3章 その2

 アランは森を出た後、「彼女が危険になったら引っ張ってでも連れて帰る」と言ったにもかかわらず真っ先に叫んで逃げてしまったことを後悔していた。

 『白蝋の魔女』らしき人物を見たとき、恐怖で酷く取り乱してしまった。これまで噂を頭から信じていたわけではなく半信半疑だったが、実際にそれを目にしてしまっては信じざるを得ない。正直殺されると思った。あの射貫くような目線だけで自分たちの息の根を止めることができるのではないか、と本気で思った。だから思わず叫んでヨアンとともに逃げてしまったのだ。そのため二人は無事に森を抜け出すことはできた。が、森を出てほっと安心したとき、リュミエールを置いていってしまったことにようやく気が付いた。自分たちは真っ青になり、アランは慌てて森に戻ろうと動いたが、すぐにヨアンに止められた。もう森の中は暗く、一本道とはいえ、その道が見えづらい。万が一道を外してしまうと戻れないし、夜の森を徘徊する獰猛な獣も出るかもしれない。リュミエールも言っていた通り、夜の森はとても危険だ。助けに行くことはできない。彼女を助けに行ったとしても、見つけ出す前に自分たちが迷子になってしまうオチだろう。自分たちの力ではもう彼女の無事を祈ることしかできないのだ。


 こうなると、もう大人の手を借りるしかない。しかし、魔女のことを隠して伝えても森の奥に入ること自体がタブーなので、父に言ったらそれだけで確実に叱られるだろう。だが、あれこれ言っている場合ではない。アランは覚悟を決めた。


「ヨアン。もう父上に助けてもらうしかない。多分滅茶苦茶怒られて、罰としてしばらく家から出してもらえないかもしれないけど、それでもリュミエールが殺されてしまうよりはマシだ。このまま逃げてしまえば俺は彼女を見殺しにした男になってしまう。それに、元はといえば、森の奥に行くときに俺が引き留めなかったせいだ。あそこで無理にでも引き留めていればこんなことには……」


 アランは真剣な表情で言った。ふとした拍子に泣き出しそうな、ギリギリの緊張感で保たれた危うい表情だった。

 そんな状態のアランを見て、ヨアンが言った。


「アラン、そんなに思いつめないで……。引き留められなかったのは僕も同じだよ……。そうだ、二人で頼みに行こう。リュミエールを助けて、って。怒られるときは僕も一緒だよ。だから……ね。泣かないで、アラン」


 アランはこらえきれずにいつの間にか涙を流していた。彼は袖で涙を拭ってうなずいた。


「……ありがとう、ヨアン。一緒に行こう」


 二人はそのままオランド邸へ向かった。



「ワハハ、どぉ~した、アラ~ン? 浮かない顔してよぉ~?」


 アランの父、アルベール・オランドが言った。翌日が日曜で休みのため、リュミエールの父バジル・ベルジェ氏を呼んで早くから酒盛りをしているようだ。アランの父はワインが大好きだが、酒癖が悪い。酔っ払っているときにアランを見つけると何かと絡んでくるので、呑んでいるときにはできるだけ近づかないようにしていた。

 どうやら父は既に結構呑んでいるようで、顔が真っ赤だ。


 それにしても、運が悪い。彼女が大変なときだというのに、既に泥酔状態となると、父の助けはあまり期待できない。父は一度呑み始めると、自分で立ち歩けなくなるくらい呑む。医者だというのに身体に悪そうなことをしていて情けないなとアランはよく思っていた。


「あの、父上、お願いがあるのですが……」


 こんな状態だと役に立たなそうだが、アランは訊ねてみた。もしかしたら、思わぬところから助け舟が出るのではないかとかすかに期待した。


「あぁん? なんだぁ、アラン? 小遣いでも要るのかぁ?」


 父は若干呂律ろれつが回らない口調で言った。


「いえ、そうではなく、助けてほしいのです。今すぐに。リュミエールが大変なことになっているんです」


「リュミエール? バジルの嬢ちゃんのことかぁ? 大変? あ~そうかそうか! そりゃ大変だ~」


「ち、父上! どうか真面目に聞いてください!」


「おぉう、そうかそうか。腹が減ったんだな! 夕飯まだだもんなあ! ザザ、おいザザ! アランが帰って来たからメシの用意を頼むぞ。そら、アランもそこに座れ。ん? おろ、ヨアンくんも一緒にいるのか。全然気づかなかった。お前さんもここで食ってくか? ワハハ」


