第2話
小宮シティの朝は案外早い。営業時間は8時からだが、実際はその前から始まっている。会社全体の朝礼のため平日の午前7時を過ぎると、最上階へと続くエレベーターはいつも混雑していた。各部署の責任者及びリーダーのみ出席するはずが、わらわらとチームメンバーまでも我先にとエレベーターへ乗り込むからだ。出世を望む社員にとって、朝礼は自分の報告書を直接役員たちに手渡すチャンスでもあり、顔を覚えてもらう唯一の機会でもある。もうすぐ7時半になるエレベーター内では階ごとに止まり、知った顔がどんどん入ってきた。
「ああ、どうも。お早うございます。相変わらず早いですね」
「まあ、そういうあなただって」
大企業、小宮シティのメインエレベーターとなれば、内装は豪華で広さもかなりある。ざっと50人がひしめき合ってもビクともしない。次々と乗り込む人を乗せて大型の箱のように一気に押された階へと人々を運んでいく。
「そういえば、また営業部は利益の最高額を更新したそうですね」
いかにも数字に強そうな眼鏡をかけた男が愛想よく隣の男に話しかけた。一見穏和に見えるが、目の奥に宿る光が、一体どういうことなのだと目線の先の男に問いかけている。一瞬の揺らぎも見逃さないよう瞳の奥を探るように鋭く見据えた。
「ええ、それが、なんだか、いつの間にか、という感じなんですよ」
鋭利な刃物のような視線をやんわりと受け止め、少しぽっちゃりした中年の男が穏やかに答える。ちょっと惚けた感のある背の低い男は、運が良かったんですよねぇなどとぼやいている。隣にいた背の高い静かな男の方を見ながら、そうだよねぇと同意を求めた。
「はい、本当にいつの間にか。僕たちも目の前の仕事や、やってくる依頼ばかりに気をとられていましたから」
「うんうん。そうだよねぇ」
ぽっちゃり気味の男は満足そうに何度も頷いて、鋭い目をした眼鏡の男ににっこりと微笑む。眼鏡の男は、それ以上話しかけることもせず、エレベーターが示す数字に視線を移し、じっと見ていた。
40階以上は役員それぞれの個室や宿泊施設、社員用のリラックススペースや会議室ばかりになり、この時間帯には滅多に人が入ってこない。どんどん増えていくエレベーターの数字をぽっちゃりした男も静かな男も黙って見やった。
「いつか。。。俺も、ここで」
隣の男が呟いた無意識の声をぽっちゃりした男も静かな男も、何も言わず聞き流した。
◇
エレベーターが52階に到着すると数字の色がオレンジから青へと変わり、大きな扉が勢いよく開いた。内部にいた社員が早足で役員会議室へと続く廊下を歩いていく。重厚な赤絨毯が敷かれている廊下をたくさんの靴が踏み鳴らしていき、ふかふかに手入れされていた絨毯が悲惨にもぐったりと疲れているように見えた。
「やれやれ、毎日のことながら、骨が折れるよ。こう、敵意ばかりの視線じゃあねぇ」
「ははは。部長、上手くかわしていましたよ」
「ふふん、そう見えたかい?」
ぽっちゃりした男は嬉しそうに笑うと、会議室へと続く廊下の先を見る。肩がこったのか軽く腕を鳴らしてバタバタと手を振りながら、うんざりした顔をしてため息をついた。
「見てごらん、アル。まるで兵隊だね。ギラギラさせて、神経をとがらせて。戦争にでも行くみたいじゃないか」
「。。。。」
「ここには、敵なんていないはずだよ。みんな同じ会社で働いている仲間のはずだよ。それなのにさぁ、なんだい、あれは」
「そうですね」
静かな男、アルも上司の目線の先を見てやんわりと口元を緩めた。いつものことながら、この朝礼は独特だ。出世に興味はないが、いつか自分もああなってしまうのかな、と目を細めながら小さくなっていくたくさんの背中を見つめた。
「会社ってのは、人を幸せにするためにあると思うんだがね。働いている仲間が幸せにならないで、どうやってお客さんを幸せにするんだい。言わば、仲間は家族だよ、家族」
「はい」
「それなのにさぁ。あんなに殺気立たれたんじゃあ、テンションも何もないよ。ああ
早く、私の可愛い部下がいる営業部に帰りたい」
「ふふふ」
自分たちもこの赤い廊下を歩いていこうとすると、ぽっちゃりした男が、待ってとアルを呼び止めた。
「そうだ、アル。あいつらと一緒に行こう。ほら、書籍部の。あのどぎつい二人なら、たくさんの敵意を一掃してくれるよ」
