第4話

成長を続ける大企業、小宮シティは玄関から入ると真っ正面に豪華なエレベーターがある。その両脇には美しい受付嬢が対応する受付と、様々な要望を叶える役員または株主専用のコンセルジュが控えていた。レイがめざすクレーム部は30階にあり、階段だと時間がかかる上に体力をかなり使う。非常階段を使えば人に会う機会は減るが、自分の弱さから逃げている気がしてレイは社員用のエレベーターを使うことにした。



正面玄関から左側を通り先へ進むと、社員用のエレベーターが4つ稼働している。木製の美しい内装に合わせてエレベーターの扉も木目調のデザインになっていた。地下から古びたエレベーターに乗って1階に着いたレイはコンセルジュと受付を通過し、社員用のエレベーターへと急ぐ。父親御用達のコンセルジュがちらりとこちらを見たようだが、目線を合わせず前を見た。



「レイくん」



自分を呼ぶ声が聞こえる。聞こえないふりをしてレイは歩く速度を上げる。何か言いたそうな声は、追いかけるのを止めたのか、再び聞こえてくることはなかった。



会社で会う人達が自分に優しいのは父親の存在があるからだ。穏やかで礼儀正しいコンセルジュも自分に甘い役員たちも、今の自分を見たら手のひらを返すかのように冷たくあしらうだろう。今は相手にしたくない。この資料を早く、確実にクレーム部へ届けたい。書籍部としての仕事を成し遂げたい。レイは吹っ切るように前だけを見た。



社員用のエレベーターに着くと人がまばらに集まっていて静かにエレベーターを待っていた。ここまで勢いで来てみたが、胸の鼓動が激しくバクバクと騒がしい。書籍部のある地下では心が落ち着いていて、安心して自分の感情のままに振る舞っていたことに気づいた。リュウガに反発していたのも、コウに渋い顔をして言い返していたのも自分が心底安心していたからだと。二人を思い出すと心がほぐれる。バラバラに降りてくるエレベーターを少し落ち着いた気持ちで見つめた。



営業部だった頃、こうして毎日エレベーターを待っていたっけ。



周りの社員を横目で見ると、いろんな顔をしている。黒革のバックを大事そうに持っていたり隣の同僚と話をしていたり。昔の自分もそうだったのかなとレイはぼんやりと思った。あの頃はとにかく結果を出したい、圧倒的な利益を上げたい、誰からも一目置かれたいと切望していた気がする。父親のいる会社で、自分の力で結果を出せば、父親にも周りにも認めてもらえる気がした。



一人でもやっていける。やっと力を発揮できる場所を与えられた。これで自由に生きていける。父親も口を出さず、今度こそ自分を信頼してくれる。力を認めてくれるだろう。



「結局、俺は、父親からどう思われているか。それだけを気にしていたんだな」



父親から認めてほしかったのかもしれない。小さな頃、大きな手で頭を優しく撫でられたことを思い出した。



一つのエレベーターが音を立てて開く。待っていた社員たちが次々と中へ吸い込まれていった。レイも遅れないように歩みを進める。限られた空間になんとか体を滑り込ませた。エレベーターの一番奥に押されるように移動して階数を示した数字を見る。クレーム部は30階なので着いたらすぐ出ようと横にある30のボタンを押した。



待っていた社員が全員乗り込み、静かに扉が閉まっていく。その時だ。見知った社員が4人ほど割り込むように扉を開けて強引に入ってきた。



「間に合ったな。さあ、どうぞ。書籍部さん」



「30階に行くんでしょ。俺ら、29階なんで。あーあ、書籍部さんより下の階なんて、信じられないけど」



「。。。。」



営業部にいた時、何かと突っかかってくる3人組の社員と外に出たはずのルカだ。レイは驚きとまた激しく動き出した心臓に体が凍りついたように固まる。動こうとしても動いてくれない。胸で激しく動いているはずの心臓が、まるで耳のそばにあるかのようにドクドクと存在を主張してくる。周りの社員たちも何事かとルカたちに注目した。



「そういえば、書籍部って地下にあるんでしょ。可哀想だなぁ。窓から光も差し込まないし、真っ暗だし。湿気もありそうだからカビが生えてたりして」



「あーあ、健康上ヤバいでしょー。出世からも外されて、さらに環境もって。俺なら無理だなー」



「会社、辞めますよね。だって意味ないでしょ、認めてもらえないのに。あ、ごめんなさい。ルカさん、書籍部でしたね」



ルカはちらりと3人を見ると不思議そうな顔をした。反論する気もないようだ。反応がないルカが気に入らなかったのか、苛立った様子で1人の社員が睨み付けた。エレベーターの数字はどんどん増えていく。周りの社員が壁になってレイの存在は気づかれていない。1人の社員がこれ見よがしに大きなため息をついた。



「そういえば、ルカさんって元はクレーム部でしたよね。それが、書籍部に配属って何か問題でも起こしたんですか?あー、言えないかー。きっと恥ずかしいことなんでしょうね」



