第三章 光と影

3章 その1

「驚かせてしまったようだね」


 全身にローブをまとった『魔女』が言った。

 ヨアンの犬のダッシュは『魔女』が話し出しても、彼女に対して吠え続けていた。

『魔女』は犬を少し見た後、斧を持った自分の手を見て、何かに気が付いたように呟いた。


「ああこれか。そりゃこんなものを持ってちゃ怖がるのも無理ないか」


 そしてリュミエールのほうに視線を戻して言った。


「すまない薪が足りなくなってきたのでね、薪割をしていたんだ」


 その声は早口でトーンこそ低めだが、女性とわかるくらいの高さだった。

 『魔女』は斧を持っていないほうの手で頭を掻き、続けて言った。


「君は迷子かな? もう暗くなってきてるのにこんな森の中をうろつくなんて危ないことは街の人間なら普通しないだろう。さっき走っていった子たちもそうなのかな、まあそこの道を真っ直ぐ辿れば街に着くと思うけど暗いとそれすら見落としがちだ。君も迷ってるならそこが帰り道だからすぐに帰りなさい」


 彼女がまた早口でそう言い終わったあと、リュミエールは彼女に訊ねた。


「ねえ、あなたが『白蝋はくろうの魔女』……なの? 違ってたらごめんなさい。でも、そういう噂を聞いたから」


「『白蝋の魔女』……? ああそうか。私は街ではそう呼ばれているんだったな」


 彼女は頭まですっぽりと被っていた黒いフードを脱ぎ、頭部があらわになった。髪の毛は長く、ややウェーブがかっており、手や顔からのぞいていた皮膚同様に真っ白だった。その白い髪は、人がいない異界のような雰囲気を醸し出す森の中ですら異質なものであるかのように目立っていた。

 白い肌、白い髪。思った通り、やはり彼女が件の『魔女』のようだ。


「やっぱり、あなたが『魔女』……。ということは、噂は本当だということなの……? 魔法も、恨みを持って呪い殺すって話も……」


 リュミエールは緊張し、息をのみこんだ。本当だとしたら、リュミエールは殺されるかもしれない。だが、逃げなかった。犬のダッシュも果敢に吠え続けている。


「魔法? 殺す? その噂には随分と物騒な尾ひれまでついているんだね。私はもう十何年もそっち側には行ってないのだけど、その間に転がし続けた雪だるまみたいに話が肥大化しているようだ。逆に関心するよ。そんなに私が怖いのかってね」


 『魔女』はそれを聞いてふっと鼻で笑った。そして斧を脇に置いて、彼女の高い目線からリュミエールの方を見下ろした。

 『魔女』は身長が高く細身で、ローブの端から覗く白い手も細長い。リュミエールは顔を上げて彼女の目を見た。先程明かりに反射して銀色のように見えていた瞳は、よく見てみると蒼白い。唇は薄いピンク色をしている。蝋燭ろうそくのように白い肌にはシワはほとんどなく、若々しくて綺麗だった。リュミエールが彼女の見た目から受けた印象は「魔女」という言葉から連想される禍々しいものではなく、逆に神々しいと思えるものだった。


「ああ、悪いがその明かりを消してもらえないだろうか。私は光が苦手なんだ」


 『魔女』は細長い手を前に突き出し、自身に向けられている懐中電灯を指さしながら言った。


「ご、ごめんなさい」


 リュミエールは彼女の言う通りに懐中電灯の電源を切った。この森の広場にある明かりはランタンのオレンジ色の光だけになった。


「ありがとう、私は光がとても眩しく感じる体質でね、電気で起こした光は少し厳しい。このランタンくらいの明かりの強さがちょうどいいのさ」


 彼女はランタンを少しだけ持ち上げて言った。

 光の量が減ると、現在の森の中がいかに暗くなっているかがよくわかった。確かに来た時よりもだいぶ暗くなっており、そろそろ戻らないとかなり危険だ。リュミエールは村にいたとき何度か暗くなるまで森にいたことがあったが、そのときは毎回不安になった。流石のリュミエールも、夜の森の怪しい魔力には抗えない。このようなおどろおどろしい空気を実際に吸ってみると、呪いや魔術の類を信じたくなる気持ちがわからないでもなかった。


「あの、噂に尾ひれがついてる、って言っていたけど、もしかしてその噂は間違ってる、ということ?」


 リュミエールは恐る恐る彼女に疑問をぶつけてみた。


「ああそうだね。少なくとも人を殺したことは一度もないよ。どんな噂なのか詳しくはわからないけど酷いことを言う人もいるものだね、私が少し他の人より変わっているからって」


