赤い嵐・1


 疾風のごとき早さで、馬が村に駆け込んできた。

 ムテの人々は驚き、慌てて道を開けた。このような乱暴な訪問者ははじめてだった。

 馬は真赤とも言える栗毛で、鬣は炎のようだった。かなりの距離を疾走してきたのであろう。鼻腔を大きく広げている。

 しずかなムテの地に、蹄音と土埃を上げ、いきなり後ろ足でたち上がったかと思うと、何かを探すようにして、また走りだす。人々は逃げ惑うだけだった。

 乗り手は真っ黒なマントで身を隠し、どのような人物かは計り知れない。

 ムテは長い間、ウーレンの支配下にある。その上、特別区に指定されていて、異種族は許可なく立ち入ることのできない地域になっている。

 だが、突然の侵入者は誰に邪魔されることもなく、自分の庭にでも入るかのように平然と入ってきた。



 その時、ジュエルは村の広場で一人、しゃがみこんでいた。

 もうすぐ日は南中する。母が帰ってくる時間になる。

 いつもとまったく同じように、白い石の欠片で、土の上に絵を書いている。一人遊びにはなれていた。

 他のムテの人々も、おのおの家で休憩を取るため帰宅する時間であり、少しざわついてもおかしくはない時間でもあった。

 しかし、その日は特別だった。

 あたりが騒がしくなったことに、もちろんジュエルは気が付いていたが、絵を書くことを止めなかった。

 誰もジュエルのことなど気にしないのだから、自分も誰のことも気にしないように、一人でいつもいられるようにする。幼いジュエルが身につけた最初の処世術だった。

 地面に大きな鳥の絵を書いていた。翼を書くために、体ごと移動しなければならないような大きな鳥。

 その絵に黒々と影が写り、はじめて手を止め、ジュエルは影の人を見上げた。

 逆光に照らされて、真っ黒な人影が馬から飛び降りた。

 その人物は、マントを払ったとたん、真赤に燃えるような影に変わった。光に透ける髪は、炎のように赤かった。

「……ジュエル?」

 その人はいきなり名を呼んだ。

 そしていきなり歩み寄ると、ジュエルを思いきり抱きしめた。母以外に抱きしめられたことのないジュエルは、驚きのあまり、固まってしまった。痛いくらいの抱擁だった。

 男は膝をつき、目線の高さをジュエルと合わせると、燃えるような炎の瞳を細めて微笑んだ。力強い手が、ジュエルの肩を握っていた。

「一目ですぐにわかった。お前がジュエルだろう?」

 何が起こっているのか、ジュエルにはわからなかった。

 どんなに優しく微笑まれても、幼子に知らない大人は恐怖の存在でしかない。その上、見たこともないような異種の魔族である。驚かないほうがおかしい。

 炎の瞳をもつ男は、ふるえるジュエルの頬を優しく撫でていた。

 が、突然背後に人の気配を感じると、急に表情をきつくして立ち上がった。


「ウーレンのお方。その子は私の子供です」


 いつのまにか、ムテの最高神官が立っていた。

 ムテ独特の結界がきらきらと舞い、銀の長い髪に絡まりながら、地面に達して広がっていた。その髪を踏むこともなく、最高神官はしずかに歩みよった。

 ウーレンの男は、燃えるような瞳をムテの最高神官に投げつけた。

 そのまま動くことはなかったが、獲物を狙う獣が一瞬身構えるような、緊迫した静止だった。そして、腕はジュエルの肩にかかったままだった。

 ウーレン人が口を開いた。

「よくもしらじらと……。ムテの神官が呆れるな! まともな血読みもできないとは!」

 挑みかけるような眼差しの男に、最高神官はうつむき視線をそらした。

 さらりと髪が表情を隠したが、かすかに震えているのが見てとれた。必死に何かをこらえているようだったが、ついに耐えきれなくなったらしい。最高神官は笑い出した。

「何がおかしい?」

 イライラと怒鳴る男に、最高神官の笑い声は、みかけの神々しさとはかけ離れたものになっていった。

「だって……! 君はまったく変わっていないんだもの。アルヴィ……」

 名前を愛称で呼ばれた男は、あっけにとられて目を丸くした。

 ここ十年ほど、アルヴィラント・ウーレンのことを、誰も愛称では呼ばない。幼馴染の妻でさえ、今は気安くは呼べないのだ。

 愛称で呼ぶほど、アルヴィラント・ウーレンの立場は軽くはなかった。

「お前……サリサか?」

 サリサは、目に涙を浮かべていた。笑いをこらえすぎていたのだ。


 マール・ヴェールの祠で見た予見。

 それは、ウーレン王が激情に駆られて、ムテまで馬ですっ飛んで来る姿だった。


 全く通知無しのお忍びとはいえ、無礼がないようお迎えしなければならない。

 丸一日、サリサはマール・ヴェールの祠で苦行とも言える祈りを続け、翌日には山を下っていた。そして、祈り所に籠りながら、アルヴィラント・ウーレンが来るのを待っていたのだ。

 だが、サリサはたとえ夢見がなくても確信していた。

 アルヴィラントは、死んだはずの子供が生きていたと知ったら、後先かまわず飛び出してくるような男だ。

 そして、やはり想像以上の派手な登場をしてくれた。

 サリサは大騒ぎに苦笑しながら、表に出るタイミングを計っていたのだ。

 ムテの回りには、ジュエルの秘密を探ろうとしているリューマ族もたくさんいただろう。最低最悪だ。


 わざわざ、お昼時。

 ――人目につくような現れ方をしてくれなくてもいいのに……。


 サリサは一通り笑い終えると、やっとムテの最高神官の顔に戻った。

 祈りの儀式のときくらいしか一般人に顔を見せない存在だというのに、ウーレン王の派手な登場に付き合って、威厳も何もあったものではない。

 人だかりの中に、恐怖に怯えるエリザの姿を見つけた。なんと、ウーレン宰相ソリトデューン・モアラと一緒だった。

 王が秘密を知ったと知って、慌てて馬を飛ばして来たのだろう。彼がこの場にいて、しかも王のほうが先にジュエルを見つけたというのは、サリサには好都合だった。

 サリサはアルヴィに微笑んだ。

「我が友よ、十数年は私にとっては瞬きの時間ですが、つのる話はあります。二人きりで話がしたい。ジュエルは母親に返してあげてくれませんか?」

 アルヴィラントは、エリザの側にいる馬を引いた男の顔を見て表情を曇らせたが、素直にサリサの意見に従った。ジュエルは離されるとはじかれたように、エリザの元へ走っていった。


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