「噂では、チームリーダーと良い仲になったって話でしたけど。マジすか!あの綺麗な人と!羨ましいー!!」



「色気ありますよね、あの人。すげぇな、ルカさん。大人しそうな顔して」



さすがにカチンときた。自分のことは悪く言われるだろうと予想してある程度は覚悟していたものの、こうもルカを悪く言うのは我慢ならない。前の社員を押し退けて前を向く営業部の社員にガツンと言ってやろう。いくつもの背中の先にある肩を掴もうと手を伸ばした時だった。



「ふふふ、そんなことないよ。だって、俺、そんなにイケメンじゃないもの。君の方がすごくカッコいいし、男らしい」



「え?」



「それに、クレーム部から書籍部に配属されたのは、俺がクレーム部で仕事に耐えられなかったからなんだ。恥ずかしいんだけどね」



ルカは照れくさそう笑いながら穏やかに言った。営業部の社員は意表を突かれたようで、は?と言ったまま動かない。他の2人もポカンとしている。エレベーター内にいる他の社員たちもルカが何を言い出すのか興味を引かれたようだった。レイも手を伸ばしたもののピタリと動きを止めた。



「自分の席に着いて、いざ対応しようとすると息が苦しくなって。。。いつの間にか倒れていたこともあってね。チームリーダーのお姉さまには、すごくお世話になったんだ。お姉さまの勧めで書籍部に移動になったんだよ」



「。。。。」



「お陰で過呼吸も出なくなったし、会社にも来れるようになった。毎日、こうして穏やかに呼吸ができて働けるって幸せだ」



ルカは心から幸せそうに笑っている。穏やかで優しい笑顔を見て、営業部の社員は眉をひそめた。周りの社員たちは静かに聞いている。レイも何も言えなくなって伸ばした手をゆっくりと下ろした。



「俺は弱いから。君たちは凄いよ。たくさんの人に出会って、喜ばせて、商品を買ってもらうんだよね。それから会社に戻って報告書を書いて。いつも感じるけど、報告書から熱意が溢れてる。大切にデータ化してるからね」



軽やかな音がしてエレベーターが25階を示した。壁になっていた社員たちが動き出し、扉が開いたと同時にエレベーターから出ていく。横目で営業部の3人を見ると、何か言いたげな顔をしてそのまま去っていった。3人はバツが悪そうな顔をしている。急に黙ってしまった社員を不思議そうに見上げて、ルカも静かに口を閉じた。



「。。。。」



エレベーターが営業部のある29階を知らせる。3人は何も言わず逃げるようにエレベーターから出ていった。空間内にはルカとレイ、そして何人かの社員が残った。ルカはレイに気づくことなくエレベーターの数字を見つめている。真っ直ぐで穏やかな眼差しに胸が熱くなるような気がした。



30階に着いてエレベーターを出ると、長い通路がある。30階にはクレーム部の他に検証部、開発部があって、通路から先へ進むとそれぞれの部署に別れていた。他の社員たちもエレベーターから出て、自分の部署へと歩いていく。前をゆったりと歩くルカに声をかけると、驚きながらもレイを見て嬉しそうに笑った。



「レイ!エレベーターにいたんだ!良かった」



「ルカさん、クレーム部に行くんですか?」



「うん。あ、もしかして、さっきの会話聞いてた?」



はい、と答えると、恥ずかしいなぁとルカは笑う。ルカと話していると心が穏やかになってくる。それにあんなに嫌みを言われたのに、全然変わらない。普段通りのルカがレイにはとても眩しく見えた。



「ルカさん、どうしてここに?」



「うん、コウと隊長に連絡もらって。心配だからクレーム部に行ってくれって。何かあれば、すぐ連絡して、動画も撮ってくるようにって言われた」



「ど、動画?何のですか?」



「さあ?コウが言うには、イラッときたらすぐ撮って、だって。動画が無理ならその人の髪型とか、顔の特徴とか、正確に覚えておいて。レイにもそう伝えてって言われたよ」



「。。。。」



なんつーことを言うんだ、と口では反抗したものの、口元が自然に緩んでいく。かなり心配しているようで、安心させるためにルカはスマホを取り出しメールを打った。合流したことを伝えるとすぐに返事が返ってくる。スマホに来たリュウガからのメールをレイに見せて楽しげに笑っている。



「隊長もコウも心配性なんだ。親バカみたいでしょ?こういうのって、上司バカ、先輩バカって言うの?」



「ルカさん、ひどいですよ。バカバカ言って。でも、嬉しいです。なんか、すごく楽になりました」



コウから預かった資料をしっかり持って通路を歩いていく。隣にルカがいて、書籍部には自分を待っている上司や先輩がいる。地下とは違う光が当たる場所を、レイは久しぶりに穏やかな気持ちで歩いていった。



弱い自分はだめだと思っていたけれど。ルカと共に歩く道はとても心地よい。人目を気にして会社の明るい所を避けていた自分がなんだか笑えてくる。そんなに自分は怖かったのか。何をあんなに怖がっていたんだろう。ガラス張りの通路を歩きながらレイはふと窓の外を見つめた。よく晴れた青空を4匹の鳥が気持ち良さそうに飛んでいる。どこまでも続いている青空と特徴のある高層ビルの中で自由にのびのびと飛んでいた。



