雨降る夜の晴れ模様
奈名瀬
第1話
好きな人と一緒にいたくない。
ひとまず登校から下校まで。
そして、卒業までの二年間。
「じゃあ、この問題を……黒川さん。やってくれるか?」
少し前まで『まりちゃん』と呼んでいた口で、五十嵐先生は私を名字で呼んだ。
未だに慣れない彼の呼び方に顔をしかめ、私は席を立つ。
「はい」
秘めた複雑な想いはシュレッダーへかけられた紙みたいにバラバラになり、不機嫌な声となって口から吐き出された。
黒板へ向かいチョークを手に取ると、コツコツと求められた解答を擦りつける。
「終わりました」
「ありがとう、正解だ」
『よくできました』と書かれた笑顔に私はそっぽを向き、手に着いたチョークの粉を払って席へ戻った。
全く、人の気も知らないで。
こっちはあなたの前で恥をかきたくなくて、この教科だけは毎日予習復習してるんですよ。
絶対口にはしない告白を胸の内にこぼし、私は再びノートを取る。
でも、シャーペンを走らせながら、ふと気になって教室の掛け時計に目をやった。
……あと二十分は彼の生徒の黒川毬でいなければならない。
(早くやめたいなぁ、女子高生なんて……)
秒針の歩みの遅さにうんざりすると「ふぅ」と、細い溜息が漏れた。
「ねえねえ、毬って猫好きだったよね?」
HRが終わった途端、後ろの席の友香に声をかけられる。
「うん、好きだけど?」
ニヤニヤと笑う友香に返事をすると、彼女は私に「じゃん」と言ってスマホを見せた。
そこには、なんとも可愛らしい子猫の画像が映されていて。
「可愛い!」
目にした途端、私は喉に水あめを流し込まれたみたいに声が甘くなった。
そして「でしょー」と頬を緩める友香に何度も首を縦に振っていると。
「黒川さん、棚橋さん」
ふいに五十嵐先生に声をかけられ、私の顔は苦くなる。
「まこっちゃん先生? どしたの?」
対して、友香は五十嵐先生をあだ名で呼ぶとニコリと微笑み、没収されるかもしれないスマホを隠すこともしなかった。
「どうしたというか、雨が激しくなる前に下校しましょうって言いに来ただけだ」
「えー」
しかし、先生の声かけも虚しく友香は面倒くさそうに間延びした声で続ける。
「だって雨降ってるから帰るの面倒なんだもん」
すると、先生は困ったように眉を曲げ「いいか?」と前置きして口を開いた。
「今はまだ雨が緩いけど、これからどんどんひどくなるぞ。警報も出るかもしれない。だから帰れなくなる前にさっさと帰った方が良いぞ」
直後、私達はちらりと教室から窓の外を眺める。
視線の先には墨汁をしみ込ませたみたいにくすんだ雲が浮かんでいて、彼の言葉が真実であることを物語っていた。
その後、「スマホ没収しないの?」とからかう友香に、先生は「見逃してからやるから早く帰りなさい」と告げ。
「じゃあ、黒川さんも気をつけてな」
ついでのような挨拶を私に残すと教室を出て行った。
「何が『じゃあ、黒川さんも気をつけてな』よ」
駅の改札を出た途端、辺りに人がいなかったこともあって私は愚痴を抑えなかった。
それから不機嫌に鼻を鳴らして傘を広げ、雨模様へと目を向ける。
私が電車に揺られている間に雨脚はより強まったみたいだ。
風に巻き込まれながら降りつける雨に目を細めていると、湿っぽい冷気に体が震えてしまう。
これ以上雨がひどくなり、靴下が水浸しにならないうちに帰ろう。
と、濡れたくないという本能のままに一歩を踏み出した途端。
「……ミャァ」
と、愛らしい鳴き声が聞こえて私は反射的に歩みを止めた。
「ね、猫ちゃん?」
再び、喉奥へと過剰な糖分が摂取される。
「猫ちゃーん?」
姿の見えない猫を探しながら、私は時折語り掛けるように甘い声を出した。
だが、ここは身を隠せそうな場所などない閑散とした駅の構内なのに、どこを探しても可愛らしい声は聞こえるだけだ。
「おかしいな」
それでも必ずいる筈だ、と耳を澄ませると。
「……ミゥ」
何かに糸が擦れるような、とても細い鳴き声が聞こえ。
「ここ?」
私は、その子を見つけた。
「嘘っ」
声の出どころは鍵のかかっていないコインロッカーの中だった。
狭く冷たい、檻とも呼べない無機質な空間に、その子はボロ布と一緒に捨てられていた。
まるで、その猫も可燃ごみだと言うように。
私は、自分の心から熱が引いていくのを感じながら、どうしていいかわからずに立ちすくんでしまった。
その子は体のどこにも首輪のような身元が確認できるモノをつけていなかった。
「捨てられたん、だよね」
しかも狭いロッカーの中に押し込められていたのだから、そう直感せずにはいられない。
でも、もし、誰かがやむをえない事情で一時的にあそこに預けてるとしたら?
