小鳥の巣・2


 ――今日こそ、真実を話さなければならない。


 マール・ヴェールの祠からは、慎まやかなムテの村々が見える。

 歌うような昼の祈りが、風のように渡っていく。

 今日はいい天気で、穏やかだ。

 だが、一度、霊山の雪をいただいた峰の向こうに目をやると、暗雲が立ち込めている。

 山の向こう、このムテの地をも支配している王国・ウーレンがある。真直ぐ飛べたらすぐの距離だ。しかし、厳しい地形に阻まれて、ここからはウーレンに抜けることはできない。見ることすらもできないのだ。

 暗雲すら、山に阻まれ乗り越えられない。


 だが、それはいつまでなのか……。


 ムテの最高神官サリサ・メルは、祈りを終えた。

 不安な気持ちになって祈るのは、祈らないほうがまだマシだ。


 あの暗雲を見なければ、彼の地に吹き荒れる嵐を知らなければ……心はずっと平安だっただろう。

 どうせ避けられない悲劇であるのなら、苦しんで、あがいて過ごすよりも、知らない方が幸せだろうか?


 今日こそジュエルの秘密を打ち明けようと、一の村の癒しの巫女・エリザを呼び出した。

 だが、今まで何度、この真実を伝えようとして、失敗してきたか。それを思えば、言わなければならないと思っても、何と言えばいいのか、わからなくなってしまう。

 ましてや……事細かく報告を受けているとはいえ、エリザに会うのは久しぶりで、いきなり、この話というのは、どういったものだろう?

 サリサは、この後に及んでまだ悩み続けていた。


 暗雲の中……稲光。

 それが、サリサに予見を運んできた。


「サリサ・メル様?」


 エリザが現れたのは、まさにその時だった。

 礼儀正しい挨拶をしたのに、サリサは返事を返せず、しばらく固まったままだった。夢見から覚めたのは、エリザが二度目に声をかけた時だった。

「赤い嵐が……来る」

 サリサが意味不明の言葉を呟いた時、エリザはかしこまって中腰で挨拶していた。おかしな格好のまま、「はい?」と奇妙な声をあげていた。

 大きな瞳が、パチクリと瞬きした。

 その様子が昔と変わらず、サリサは微笑んでしまった。

「久しぶりですね、エリザ。お変わりありませんか?」

「は……はい! お呼びにつ、つ、つ……つかまつりまして……恐れながら……」

 緊張すると、どもってしまうのも相変わらずだ。

 おそらく口上を考えて繰り返し呟きながら、石段を登ってきたのだろう。だが、サリサの言葉が予想外だったので、エリザが用意した言葉は無駄になった。


 けなげで、一生懸命で……。

 思い込みの激しい人。

 ゆえに、真実は封印され続けた。

 

「あなたのいいたいことはわかっています。私もあなたの希望をかなえてあげたいと思います。ジュエルの神官候補としての地位を反故とし、あなたの子供として手元に置いておくことを許します」

 エリザの顔が、ぱっと明るくなった。

「あ……ありがとうございます! 尊きお方!」

 ちょこんと敬意を示してお辞儀をする。


 真実を告げて、その顔を曇らせたくないと思う。笑顔を見ると、胸が痛む。

 サリサは、いつもその胸の痛みに耐えかねた。だから、いつもそれ以上言えなくなる。

 だが、今回はもう後がない。

 嵐はもうそこまで来ているのだ。


「でも、これから試練が待っています。赤い突風がこのムテの地を襲うでしょう」

 エリザの瞳が不思議そうに見開かれた。

 サリサは、逆に目を伏せた。

「あなたは……試練を乗り越えられないかもしれません」

「サリサ・メル様、試練とはいかがなものなのでしょうか? 我が子を思う母の心さえもしのぐ不幸は、死別のみ。私はジュエルのためならば、どのような試練でも乗り越えることができます」


 エリザは………何も知らない。

 その死別が、もうすでに五年前にあったことなど。


 穏やかだったマール・ヴェールの祠に、突然、風が舞った。

 不安げに立ちすくむエリザのストールがさらわれ、もう少しで崖の向こうに踊りながら飛んでゆくところを、サリサが捕まえた。

 歩み寄り、ストールをエリザの肩にかけた。

 サリサがエリザに触れたのは、本当に久しぶりだった。


 ムテの巫女制度は、貴重な最高神官の血を残すためのものである。

 霊山で二人は幾度となく体を重ねたが、神官の子を得るための、いわば、仕事だった。

 それは聖なる繋がりであってきずとはされず、巫女姫は子供を産んでも純潔とされ、むしろ、多くの男性に望まれるのが常だった。

 巫女姫を降りたエリザも、求婚され、婚約までこぎつけた人がいたが、彼はムテを去り、エーデムへと行ってしまった。エリザは、ついては行かなかった。ムテを捨てられなかったのだ。