「懐かしいなぁ。全然変わってない」



隣で穏やかな声が聞こえる。クレーム部の仕事に耐えられなくなったとルカは話していたが、深く聞いてもいいのだろうか。レイ自身、おそらく自分にとって営業部から移動になったのは大きな挫折だ。思い出すだけで心に鋭い痛みが生じる。ルカにとっての書籍部配属もきっと挫折なのだろう。ルカのように吹っ切りたいレイはゆっくり話をしてみたい衝動に駆られた。



「あ、あの。ルカさん。その、聞いてもいいですか?クレーム部から書籍部に移動になった時のこと」



「ん?」



「そ、それから、なんでそんなに人に素直に自分のことを言えるんですか?あいつらにだって、正直に言わなくてもよかったのに」



見上げてくるルカの視線が自分の心を見透かしているようで、レイは慌てて前を見た。妙にそわそわする。ルカの反応を気にしながら一番エレベーター近くの開発部のドアを通過すると、通路は二つに別れた。クレーム部は右側の奥にある。さりげなさを装ってルカからの返事を待つ自分に嫌気がさしながらもレイは大人しく答えを待った。ルカからの答えは来ない。不安になって顔を向けると何か考え事をしていた。



「うーん。何から話せばいいんだろう?入社した後、同期たちと一緒に研修したじゃない?それから配属されたのが、クレーム部だったんだ」



「はい」



レイ自身も研修を受け、当たり前のように営業部へ配属になった。同じ同期には大きな得意先の息子や親戚もいて、彼らと一緒に仕事をし結果を競い合った。あの頃から比べられることが多く、いつも利益と結果ばかり気にしていた。クレーム部からの情報は的を得ていることが多く、とても貴重で的確なものだ。不満を抱えたお客様にアポを取り、直接商品を紹介することでずいぶん多くの商品を買ってもらった。またお客様の怒りや不満をクレーム部が引き受けてくれるので、営業として楽な部分もある。レイが営業部で奮闘している時、与えられた有力な情報はルカからのものだったかもしれない。知らないところでたくさん助けてもらったんだなとレイは思った。



「それで、初めはそんなに辛くなかったんだけど。一時期、ものすごく怒りの電話が多くなってね。癖のあるお客様はチームリーダーのお姉さまが対応してたんだけど、数が多くて」



「。。。。」



「とにかく激しく怒られて、怒鳴られて。クレーム部としては会社を代表して謝ることが仕事だから、やってたんだけど。だんだん足が重くなったり、朝、決まった時間に起きられなくなったりしたの」



当時のことを思い出しているのか、ルカは上を見上げてゆっくりと話していく。レイは心配しながらも先を聞きたくて、じっとルカの話に耳を傾けた。30階の高い場所から見える景色はとても美しい。ガラス張りの窓が太陽の光を浴びて、所々虹色に光っている。



「最後の方は、目が覚めたのが夕方で心配したお姉さまがアパートの管理人と一緒に部屋へ来てくれたこともあって。それで、お姉さまの弟であるコウがいる書籍部へ期間限定で行ってみないか?って」



「一時的に、ですか」



「うん。お姉さま、産業カウンセラーとして知識も資格もあったから。明らかに休息が必要だって、半ば無理やり。俺はすんごく反発したんだけど、その時、お姉さまに本気で怒られたなぁ」



「え?」



ルカは照れ臭そうに笑っているが、レイはルカが誰かに反発したことが驚きだった。いつもルカは大人しく、自分の意見は言うものの、周りと調和を取りながら素直に行動する。飾らない素直な優しさがレイの心にも穏やかさと安らぎをもたらしてくれた。そんなルカが反発するとは。自分を見つめるレイにルカは苦笑しながら口を開いた。



「そんなぁ、俺だって反発くらいするよ。電話を取ろうとすると、動悸が激しくて、頭も痛かったんだけど、我慢して続けていたら倒れてしまって。それから頑張っても頑張っても、空回り。どんどん意地を張って、仲間やお姉さまの忠告も聞かずに、がむしゃらにやっちゃった」



「。。。。」



「俺ね、あの時、負けなくなかったの。誰に、とか、何に、とかじゃなく。ただ、とにかく負けなくなかった。クレーム部から離れて他の仕事をしたら、逃げたようで。悔しくて悔しくて。電話応対にものすごく執着してた」



ルカは唇を強く噛み締めると前の通路を見た。明るい通路の先にはクレーム部がある。会社では営業部の次に一目置かれている部署だ。役員たちからの信頼も厚い。ルカはじっと前を見ながら口を開いた。



「ここを通ると、あの時を思い出す。悔しくて、情けなくて。もう、挑戦もできないんだっていう寂しさで溢れてくる。俺はクレーム部の仕事はできないんだって」



「。。。。」



「悔しいよ。頑張っても頑張ってもできないんだもん。上手くいったと思っても、後から体や心が重くなって、先に進めない。機会すら与えられない」



ルカの話を聞きながらレイは営業部にいた頃の自分を思い出した。そっくりだ。自分もそう思っていた。頑張っても頑張っても、何をしても上手くいかない。上手くいったと思っていたら、後から大変な問題となって襲いかかってくる。クレームや返品など、どうしてそうなったんだと直接相手に聞きたいくらい、自分の何が悪かったのかわからなかった。



