第3話

ステージ舞台裏の部屋から出ると眩しいほどの光に包まれ思わず目を細める。たった一つの扉の向こうでこんなにも人が集まり、話し合っていたのかと驚くほど薄暗い部屋とは別世界だった。扉を静かに閉めると今までいた静かでどこか寂しかった部屋とこの広い会議室が本当に繋がっているのかと疑うほど対照的だ。後ろからついてきたコウが気持ち良さそうに背伸びをしながら話しかける。



「隊長~、さっきはどうして報告書が宙に浮いたの?すごい勢いだったよ」



「あー、あれかー」



手元の腕時計で時間を確認しながらリュウガはコウの問いかけにのんびりと答えた。時計の針はもう9時20分を過ぎていて、ずいぶんゆっくり話をしていたようだ。



「それはなー、これだ!!」



リュウガは腕時計をはめた手の袖を一気に引き寄せてコウの前に見せる。腕には何やら金属の小型ボンベがマジックテープで巻かれて固定されており、先端のガスが出る小さな穴はちょうど手首のそばで調整されていた。



「これをな、ピュ!っと押したらシュ!っと出て」



「。。。。」



まるで手品の種を見せるように手のひらをコウに見せる。中指にはめられている金属の細い棒が小型ボンベのスイッチを押し勢いよく風を起こしていた。リュウガの中指が動くたびに小型ボンベの小さな穴から激しい風が巻き起こっている。



「ピュ!っとしたら、シュ!!ピュ!っとしたら、シュ!!だ」



「もう!何それ!!くだらない!!」



コウは納得したような呆れたような顔をしてリュウガの腕を見た。何度もやってみせるリュウガを放っておいて興味深そうに小型ボンベを観察する。いつの間にこんなものを作っていたのだろう。リュウガはここ2日間ずっと自分たちと一緒にいたし、そもそも小型ボンベなんて、注文した覚えはない。書籍部の部品はコウが注文し管理していた。



「ふふん、コウよ、すべての道には裏道というものがあるんだぞ」



「裏道?」



「表とは違う道だな」



小型ボンベを袖に隠してリュウガは新たに依頼された茶色の封筒を持ち直した。次の依頼は営業部から託されたこの封筒にある。コウは封筒をじっと見つめ視線をリュウガに戻した。



「裏道は、表から絶対に気づかれない、人の盲点の中にあるのさ。すぐそばにあるのに、目の前にすらある時もあるのに人は気づかない。なんでかわかるか?」



「。。。。」



この小型ボンベと同様、知られていないものがあって、これから自分たちはその裏とやらを探り当てることになるらしい。いろんな情報が自然と入ってくるコウは今までたくさんの情報を感じ取ってきた自分の感性の感じるままに伝えてみた。



「人がそうである、と思い込んでいる意識の中に隠されているんだね。僕がさっき、隊長の袖の下に小型ボンベが仕込まれているなんて思いもよらなかったように」



ここ2日間リュウガと共に会社で寝泊まりをしていたし、書籍部の備品も管理し把握している。リュウガがこの小型ボンベのようなものを作り出していたら、ルカやレイはコウに必ず伝えるだろう。それもなかったという事は二人も気づかなかったという事だ。



「そうだ、コウ。一緒にいて、ずっと仕事をしてきて、それでも気づかないことがある。目的のために何かをしているのに、披露されて初めてわかるものがある。営業部にとって、それがこれだ」



「うん」



「俺たちは知らなくてはならない。で、報告して、決断を委ねなければ。美しい純粋な魂たちが傷ついてしまう」



リュウガは会議室でまだお互いに話し合っている役員、社員たちを見つめた。その中には依頼をしたヨシザワやアルがいる。スポットライトを浴び、光の中で生きている人にはできない仕事がある。託された想いに全力で応えよう。リュウガは目を細めながら大きく足を踏み出した。



「行くぞ、コウ。新しい仕事だ」



「うん!」



まだガヤガヤと騒がしい会議室の人波を抜けて、何か興奮ぎみに話しているたくさんの顔をすり抜けて、リュウガとコウは会議室を後にした。



?



メインエレベーターから一階へと急降下し、豪華な会社の受付や出勤している社員たちとは反対側の、古びたエレベーターに歩いていく。裏側の静かで寂れた場所で隠されたように埋もれたボタンを押すと、機械は応えるように動き出した。



「それはそうとさー、隊長。今日は何が食べたい?やっとゆっくりできるし、みんながんばったから美味しいもの作ってあげる」



「何!?」



迎えるように開かれた空間に身を委ねるとコウは隣のリュウガに話しかけた。最近、データ入力やナカシマの依頼で手の込んだ料理を作っていない。時間があれば借りているアパートに帰って手料理を作り、よく書籍部へと持ってきてみんなで食べていた。書籍部の冷蔵庫にも材料はある。限られたものしか作れないが、それでもよかったらとコウは楽しそうに笑った。



「おお!!!コウよー!!!お前はなんてできた仲間なんだ!!俺の脳みその疲れが一気に吹き飛んだぞ!!!」



「ふふふ」



外の光が届かない地下に着き、二人を無事運び終えるとエレベーターは静かに動きを止めた。リュウガとコウはエレベーターの扉を優しく撫でて、ありがとうと穏やかに微笑むと地下にある書籍部へと歩みを進める。防犯カメラも柔らかな絨毯もない。深い優しい静寂が二人を温かく迎え、二人の足音だけが響き渡った。



何もない錆び付いた重い扉を開けて、厳重なセキュリティをクリアすると、そこには居心地のいい書籍部がある。着ていたスーツを軽く着くずし、リュウガとコウは、ただいまと朗らかに笑った。



「お帰りなさい、お疲れさま」



「お疲れさまです」



書籍部には朝から出勤してきたレイもいる。中央の寛ぎスペースで二人仲良くのんびりと朝ごはんを食べていた。こたつの机には美味しそうな味噌汁とほかほかの湯気がたつ白ご飯があって、鮭の塩焼きに卵焼きまで付いていた。



「わぁ!美味しそう!ルカが作ったの?」



「うん、俺とレイで作った」



「!!!」



レイはすぐさまこたつから立ち上がってキッチンへと下がっていった。ルカは二人に座るよう薦めるとスペースを空けて嬉しそうに笑っている。あのやる気のない、いつもブスッとしていたレイが朝御飯を作った!コウは驚きと興味津々でルカの隣に座り、詳しく聞きたいと目を輝かせた。リュウガはそれ以上ににやにやしながら話の続きを待っている。ルカはたしなめるような目をしながら今朝の出来事を二人に告げた。



「もう、二人とも思いっきり面白がって。。。あのね、二人が朝礼に行った後、レイが出勤してきたの。8時ちょっと前くらいだったかな。きっと入れ違いになったんだね」



「へー!いつも通りだね」



「ほうほう」



コウは外に出て冷たくなっていた足をこたつの中で伸ばし楽しそうに聞いている。リュウガは腕に付けていた小型ボンベを外しながら頷き、わかりやすく耳をルカの方に近づけた。