「。。。ああ。。」
時々会う同期の社員と個性的なその上司を思い浮かべて、アルはふわっと優しく笑った。書籍部のことをほとんどの社員は役立たずと陰口をたたくが、当の本人たちに向かって直接言えるほど度胸のある者は少ない。同期の社員、コウはなぜか何でも知っているし、その上司であるリュウガは凄まじい殺気に満ち溢れている。その上、リュウガを取り巻く人間たちがまた恐ろしい。
個性は個性を呼ぶのだろうか。協調性はないものの、一人一人特異な才能を持ち、それぞれの分野で成果を上げている。
「もう、そろそろ来るんじゃないか?全く、のんびりしてるというか、何と言うか」
「ははは」
一度52階に着いたエレベーターが静かに閉まり、数字が一気に1へと向かって下がっていく。営業部としても陰ながら支えてもらっている書籍部にはお礼も兼ねて挨拶したい。腕時計を見ながらゆったりしている上司をアルは穏やかに見つめた。
◇
エレベーターが1階に到着する。大きな扉が開き、報告書を持った二人を出迎える。優雅にスルメを味わって満足したリュウガとスーツを窮屈そうに着ているコウは開いたエレベーターに乗ると、52のボタンを押しておとなしく扉が閉まるのを見届けた。
「ラッキー!誰もいない。ほらね、隊長。月始めの朝礼は、7時30分ごろに行くのが穴場だよ」
「ほうほう」
得意気に腕を伸ばすコウにリュウガはうんうんと頷きながら、エレベーター内部を見回す。金色の豪華なデザインを見ながら、これもいいなぁと一人にんまりと笑っている。
「なぁ、コウ。新しく本棚を買おうと思うんだが、これといった物に出会えないんだよ。金ぴかの豪華な本棚なんて、どうだ?」
「えー。。。」
リュウガに薦められて、周りを見回しながらコウが渋い声を上げた。長年一緒に働いているが、上司の趣味が全くわからない。もうすぐ資料整理もやらなければならないので、本棚は欲しいが、もう少しナチュラルなデザインがいい。
「隊長、今度みんなで本棚を見に行こうよー。それで、多数決を取るの。そしたら、きっと良いものに出会えるんじゃない?」
自分はともかく、ルカの趣味はいい。ルカやレイも巻き込んでリュウガの暴走を止めなければ。エレベーター内部をしげしげと見つめるリュウガを見ながら朝礼が終わったら相談してみようとコウは一人深く頷いた。
豪華な内装に似合わずメインエレベーターは迅速だ。楽しげに見つめるリュウガと誰もいない空間を楽しむコウを乗せて、どんどん加速しながら上の階へと昇っていく。微動だにしない内部でエレベーターの数字が凄まじい早さで増えていき、やがてゆっくりと止まった。
「7時40分♪これならスコーンと報告書を渡せるよー。なんせ、役員の誰かがいつも話しかけてくるからね」
「助かるわ~~」
個性的なリュウガと情報通のコウは秘かに役員たちから重宝されている。特にレイの父親である重役は、副社長としての地位もありながら息子の面倒をリュウガに任せた。経緯などいろいろ複雑な事情があるらしいが、最も信頼できるのはリュウガだと、あまり評価されない書籍部へ移動させたのもそこにある。具体的な理由はレイ自身にも知らされておらず、リュウガと重役だけの秘密として伏せられていた。
毎日の朝礼に二人が出れば何かと役員たちが寄ってきて、レイの様子や他の役員の情報など、いろんな角度から探ってくるのだ。もちろん、役員本人の問題も相談されることが多く、リュウガもコウも聞き役として対応しているが、たまに本気で依頼されることもあった。
書籍部の存在は、一般の社員にとって役立たずでも、役員にとっては頼りになる最後の砦となっていた。
「不思議だよねー、こんなに社会的地位もあって、家族にも恵まれて、順風満帆そうに見えるのにさー」
「本人の心は荒れてるってやつか?」
「うん」
コウは長年リュウガと共に書籍部の表の仕事であるデータ入力と、いつの間にか増えていった役員たちからの依頼をこなすなかで、ずっと疑問に思っていたことをリュウガに打ち明けた。元々、営業部の仕事だったデータ入力の仕事は、規模が大きくなるにつれ営業部だけでは処理できなくなり、リュウガとコウの独立という形で別の部署になった。
書籍部の名付けの理由は、単純にリュウガが、営業部の報告書を作っている最中に、
「これ、書籍にできたら、すんごく楽だわ」