「書籍部に配属された後も、いつかはクレーム部に戻るつもりだった。書籍部の仕事は、自分の仕事じゃないって思ってた。だから、データ入力も気晴らしみたいな、軽い気持ちでやってたんだ。それが、こんなに、居心地のいい所になるなんて思わなかったけど」



「。。。ははは」



確かに居心地はいい。リュウガもコウも気を使わないし、なんだか楽しい。今も書籍部の地下でそわそわと待っているだろう二人が容易に想像できて思わず笑みが溢れる。ルカも楽しそうにレイを見上げて優しく笑った。



「結局、俺は合ってないことをしていたみたい。無理して、頑張って何とかなるっていうのは、合わないことをしてるんだって。お姉さまが言ってた。それに、負けるとか勝つとか。傲慢だって」



「傲慢、ですか?」



「うん。そもそも、そういうこだわりがあって、意識が自分へ向いてしまう以上、目の前のお客様のことなんて考えてない。お客様より自分の方が大切なら、クレーム部の仕事はできない。あなたには、合ってないわよって。あなたには別の仕事があるから、そちらに行きなさいって」



「別の仕事。。。きついですね」



今日、コウのスマホを通して初めて見たリンを思い浮かべた。上品なお嬢様という感じのほんわかした人だったが、言うことははっきり言うらしい。どんな人に対しても物怖じしない、あっけらかんとしたコウの姉なのだなと改めて思う。



「そうなんだよ。でね、言われてみればそうだなぁって。俺、クレーム対応が上手くできない自分のことばかり考えてて、勝手に負けたの勝ったの、そればかり気にしていた。お客様のことなんて、全然考えてなかったことに気づいたんだ」



「。。。。」



「あ、そっかー。俺は、クレーム部では役に立たないのかーって思いながら、書籍部でデータ入力してたの。そうしたら、なんだか報告書から人の想いが伝わってきてね」



「え?」



「この人、こんなに綺麗な文字を書いてるけど、本当はものすごく悔しかったのかもしれない、とか。この人はサラッと書いているけど、商品の良さが伝わって嬉しかったんだなぁ、とか」



ルカは穏やかな瞳を細めてレイを見上げた。報告書から声が聞こえるとルカから教えてもらったことがある。表面や形に捕らわれないルカの鋭い感性はレイにとってとても心地よく、ほっと和ませてくれる。表面の評価や目に見える結果、利益よりも自分自身を見てくれる気がする。優しく繊細な感性で報告書を見ているのだなとレイは思った。



「それを何気なく隊長に言ったら、目を輝かせてお姉さまに、大切にするから書籍部へ永久配属してくれって頼み込んでて。コウからは静かに抱き締められたよ」



「わぁー」



「で、隊長は期待を込めた目で返事を待ってるし、コウは抱き締めたままいつまでも離れないし。困ったように迷っているお姉さまに、俺、書籍部に行きますって言っちゃった」



ルカは楽しそうな、どこか力が抜けたような優しい顔で笑っている。書籍部の二人から強引に引き込まれ、ルカの中で何かが吹っ切れたらしい。あの二人に切望されれば、しょうがないなという気にもなる。毒気がないというか、無邪気というか。二人とも我が儘で自由で、どういうわけか憎めない。



「今度はお姉さまが慌てて、あくまでも預りでって聞かなくて。チームの仲間もすごく必死に引き留めてくれたんだよ」



「。。。。」



「俺、その時思ったよ。ああ、すごく恵まれているだなって。自分のことばかり考えて、できるかできないかばっかり考えてたけど、俺はもう大丈夫なんだって。だから、あの時、仕事ができなくなって、倒れて良かったって思った」



「。。。え?」



ルカの言葉は意外だった。どんなに頑張っても努力しても結果が出なかったり、上手くいかない経験は辛いものだ。倒れてしまうまで自分を追い込んだのだろう。そうまでしてできるようになりたかったのになれなかった。ルカにとって大きな挫折ではないか。疑問を持ったレイにルカは明るい声で先を続けた。レイの曇った表情に気づいていないようだ。



「うん。倒れて苦しくて、情けなくて悔しかったけど。できなくなって初めて、俺は周りからものすごく優しいものをもらってたんだって気づけたから」



「周りから。。。」



「それに、隊長やコウにも出会えたし。なんだかんだで書籍部の仕事は楽しいし。クレーム部のお姉さまや仲間も同じ会社でいつでも会えるし。なんか、幸せだなって」



レイはじっとルカの話を聞いている。ルカから後悔も悔しさも感じられない。自分の感情をそのまま伝え、隠そうともしない。自分が眩しく感じたのは、ルカのこういう素直さと潔さだったのだとレイは気づいた。それにね、前を見ていた視線を照れ臭そうに下に向けて、勢いよくレイの顔を見上げた。



「今度は、レイにも出会えたでしょ。初めてできた後輩だし、俺とちょっと境遇が似てるし。隊長やコウに反発してるレイを見てて、すごく楽しかったんだよ。ああ、俺もこんなだったのかなって」