「それからレイが朝御飯の材料を持ってきて。。。って!隊長、何ですか?それ。新手の遊びですか?」



「気にしないで、ルカ。これはスルーして」



「そうだぞ、ルカ。見なかったことしろ。それで?それで?」



リュウガの腕から見慣れないボンベが見えて突っ込まずにはいられなかったが、二人から先を促され、気を取り直す。小型ボンベは後からリュウガに教えてもらおう。



「あ、はい。どうしたの?って聞いてみたら、朝御飯を作りたいって言ってくれて。いつもデータ入力ができないから、せめて美味しいものを食べてほしいって」



「。。。。」



「ほう。。。」



二人とも何とも言えない顔をしてキッチンの方を見つめる。レイは二人分の味噌汁と白ご飯、鮭の塩焼きと卵焼きを用意しているらしい。ルカは笑いながらレイと一緒に作った味噌汁をゆっくりと啜った。



「うん、美味しい。朝御飯の用意も自分がするって言って聞かないんだ。二人の分は俺がするって」



「。。。。」



「ずっと悔しかったみたい。データ入力はどうしてもできないし、掃除をして少しでも力になりたいのに同じ事の繰り返しだし。それでね、定時で早く帰って料理の勉強をしてたみたいだよ」



「なんと!!」



リュウガは弾かれたようにルカを見て衝撃を受けた顔をしている。コウは黙ったまま何かを考え込むように下を向いた。そういうことだったのか。。。リュウガの小さな声が聞こえ、コウは何かを閃いたかのように顔を勢いよくあげる。



「脱皮だね!!!伊勢海老の脱皮!!!」



「脱皮!!??」



コウが大きな声で言い放つと同時にちょうどキッチンから戻ってきたレイが驚いた顔をしてコウを見る。二人分の朝御飯をのせたお盆を持ちながら少しぐらついたが、それでも何とかこたつにたどり着き、お盆をこたつのそばに置いた。コウは興奮した顔でレイに向かって力強く説明した。



「そう!伊勢海老の脱皮!!伊勢海老はね、移動する時、後ろに下がるの!つまり、後退する。後退するのは、伊勢海老にとって、進むってことなんだよ!」



「???」



「いい?だからー、ボウちゃんは前に進むために後退していたの!脱皮をするために

、進化するために後退していた!!上手くいかないように見えて、進化するために後ろに下がってたんだよ!!」



あまりの力説にポカンとした顔をしてレイはぼんやりコウを見ている。毒気を抜かれたような、不意を突かれて放心しているような。普段からそんなに向き合わない二人が顔を見合わせて、一方的にコウが話しているのも珍しい。ルカはいつもと違う二人が面白く、なぜか嬉しくなって思わず口元が緩んだ。



「ボウちゃん!やっとわかった、ボウちゃんのこと。ボウちゃん、伊勢海老だったんだね。後退してたのは、前に進むためだったんだね」



「。。。。」




「脱皮のために、進化するために、自分に合わなくなった殻を破るために。もがいてもがいて苦しんで、すごく辛かったでしょ。ごめんね。理解してあげられなくて、ごめんね」



「。。。。」



コウの勢いに圧されて呆然としていたレイが静かに下を向き動かなくなった。下を向いたレイの顔を見ようとコウはゆっくりと覗き込む。それさえも気づかないレイはまだ下を向いていて、黙ったままじっとしている。様子が変わったレイにリュウガもルカも静かに視線を向けた。コウは何も言わずお盆にのせてあった味噌汁を取ってこたつの机の上に置いた。



「ボウちゃん、朝御飯、ありがとう。大切にいただきます。ほら、隊長も」



「おう」



次から次にお盆からこたつへ移すと両手を合わせて箸を取った。レイはまだ下を向いて動かない。固まったようにそばにいるレイの頭をコウは優しく撫でてもう一度、ごめんねと呟いた。



下を向いてなかなか動かないレイを優しくこたつへと誘い、足を入れるよう導く。おずおずと足を入れたレイは、それでも顔を上げない。緊張しているのかレイの周りの空気が強張っているように見える。ようやく足を入れたレイをコウは楽しげに見た後、白ご飯の上に焼けた鮭をのせて満足げに笑った。



「ボウちゃんのお味噌汁、美味しい~~。卵焼きも美味しいよ、ボウちゃん」



「。。はい。。」



コウの呼びかけにかろうじて答え、沈みこむように机の上へ伏した。ルカは穏やかに笑い、リュウガはにやにやと笑っている。



「なんだいなんだい。泣きたいなら泣けばいいじゃないか。いいじゃないか、泣けば」



「もー、顔がにやけてる」



寛ぎスペースにあるこたつは堀こたつで、四角のこじんまりとした穴に足をぶらんと下げられるようになっていた。足を伸ばしたりブラブラさせたり。四角のぽかぽかとした温かさをみんなで楽しむことができる。それぞれの場所に四人が集まるとなんだかしっくりきて、より温かくなったようだ。



「こうして4人でこたつに入るのって初めてだね」



「だねー」



「そういえば、なぁ」



レイはいつも掃除をしていて一段落した時に昼御飯を食べていたし、この寛ぎスペースを使おうとはしなかった。それはレイなりのけじめというか、書籍部としての仕事をしていない負い目からゆったりと休むことを自分に許していなかったのではないか。ずっと心の中にあった自分への戒めとして、3人から距離を取っていたのではないか。机の上に伏してしまって顔を隠しているレイを見ながらルカはなんとなくそう思った。



顔を隠して伏していても、この寛ぎスペースで一緒にご飯を食べている。離れていたものがそばにやってきて同じ時間を過ごしている。やっと仲間が揃ったような居心地のいいものを感じて、ルカは最後に残った卵焼きを口の中へ勢いよく入れた。完食して綺麗になった皿を持ちやすいように一つに重ねる。



「ボウちゃん、寝ちゃったの?仕事はこれから始まるのに」



「。。。寝てません」



「だったら、起きなよー。せっかく一緒にいるのに、顔が見えないなんて、つまんないでしょ」



コウの声にレイはじわじわと顔を上げて机の上の朝御飯を見つめている。いつものようにブスッとした顔をしているが、その表情はどこか柔らかくレイのほっとした心地を表しているかのようだった。



「美味しいですか?」



「美味しいよ」



「俺、役に立ってますか?」



「ん?」



誰とも視線を合わせず独り言のように呟くレイは、じっと机の上を見つめながら少し冷たい声で言った。リュウガも完食したようで箸を置いて手を合わせている。コウは意味がわからないという顔で隣のレイを見た。



「どういうこと?」



「だって、俺、役に立たずだし。役に立たなかったら、ここにいちゃいけないんでしょ」



「なにそれ?」



レイはきゅっと唇を強く引き締め、悔しそうにまた下を向いた。レイの顔を追いかけるようにコウはレイの顔を覗き込む。やっと顔を上げたのに、下を向いて隠れてしまった。隠れたレイの顔をルカも残念そうに見守っている。