と言ったことに始まる。それを聞いていた現在の営業部長が、いいね~~!と太鼓判を押し、そのまま書籍部という部署に決まった。
「個室もあって、お金もあって。仕事だって信頼だってある。なのにさー、なんで安心できないんだろうね」
「うーん」
「贅沢だって言ってしまえばそれまでだけど、僕、贅沢大好きだから。贅沢や家族の幸せのために、何かを犠牲にするのってよくわかんない」
役員たちからの依頼は様々で、今でもいろいろと案件を抱えている。周りが自分をどう思っているか調べてほしい、など軽めのものから、生き別れた隠し子のことが知りたい、などなかなかヘビーなものもたくさんあった。
心から大好きだった恋人との別れを選び、当時役員だった上司の娘と結婚して、そのことを後悔している、だの、妻には言えないがどうしても女装をしてみたい、欲望に抗えない、だの、話を聞くと普通の精神では対応できないものばかりだった。
「役員さんの相談を聞いてるとさー、幸せってなんだろう?って思うよ。自分の大好きなものを諦めて、役員になった今でもいろいろと我慢してるじゃない?」
「おう」
「やっと役員になるっていう夢が叶ったのに、全然楽しそうじゃないもの。自分で選んだはずなのに、心は後悔ばかりしている」
コウの素直な疑問にリュウガも渋い顔でうーんと唸った。確かにそうだ。自分の好きなものを捨てたとしても、ずっとなりたかった役員になり、本人が心から幸せならそれで構わない。でも依頼を聞いているとそうではない気がする。なぜか、とても苦しそうなのだ。
「夢を叶えるってなんだろう。。。それでも、一般の社員さんはほとんどの人が役員を目指しているんだよねー」
「。。。ああ」
「でも、実際はさー。役員さんって幸せそうに見えないよ。あ、本人のこと、何も知らなかったら幸せそうに見えるんだけどさー」
「うんうん」
コウの嘆きにも似た呟きにリュウガはエレベーターの内装を見るのを止めて熱心に聞き入った。ちょうど解決したことを報告がてら、今日は報告書の中に別の報告書を忍ばせている。これで依頼した役員が幸せになってくれるといいなと願いながらリュウガは口を開いた。
「まあ、俺たちができることはこうして動いて、解決して、また地下に帰ることなんだけどな」
「うん、地下大好きー」
「ははは!理想としては、その問題に本人が向き合って、結果的に解決できればいいんだけど。例えば、この依頼。大好きだった恋人の安否を知りたいだなんて。自分自身が一番調べたいだろうに」
「うん」
昔から個性的で友達や知り合いは多いが、深く人を愛したことがないリュウガは、特定の人に愛を注げる人をとても尊敬していた。コウもコウで、欲しいものは何でも手に入った環境で自分の興味と心を深く満たしてくれるものは少ない。リュウガと共に役員の依頼を受けて、人が叶えなれなかった想いを代わりに追い求めることで、その依頼から何か、かけがえのないものをもらっているような気がする。
「今回の依頼も無事終わったし。喜んでもらえるといいなぁ」
「そうだねー、隊長♪」
まだ調査中の案件は残っているものの、長い間気がかりだった恋人の行方と現在の状況はわかった。できるだけ正確に書いた報告書が、依頼主の心を明るくしてくれるといい。データ入力後の報告書を軽く持ち替えて二人は大きなエレベーターの扉が開くのを待った。
メインエレベーターの重厚で豪華な扉が音を立てて開いた。いつものようにエレベーターの数字が青へと変わっている。着いたとばかりに一呼吸置いて、二人はエレベーターから降りた。残っているいくつもの足跡を踏みしめて、赤い絨毯が導く道をゆっくりと歩いていく。先に行こうとすると見知った小柄な男と背の高い男が二人を見て楽しげに笑った。
「アルーーー!!」
「うん」
「と、ぽっちゃり部長♪」
「。。。こら!ぽっちゃりとはなんだ、ぽっちゃりとは」
両手を左右に振って同期の社員、アルを歓迎した後、横を向いて営業部長、ヨシザワに軽く挨拶した。アルは優しげに軽く手を振って応え、ヨシザワは渋い顔で言い返す。相変わらずだな、と昔の部下を優しく見上げた。
「ご無沙汰しております」
「いや、毎日会ってるから」
隠れるようにコウの後ろに立っていたリュウガがのんびりと姿を現し、丁寧に頭を下げた。ヨシザワは半ば呆れるように返して、変わっとらんなぁとしみじみ呟く。アルも静かに頭を下げて目を細めている。