「……うぅ」
そんな到底ありえない可能性に心を縛られ、私はかれこれ二時間ほど駅の隅からロッカーを見つめていた。
しかし、一向に飼い主らしき人は現れない。
「本当に、どうしよう」
猫を見ている間にも雨脚は強くなっていく。
もう傘をささなくても雨の打つ音がはっきりと打楽器みたいに耳へ届いていた。
大粒の雨が地面を殴りつけていく様子は視界の端に入るだけで気分が沈むほどだ。
もし、これ以上この場に留まれば本当に帰れなくなるかもしれない。
「……よし」
雨水で湿った空気に不安と焦りがひどくなる中、私は再びロッカーへ近付いた。
もう一度、ロッカーに指をかける。
元から熱などないのか、それともこの雨風で冷え切ってしまったのか。
爪先でひっかくように開けたロッカーの戸は冷たく、中は冷蔵庫を思わせた。
そんな場所から猫を掬い出すと、私は制服の胸元を開けてぎゅっと抱きしめる。
数枚の布越しに小さな命のぬくもりを感じ、私の胸に妙な使命感が湧きだした。
「ニャァ……」
「うん。ちょっと寒いよね」
猫が寒いと言っているように錯覚しながら、私はこの子を連れ去ってしまおうと決意する。
たとえ後から『泥棒だ』と、後ろ指をさされても構わないと思った。
けど、その一方で急に猫を連れ帰っても親は許してくれないだろうという不安が脳裏を過る。
聞き慣れた声が想像となって『返してこい』と脳内に響くと、体が動かなくなってしまった。
でも。
「まりちゃんっ!」
「えっ?」
ふいに名を呼ばれ、声のした方へと体が動く。
そこには心配そうに顔を真っ青にした五十嵐……ううん、誠がずぶ濡れになって立っていた。
「どうしてまだ帰ってないんだ、早く――どうした、その猫?」
彼は壊れた傘を手に、こちらへ駆け寄るなり私が胸元に抱えた猫に気付く。
その瞬間。
「ま、誠ぉ」
私の口から驚くほど情けない声が漏れた。
「なるほどな。なら、その猫は今日僕の家で預かるよ」
「えっ?」
私がうだうだと二時間も様子を見て、その上でまだ決めかねていたことに対し。
「そんなあっさり?」
誠は事情を聴いた直後に答えを出した。
「だって、まりちゃんはその子を置いていきたくないんだろ?」
「う、うん」
「じゃあ、僕と一緒だ。あとはできることをやるだけだよ」
「できること?」
まだ不安が拭いきれない私は、誠の言葉に首をかしげてしまう。
でも、ヒーローみたいな彼の笑顔を見ると、どんよりした気持ちに晴れ間が差し始めた。
けど――。
「まず、まりちゃんはおじさん達に猫のことを話そう。もしダメって言われたらまたその時に考えればいい」
「……それだけでいいの?」
「いや、他にもいくつかやることがあるけど……きっと、それは僕の仕事だ」
この一瞬、私は誠が言葉を濁したように感じて、嫌な連想をしてしまった。
「まさか、保健所に連れて行ったりしないよねっ? この子、殺されちゃうの?」
頭に浮かぶ結末に血の気が引いていく。
だが、私が口にした想像を、誠は即座に否定した。
「まさかっ。確かに連絡はするけど殺処分なんてさせないよ。僕はこの子を動物病院に連れて行ったり、地域の保護団体や警察に連絡しようと考えていただけ」
「そう、なの?」
「ああ。こんな場所に放置されていたんだ。この子が体を悪くしていないか診てもらわないとだし、もしも本当に迷子なら、届け出がないか確認しなきゃいけないだろ?」
「うん」
しかし、私は誠に頷き返しながら、まだ不安を態度に滲ませてしまう。
そんな私を見て、彼は「大丈夫だ」と聴かせて続けた。
「もしもの時は僕がこの子の面倒をみる。心配しなくていいよ」
「本当?」
「本当だ」
「……絶対?」
重ねて念を押す私は、言葉を変えながら絵の具を塗り重ねるように不安を上書きしてしまう。
けど、誠は優しく頬を緩ませ、私から不安を取り除く答えを探すように、言葉を選んで口を開いた。
「約束する。もしもの時は僕がこの子に名前をつけて、おいしい猫缶を買って食べさせるって」
「……」
「誓うよ」
彼の口調はまるで眠り姫にキスをする王子様さながらで、重ねて聴かされるうち私は胸の奥がだんだんとこそばゆくなっていく。
だから。
「今の……嘘にしたら、一生許さないから」
不安の薄まった心模様で、彼を信じることにした。
その後、私は抱いていた猫を誠にあずけ、彼が大事そうに抱えるのを見届けてから傘を開く。
背伸びしながら開いた傘の中に誠を入れてあげると、彼はひどく驚いた顔を見せた。
「ま、まりちゃん?」
「な、なにっ? 早く行こ」
「いや。行くって、どこへ?」
誠は私が小さな傘の中に彼をいれてあげた意図をまるでわかってない。
それに気付いた途端、瞬間的に彼へのいら立ちは募り、野苺が潰れるみたいに一瞬で弾けた。
「誠の家! 傘壊れてるから入れてあげるの! ね、猫ちゃん濡れちゃうでしょっ!」
身長差があるせいで、高く掲げた腕がだんだんつらくなる。
「あと、誠の家に着いたら車で送ってよっ? 雨、ひどいんだから!」
けど。
「わかった」
私の腕がぷるぷると震えていることに気付くと――。
「ちゃんと送ってくるよ」
――誠は身をかがめて口にした。
一瞬。目線の高さが合い、彼と視線が重なる。
でも、それが恥ずかしくって、私は目線を逸らした。
視界に移るのは夜の雨模様。
耳には激しい雨音と、少し熱の高まった猫の鳴き声が届いた。
雨降る夜の晴れ模様 奈名瀬 @nanase-tomoya
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