「それ、どういうこと?役に立つとか立たないとか。データ入力できないから?」



「。。。。」



「そりゃあ、まあ、仕事だし。できるに越したことはないけど、なぁ」



レイの言葉にリュウガはのんびりと答えた。空になって重なった皿をお盆に乗せながら、うーんと唸っている。レイのために何か優しい言葉を言ってあげたい。コウとルカがそれぞれ考え込む中、リュウガはゆっくりと口を開いた。



「何て言うか、やりたくないのに無理やりやってもらっても、嬉しくないぜ、俺は。上司としてはそれでも仕事をさせなきゃいけないんだろうけど」



「。。。。」



「そういう、自分の気持ちが整ってないのに、自分の心が違う方向を向いているのに、無理やり与えられた仕事をやらせようとしてもだな、結局心に反撃されるんだよ」



「。。。反撃。。。ですか?」



リュウガの話に興味を引かれたのかレイは顔を上げて真っ直ぐリュウガを見た。自分からの反撃とはどういうことだろう。レイの疑問にリュウガは上を向いて思ったままの言葉を口にした。



「うん。案外、心っていうのはわがままな奴でね。自分の思う通りにしてもらわないと、心のどこかで覚えていて、絶対反撃してくるのさ。取り繕っても、誤魔化しても、必ず返してくる」



「。。。。」




長年営業部でいろんな人と接してきて感じたことだ。頭の中に今まで会ってきた人たちの顔が浮かぶ。心というものは厄介で、他の誰かを騙せたとしてもちゃんと見抜いている。ちゃんと自分を見ている。リュウガは軽く息を吐いて何かを思い出すように口を開いた。



「どれだけ時間が経とうが、状況が変わろうが、こっちの都合なんてお構いなしに、ある時バーーーン!!とな。ぶちかましてくるんだよ。嘘つけ!お前、こう思ってるだろ!とか」



「。。。。」



「怖いぞ~~、レイ。心には嘘がつけないんだ。通用しないんだよ、自分の心には。自分のことは全部自分が知っているし、自分がしたことも全部知っている。自分の心に嘘をついて無理やり仕事をしてもだな、後で大きな荒波を起こしてくんの」



上を見ていた視線をレイに戻してリュウガは明るく笑っている。レイは何も言わず、じっとリュウガを見つめた。



「俺はね、そんな心の性質が好きなんだよ。わがままで自分の思い通りにならなかったら、すんごく怒ってどこまでも突きつけてくる心がさ。自分が自分に怒るっていうの?俺の心を大切にしろー!!って感じの」



「。。。。」



「だから、そんなに深刻にならず、今まで通り反発してくれていいんだぜ。レイにはレイの心があって、感情があって、想いがある。変に型にはめようとして、役に立とうとするなよ。お前の心をぞんざいに扱うな」



レイは驚いたように目を見開いて何度か瞬きをした。リュウガは目に鋭い光を宿して見つめている。強くて鋭い光なのになぜか温かい。気がつけばコウやルカもレイを見つめていた。



「お前の心は叫んでいるのさ。俺は納得してない。どうしてこうなったんだって。そして、仲間のために何かをしたいと願っている。それで十分だ。データ入力も、掃除も、自分自身へのけじめも。向き合っていれば、ちゃんと答えを見つけられる」



「。。。。」



「お前の仕事はここにある。ちゃんとあるから。そう心配すんなよ」



3人から見つめられ、レイはまた下を向いた。朝御飯を持っていって褒められた時の、気まずいような、寂しいような気持ちから下を向いたのではなく、何か優しいものを感じて下を見た。下を向いた視線の先にはこたつの温かいオレンジ色の光があって、寒い足元をじんわりと温かくしている。視界がゆらりと揺らいだが、気づかないふりをしてそのままにしておいた。



「ボウちゃんの仕事かー。どんな仕事なんだろう?楽しみだねー」



「いっぱいあるんだろうね。レイにしかできない、レイのことを待っている仕事」



コウとルカの明るい声が聞こえてくる。揺らいだ視界を誤魔化そうとしたのに、胸がじんわりと温かくて、レイはまた何度も瞬きを繰り返した。



顔を伏せてはいないものの、下を向いて動かないレイを穏やかに見つめてコウも朝御飯を食べ終えた。手を合わせて箸を置き、重ねた皿をお盆にのせる。作ってもらったお礼に今度は自分が片付けようと体を動かしたら、レイが勢いよく顔を上げる。素早くこたつから足を出し、隣にあったお盆に手を伸ばした。コウに取られないようにお盆を自分の元へと引き寄せた。



「ボウちゃん、いいよ。ゆっくりしててよ。僕が洗うから」



「。。。。」



機敏な動きで立ち上がったレイを下から見上げて、コウはレイの袖を引っ張った。強く引っ張って、行くなと言っているのに、譲りたくないのかレイは大きく顔を左右に振りじっとコウを見つめた。



「。。。そんなに洗いたいの?もー、無理すると疲れるんだよ」



「。。。。」



「しょうがないなぁー。ルカ、一緒にお願い」



よく見るとレイの目元が少し潤んでいて流れた後もある。あまり顔を見せたくないようで、こたつに座っているリュウガも、洗ってもらうかーとのんびり呟いている。無理をするレイも心配だが、引き留めるのも悪い気がして、せめて一緒にご飯を作ったルカにそばにいてもらおうと声をかけた。ルカは快く頷いて、もう一つのお盆を持ち上げる。



「行こっか、レイ。良かったね、喜んでもらえて。そうだ、デザートにコウの生チョコ出していい?」



「いいよー!一緒に食べよー」



ルカは穏やかに笑ってキッチンへと歩いていく。レイも大人しくその後を付いていった。イライラしていた今までの様子が嘘のようだ。動作や表情は変わっていないが、レイを纏う空気が柔らかで、ゆったりと落ち着いていた。



「良かったー、ボウちゃん、なんだか脱皮できて。安心したみたい」



キッチンへと歩いていく二人の背中を見送ってコウは嬉しそうに笑った。手持ちぶさたに足をブラブラさせて、二人がいなくなった足元の空間を確認する。思いっきり足を伸ばすと、その先にはリュウガの足があって、意味もなく攻撃してみた。リュウガはにんまりと笑って、良かったなぁと呟いている。



「ねぇ、知ってる?隊長、脱皮ってね、命懸けなんだよ」



「何!?」



「自分の殻を破れなかったら、そのまま死んじゃうの。ほら、蝶もそうでしょ?サナギになって、生まれ変われなかったら、そのまま死んじゃう」



コウは煎れてもらったお茶を一口飲んでゆっくり息を吐いた。リュウガも何とも言えない顔でお茶を飲んでいる。キッチンからルカの笑い声が聞こえてきて、なんだか楽しそうだ。レイが何かを乗り越えてくれて本当に良かった。温かいお茶を味わいながらコウは穏やかな笑みを浮かべた。