「いやはや、立派ですね、部長。そのお腹。軽く100センチはありますよ」
「最近、ダイエットしてるんだよね、ぽっちゃり部長。営業部のお姉さんたちが噂してた」
さすがに情報が早いなと感心したように頷いて見せると、コウは楽しげに笑った。朝礼の時間が迫っているので、ミヤザワは先を急ごうと通路の先を指差す。毎日顔を合わせているのに、こういった世間話をする時間があまりとれない。同じ時間、同じ場所にいる割にはゆっくり話す機会がないな、と少し残念に思った。
「しょうがないよ、だって、いろいろと他に用事ができるんだから」
「そうですよ、部長。まあ、こうして話せる時間ができたことを喜びましょう」
二人にはヨシザワの言いたいことがわかるらしい。にっこりと胡散臭そうな笑顔をしてこちらを見ている。確かに今は話せるけれど、それもあと少しで終わるじゃないか。ヨシザワは納得いかない顔をしながら、同意を求めるように後ろから付いてくるアルを見上げた。
「相談したいことがあったんだよ。ああ
、アル。あれを。そうだ、これだ。これを直接渡したくてね」
アルから手渡された茶色の封筒をリュウガの持っている書類の近くへ素早く移動させる。封筒の中身を知っているアルは少しだけ目をリュウガの方へ動かしたが、すぐに視線を下に向けた。コウは不思議そうに首を傾げている。
「依頼ですか」
「依頼だな」
書類を持ち直すようにして封筒を受け取ると、リュウガは何事もなかったかのように前を向いて歩いた。気になったコウがアルに視線を送ると、それに気づいたアルは何も言わずじっと見つめ返した。
「すまんなぁ、いろいろと」
何も言わないアルの視線に、コウは軽く頷く。リュウガのように前を向いて普段通りの横顔に戻った。ヨシザワの少し掠れた声が二人の耳に飛び込んでくる。これは、少しだけ、厄介だ。
「疑うのは、信じることだと思いますよ」
暗い顔をしたヨシザワに、リュウガはいつもの調子で口を開く。部下想いのヨシザワには酷だと、なんだか悲しい気持ちになって気休めだと思いながらも声をかけた。情にもろい人ほど非道にはなれない。何とか人を救いたいともがきながら、良いように利用されてじわじわと暗闇に沈んでいく。そんな優しい心を持った人たちを見てきた。
こんな卑怯な案件には心の冷たい自分のような者が適任だ。長い通路を抜けてゆっくりと近づいてくる会議室のドアを見ながら、受け取った茶色の封筒を握りしめる。なかなかのんびりした時間はやってきてくれないようだ。
「そっかー。だから、ダイエットしてたんだね。顔色も悪いし」
明るく朗らかなコウの声が会議室のドアの前でじんわりと響き渡った。
?
朝8時になり社内のあちこちからお馴染みの音楽が流れた。小宮シティのイメージアップのために作られた歌が美しい最新のスピーカーからこれでもか、というほど溢れだしている。歌に沿って軽く口ずさみながら、集まった社員たちは中央の大きなステージに注目した。社員たちよりも高い位置にあるステージには、就任して5年目になる現社長と副社長、補佐役の役員たちがずらりと並んでいる。
「3月2日の朝礼です。皆さん、おはようございます」
「おはようございます」
まるで学校の行事のように社長と社員たちは挨拶をした。皆、それぞれお目当ての役員の顔色を気にしながら社長の話に耳を傾けた。
「クレーム部からちょっと気になる報告がありました。引き渡した商品に欠陥があり、お客様が指を切られたとか。検証部、どうなっているんですか?」
社長は心外とばかりに眉をひそめて、集まった社員の中から検証部長を探している。呼ばれた検証部長はオロオロとした顔で社長からの強い視線を受け止めて、どうしようかと慌て出した。
「あ、えーと、それはですね。その。。あの、大事には至らなかったというか」
しどろもどろに説明するも、あまり要領を得ない。弱々しい態度が社長の苛立ちを逆撫でして、だんだん険悪な雰囲気になり始めた。社長は怒りを露にして検証部長に、ちゃんと説明してくださいと追い討ちをかけていく。穏やかな空気が攻撃的になっていく中、目の鋭い男が隣にいた困り顔の検証部長をやんわりと見つめて、一歩だけ前に出た。
