第2話 庭園の片隅で
「失礼しました。ここなら誰もいないと思ったもので」
そこに立っていたのは、エルフにしては珍しい黒い髪をした男性だった。
エルフ族は容姿が中性的で、年齢も不詳でほとんどが若く見える。
月明かりに浮かんだその男性エルフも、少年のような身体つきと女性にも見えるやさしい面立ちをしていた。
「いえ、お気になさらず」
彼女が微笑むと、エルフの男性も安心したように微笑んだ。
「あ、よかったらいかがですか?」
と、エルフの男性が両手に持っていた細い酒のグラスの片方を差し出す。
「会場を抜け出すのに、女性を待たせていると嘘をついて出て来たものですから」
クスクスとお互いに笑い合った。
「ありがとうございます」
魔術師の女性がグラスを受け取ると、冷んやりとした感触が心地良かった。
黒い髪に深い緑の瞳をしたエルフの男性は、静かに彼女の側を離れようとした。
「あら、一緒に飲まないの?」
ぴくりと足を止めて彼が振り返る。
「よろしいのですか?」
「ええ、どうぞ」
華奢な身体つきのエルフの男性は、彼女には自分に危害を加えるような者には見えなかった。何かあれば簡単に殴り飛ばせるだろう。
小さな東屋の一つしかないテーブルの、二つしかない椅子に、ふたりは距離を置いて隣りに座る。
お互いに顔は見ずに月を見上げていた。
不思議と異性といるという感じがしない。
このエルフの男性の気配自体が薄いのだ。
魔術師は黙っているとひとりでいるような気がして、何か話してみようと思った。
所属は?、年齢は?、名前はー。
エルフならこの王宮にいるのは弓兵部隊だろう。年齢などエルフでは百歳以上もざらにいる。
聞くだけ無駄な気もしたが、何か話がしたかった。
今夜の月が美し過ぎたからだろうか。
「えっと」
魔術師の女性が顔を横に向けると、視線が重なった。
彼はどうやらじっと彼女の横顔を見ていたらしい。
ふいにお互いに顔がかっと赤くなった。
「不躾に見つめてしまってすみません。とてもお美しかったので」
彼は恥じ入るように顔をうつむかせた。
「うふふ」
彼女はつい笑ってしまった。その姿がまるで幼い少年のようで可愛いと思った。
「何だか自分まで青臭い子供になったみたいだわ」
彼女とて成人して数年が経っている。子供のような相手に見つめられて不快になる年齢でもない。
「くふふ」
エルフの男性も安心したように笑った。
柔らかな沈黙が流れた。
会話は少なくても同じ月を見上げ、相手の気配をほんのりと感じている。
ひとりではない。
女性魔術師はそれだけで何となく気持ちが落ち着いた。
建物の方からの音楽がやけに大きく聞こえ始める。
「そろそろ最後のダンスでしょう。皆に踊るように誘っているみたいです」
エルフの耳はその種族特性でかなり広範囲の小さな音も拾う。
「ふうん」
魔術師は、あんなにダンスの練習をしたのに、結局一度も踊らなかったことに気づいた。
でも仕方がない。
自分でも男性とダンスを踊るなど想像も出来なかった。
その時、思いがけずエルフの男性が彼女の前に片膝をついて手を差し出した。
「あの、よろしければ踊っていただけませんか」
俯いた顔は見えないが、緊張しているようで、差し出した手が微かに震えている。
このような場にいるのだから、彼も独り身なのだろう。
「んー」
彼女は考え込む。
もしかしたら、これが人生で最後になるかもしれないダンス。
大袈裟だけど、その可能性は全く無いとは言えない哀しさ。
「途中で気が変わったら、いつでも止めてかまいません」
顔を上げたエルフの男性の瞳が気弱そうに揺れている。
「そうね。きっとこんな夜はもう来ないでしょうし」
男性の手を取って立ち上がる。
「あんまり上手じゃないわよ?」
驚きながらも、エルフの男性は満面の笑みを見せた。
「あはは、それはこちらも同じですよ」
二人は静かな夜の庭へ静かにゆっくりと一歩、足を踏み出す。
エルフとしては小柄な彼の背丈は、魔術師の女性とほぼ同じくらいだ。
女性の手に男性の緊張が伝わって来る。
それ以上に彼女は不思議な感覚に戸惑っていた。
手が触れ合っている。こんなに近い。その上、腰に手がー。
でも彼女はちっとも嫌ではなかったのだ。
エルフの男性が懸命に足さばきを間違えないようにがんばっている。
女性は彼の腕にただ掴まって同じ足捌きを繰り返すだけ。
なんだろう。まるでかわいい弟のダンスの練習相手をしているような気分だった。
少しづつ、慣れ始める。
遅れがちだった音楽にも乗って動けるようになっていく。
ようやくお互いの顔を見る余裕が出来た。
魔術師の女性の目の前で少年のようなエルフが微笑む。顔が近い。
繋いでいた彼の手に少し力が入った気がした。
やがて音楽が終わる。
「うふふ、初めてダンスが楽しいと思ったわ」
「自分も同じです」
最後にくるりとターンをして、彼の手が離れる。
名残惜しそうな手が宙に浮いたまま彼女を見ている。
しばし言葉を失い、暗闇に浮かぶエルフの緑の瞳から目が逸らせない。
するりと夜の冷たい風がふたりの間を吹き抜け、我に返る。
「冷えるといけませんね。建物までお送りします」
彼女がこくりと頷くと、エルフの男性は先に立って歩き出した。
送ると言いながら手を取ることもせず、エルフはほんの少しの距離を開けて歩いている。
肩にかかる黒い髪が闇に溶けそうだ。
魔術師の女性は見失わないようにしっかりと彼の背中を見る。
男性エルフは時々振り返りながら、決してそれ以上は近寄って来ない。
さっきまでダンスを踊っていたことが嘘のように、彼女と距離を取っている。
まるで彼女の男嫌いを知っているかのように。
大きな噴水の側に出た。
たくさんの同胞たちが挨拶を交わし、徐々に会場を出て行く様子が見えた。
「ありがとうございました。忘れられない夜になりました」
彼女に背中を向けたままエルフの男性が呟いた。
それは舞踏会の余韻の中、ざわめきに消え入りそうな声だった。
「ええ、私も」
きっと最初で最後の、切なくて惜しい時間。
「ねえ、名前だけでも教えてもらえないかしら」
魔術師の女性は自分でも男嫌いとは思えない言葉が口から出て驚いた。
その言葉に振り返ったエルフの男性の顔は何故か苦しそうだった。
ゆっくりと近づいて来た男性が彼女の手を取った。
「本当に自分の名前を知りたいですか?」
深い緑の瞳に何かがきらりと光った気がした。
その雰囲気の変わりように彼女が目を見開く。
エルフの男性は建物を背にし、その背中から光が溢れている。
そのせいで顔が暗くてよく見えないが、その口元が引きつるように歪んだのが分かった。
突然引き寄せられ、唇が重なる。
強く抱きしめられる。
驚いて身を捩るとすぐに男性は離れた。
「もう二度とお会いすることはないでしょう」
そのまま彼女の側を通り過ぎた。
「あの!」
彼女が振り向いた時には、すでにそこには誰もいなかった。
エルフ特有の森の香りだけを残して。
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