第7話 兄


 お皿を運んだり、晩御飯の準備を着々と進めていたその時だった。


「ただいまー」


 無愛想な父とは違う、陽気な声が聞こえた。


「兄さん! おかえりなさいっ!」


 俯いた兄の顔は疲れたように見えたが、瀬戸の姿を見ると笑顔が弾けた。


「だったいま〜明美! 久しぶりだな」


 相変わらず、理解ができない洋服だなーと瀬戸が大笑いし始める。兄の服装は、可愛らしい熊に鮭! と書かれたTシャツにジーパンだった。ガタイがいいからか、Tシャツはピチピチだ。


 町やそこらで、歩いている男性とは明らかに違うがっしりとした身体。鍛えてますと言わんばかりの筋肉が、瀬戸の細い身体を包み込む。


「うわっ、兄さん! あはは、もう仕方ないか」


 幼い頃、よく受けていたハグもこの思春期まっしぐらの年になってからは、恥ずかしく思える。だが、今日ぐらいいいかなーと背中に手を回す。


 予想外の動きにピクリと兄の身体が反応した。


「あー珍しいな、明美。いつもなら関節技とかやってたろ?」


「えっ!? ボクは関節技とかしないけど……誰と勘違いしてるの?」


 おずおずと質問する瀬戸。溢れ出る殺気にヤバイと兄の顔が恐怖に歪んだ。




 兄の手を払い、瀬戸はゆっくりと振り返る。



「……敦。娘を誰と間違えたか? 言ってみろ」


 そこには、怖い顔をした父がいたのだった。




 ****





「うぐぐ、ぐはぁー」


 廊下で瀬戸の兄が倒れていた。道場で父と戦ったのだ。


「さっきのって彼女の話?」


「お、俺に彼女はいない」


「嘘だねー、いるんでしょ?」


 瀬戸はニヤニヤと倒れた兄の顔を覗き込む。兄は顔を背けて「いない!!」と大声で叫ぶ。


「でも父さんがこんなに怒るの珍しいね。よっぽど兄さんに彼女が出来たの嫌だったのかな?」


 瀬戸の不思議そうな表情で、疑問を口にした。


「まぁ、うん。お前には甘いわけさ。親父が怒ったのは彼女うんぬんじゃなくて、お前と間違えたからだろう」


 兄のよくわからない回答に、苦笑いしながら「そんなわけないじゃん。ありえないよ!?」と母親の元へ向かおうと、踵を返す。




「冗談なら笑えるんだよなー。大変だなぁ、明美は」


 埃を払い、立ち上がる兄は思わずポツリと独り言をこぼしていた。





「遅いわよっ! 明美」


 エプロンをつけ、気合い十分という感じの母が椅子に座り、スタンバイしていた。おそらく、玄関での父が怒っていたことも、母には筒抜けなのだろう。


「敦も座りなさい」


 なんとなく敦を見る目が生暖かい。彼女が出来て嬉しいのかなと瀬戸は考えつく。




「父さん来るよね? ……ママ」


 先程の激怒っぷりに、瀬戸は身体を震わせる。


「大丈夫よ、あの人恥ずかしがり屋さんだから。いつ行こうか、迷っているのよ」


 母は笑顔で、サラリと答える。


「お父さん、もう来てください? 」





「……あぁ」


 小さく返事が聞こえた。それから、のそのそとゆっくり自分の席へと歩き始める。


 あの怖い顔の父が、ドアの近くで呼ばれるのを待っていたのか。そんなことを考えてしまうとツボに入ってしまう。



「くくっ、あははははは」


 瀬戸が笑いだすと、ジワジワと笑いが伝染し始める。




 笑いが少し収まった頃、瀬戸が飛びっきりの笑顔で告げたのだ。






「ねぇ、父さん、兄さん。ご飯食べ終わったら稽古つけてよ」








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