「生きるのって残酷だよね。変われなきゃそのまま死んじゃう、だなんて。せっかく進化しようとしたのにさ」



「。。。。」



「進化しなきゃ、生きられないかもしれないけど、変われなきゃ前に進めない。今までの自分の何かを捨てなきゃ、変われないのに」



お茶が入っている湯飲みを両手で包み込みながら静かに息を吐く。穏やかな瞳に、ほんのり悲しい色をのせて、残酷だよねと小さく呟いた。



「まるで、得たものを捨てろって言われてるみたいだよ。生きるために。生きるために何かを得て、生きるために何かを捨てる。結局、生きるって得たり失ったり、そんなものの繰り返しなんじゃないかと思うときがある」



「。。。。」



「生きれば生きるほど、何かを得て、何かを失う。得たものも、いつかは失う。ねぇ、隊長。僕たちは何のために生きてるんだろう」



「。。。。」



「何のために得て、何のために失うんだろうね」



手元のお茶から視線を外し、コウはぼんやりと前を見つめた。さっきまでルカが朝御飯を食べていたが、目の前の場所には誰もおらず、コウの視線を受け止めるものはない。リュウガにも答えを求めていないようで、沈黙にも気にすることなくボーッとしている。考え込むリュウガを見て、コウは少し力なく口元を上げた。



「ごめんね、隊長。変なこと言って」



「いいや」



コウの言葉に軽く答えるとリュウガは真剣な顔になった。何やら本気で考え込んでいるらしい。リュウガの真剣な顔は、それはそれで恐ろしくコウは体を少しずつ引きながらリュウガを見た。



「た、隊長。そんなに本気で考えないで。。!!なんか、嫌な予感がする。。!!!」



「。。。。」



空気が重い。リュウガの眉間にどんどん深いシワが刻み込まれていく。まるで周りのものがリュウガの眉間のシワに吸い込まれていくような錯覚を覚え、リュウガの瞬きもしない目は一点を見つめて動かない。見えないものがリュウガのそばを漂い、異様な空気を放っていた。



「た、隊長!!ちょっと!!何かしゃべってよ!!その空気、僕一人じゃあ太刀打ちできないよ!!!」



「。。。コウ。。。」



瞬きをしない目は怖い。力強く見開いた目もこれまた怖い。地獄の底から這い出てきた、そしてそこから深い暗闇へと引きずり込まれそうな低い声でコウの名前を呼んだ。隣でゆっくりと視線を合わせてくるリュウガをコウは恐る恐る横目で見た。



「本気で、真剣になって考えてみたが、わからん」



「。。。。」



「わからんぞ!!コウ!!世の中には難しい問題もあったもんだなぁ」



「ああ、そ、そう。。。」



短時間で抱え込んだものを一気に吐き出すのように、リュウガは大きなため息をついた。がっくりと首を下にして小さな声で、わからんわからんとぶつぶつ言いながら悔しそうな顔をしている。こたつの中で足をバタバタと激しく揺らし、心から悔しがっているようだ。そんなリュウガを見ていると、なんだか笑えてくる。コウは少し笑って、ごめんねと明るく呟いた。



「謝るなよ~~、コウ。俺はな、悩みを打ち明けてくれた気持ちが嬉しくて、本気で考えてみたんだぞ。力を尽くしたんだ!!なのに、俺の考える集中力が3秒しかもたなったんだよ!!!」



「うん」



「それでもだな!!俺はその3秒に命を懸けてみたんだ!!ほら、脱皮が命懸けって言ってたろ?だから、俺も命を懸けてみたんだよ!!そしたら、3秒しかもたなったんだよ!!!」



「うん」



言い訳などしたくないが、せめて自分の全力を知ってほしい。必死の形相で詰め寄るリュウガの言葉をコウは楽しそうに聞きながら受け取った。答えがわからなくてもこうして本気で受け止めてくれる人がいる。自分のわけのわからない変な気持ちも真剣に考えてくれる人がいる。頷きながらコウは幸せだなぁとのんびり思った。



「あ、待てよ、コウ。今回は3秒しかもたなったが、次はもっと集中できるかも。。。気が向いたら、さっきの話をまた聞かせてくれ。気分が乗った時でもいいぞ」



「えー。気が向く時と気分が乗った時ってどう違うの?それに、さっきの話、僕自身が忘れるかもー。だって、どうでも良くなっちゃったんだもん」



「何!?」



顔全体で、しまった!とショックを受けているリュウガを見ながらコウはまた楽しそうに笑った。もしまた悲しい気持ちがやってきて、意味のない感情が溢れてきたら。リュウガやルカに話してみよう。今度はレイにも打ち明けてみよう。



「チャンスは一度きりということか。。。」



「ふふふ」



心底悔しそうな顔をしているリュウガにコウは優しく微笑みかける。もしかしたらまた来るかもだよ。囁くように伝えるとリュウガが嬉しそうに顔をほころばせ、チャンスはくる!!と力強く目を輝かせた。



期待を込めた目でリュウガはワクワクとコウを見ている。コウが動くたびに今か今かと待っていて、楽しそうな顔をした。次こそは!リュウガの顔に気合いが満ち、コウから目を外さない。わかりやすい様子にコウが悲鳴を上げるように口を開いた。



「もう!そんなに早く悲しくならないよー」



「む。。。」



残念そうにリュウガは口をとがらせ、コウは呆れたような、優しい表情で見つめた。悲しくて寂しい気持ちは独特の不思議な空気に吹き飛んでしまったようだ。



「ほら、電話鳴ってるよ。出てあげて、隊長」



「なんだなんだ、誰だよーっと」



軽やかな優しいオルゴールの音が鳴り響き、リュウガのスマホが光っている。スマホをこたつの机に出すと、リュウガは渋々画面を見た。



「。。。。」



画面を見たリュウガが固まっている。恐る恐るスマホを触ろうとするが、急に手を引っ込めて困惑した顔でまた動かなくなった。コウは不思議そうに首を傾げて、リュウガのスマホを覗きこんだ。



「どうしたの?わ!すごく可愛い人だねー!」



そこには見知らぬ美しい金髪の女性が写っていた。肩まである艶やかな髪を緩やかにカールさせて穏やかにこちらを見ている。テレビ電話でかけてくるとは珍しい。しかも見たことのない美人だ。リュウガは今まで会った人たちの顔を必死に思い出し、画面先の美女と照らし合わせた。



「だ、だめだ。。。お、覚えてない。。。コウ、どうしよう!?これ、どうしよう!?」



「えー。。。」



鳴り続ける電話にたじろぎながらリュウガは助けを求めるようにコウを見た。呆れながらもコウは画面先の美女を見て、躊躇なくスマホをスライドさせた。



「おい!」



「こんにちはー、隊長の部下のコウです。よろしくー。。。あれ?」



じっと画面先の美女を見る。どこかで会った気がする。それも最近。とても身近でよく話したような懐かしさを感じた。注意深く画面を見つめていると、画面先の美女はふんわりと優しく笑い片手を上げて軽く手を振った。