「え!?マジですか!?」



「うん。コウも軽口たたきながら楽しそうだったよ。手応えのある反骨精神に出会えた!って。隊長はレイが掃除に行った後、にやにやしてたし。あ、これ、内緒ね」



「そうだったんですか。。。てっきり嫌われてると思ってました。俺、遊ばれてたんですね」



歓迎されてたんだよ。ルカは笑って慰めてくれる。全く気づかなかった。嬉しいような悔しいような、それでもなんだか温かい気持ちになる。



「そっか、それでルカさん、あんなに堂々としてたんだ。さっきの3人から言われても全然動じなかった。凄いなぁ」



「?だって、本当のことだもの。しょうがないよね」



「ははは!」



何を言われても気にしないルカの気持ちがなんとなく伝わってきた。気にしないというより、自分の素直な気持ちを受け入れていた。悔しい気持ちや苦しい気持ちをちゃんと認めていた。自分にはこの受け入れる、認めるという気持ちが足りなかったのかもしれない。



「見えてきたよ、クレーム部。お姉さま、いらっしゃるかなぁ」



クレーム部のプレートが遠くに見える。少し小走りになったルカの後をレイは静かに付いていった。



クレーム部のプレートは昔から変わっていないらしく、ルカは小さなバックから綺麗なハンカチを取り出して丁寧に拭いた。黄金のプレートに美しい花のデザインがさりげなく添えられていて、白の文字を一層引き立てていた。営業部にいた頃、それとなくクレーム部へ行くこともあったが、雰囲気が柔らかくのんびりとした印象だった気がする。



「行こっか、レイ。お姉さまたちの部屋はこっちだよ」



気軽に扉を開けてルカは迷いなく進んでいく。ルカが一緒に来てくれて本当に良かった。自分一人ならこの扉の前でグズグズといつまでも入れなかったかもしれない。エレベーターで昔の同僚たちの視線に怯え、昔の記憶にも怯え、ここでは恐怖しか心に残らなかっただろう。光が当たる綺麗な場所なのに、二度と来たくないと背を向けて拒絶し続けただろう。



「もしかして、隊長やコウさん。俺のこんな気持ちをわかっててルカさんに連絡したのか?まさか、な。あの二人に限ってそんな繊細な配慮、するわけないか」



ふと思いついた考えにあるわけがないと軽く首を振る。ルカへの連絡が思いつきでも、優しい配慮でも、何でもいい。自分はこうして楽になれたのだから。書籍部へ戻ったら二人にそれとなく助かったと伝えてみよう。嬉しそうに進んでいくルカの背中を追うようにレイは速度を上げて歩いた。



「失礼します。書籍部のルカとレイです。資料をお持ちしました」



ノックを2回鳴らして重厚な扉を開けると、机を円のように並べてゆったりと対応しているリンがいた。それぞれの机にはチームのメンバーがいる。眼鏡をかけた真面目そうな男や金髪のやんちゃそうな男、可愛らしい顔立ちのおっとりした女性もいる。パソコンの画面を見ながら電話の声に集中し頷いたり相手の先を促したり、真剣そのものだ。落ち着いた受け答えは地道な研鑽の賜物だろう。チーム内で日々練習し、いろんな客に対応できるよう努力を怠らない。ルカはそっと扉を閉めて、そばにある大きな机に資料を置くようレイに合図した。



「そうですか。ありがとうございます。とても貴重なご意見ですわ。こうしてお客様の声を直接頂けるなんて。まあ、そんな。ありがとうございます」



ゆったりとした優しい声でリンは対応している。相手の電話が切れたことを確認し画面にある通話ボタンを静かに切った。クレーム部は幾つかのチームがあり、個室で対応する。客との通話はすべて録音され、クレーム部長へと回される。クレーム部長はそれぞれのチームから送られてくる通話を聞いて、大きな問題がないか確認し録音されたデータを責任を持って保管していた。



さらにクレーム部の社員は一つの通話が終わった後、客の年齢や性別、クレームの内容やどのように対応したかを簡潔にまとめ報告書を作成する。作成された報告書に目を通して保管するのもクレーム部長の仕事だった。電話応対が終わり簡単なメモを取った後、リンはゆっくりと振り返り優しく二人を迎えた。



「いらっしゃい、ルカちゃん。リュウガから聞いていたわ。わざわざありがとう。少しゆっくりしていって」



「はい、お姉さま」



「それから、あなたがレイくんね。初めまして、レイくん。会えて嬉しいわ。書籍部は楽しい?最近、コウちゃんはあなたのことばかり話すのよ」



「え!?ロクなこと言ってないでしょ!!あ、すみません。えっと、よろしくお願いいたします」



反射的に言ったレイに楽しそうな笑みを浮かべるとリンは部屋にあるコーヒーメーカーに二つのカップをセットした。中央のテーブルには美味しそうなお菓子がある。コーヒーの香ばしい香りが扉のそばで立っている二人に届きレイは思わず、いい香りですねとルカに話しかける。来客用の気持ちよさそうなソファにリンは座るよう促した。



「変わってないなぁ。。懐かしい」



ふわふわの座り心地のよいソファの感触を確かめてルカは嬉しそうに笑った。リンがコーヒーを持ってくる。電話対応が終わって作業が一段落した真面目そうな男がその後からお菓子を持ってきた。