 『魔女』はやれやれ、といった表情をした。そして白く長い髪をかき上げて彼女は続けて言った。


「それに私は魔法なんてものは使えない。そんなものおとぎ話じゃないか、現実的にありえない。街の人は技術も進んでいるのにそんなことも知らないなんてね」


「じゃあ、呪いというのも……」


「もちろんない。そもそも私は人に恨みなど持ったことがない。おそらくその噂とやらには私の生い立ちも含まれているのだろう? この真っ白な容姿で生まれたがために私を生んだ母親や私を迫害する人間たちを激しく憎んでいるとか、そんなところか。その生い立ちは事実に基づいてはいるが、私が感じていたこととはいささか違いが大きいようだ。私の母は私を愛してくれていた。私を迫害する人たちはいたが、私はそれを羽虫の羽音くらいに思って気にかけないようにしていた。少し嫌なことを言われたり危害を加えられたりしたことはあるが、大抵は私から距離を置くくらいのものだ。私を気味悪がって関わらないようにしたかっただけなのかもしれないが」


 『魔女』は一旦区切って、深く息を吸ってから再び話し始めた。


「確かに私の生い立ちは人目を惹くほどに醜いかもしれないが、それと恨みを持つかどうかは別の話さ。私に命をくれただけではなく愛情を持って育ててくれた親を憎めるか? 素性も何も一切知らない、赤の他人を恨むことができるか? 君ならどう思う?」


 魔女の問いかけに対して、リュミエールは一瞬考えて、答えた。


「私は……できないわ。お父さんは、わりと放任主義だけれども、それはあたしを信じてくれているから。信じてくれている人をあたしは裏切ることなんて考えられない。お母さんは……もう何年も昔に死んでしまったけど、いつもあたしを愛してくれていたってお父さんが言ってたし、あたし自身もちょっと覚えてる。だから憎むことなんてできない」


 リュミエールは答えているときに母のことを思い出していた。かすかに記憶の片隅に残る、やさしげな笑顔。たしかに彼女は母からの愛情を受けて育ったのだ。


「そう、やはり私も君と同じだ。母は私のために、命を賭して守ってくれた。そんな人を憎んだりしたら罰が当たってしまうに違いないよ。では、他人のことについてはどう思う?」


 『魔女』は興味深げに訊ねてきた。


「実際に酷いことをされたときはどう思うかわからないけど……そうでない場合は、見ず知らずの人に対して憎しみなんて沸いてこないわ。確かに世の中に嫌いな人はたくさんいるけど、嫌いになったのはその人の許せない一面を知ってしまったため。何も知らない人のことを恨む意味がないわ。でも、あなたの場合は実際に酷いことをされたんじゃないの?」


「取るに足らないことだ。言っただろう、羽虫のように思っていたと。飛び回るはえに対していちいち憎んだり恨んでいてもどうしようもない、非合理的だ。憎しみを憎しみで返して何になる? ただ無為に精神をすり減らすだけだ。これほど不毛な時間はないのではないかと私は思う。だからそんなことは考えないようにした。たとえ呪いが本当にあったとしよう、それでも私は呪い殺せるほどの強い念は持ちようがないよ」


 魔女はそう語った。リュミエールはそれをおとなしく聞いていた。そのうち、魔女はリュミエールの様子を見て何かに気付いたように口を開いた。


「おっと、ごめんよ。結構長い時間話してしまった。何せ、見知らぬ人と会ったのはとても久しぶりだったものでね。さあ、もう暗いから今すぐにお帰りなさい。君の持つ電灯の強い明かりをつけてね。森に真の闇が訪れ完全に夜になってしまえば、その光をもってしても危険だ」


 魔女は細い指で道がある方を指さした。しかし、リュミエールはそれを無視して食い下がった。


「あたし、まだあなたに聞きたいことがあるの。噂のことだけじゃなくて——」


「帰りなさい。私もそろそろ小屋に戻らなきゃならない。私は今からやりたいことがあるんだ。私の都合も考えてくれたまえ」


 魔女は少しきつい調子で言った。リュミエールは彼女の言葉に対してしぶしぶ頷いた。


「……わかった。帰るわ。でも、知りたいことを放置するのは嫌。きっとまた来るわよ。それでもいい?」


 魔女は少し溜息をついて、それから絞り出すように答えた。


「……仕方ないね。私はこの先にある小屋で暮らしている。昼間は日が出ているから、光が苦手な私は極力外には出たくない。だから、できるだけ今日のような曇りの日に来てくれるとありがたいね」


「わかったわ。あの、あなたの名前を聞いても?」


「私はブラン。『白』という意味だ。愛する私の母が付けてくれた名だ。『魔女』なんて不気味な表現も実は嫌いではないのだが、これからは名前で呼んでもらえるとうれしい。君の名前はなんという?」


「あたしはリュミエールっていうの。名前を教えてくれてありがとう、ブラン。」

「リュミエールか。覚えておく。それじゃ、さっさと帰りなさい。早く行かないと夜のとばりが降りてしまい帰れなくなるよ」


 ブランは追い返すようにリュミエールに言った。リュミエールは「それじゃ、また」と言って手を振り、ダッシュのほうに駆け寄り、手綱を握った。ダッシュはもうとっくに吠えるのをやめておとなしくしていた。リュミエールはダッシュを引っ張りながら、元来た道を戻っていった。ブランは彼女の後姿をじっと眺めていた。

 リュミエールは懐中電灯を再びつけて暗くなりかけた森の中を明るく照らした。

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