「もしかして。。。アル?」



「何!?」



コウの声にさらに笑みを深くして画面先の美女はゆっくりと頷いた。ほんのりと化粧をしていたが、顔の形や目や眉は、言われてみれば元部下のアルに似ている。目を細める癖も軽く手を振る仕草も、朝礼の前に会った時と同じだった。



「お前、アルか~~!凄いな!全然わからなかったぞ!!」



「ふふふ。お疲れさまです」



画面先のアルはいつもと変わらず静かに頭を下げた。動作は同じなのに印象が全く違う。首もとを隠している繊細なスカーフがふわふわと女性らしく風に揺れている。



「依頼されていた女装ですが、僕もやってみました。どうでしょうか」



アルはスマホを傾けて全体の姿を写した。シンプルで綺麗なワンピースにキラキラ光る華奢なベルトがウエストラインを引き立てている。柔らかな色合いの可愛いコートを羽織り、上品なバックを肩から下げていた。



「いいぞ~~、アル!完璧だな!まあ、依頼主はもっと大柄で筋肉質だから、もう少しサイズは大きめになると思うけど」



「はい」



バックの中身もリュウガに見せる。綺麗なハンカチや可愛い化粧ポーチ。その中から自分の名刺入れを開けて一枚の名刺を取り出した。



「いろんなお店をこれから探してみますが、何かあったらこの番号に。新しく契約しました」



「おう」



さすがアルだ。何もかも徹底している。会社や個人のスマホをそのまま使っていたら、それが元で気づかれてしまうかもしれない。女装した状態で社員と出会うことだってあり得るし、目撃される可能性も高いだろう。女装した場合、どんな危険性があって、どうすれば対処できるのか。どうしても調べてほしくて、普段からよく変装をしているアルにやってほしいとお願いしていた。



ある役員からの依頼で、女装をしてみたいという要望があった。一見馬鹿げた依頼のように見えるが、聞いてみると中身はとても複雑で、相当悩んだ上での依頼だった。女装したい気持ちが変身願望からか、現実逃避がしたいからなのか全くわからない。それでも止められない衝動は堰を切ったかように役員の心に襲いかかり、ある時、無意識に妻の口紅をぬってショックを受けたらしい。



「このままでは、妻や家族の信頼を失ってしまう。止めようと思うのに、止められない。どうしたらいいんだ、リュウガくん」



役員の中でも重鎮のような存在で威厳のある役員だから、もし女装したいことがわかると大変なことになってしまう。女装に対して個人の趣味だと受け入れる意識も増えてきたが、まだまだ偏見もある。それに依頼主である役員は前社長の側近でもあったので、いまだに影響を持つ前社長への風当たりも強くなるかもしれない。



前社長である会長と若くして社長になった現社長は折り合いが悪く、しばしば対立することがあった。経営方針や会社内部のイベントなどでも考えが食い違い、お互いにピリピリしている。しかも会長側と社長側とで役員も二つに別れてしまい、どっちが主導権を取るか役員同士でも機会を伺っているらしい。



部下や担当している部署の失態はそのまま役員への失態となり、降格もある。依頼主の女装したい衝動が社長側に知られると大変なことになる。そのことも依頼主の心を苦しめていた。



「さすがに声と体格は変えられませんから、女装をするのは夜がいいですね。これから僕の声で、どこまで男だとバレないかやってみます」



「頼もしいな、おい」



「アル、可愛い~~」



では、後ほど。優しく目を細めながら短い返事をしてアルは通話を切った。リュウガは安心したように息を吐いてゆったりと足を伸ばす。コウもほっとしたように笑ってお茶を一口飲んだ。



「アルに頼んだんだー。いい選択だったね。でも、女装がしたいってどんな心の動きなんだろ?」



「うーん」



コウに聞かれてリュウガは依頼主であるニシムラ相談役を思い浮かべた。若い頃はラグビーで鍛えたという強靭な肉体とさっぱりした性格で面倒見もよい。部下を激しく叱るが、最後まで見捨てないことでも有名で、多くの新人が研修を受け様々な部署に配属されていった。



社会人としての基礎を叩き込まれた教え子たちはそれぞれ実績を積み重ねて各部署で会社を支えている。人を育てた功績と検証部の基礎を築いた実績から会長の側近として長い間畏れられてきた。そのニシムラ相談役が女装したいと知られれば、会社内で激震が走る。社長側の役員はここぞとばかりに追求してくるだろう。



「今はデリケートな時期だからな。聞いたか?社長の経営方針」



「うん。。。」



長年会社を支えてきた中堅の部長クラスを一掃して、若くてやり手の人材を昇格させようという動きが社長を中心に活発になっていた。実績を積んでいる営業部やたくさんの顧客を持つクレーム部の部長はそのままだろうが、あまり役に立つと思われていない検証部、開発部の部長は朝礼でもよく批判されリストラの対象になっているという噂だ。



「僕、嫌だよ。検証部の部長さん、優しいもん。なんか、安心して仕事ができるってリョウちゃんも言ってたし」



「あー、あの目つきの悪い。。。」



「検証部の部長さんがいろんなところに謝りに言って和ませてくれるから、自分たちはのびのびと仕事ができるんだって。細かい検証も、何かあったら困るのはお客様だから、とことんやれって言ってくれるし」



「そうだなぁ。検証部は、揃いも揃ってみんな荒いからな。どこの悪魔の巣窟だ?って毎回思うし」



資料を届けるたびにギラギラと睨む目つきの悪い集団を思いながらリュウガは唇を強く引き締めた。実際に目に見える結果を出していないが、部下からの信頼は厚い。そんな上司がリストラされれば、部下から大きな反発を食らうだろう。会社のためにやったことが、会社を傾かせることになるかもしれない。



「どうして女装がしたいのか、ニシムラ相談役に話を聞きたいところだが、ゆっくり話せる場所と時間がない」



「そのためのお店をアルに探してもらってるんだね」



コウにその通りだと頷いてリュウガは視線を下げた。何かを考える時のリュウガの癖だ。コウは両手で包み込んでいた湯飲みを見つめてそっと口を閉じた。10時を知らせる優しい音色が聞こえてきたのは、それからしばらくのことだった。



リュウガとコウが静かな時間を過ごしていると、洗い物を済ませたルカとレイが仲良く戻ってきた。それぞれの場所へ座り、二人を不思議そうに見つめている。コウが作った生チョコと新しいお茶が入った急須を机の上に置き、目だけでルカはコウに話しかける。



「(隊長、長考に入っちゃった。佳境みたい)」



「(じゃあ、俺とコウで今日のデータ入力しちゃう?)」



長年一緒に仕事をしていると、こんなことはよくあったし、顔を見ればなんとなく言いたいことが伝わってくる。生チョコを口の中へポイっと入れてルカは立ち上がり、自分の机へと歩いていった。コウも目だけでレイに生チョコを薦めるとこたつから出る。静かに一点を見つめるリュウガと共に取り残されるレイは不安げに見上げた。



