後、どうなったかって!僕は好奇心の方が大きいかもねー」



心底楽しそうに言うコウに思わず笑みがこぼれてルカは、そうだねと明るく答えた。報告書を整理していたレイが最後の段ボールを開けている。思ったよりも早く終わりそうだ。



「それよりも、ちゃんと休んでる?ルカは集中すると他のことが見えなくなるからさー。楽な姿勢で快適に仕事をするんだよー」



自分を気遣うコウに返事をしてルカは電話を切った。手がかりになるかわからないが、最後までやってみよう。8月分と10月分が入り交じる段ボールを手元に寄せれば、隣で報告書を分けていたレイが顔を上げてルカを見た。



「あ、整理は俺がやります。ルカさんは報告書を見直していてください。こっちの報告書は8月分と10月分を分けましたから」



「ずいぶん早かったね。もっと時間がかかって大変だと思ってた」



「俺、得意なんですよ。日付順に並べるのも。これ、どんどんファイルに閉じていっていいですか?」



まるで魔法のように次々と報告書が綺麗にファイルへ収められていく。あまりの早さにポカンとしていると、レイは笑いながらまとめたファイルを渡してきた。



「これで集中できますか?あ、あの3人の報告書があれば言ってください。俺も一緒に見たいです」



レイから手渡されたファイルを受け取ってルカは止まっていた時間を動かすように瞬きを繰り返した。頼りなかった後輩はいつの間にか頼もしい仲間になっていた。

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