「ルカ!話せないけど、ゆっくりしていってよ。飲み会には来るんだろう?一緒に飲もう」



「ありがとう。忙しそうだね」



「まあね、他の二人も話したがってるけど、ペースを下げると上にバレちゃうから。そうだ、これ、リュウガさんに渡しといて」



真面目そうな男は小さな袋を渡してきた。中身を聞いてみると、スルメだよと朗らかに笑っている。リュウガはとても喜ぶだろう。受け取って頷くと真面目そうな男はまた自分の机に戻っていった。横を見ると金髪の男や可愛らしい女性が手を振って笑っている。嬉しい気持ちが溢れてルカは応えるように手を振った。



「資料を確認させてもらうわ。ああ、これも。コウちゃんは心配性ね。ありがとう。それで、どうかしら、書籍部は」



仲良く座っている二人を交互に見てリンはゆったりと優しく問いかけた。リンの包み込むような穏やかな雰囲気は、心の奥にある小さな声を表に出させるような不思議な安心感がある。軽く返事をしてルカは、楽しいですと答え隣のレイを見た。二人の視線を浴びて少し照れ臭そうにしていたが、今までのことを思い返すようにゆっくりと考えてみた。書籍部に配属された後は、自分の気持ちを感じることが多くなった気がする。イライラしたり反発したり、自分なりに掃除をしてみたり。怒りも焦りも嫌というほど感じた。それなのに、楽しい。レイは感じるままにリンに伝えた。



「そう。。。自分の気持ちを感じられるのは、とても良いことね。わかってくれる人がいるなら、とても心が楽になるけれど。それが自分なら、もっと心が休まるわ。どんな時も、必ずそばにいる存在が自分を理解してくれるんだもの」



「言われてみれば。。。」



「それにリュウガやコウちゃんと一緒にいれは、自分をあるがまま受け入れるということが心でわかってくると思うわ。とても楽しそうでしょう」



リンの言葉は静かにレイの心に響いた。あるがまま受け入れる。ルカと話した時にも心に染みた言葉だ。弱い自分も焦っていた自分も、他でもない自分が認め、許し、受け入れられたら。とても楽になれる気がした。素直に頷いてリンを見つめる。穏やかで優しい目は、なぜか書籍部の二人を思い出させた。



「反抗しても、心を閉ざしても。あなたのことを見てくれる存在はいる。失敗しても、間違っても、次の仕事やチャンスはやってくるの。忘れないで」



「はい」



「どんどん失敗しなさい。安心して、心のままに。いつもぶつかっていけばいいのよ。リュウガもコウちゃんも、そんなに柔じゃないわ。もちろん、ルカちゃんもね」



リンから向けられた視線にルカは嬉しそうに頷いて笑う。勧められた温かいコーヒーを一口飲めば、ほろ苦さとほんのり甘い味にゆったりと心がほどけていくようだ。お菓子をもらって、それがリンから受け取った甘い優しさみたいだとレイは思った。



「良かった、こうして話ができて。スマホやメールも良いけれど、直接会って話すのは格別ね。いろんなことが伝わってくる。安心したわ」



「リンさん。。。」



「レイくん、もっと楽しんでいいのよ。周りに甘えていいの。未熟で、意地を張っていいの。そんなあなたを受け止めてくれる存在がいるわ」



客からの電話が多くなってきた。リンを待つ通話のランプがピカピカと自身をアピールしている。もう少し話をしたかったが、書籍部へ帰った方がいいだろう。残りのコーヒーを一気に飲み干して、ルカとレイは立ち上がった。名残惜しそうにリンは手を振っている。



「引き留めて、ごめんなさいね。資料、ありがとう。リュウガやコウちゃんによろしくね」



見送るリンに頭を下げると二人は部屋の扉を開けた。なるべく音を立てないように退出して静かに閉める。無意識に息を吐いたレイに、ルカは明るい軽やか声で言った。



「帰ろっか。書籍部へ」



「はい」



来た道をまた戻っていく。クレーム部からガラス張りの通路へ。30階から地下へ。リュウガとコウが待つ書籍部へ。



「そうだ、レイ。外で肉まんとピザまんを買ったきたんだ。コウに渡しておいたから、帰ったら食べよう」



「え?普通は、肉まんとあんまんじゃないんですか?」



「そうなんだけど。隊長があんまん苦手で、買ってくるなー!!!って涙目だったから」



「また、あの人は。。。それでピザまんですか」



地下に着いたら今日は何をしよう。ずっとできなかったデータ入力に挑戦してみようか。それともリュウガやコウの机をピカピカに磨いてやろうか。書籍部で待つ二人の驚きながらも嬉しそうな顔を思い浮かべながら、レイはルカと一緒に社員用のエレベーターを待った。



社員エレベーターに乗り込み1のボタンを押すとレイは何気なくエレベーター内部を見た。今はルカと自分しか乗っていない空間はスッキリとして清々しい。いつも使っていたこの空間がキラキラと輝いて見える。乙女チックだなと苦笑しながらも心がとても軽いことに気づいた。自分の中の何かが消えて不思議と安心している。



「今日のデータ入力は終わったし、夕方まで自由時間だよ。俺は仮眠するけど、レイはどうする?」



不意にルカから聞かれ、自分もそれを考えていたところだと伝えた。心がスッキリと落ち着いた今、どうしてもできなかったデータ入力に挑戦してみたい。でも、今日の分は終わったのなら意味のないことだろう。なかなか言い出せないレイにルカは、じゃあと優しく提案した。