「(隊長のそばにいてあげて、そうだ、生チョコを口の中に入れてよ)」



「!?」



気軽に頼まれたレイは思わず、どうやって!?と救いを求めるようにコウを見た。一緒に朝御飯を食べて和んでいたとは言え、今日まで散々反発して反抗してきたのだ。自分の中のどうしようもない激しい感情をぶつけたこともある。リュウガだって素直に指示を聞かない自分に刺すような目線を向けたこともあった。そんな上司が真剣な表情で考え事をしているのに、生チョコを食べさせる!?ハードルが高い。あまりにも無謀すぎる。



「(俺には無理です!!怖いです!!ほら、リュウガさん、瞬きしてないでしょ!!)」



「えー。。。」



コウは呆れた顔をしてレイを見ている。あれはいつものことなの!目や表情で感情や言葉が伝わってくるから不思議だ。レイは遠慮も忘れて無理だと必死に訴えた。今ならどうしてもできなかったデータ入力がいい。データ入力をしてみたい。わかりやすくパソコンを打つ動作をしてみたり、顔の前で激しく手を振ってみたりしたがコウの表情は変わらなかった。一応、レイの言いたいことは伝わったらしい。



「(もうー、ボウちゃんの意気地無し~~。隊長はそんなに怖くないから。ほら、生チョコ、食べさせて!脳みそくんが悲鳴をあげてるでしょ)」



「(いや、恐いです。リュウガさんの脳みそより、俺の脳みそが先にダウンします)」



必死の抵抗の甲斐あってか、ため息をつきながらコウはこたつに戻ってきた。机の上の生チョコを一つ取ると、真剣な顔で一点を見つめるリュウガの口をチョンチョンと生チョコで軽く叩く。全く動かないリュウガの唇に生チョコのココアパウダーが付いた。



「(こうやって食べさせるの。飲み物が欲しそうだったら、湯飲みで口をこじ開けて)」



「(なんつーことやってるんですか!?鋼鉄の鬼の顔に熱湯かけてるもんですよ!自ら針地獄の山にダイブして!こんな恐怖の体験、何の意味があるんですか?)」



「(もう!そうやって、すぐ答えを知ろうとする。修行だよ、ボウちゃん。人の心を慮る修行。ほら、隊長、わかりやすいし。練習にはピッタリだね)」



どこが!?コウは先輩で自分のことを優しく受け入れてくれたが、反抗せずにはいられない。コウの言っていることが全く理解できない。わたわたと目だけで会話していると、微動だにしなかったリュウガがゆっくりとレイの方を見た。視線に気づいた二人が何事かとリュウガの方を見る。



「レイ、生チョコが欲しい。さっき、口の前にあったはずなのに、口を開けたら、何もなかった」



「。。。。」



「それに、俺のことは隊長、と呼べ。リュウガさんなんて、よそよそしいし寂しい。テンションが下がる」



「あ、はい。。。」



真剣だった顔が悲しそうに歪んで口を大きく開けている。生チョコを一つ取って口の中へ入れると嬉しそうに笑った。



「悪かったなぁ、びっくりさせて。あともう少しでまとまりそうだ。今日はコウの指示に従ってくれ」



「よーし!じゃあ、ボウちゃん、指示出すよ。隊長のそばにいて話を聞くこと」



「え!?データ入力じゃないんですか!?さっきと状況変わってないじゃないですか!」



「気にしないー、気にしないー」



コウは楽しそうに手を軽く振ってさっさと自分の机に行ってしまった。朝礼前にヨシザワからもらった報告書を確認して、一部をルカヘ渡している。二人の様子をボーッと見ていると隣でリュウガが大きく背伸びをした。



「レーイ、今日は休め。お前、すんごく緊張した顔してる」



「え?」



新しいお茶が入った急須から自分の湯飲みとレイの湯飲みに注いで、まあ、飲めと薦めている。生チョコを一つ口の中に頬張るとお茶をゆっくり飲み干した。なんとなくレイも生チョコをもらってお茶を飲んでみる。いつも反抗していたのでリュウガとは向かい合っていた。今は隣通しで一緒にお茶を飲んでいる。不思議だ。会社でも家に帰っても散々人に反抗していた。久しく隣で人の存在を感じていなかったので、妙な違和感と共にどこか温かく、くすぐったい。レイは気づかれないように小さく体を動かした。



「そんな状態じゃあ、何にもできないぞ。やったって楽しくないし、疲れるだけだ」



「そんな、ってどんな状態なんですか?俺」



ムッとした顔で言い返してしまった。こういう反抗的な態度が失敗の元だとわかっていても素直になれない。人から何かを言われたら、反射的に反抗している。心がモヤモヤして落ち着かなくて、反抗せずにはいられない。収まっていた苛立ちが甦り、ダメだと頭では警告しているのにリュウガにぶつけてしまう。リュウガの反応が恐ろしく怖い。それでもどうしても素直になれなかった。リュウガは、うんといつものように頷いて生チョコをもう一つ口に含む。もぐもぐと動かしてお茶を静かに飲んだ。



「うまいなぁ。ほら、レイも食べて。なんだかレイって針鼠が、ムキー!!!っと針を突き立てて突進してくる感じがするんだよ」



「は、針鼠。。。」



コウからは伊勢海老だと言われ、リュウガからは針鼠だと言われる。自分はいったいどんな存在なんだといっそ二人に聞いてみたいくらいだ。感情をあまり悟られたくなくて無表情を装うが、リュウガは気にしていないようだった。



「うん、こう、俺は傷ついてるんだぜー!!文句あるか!!このやろう!!みたいな」



「。。。え?」



「可愛いなぁって撫でようとすると、また、ムキー!!!ってなって目を釣り上げる。だから、何でかなぁって話を聞きたい感じ」



どう答えればいいかわからず固まっているレイに生チョコをひょいと持ってくる。口元で食べろ食べろと主張するので、戸惑いながらも口を開けて生チョコを食べた。甘いものは優しい気持ちにさせるのだろうか。急に溢れてきた苛立ちが少しずつ静かになっていくのを感じた。



「もしかしたら、安心できなかったのかなぁって。ずっとどこにいても、否定され続けてきたのかなぁって。俺の想像だけど」



「。。。。」



「失敗してもいいんだけどさ。レイの場合、失敗とかそういう問題じゃないなと思うわけ。なんだか、心の根っこが落ち着いていない感じ」



不意を突かれたような不思議なざわめきがレイの心を揺さぶった。今まで感じたことのない、まるで硬い小石のような言葉に、心の奥の冷たい領域で小さな波紋が広がっていく。全く動かなかった奥の部分が微かな鼓動を刻むかのようにドクンと揺れた。



「いつも敵陣の、そうだなぁ、安心できない場所にいて、いつ自分を脅かすような攻撃がくるかわからないような、戦場のような所にいるのかなって」



リュウガは一呼吸置くように温かいお茶を飲む。レイも目の前の湯飲みを口元に持ってきてお茶を飲みたいが、大きい心の小波にどうしていいかわからない。聞きたくないのに、心のどこかでは最後まで聞きたいと思っている。感じたことのない二つの相反する感情がレイの心を襲った。