朝礼に集まった社員や役員たちの視線が前に出た男に集中し、異様な空気となる。一斉に注目を浴びる男は平然とたくさんの視線を受け止め、ステージにいる社長を真っ直ぐ見据えた。
「確かにお客様は指を怪我されましたが、検証したところ、実際には、お客様の不注意でした。詳しい内容は先ほど提出した報告書に記載してありますよ」
「え?」
社員を見下ろせるような高い位置にいる社長は慌てたように役員たちに目を向けた。一部の役員が困惑した顔で受け取った報告書をバサバサとならし特定の報告書を探している。社長の元に検証部からの報告書が渡る前に雰囲気に飲まれた社長が、もういいですと片手で制した。
「間違いありませんね」
「はい」
目の鋭い男は抑揚のない声で応え、少し後ろで脂汗をかいている検証部長の隣、元々いた場所へと一歩下がる。自分に集まった視線を一つ一つ見つめながら、どうもすいませんねと返し、ふてぶてしそうな顔でニヤリと笑った。
「じ、じゃあ、今日の業務連絡を。会社全体の飲み会ですが、来週の日曜日に決まりました。場所は後ほど回覧します。必ず、出席するように」
「はい」
気を取り直した社長が力強い声で呼び掛けると、集まった社員たちは呼吸を合わせたかのように応える。どこかほっとした顔をして社長は進行係の役員に目配せをした。部署ごとに回ってくる一分間スピーチが終わった後、9時くらいまで雑談、報告の時間になる。昔の恋人の行方を依頼した役員の姿をリュウガとコウはきょろきょろと周りを見渡しながら探した。
部署から部署へ当番のように回ってくる一分間スピーチ。今日は営業部だったようで、営業部長のヨシザワがステージへと上がってマイクの前に立った。まだ役員に提出していない報告書を片手に、のほほんとした顔をして集まった社員を見ている。一度深々と頭を下げ、自分よりも高い位置にあるマイクを何とか下げようと試みた。
「あ、ちょっと、全く。社長、背が高いですね。ほら、マイクが合いません。なんと羨ましい。。。」
ヨシザワの心底羨ましそうなぼやきがマイクによって大きく響いている。先ほどの検証部への責めるような雰囲気が少しだけ揺ぎ柔らかくなる。ピリピリしていた社員たちは、思わずといった様子で口元が緩み、場の空気もほんのり和んでいく。高い位置にあったマイクをようやく下げてヨシザワは満足したように穏やかな笑顔を見せた。
「本日の一分間スピーチ。この時間は、私たちからの感謝と懺悔の時間にさせてください。皆さんもご存知の通り、営業部は本年度で最高の利益高を更新しました」
ヨシザワがそう告げてマイクから一歩下がり深々と頭を下げる。社員たちからパラパラと小さな拍手が広がり、段々と大きな拍手になっていった。社長や役員たちも祝福の拍手を送っている。
「ああ、ありがとうございます。我々も力を尽くし、お客様にも喜んでもらえ、こうして皆さんから祝福を頂き、こんなに幸せなことはありません」
ヨシザワは大きな拍手に何度も頷いて、ありがとうございますと繰り返した。ヨシザワがマイクの前に立ち話そうとすると、次第に拍手が小さくなっていく。ヨシザワはマイクを通してまた、ありがとうと小さく呟いた。
「それで、私たち営業部は思ったのです。本年度、何があったのか。どういう気持ちで営業という仕事をやったのか。包み隠さず、ありのままお伝えしなくてはならないと。ほら、皆さんには、いつも私たちの我が儘や無理を通してもらってますからね」
楽しげに笑うヨシザワに何人かの社員は含み笑いをしている。みんな心当たりがあるらしい。しばらく目を細めていたヨシザワが何かを決意したようにゆっくりと口を開いた。
「私たち営業部は、ずっと。。。結果ばかり気にしてきました。いや、もちろん、結果を意識して仕事するのは、悪いことではありません。営業部の成績がそのまま会社の利益になりますし、結果を出すことがすべてだと言われても仕方ありません」
ヨシザワは一呼吸置きながら自分を見上げる社員の顔を見渡した。この一人一人にはそれぞれ生きてきた時間があり、人との関わりがあり、夢や希望、挫折や苦しみ悲しみがある。その人にしか知らない経験や想いや見ることができる景色がある。それはとてもかけがえのないものではないか。