「営業部から提出された報告書、読んでみる?見るだけ、手に取るだけでもいいから」



そんな簡単なことでいいのか、レイは戸惑った顔でルカを見た。報告書と向き合ったならデータを入力して形に残した方がいい。自分がデータ入力ができるようになれば、リュウガもコウも自分の時間が持てる。読むだけでいいのかとレイはルカを見つめた。



「いいんだよ、それで。それが大きな一歩なんだから」



「でも、何かしら成果を上げた方がいいでしょ。成果ってほどでもないけど、入力して一枚でも報告書を終わらせたり、データ入力の基本的なやり方を覚えたり」



「まあ、そうなんだけどね」



二人を乗せたエレベーターは一気に1階を目指して下降していく。エレベーター独特の勢いある浮遊感と落ちていく感覚にレイはまるで自分が落ちていくみたいだなと思った。30階、正確には営業部がある29階から1階へ下っていく。スッキリしたはずなのに、妙なモヤモヤが胸の中を駆け巡る。吹っ切れたと思ったのに、そう簡単には消えてくれないようだ。顔をしかめたレイにルカは優しく口を開いた。



「あ、それ。その顔。レイがそんな顔をする時は、何かしら心に引っ掛かりがある時でしょ?納得してないっていうか」



「はい、す、すみません」



「謝らないでよ。お姉さまにもレイの気持ちをそのままぶつけなさいって言われたのに。それでいいの」



戸惑って咄嗟に頭を下げるレイに軽やかな口調で答えると、ルカは前の扉を見る。1階に着いたエレベーターが到着音を鳴らして止まった。扉の向こうにはエレベーターを待っている社員がいる。もうすぐ昼休みに入るのでかなりの人数だ。開いた扉から素早く人の間を通り抜けてルカとレイは会社の玄関に着いた。



「多かったね。それにしても、レイ、動きが俊敏になったなぁ。人混みを抜けるのが上手くなってる」



「それ、喜んでいいんですか?まるで俺、今まで人に道を譲ったことないって感じじゃないですか」



朗らかなルカにレイはブスッとした顔をして見せた。営業部にいた頃の自分をルカはどんな風に見ていたのだろう。会社内で会ったとしてもお互い知らないのだから、素通りしていたに違いない。もう少し早く出会って話をしてみたかった。



「あはは!レイってなんでも反発ちゃうんだ。もう天然の反骨精神。激しい川を登っていく鮭みたいだなぁ。のんびりした道を選ばずに、わざわざ激しい流れに逆らっていくの」



「。。。ルカさん、完全に楽しんでますよね」



無邪気に笑うルカに怒る気にもなれず、かといって喜んでいいものか、それも悩む。ただ変な緊張感や張り詰めていたものが柔らかくなっていく気がした。自分と周りの間にいつもあった、暗くて狭い見えない壁がガラガラと音を立てて崩れていくような。自分は自分でいいんだと安心できるような。ほっとした気持ちを隠すようにレイはルカの前でわかりやすく拗ねて見せた。



美しい受付嬢の前を通り過ぎて豪華なエレベーターも通り過ぎる。書籍部へと運ぶ奥のエレベーターへ進んでいく。会社のエントランスをゆったり歩くのは初めてかもしれない。ほぼ毎日来ている場所でも意識が変われば全く違って見えるのだなとレイは思った。



「レイくん」



自分を呼ぶ声がする。懐かしいけれど向き合いたくない聞き慣れた声に、無視するわけにもいかずレイは振り返った。父親に仕えるコンシェルジュが立っている。挑むように顔を上げれば、昔と変わらない穏やかな顔がそこにあった。



「やっぱり、レイくんだね。書籍部に移動になったと聞いて驚いていたんだ」



「。。。。」



変わらない優しい声に安心するような戸惑うような、複雑な気持ちでレイはコンシェルジュを見つめた。この優しさが表面だけなのか心からそう思っているのか、レイにはわからない。穏やかな声で優しい言葉をかけてきても、冷たい人はたくさんいる。現に見て見ぬふりをしたり、親の七光りだと冷笑する役員も何人かいる。目の前のこの人はどうだろう。気持ちがすぐ表情に出るレイはじっとコンシェルジュを睨み続けた。



「。。ぷ!レイ、なんて顔してるの。わかりやすいなぁ」



「だって、これが俺の正直な気持ちなんですもん。今まで社員や役員たちに散々態度変えられたんですよ。これくらい、いいでしょう」



横から茶々を入れたルカに感じたままの顔を見せれば、ルカは可笑しそうに笑っている。微笑むようなルカの笑顔を見たことはあるが、こうもケラケラと笑う姿を見たことがない。今までで一番楽しそうではないか。嬉しいような、それでいいのか素直に喜べないような。レイはコンシェルジュのことを一旦置き、隣のルカを恨めしそうに横目で見た。