「どこにも安心して休めない。本当は休みたいのに、心底ゆったりできる時間がない。場所もない。みたいな。誰も信用できない。自分も信用できない、なんて辛いだろうなぁって」



リュウガはレイを見て、軽く頭をポンポンと叩いた。誰かに触れられるのは嫌なのに、リュウガから叩かれても何も感じない。頭を優しく叩かれるのが当たり前のような、しっくりくるような不思議な穏やかさを感じた。リュウガは言い聞かせるようにレイを静かに見つめている。



「だから仕事云々より、レイは休むことが大事だと思うのさ。イライラするのも、反抗するのも、ずっと否定され続けてきたからだと思う。心の根っこがさ、すごく疲れてるんだよ」



「。。リュウガさん。。」



「ちゃんと休まないと、いろんなものが壊れてしまうぞ。体とか、心とか。反発するうちは元気かもしれないけど、それもなぁ。一度壊れてしまったら、元気になるまで大変なんだから」



今度は優しく頭を撫でるとリュウガは笑って、うんとまた頷いた。レイは生チョコを口に含んだままじっとリュウガを見ている。



「だから、とりあえず、休め。安心できるまで好きなように過ごしてみろ。自分を信頼できないって辛いだろうからなぁ」



「。。。。」



「あ、それと、リュウガさんじゃなくて、隊長、ね。お前も書籍部の一員なんだから、自覚を持つように」



「。。。はい」



最後まで食べろ、と口を指差しリュウガはお茶を飲んだ。急須から注いでレイの分も注いでくれる。溢れんばかりのお茶を見てレイは思わず笑ってしまった。



「お茶、好きなんですか?」



「好きだよー。ほっこりするだろ?抹茶入りのお茶が好きだな。あと、こうして生チョコと一緒に口でコラボするのが」



「ははは!」



こんなに人と穏やかに話をして、心が安心するのはどれくらいぶりだろう。家にいても会社にいても、誰かがいると緊張してイライラしていた。どうせまた自分を否定するんだろうとビクビクしていた。自分の中で自然に溢れてきた感情をレイは静かに感じていた。



お茶を飲み干すとリュウガはまた一点を見つめて動かなくなった。静かになった姿を見てもそんなに怖くない。リュウガの癖なのだとわかったし、話してみると不思議と落ち着く。レイはコウから言われた通り、隣でリュウガの心を感じてみようと思った。どうすればいいかわからないが、とにかくそばにいようと心に決める。ほどよく湿気を含んだ地下の空気が心地よく、堀こたつの足元からじんわりと熱が伝わってきた。



「コウ。とりあえず終わったよ。次はどうする?」



「朝礼用の報告書、隊長に作ってもらわなきゃ。その前に、クレーム部へ渡す資料を探してくる」



カタカタとパソコンを打つ軽やかな音が止んだ。コウは椅子から立ち上がると、奥にある資料室へ消えていく。入力し終えた分を整え、ルカはリュウガの机の上に置いた。寛ぎスペースは4人の机の中央にあるので、二人の動きがよく見える。扉の向こうで掃除ばかりしていて、二人の働く姿をちゃんと見たことがなかった。



「すごいなぁ。。。」



自然とこぼれた声に慌てて口を閉じる。リュウガの邪魔をしたくないし、聞かれるのも恥ずかしい。気づかれないように隣を見れば何も変わらずリュウガは考え事をしていた。



「今日はさすがに少ない。。。みんな、休んでいるのかもね」



報告書を置いたルカは自分の机を簡単に片付けて、肩を回している。机の隣に敷いた布団を軽く整えて、こたつにいるレイに手を振った。



「レイ。俺、ちょっと仮眠するよ。その前にお風呂に入ってくる。外に行くけど、何か欲しいものはない?」



「お風呂?近くにある、スーパー銭湯ですか?」



レイの問いかけに優しく笑って頷いた。小宮シティはたくさんの高層ビルが立ち並ぶビジネス街にあり、飲食店や飲み屋も多いがホテルや旅館も多い。銭湯を一般解放している旅館もあり、様々なお風呂が楽しめる。ただし、営業時間があったり予約が必要だったり何かと入れない時もあった。ほんの1年前にオープンしたスーパー銭湯は24時間営業でいつでも入れる。家族連れや団体客が多くゆっくり休めないが、さっと体を洗いたい時にぴったりだった。



「本当はゆっくり入りたいんだけどね。夕方から今度は資料整理が始まるし」



「。。。。」



「ちょっと行ってくるよ。何もいらない?じゃあ、何か美味しいもの、買ってくるね」



小さなバックを手に持ってルカは扉を開けて行ってしまった。レイは何とも言えない顔でその姿を見送る。レイの住んでいるマンションは小宮シティからすぐ近くにあり、部屋には大きなゆったりとした湯船がある。ボタン一つで温かいお風呂が沸き、体の疲れをゆっくり癒すことができる。当たり前だと思っていたが、そうではないのだと顔面を叩かれたような気がした。



自分は恵まれている。人から何度となく言われたことだが、やっぱりそうなんだと悲しい気持ちになる。失敗しても何かと庇われ、責任を負ったことがない。自分が失敗すれば必ず父親が出てきて、あっという間に解決してしまう。小さい頃からそうだ。会社に入社して社会人になっても、周りはいつも父親の知り合いか部下ばかりで、異様に優しかった。



同世代や先輩たちの冷たい態度が嫌で、何度も失敗する自分が嫌で、わけもなくイライラしていた。自分の何がいけないんだろう。誰かにちゃんと叱ってほしかった。副社長の息子としてではなく、一人の人間として見てほしかった。



「あー、疲れた。もう、急に言うんだから。姉上、この資料でいい?」



奥の部屋から明るい声が聞こえてきて、レイははっと思考を変える。何冊かの分厚い資料を持ってコウがやってきた。スマホで資料の表紙を写すと、自分の顔の前に持ってきて画面先の人物と話している。一つ一つの資料を確認し、満足したように頷いて見せた。



「わかってるって!姉上の指示じゃないことくらい。もう、そんなにうるさいの?クレーム部長、どこ行ってるの」



少し苛立ったように自分の机に座り、真剣に話を聞いている。隣で動かなかったリュウガが急に顔を上げ、クレーム部長?と小さく呟いた。



「出張~~!?こんな時期に?あり得な~~い!!飲み会、どうするの?まさか、来ない気?」



コウはスマホを専用のケースに固定して資料の中身を確認している。時々スマホの方へ資料を向けると、またパラパラと捲りだした。その間も流暢に画面先の相手と話をしている。動かなかったリュウガが思いっきり体を伸ばし、こたつから足を出した。ゆっくりと立ち上がり、静かに動きながらコウの元へ近づいていく。あまりにもじわじわ動くので、レイは止めた方がいいのか迷ってしまった。