「ですが、今回は結果というものを捨ててみたのです。皆さんがそれぞれの部署で会社を支え、営業部をサポートし、最高の営業成績を期待してくださった。だけども、私たちは結果というものを捨てた。全く意識せず、もう一度お客様と向き合い、真剣に営業とは何かを考えました」
ヨシザワは軽く息を吐き、昔を思い出すような目をして遠くを見た。ここにいる社員たちと同じくお客様にもそれぞれ生きてきた時間がある。売り上げを気にして自分たちの商品を売るだけでは、なんだか味気ない。もっと幸せにしたい。もっと笑顔にしたい。生きている人たちに自分たちができることはなんだろうか。
「人に物を売る、紹介するとはどういうことか。営業部のメンバー一人一人が考え、悩み、探し続けました。そういえば、ちょうど半年前、営業部の利益が昨年度を大幅に下回り、皆さんにはとても大きな不安と恐怖を与えてしまいましたね」
申し訳なかったと穏やかな顔をして社員一人一人を見つめる。じっと見つめ返す者、気まずそうに視線を外す者、反応は様々だ。報告書を渡すため特定の役員を探していたリュウガとコウもマイクの上に立つヨシザワを見つめた。
「あれは本当に酷かった。今だから言えるのですが、あの時、大きなお得意様と衝突し、関係を絶たれたのです。それも一件ではなく十数件。金額が大きいだけに多大な損失でした。結果にこだわらないと決めたはずなのに、営業部の中でも大きな溝ができてしまいました」
半年前、会社の花形だと言われいろんなところで優遇されていた営業部だが、成績が大幅に落ちたことを理由に他の部署からの風当たりも強くなっていった。優先的に処理されていた検証やクレームからの情報も滞っていき、会社内でも孤立しているような状態になっていった。成績が落ちても変わらず協力してくれる一部の部長、社員のおかげでなんとか危機を乗り越え、売り上げを上げていき、徐々に目標をクリアしていった。自分たちがいかに優遇されていたか、身をもって知ることができた。
「何人かのメンバーも営業部を去っていきました。引き抜きなど、他の会社に転職して。ある会社のプレゼンでは、ばったり会うこともありましたよ。昔の営業部メンバーとプレゼンで勝負するとは思いませんでしたが。。。」
ヨシザワは悲しそうに目を細めると、小さなため息をついて下を向いた。社員たちもヨシザワの悲しそうな雰囲気にしんみりとしている。
「ああ、ごめんなさい。。。それで、なんと言いますか。何度もプレゼンに負けて、大きな損失に繋がったんです。あの結果はそういうことだったんですよ。営業部のメンバーが転職した理由も。。。」
気を取り直したように明るく話し始めるヨシザワをリュウガとコウは黙って見つめた。半年前、急に少なくなった報告書を何も言わずデータ化したが、ヨシザワはいつもと変わらず優しい目で、ありがとうと言っていた。
「私たち営業部がどれだけ仕事をサボっていたか、思い知らされましたよ。自分の利益だけを優先に考えていた。自分たちさえ良ければそれでいいと思っていた。売り上げの成績さえ上げればいい。営業部独特の風潮がその証です」
ヨシザワは何かを吹っ切るように視線を上げ、会議室の天井を見上げた。社員たちは静かに聞いている。上を向いてぱちぱちと瞬きをした後、集まっている社員たちをまたゆっくりと見渡した。
「皆さんのおかげです。本年度の利益は、皆さんと共にお客様から頂いた、素晴らしい結果です。去っていったメンバーからの、大きな損失からのプレゼントだと、私は勝手に思っています」
ヨシザワはそう告げると、本年度の利益高である数字が書かれた報告書を高々と上げる。この数字にすべてが込められているのだと指を差した。
「私たち営業部は、自分さえ良ければいい、という暗黙の意識をすべて捨てて、これからはお客様の幸せのために、喜びのために営業していきます。お客様の喜びが、幸せが、私たち営業部の喜びであり、幸せだと教えて頂いたので」
報告書を下ろし、もう一度社員一人一人を見ながらヨシザワは穏やかに笑う。
「いろいろとまた不安や心配、迷惑をかけると思いますが、どうか、これからも一緒に働いてください。支えてください。助けてください。そして、何かあったら、営業部に相談に来てください。どうか、よろしくお願いします」
ヨシザワが言い終わり、深く丁寧に頭を下げた後で、役員の手元にあったタイマーが軽やかに鳴り響く。スピーチの一分間がちょうど終わったようだ。
?