「ほらほら、俺に焦点を当てないで。今はこの人と話してたんだろう?チャンスじゃない。思いっきり睨みつけて、想いを伝えなきゃ」



「ルカさん、完全に、楽しんでますよね」



今までの複雑な気持ちよりも、楽しそうなルカにどうしても意識がいってしまう。父親のコンシェルジュに、ちょっと待ってくださいねと伝えて、ルカを見た。ルカは笑いながら、どうしたの?と問いかけてくる。これから感じていた自分の葛藤や苦しい気持ちを目の前の人にぶつける、きっと自分にとってシリアスな場面なのに、隣で何かと言葉のちょっかいを出されながら、楽しく柔らかな雰囲気を醸し出されては、深刻になろうとしてもなれない。レイは必死にそのことをルカヘ訴えた。ルカはふむふむと頷いて笑わないよう、口を手で覆う。これでいい?と目で合図を送るルカにレイはなんだかどっと疲れて力が抜けていく。



「。。。もう、いいですよ、ルカさん。どうでも良くなってきました。あ、コバヤシさん、睨んでしまって申し訳ありませんでした。学生の頃からお世話になっているのに」



「。。。。」



「父がとても感謝していました。コバヤシくんは、何も言わなくても心から自分のために動いてくれる、心から人を想える素晴らしい人材だ。コンシェルジュとして一番大切なものを持っているって」



落ち着いた佇まいでルカとレイのやり取りを見守っていたコンシェルジュ、コバヤシは何も言わず静かにレイの言葉を聞いている。レイはコバヤシが自分のことをどう思っているのかなんて、どうでも良くなった。それよりも、父親がいつもコバヤシに感謝していることを直接伝えたい。父親も自分に似て素直な気持ちを人に伝えることはしない人だから。いや、できない人だから。



「命令口調で申し訳ないですが、あれで父はコバヤシさんを頼りにしています。俺も大変お世話になりました。これからは書籍部でやっていくので、あまり会う機会がないと思いますが。。。」



「。。。。」



「これからもどうぞ、父をよろしくお願いいたします。えっと、今までありがとうございました」



なぜか頭を下げる羽目になっているが、素直にコバヤシへの感謝を伝えたい。自分でもなんでこんなことを話しているのかわからないが、こうなってしまったものはしょうがない。言いたいことを言ってスッキリした心を感じていると、隣からクスクスと笑いを堪える気配がする。勢いよく顔を向けるレイから逃げるようにルカはそっぽを向いた。



「レイくん、変わったね」



視線を合わせないように逃げるルカとどうにか目線を合わせようと奮闘するレイを見守りながら、コバヤシが口を開く。小さな呟きは、格闘する二人に届かなかったようで、何も気づかない二人は相変わらず、逃げる追うの攻防を続けた。



「す、すみません。コバヤシさん。ルカさん、案外すばしっこいですね。その、言いたいことは、これからもよろしくお願いしますってことです」



「承りました」



まだルカを気にしているレイが慌ててコバヤシに言うと、コバヤシは丁寧に頭を下げた。その姿は自分が営業部にいた時や学生の時に初めて出会った頃から変わらない。相手を思いやり尊重し、礼を尽くす。徹底した美しさにレイは思わず動きを止めた。言葉の重み。受け取ってもらえるという喜び。胸の奥からじんわりと不思議な熱さが沸き上がってくる。



「レイ、それでいいの?恨み言は?信じてないんじゃなかったっけ」



「うるさいですよ、ルカさん。全く、コバヤシさんの前で。恥ずかしいじゃないですか」



楽しげに笑うルカに軽く睨むとレイはもう一度コバヤシに向き合う。こんな立派な人に出会っていたなんて。これからはちゃんと大切にしたい。何か言おうとしたレイにコバヤシは優しく目を細目ながらゆっくりと口を開いた。



「いい先輩に囲まれているんですね。書籍部の噂は聞いていましたが、真実のようだ。とても安心されている」



「そ、そうですか?」



柔らかく真っ直ぐな目で見られると照れ臭い。父親とは違う温かさや見守られている安心感が溢れてくる。思わず、ありがとうございますとレイは頭を下げた。嬉しい顔を見られたくない。恥ずかしい。



「そばにいても、遠くにいても、私はあなたを見守っています。とても元気そうで良かった。ほっとしました」



温かみのある深くて優しい声だ。優しい言葉を使っていても心にある気持ちは誤魔化せない。この人は心から自分のことを想っている。それがわかってレイは下げていた頭を勢いよく上げた。


「レイくん、また会いましょう。書籍部のことを教えてください」



「あ、はい。でも、営業部の話よりも単純で、くだらない話になると思いますよ」



書籍部としては単純なデータ入力とリュウガやコウのぶっ飛んだ話くらいだろう。理解不能の二人に比べてルカがまだ常識の範疇に近く、レイから見たらまともに思える。ちらりとルカを見るとまだケラケラと笑っていた。



「良いですね。そんな話が聞きたいです。楽しそうで、自由で、何よりあなたが幸せそうだ」



待っています、と優しく告げられて、レイはまたくすぐったいような居心地の悪さを感じる。落ち着かないまま挨拶をし、逃げるように古びた裏のエレベーターを目指した。後ろの方でルカが追いかけるように付いてくる気配がする。



「ちゃんと見てくれる人もいたんだ。良かったね、レイ」



のんびりといつもの調子で話しかけたルカに、レイは前を見たまま、はいと返事をした。今の自分の顔を誰にも見られたくなかった。

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