 父はアランの後ろで見ていたヨアンを定まらぬ視線で眺めて言った。


「いえ、僕は……とくにお構いなく……」


 ヨアンは酔っ払ったアランの父の迫力に気圧されたようにおずおずと答えた。


「アルベール。君は呑み過ぎだよ。学生のときからの悪い癖だ。直したほうがいい」


 ベルジェ氏が父に優しい口調でだが忠告した。そう言うベルジェ氏自身も呑んで少し酔っているためか、顔が赤かった。


「まあ、明日休みなんだからそんな日くらい呑んでもいいじゃねえか。ワハハ!」


 父は大きな笑い声を上げて話した。その声の大きさに思わず耳を塞ぎたくなる。

 余談だが、父は昨年離婚した母を無理矢理酒に付き合わせることが多かった。呑むとこのような有様になのだから、別れた理由がなんとなく見えてくる。母はよく十年以上も付き合ったものだ。


 ベルジェ氏がアランにゆっくり向き直り、ワイングラスを片手に諭すような口調で話し始めた。


「娘が大変だ、と言ったね、アランくん。でも、リュミエールは今に限らず、いつも大変だ。好奇心旺盛で、僕も常に手を焼いているよ。だがね、彼女はなんだかんだで自分で解決する力を持っている。だから大変なこともいつの間にか乗り越えてしまうんだ。今回も大変なんだろうけど、きっとあの子なら乗り越えてくれるはずさ」


 ベルジェ氏はリュミエールのことをよほど信頼しているのか、あまり心配していない様子だ。でも、いくらなんでも過信し過ぎではないのかとアランは思った。酔っているから判断力がおかしくなっているのだろうか。


 やはり、ここの大人たちは役に立ちそうもない。父は泥酔、ベルジェ氏も酔っている。どうしようもない。頼れるのは……ザザくらいだろうか。だが、ザザは主人である父以外の人の命令は基本的に受けない。それがたとえ主の息子のアランであろうとも。そのため期待は薄い。あとはベル……。いや、やめておこう。アランは先程の森で見かけた光景を思い出していた。森の奥からやってきたというのなら、もしかしたら彼女は『魔女』の手先なのかもしれない。用心すべきだ。となると、自分たちはどうすればいいのだろう。街に下りて助けを呼んでみるか。それとも、やはり自分たちでなんとかするしかないのだろうか……。

 アランがいろいろ考えていると、遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。


「この声は……」


 アランは小さく呟いた。


「ダッシュ!」


 ヨアンがそう叫んだ直後、玄関のほうで足音がした。アランとヨアンは急いで玄関のほうに走っていき、玄関の鍵を開けた。


「リュミエール!」


 アランは叫んだ。目の前には、リュミエールとダッシュが立っていた。ヨアンが安心した様子でダッシュに駆け寄り、いつもやっているようにわしゃわしゃと撫でた。ヨアンはダッシュが良いことをしたときはわしゃわしゃと撫でるのが習慣となっていた。


「えっと……ただいま? でもここあたしの家じゃないし、こんばんはのほうがいいのかな?」


 リュミエールは眠そうに言った。


「無事……だったんだね。よかったぁ……」


 アランは安堵してその場で崩れた。リュミエールはその様子を不思議そうに眺めた。


「このくらいの森なら平気よ。暗いっていっても、幸いまだ完全に真っ暗ってわけじゃなかったしね。ところで、あたしのお父さんはいる?」


「ああ、うん。いるよ。食堂に」


「そう。家に帰っても誰もいなかったから、ここかなって。それじゃあ、お父さんに伝えておいてくれないかしら。今日は疲れたからもう帰って寝るって。夕食もここで取るから君も来なさい、って書いてたけど、今日は要らないわ。これだけいろいろあるとあたしも疲れちゃう。じゃあね、おやすみ」


「お、おう。そうか。あの……俺、送っていこうか?」


 アランが少し気を遣って言った。


「そこまでしなくていいわよ。どうせすぐ近くだし」


 リュミエールは大あくびをしながら答えた。


「そう……か。わかった。何かあったら、俺に言ってくれよ」


「期待しすぎないように受け取っておくね。ありがとう。それじゃ、ダッシュもまたね」


 リュミエールはダッシュに小さく手を振って言った。ダッシュは一吠えして尻尾を振って応えた。

 リュミエールはもう一度大あくびした後、自分の家へと帰っていった。アランはその後姿を見送っていた。

 ヨアンはダッシュを撫でるのを止め、アランの方を向いて言った。


「それじゃ、僕もダッシュと一緒に帰るよ、アラン……。リュミエール、帰ってきてよかったね」


 ヨアンも安心したような表情だった。ダッシュは彼の顔をぺろぺろと舐めていた。


「うん……! それじゃ、また」


 アランはヨアンに手を振った。


「またね」


 ヨアンはダッシュの手綱を引いて視界から消えて行った。


 今日は大変な一日だった。とりあえず、何事もなく終わってよかったとアランは思った。いろいろと気になることはあるが、それは別の日にまた探ることにしよう。アランも疲れたうえ、あまり酔っ払いと関わりたくもないので、夕食を済ませた後すぐに部屋に戻り、少しだけ学校の宿題を済ませてからベッドに入って寝入った。

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