スピーチが終わって会議室はざわざわと動き出した。ヨシザワの熱のこもったスピーチに心を奪われた社員たちはしばらく呆然としていたが、役員たちがステージから降りて帰ろうとする姿を見て慌てて体を動かした。リュウガとコウも依頼した役員が他の社員と話す前に報告書を渡すべく、社員と社員の間をすり抜ける。スピーチ中に探していた役員がステージの裏へと歩く姿を見つけて素早く移動した。
舞台裏のような扉を開けると、小さなランプが灯っていてぼんやりと人影が見える。昼間の明るい光も、内側の壁に遮られて部屋の中は薄暗い。
「ナカシマ相談役、ここにいらっしゃいたしたか」
他の社員たちから見つからないようにリュウガもコウも静かに部屋へと入ってくる。入り口を閉めてコウは扉を背にゆっくりともたれ掛かった。ここから先はリュウガとナカシマの時間だ。リュウガからの合図が来るまでコウは耳にイヤホンをつけてスマホをいじる。耳から音楽が流れ、何も聞こえないことを目で知らせると、リュウガは軽く頷き、持ってきた報告書をナカシマの前に差し出した。
「。。。見つかったのかね?」
「まあ。。。その、見ていただければ」
目の前の報告書をじっと見つめる。なかなか受け取らないナカシマの顔は、部屋が薄暗いためよく見えない。何も言わず動かないナカシマを見守りながら、リュウガは次の言葉が放たれるのを静かに待っていた。
人はよく忘れ物をする。リュウガも小さい頃はよく忘れ物をした。大切だったはずのオモチャはどこかへ消えていったし、もらったはずのお菓子もどこかへ置いてきてしまった。物にも人にも執着しない質だから悲しいと感じた記憶はない。物も、人も、いつかはここを去っていく。別れがくるとわかっているのに、出会う意味などあるのだろうか。
何かを躊躇うようなナカシマはなかなか報告書を受け取らない。リュウガはナカシマの答えを静かに待つつもりだったが、依頼を受けた時に決めた約束がある。他の依頼も同様だが、この報告書は依頼主に差し出してから、10分後に破って燃やすことが決まっていた。人の大切な想いは知られない方が良いこともたくさんある。誰かに打ち明けるか、このままなかったことにするのか、決めるのは本人だ。自分たちは依頼主の代行でしかない。
依頼を受け、調べ、報告する。依頼された問いかけに自分たちは全力を持って応え、報告書にすべてを込める。それをどうするかは、依頼主の自由だ。
手元の時計がゆっくりと秒を刻み、変わらない一定の速さで時間が過ぎていく。どんな状態も、時間というものは平等に、優しく過ぎていく。報告書から視線を腕時計に移して、リュウガが無意識に報告書を下げた時だった。
「!!」
何処からか強い風が吹いて報告書がふわりと舞い上がる。ポカンとした顔で見上げるリュウガとは対照的に、ナカシマは必死になって風に飛ばされていく報告書を掴もうとした。窓が空いていたのか?こんな舞台裏で。音楽を聞いていたコウも驚いた表情をしてすぐさま風が吹いてきた方向へ走っていく。どこかに穴が開いていて誰かに聞かれでもしたら大変だ。
「うわぁ。。見事に舞ってますねぇ。。風に舞う報告書なんて、初めて見ましたよ。漫画みたいだ」
「そんな悠長なことを言ってないで、君もなんとかしたまえ!遠くへ行ってしまうじゃないか!」
風にのって左右に大きく揺れながら報告書は下へと降りてくる。強かった風が少しずつ弱くなった気がした。ゆらりと方向を変えて報告書はリュウガの元にやってきた。
「あ、また戻ってきました。面白いですね、相談役。報告書にも意志があるんですよ、やっぱり」
「何がやっぱりだ!!!」
にんまり笑うリュウガから勢いよく報告書を取り上げてナカシマは恨めしそうな顔をする。悪気など全くなさそうな顔でリュウガはまだニヤニヤと笑っていた。
「受け取りましたね、ナカシマ相談役。んじゃ、あと10分、延長です」
「。。。。」
リュウガのにやけた顔は止まらない。風が吹いてきた方向へ走っていったコウは妙に疲れた顔をして帰って来た。呆れたようにリュウガを睨むとまた耳にイヤホンをつける。心配したんだからね。口でそう訴え、部屋の入り口へと戻っていった。
「君って人は。。。全く。役員相手でも、容赦せんのだな」
「恐縮です」
力の抜けたナカシマの声に、リュウガは満足そうな顔をして深々と頭を下げた。
報告書がふわりと舞い上がった時、もう自分のところには戻ってこないような気がした。がむしゃらに働いて、いつの間にかいなくなってしまった彼女のように。いつでもそばにいたはずの温もりが、差し出してくれていた手が、グズグスと悩む自分に嫌気がさして、広い大きな世界へと消えていってしまったかようだ。
彼女と会ったのは、いつだろう。この小宮シティに就職して、2.3年経った頃だったろうか。
受け取った報告書をじっと見つめながら、ナカシマはゆっくりと表紙のページをめくった。
?