 実際、エリザはエーデムには行かなかったが、しばらく祈りもなかったので、実質、サリサにとっては遠くへ行った人と同じことだった。最近になって、エリザは再び祈るようにはなったが、癒しの巫女の権利でもある霊山での薬草採取すら来る事がなく、やはり遠い人だった。


 最高神官がかつての巫女姫を懐かしんで、ストール越しにそっと肩を抱いても、決して不自然ではないだろう。

 だが、サリサは中途半端にエリザに触れただけで、すっと離れた。


「ジュエルの運命は過酷です。嵐の中に身を投じ、時に抗い、時にしたがって生きていくのか? それとも守られた結界の中で、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのか? いずれにしても辛い決断が待っている」

 サリサは、一息置いて覚悟を決めた。

「エリザ、心して聞いてください。実は……あの子は……」

「あの子は……やはり、老いたる人だから……ということでしょうか?」

 大きな目に不安を浮かべながら、エリザは話を遮った。

「いいえ、老いたる人ではありません」

「ああ、良かった……それを聞いて安心しました」

 エリザがほっとして目を細めたのを見て、サリサはもう話を続けられなくなった。


 ――エリザに、ジュエルの真実を受け取る力はない。


 やはり、エリザはムテの世界でしか、ジュエルの将来を想像できない。

 言葉では解けない強い暗示が、エリザを支配していて、真実を受け入れられないのだ。

 結局、サリサはジュエルの秘密を、今回もエリザに打ち明けられなかった。

 言えたのは、もう何度も言っている言葉だけだった。


「何があっても私たちが愛する限り、ジュエルは私たちの子供です。ですから…………けして無理をせず……。思いつめないよう……ともに試練を乗り越えましょう」




 その日も、エリザは森で薬草を採っていた。

 あの小鳥の巣の近くだった。あのヒナはどうしているのだろう? あれから日は過ぎ去った。無事に育っているならば、きっと巣立ちが近いのだろう。

 エリザはなんとなく気になって、巣を探してみた。

 巣はすぐに見つかった。

 が……。

 エリザはそこにいる鳥を見て、思わず息が止まりそうになった。

 巣からはみ出しそうな大きな鳥が、餌を求めて鳴いていた。小さな親鳥が餌を運んできたが、大きなヒナは一飲みで餌を食べ、親鳥さえも食べそうな勢いだった。

 大きく広げる口の赤が、血の色のように残酷に見えた。


 なぜこのようなことになったのだろう?


 ヒナがその鳥の子供であるはずはない。

 すでに親鳥の三倍はあるし、まったく似ていない汚い羽を持っている。

 なのに、親鳥は気がつかない。餌はちゃんと食べているのだろうか? 心なしか痩せこけて小さくなったように見える。その代わりヒナは丸々と太っていた。

 親は弱々しく羽ばたいて、全身の力を振り絞るようにして、また餌を取りに飛び立った。


「あれはとりかえっ子だ」


 突然、背後から声がして、エリザは飛び上がらんばかりに驚いた。

 馬を引いた男だった。音楽的な美しい声だが、マントを羽織って顔がよく見えなかった。しかし、戦士である気を発していた。

 男は言葉を続けた。銀の飾り紐で綺麗に編まれた漆黒の髪が、マントから見え隠れした。

「本当の親鳥は卵を生んだだけ。子供は孵ると他の卵を巣から追い出し、子供になりきる。仮親はせっせと子供だと信じて、育て、棄てられる。憐れなものだ」

 男の言葉に、エリザは青ざめた。その様子を見て男は驚いたようだった。

「おどすつもりはなかった。すまない。馬が足をいためてしまい、ムテの霊山への近道をしようとして、道に迷った。私は道を尋ねたかっただけなのだ」

 男はマントを取って礼儀正しく挨拶をし、ウーレン王とムテの最高神官の印が押された通行証を提示した。

『この通行証を持つ者のムテ自治区通行を許可する』

 血のような赤い瞳が光った。ややとがった耳先に赤い飾り毛が生えている。それはまさしくウーレン族の、王族の血筋の特徴だった。

 このムテで、異種の純血魔族を見ることはめったにない。永久に近い時間を、外の世界から守られつづけている平和なムテでは稀なのだ。

 エリザは軽いめまいを覚えた。


 赤い嵐が来る。


 最高神官のつぶやきを、なぜか、急に思い出した。

 そして、試練が訪れる予感に震えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る