「えー。。。僕、クレーム部長に会いたかったのに。だって、姉上にメロメロでしょ?ちゃんと弟として言ってやらなきゃ、気がすまないんだもん。資料、これでいい?」



「ええ、コウちゃん。ありがとう」



じんわりと動くリュウガにレイもなんとなく付いていった。止めた方がいい気がするのに、リュウガの動きが予想以上に遅くて止めるのも忍びない。一生懸命這い上がってきた亀のような必死さを感じるのだ。コウのすぐ後ろにたどり着いているが、幸か不幸か、コウは気づいていない。



「どういたしまして。姉上の頼みなら、僕、がんばっちゃうよ。でもさぁ、どうなってるの?クレーム部。ちょっと、雰囲気変わってない?」



「まあ、そうねぇ。少し変かしら。でもね、コウちゃん、あなたの後ろも何か変よ。なんだか、この世に未練を残した顔の怖い鬼がコウちゃんに救いを求めてるみたい」



「またまたー!!」



まだ気づいていないコウは明るく笑って椅子の背もたれに勢いよく体を委ねた。その隣でリュウガはゆっくりとコウに顔をつける。にたーっと嬉しそうに笑うと画面先の美しい女性も、にたーっと笑いかけた。



「ギャーー!!」



「まあ!コウちゃん、大丈夫?あら、よく見たらリュウガじゃない。ごきげんよう」



「ごきげんよう」



コウを驚かすのに成功したが、画面の女性には効かなかったようだ。リュウガは残念そうな顔をしながら軽く頭を下げた。



「いつも、コウちゃんがお世話になって。そうだわ、リュウガ。飲み会には必ず来るのよ。あなたのために、最高級のシャンパンを用意したの。この間はたった10本目で倒れてしまって」



「。。。。」



「コウちゃんの上司たるもの、最低でも15本は湯水のように飲んでもらわないと。あれ以来全く飲み会に姿を現さないじゃない。そんなに忙しいの?」



リュウガはスマホの画面へ何とも言えない沈んだ顔をしてみせた。画面先の女性、コウの姉であるリンは大きなため息をして、情けないわと悲しげに囁いた。



「そんな状態で、いざとなったらコウちゃんを守れるの?コウちゃんだけじゃないわよ。あなたに預けたルカちゃんも。私の可愛い弟なのだから。いい?リュウガ。精進なさい。大丈夫よ、シャンパンなら30本用意したわ」



「。。。。」



「足りなかったかしら、じゃあ、50本に」



「隊長!!!」



スマホからそくささと逃げていくリュウガの首根っこを掴んで、コウはスマホの前に連れ戻す。眉をしかめた二つの顔にリュウガは、ごめんなさいと小さく呟いた。神妙な面持ちで二人の顔を見比べている。コウは悔しそうな腹立たしいような顔をしてじっとリュウガを見ている。画面上のリンが、嬉しそうに感嘆の声を上げた。



「まあ!コウちゃん、なんて勇ましいの。逞しくなったのね。嬉しいわ」



「姉上~~、隊長、いたずらしたんだよ。ちゃんと叱ってあげて!」



「ごめんなさい」



リンが何かを言う前にリュウガは素早く頭を下げた。コウは納得していないようで、まだリュウガの首根っこを掴んでいる。下を向いたリュウガにリンは、もういいのよ~と朗らかに笑っている。



「まあまあ、コウちゃん。それくらいにしてあげて。リュウガ。あなたから頼まれていたもの、パソコンに送っておいたわよ。あなたの言うようにクレーム部でも、ちょっとしたトラブルがあったの」



「え?」



コウは掴んでいた手をパッと放すと画面先のリンを見た。しおらしく下を向いていたリュウガが顔をあげ、話の先を促す。レイも後ろからスマホを覗きこんだ。



「クレーム部長が出張だなんて、おかしいと思っていたけど。お客様から頂いたクレーム、意見はすべて録音されているじゃない?」



「ああ」



「それが、ないのよ。いいえ、形だけはあるの。テープの表紙だけ見ればね。聞き直してみても、問題ないわ。でも、音を解析してみると、連続で録音されたものじゃないってわかる」



リンは小さくため息をついて、手が込んでいるわと眉をひそめた。音を解析した後で聞いてみると、かかってきた電話の声に似せて声を作り、あたかもその人物が話しているかのように録音されていた。奇妙なものを感じる。リンは顔をしかめながら先を続ける。



「あなたに頼まれていた、記録がないもの、録音し直されているものの日付と時間のリスト。そして、その日のクレームの総計リスト。なんだか、怖いわ、リュウガ」



「。。。。」



「これが何を示しているのか、知らない方がいいのね、きっと。お客様からのクレームを操作できるようになったら。考えただけでゾッとするわ」



リュウガはリンに軽く頷いて、ありがとうと優しく笑った。ほっとした様子でリンも笑っている。コウは軽く息を吐いて渋い顔をし持っていた資料を強く握りしめた。



「よくわからないけど、お願いね、リュウガ。きっと、書籍部しか頼めない。コウちゃん、ルカちゃんと一緒にがんばってね」



「うん」



リンは穏やかに笑うとテレビ電話を切った。リュウガもコウも厳しい顔をしている。レイは思いきって二人に声をかけ、コウが持っている資料を指差した。



「俺、その資料、クレーム部に届けましょうか?お二人とも、何かしなきゃいけないこと、できたんでしょ?」



「レイ。。。」



「別にいいですよ。俺、評判悪いですけど、書籍部の一員ですし。影口叩かれても気にならないんで」



「でもさぁ。。。」



レイの書籍部配属が決まってから、社内のあちこちでいろんな噂が立った。問題を起こして、ついに副社長から見放されただの、溜まりに溜まった社員たちの不満が爆発しただの、話は様々だった。それと同時にレイへの接し方も激しくなり、あからさまに冷たくされ、レイは他の部署へ行くことも拒否していた。



ただ会社に来て、なるべく人と会わないようにエレベーターで地下へ行き、書籍部の中でブスッとしているか、掃除をしているかだけだった。



「それに、今日から定時になっても帰りません。皆さんも残業するんでしょ?」



「そうだけど。。。」



「俺も残業します。役に立たないかもしれないけど、そばにいられればそれでいいんで。何かできることがあるかもじゃないですか」



心配そうに見つめるコウから乱暴に資料を取ってレイはリュウガを見た。リュウガから休めと言われたが、働いている姿を見ていると何かせずにはいられない。また心が傷ついて、感情をぶつけてしまうかもしれないが、それはそれでいいと言ってくれる気がする。じっとリュウガを見ると、リュウガは口元をきゅっと引き締め、軽く小刻みに頷いた。



「うん、やってみて。レイ。辛くなったら引き返していいから。人の反応なんて気にせず、資料を渡してきて」



「はい」



資料を運ぶだけ。簡単な仕事だが大切な仕事だ。今はこれが自分のできる仕事。手に取った資料を強く自身に引き寄せてレイは唇を強く噛みしめた。

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