静かに時が流れていく。1ページずつ惜しむようにめくりながらナカシマは最後のページを閉じた。報告書に書かれていた文章から、愛しい恋人の姿が目に浮かぶ。優しく微笑んでいた彼女は、もう本当に去ってしまったのだ。
ナカシマは報告書を見つめると目を閉じて大きなため息をついた。安堵なのか、後悔なのか。自分でもよくわからないが、少なくともわけのわからない大きな恐怖から解放された気がする。両肩に重くのし掛かっていたものが、柔らかく自分を押し上げてくれるような、優しく心地よいものを感じた。
「リュウガくん」
「はい」
そばにいたリュウガにナカシマはただ名前を呼び口元をあげる。返事だけするリュウガと入り口にいるコウを見ながらナカシマは穏やかに目を細めた。
「これは、燃やすんだろう?この場で」
「はい」
「もう二度と、出会えないんだろうね」
「はい」
ナカシマは報告書を片手に持ち、勢いよく下を向いた。大きく息を吸って肩から息を吐く。耐えるように目を閉じて片手に持っていた報告書を強く握りしめた。紙の、潰れる音がする。報告書の形が歪んでいく。もうすぐ約束の時間だ。
「彼女と私は、出会って良かったんだろうか。私は、彼女に何を残してあげただろう。少しでも、私と一緒にいて、彼女は幸せだったのか」
「。。。。」
「わからんよ、リュウガくん。私は、この報告書に何を求めていたのか。何を期待していたのか」
ナカシマは形が変わった報告書をリュウガの前に出した。リュウガはそれを受け取ると形を軽く戻して、ホッチキスで止めてある紙を一枚一枚剥がしていった。バラバラになった紙にはたくさんの文字が印刷されている。報告書だった紙を一枚取ると、真っ直ぐ半分に引き裂いた。
「私が受け取っても、受け取らなくても、こうして消える運命か。残酷だな、君は」
「。。。。」
次々と紙を引き裂き小さくしていく。部屋のテーブルにあった大きな灰皿にまとめて入れると、リュウガはポケットからライターを出して軽やかに火をつけた。薄暗い部屋がランプとライターの火で少し明るくなる。紙くずになった報告書の欠片に、そっとライターを近づける。
「燃えていく。。。消えていくんだな。。。すべて。。。」
「。。。。」
小さな紙くずの山を乗り越えるようにして火は激しく燃え上がっていく。白い紙が一瞬にして黒くなり、火の中へ飲み込まれていくようだ。二人が見守る中で火は報告書を黒い灰へと変えていった。
「。。。。」
「ナカシマ相談役」
報告書が完全に燃えたのを見届けるとリュウガは明るい顔をしてナカシマを見た。いつの間にかすぐそばにコウもいて優しげに笑っている。ナカシマは二人の穏やかな雰囲気に納得いかない顔をして、何だね?と応えた。
「調べてみて、わかったんですよ。この女性をずっと追ってみて。なんだか、すごく、楽しかったです」
ナカシマは訝しげな表情を崩さず、眉をひそめたままじっと二人を見ている。リュウガはもう消えてしまった報告書に書いてあった文章をのんびりと口にした。
「お祭りの時には、必ずお面を買う。買ったお面を首にかけて、人々が歩く姿をじっと見つめていた。泣いている子供にお面をあげて、夜空に輝く星を見ていた」
「!!」
「秋になると一人でふらりと出掛けていき、様々な落ち葉を集めてくる。枯れ果てた綺麗でもない不揃いな葉っぱを、分厚い本に挟めて大切に撫でていた」
「。。。。」
リュウガは大切な思い出を慈しむように口にした後、静かにナカシマを見る。ナカシマは目を強く閉じながらゆっくりと小さく呟いた。
「冬には夕暮れに輝く雪を見て、一人静かに佇んでいた。遠くの空に舞う雪をいつまでも見つめていた」
ナカシマが言い終わるとコウは嬉しそうに微笑む。報告書に書いてあった文章たちは、もうナカシマの心の中に移り住んだようだ。諦めたように息を吐いて、そばにいる二人を恨めしそうに見つめる。報告書を持ってきた二人が楽しげで、嬉しそうなのがまた悔しい。
「そういうことなんだね。全く、君たちは」
ナカシマは悪戯をした子供を叱るような口調で、それでもどこか優しげに告げた。その顔には諦めも悲しみも、後悔も残っていない。
大切なものはここにある。
ナカシマは自分にとって大切なものと再会し、共に生きているようだ。
「ナカシマ相談役。ご依頼、ありがとうございました。書籍部はこれからも楽しいご依頼を受けさせていただきますよ」
「いただきますよー」
「。。。相変わらず、だな、お前たちは」
呆れたような柔らかな声に書籍部の二人は軽く頭を下げると、くるりと背を向けて薄暗い部屋を出ていった。二人が去った後でナカシマはぼんやりと部屋を見つめる。
部屋のテーブルには灰皿があり、黒くなった灰がある。胸ポケットからシューガーケースを出すと、その中から一本の煙草を口にくわえた。ライターの光が一瞬だけ辺りを明るくして煙草の先に小さく宿る。煙草の先に生まれた新しい灰を、真っ黒になった灰の上に優しく落とした。
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