参:空彦と火華


 チチチという鳥の鳴き声でゆるりと睡魔から目覚めた空彦そらひこは、間近に感じた気配に視線をそちらに向けて、息を呑んだ。美しい女子おなごの花のようなかんばせが、眠りこけている。空彦の隣でうずくまるようにして眠っているのは、火華かかであった。

 火華は確かに妖であるが、異形や妖であっても睡眠は必要とする。人間ほど睡眠や食事に拘らないだけで、彼らも生きている以上、それらから完全に切り離されているわけではない。だがしかし、それを知っていても思わず空彦が息を呑んでしまったのは、何も火華が模している姿が美しかったからでは、ない。


「……涙……?」


 そう、眠る火華の目元には、涙の跡と思しきものがあった。火華は炎の化身とも呼ぶべき妖であり、今の姿はあくまでも人間の女を模しただけの仮初めの身体でしかない。だというのに、その火華に涙の跡がある事実は、空彦を驚愕させた。

 涙を流して泣くというのは感情表現としての悲しみや喜びの一つに数えられるが、実際に涙を流せる存在というのは限られている。生態として涙を持ち得ない生き物もいる。炎の妖として生を受けた火華は、そういう意味では涙を持たない存在だ。喜怒哀楽は存在するが、人間のように涙を流して悲しんだりはしない。


 そのはずだった。


 だが、今、実際に空彦の目の前には、涙の跡を残した火華の顔がある。何が火華の身に起こったのかを、空彦が知る術はない。それでも、恐らく倒れた己が心配をかけたのだということだけは、理解した。未だ感覚が鈍く重い腕を、空彦はゆるりと持ち上げて、ぽすりと火華の頭を撫でた。


「空彦!?」

「起き抜けにいきなり叫ぶな。……心配をかけたな」

「もう、もう大事ないのか……?お主、三日も眠り続けておったのじゃぞ……?」

「三日か。思ったより短かったな」

「何が短いじゃ!」


 不安そうな顔で火華が告げた言葉に、空彦は淡々と呟いた。瞬間、怒髪天を衝くかのように火華が叫ぶ。そのまま半身を起こして座り、感情のままに空彦への罵声をまくし立てるが、空彦は右から左へと聞き流す。実際彼の予想では、己が目覚めるのは一週間か十日はかかるのではないかというものだったのだ。それを思えば、三日で目覚めたのは早い方と言えた。

 寝起きの、それも未だ完全に回復を果たしてはいない怪我人の耳元で叫び続ける火華の額を、空彦はぺしりと叩いた。とはいえ、その手には殆ど力が入っておらず、叩いたというよりは撫でたという方が近いだろう。その、あまりにも鈍い動きと頼りない衝撃に、火華は鉛を飲み込んだように言葉を詰まらせた。


「心配をかけたのは解るが、俺の予想ではもう数日は目覚めないはずだったんだ。まだ本調子ではない。あまり騒いでくれるな」

「……空彦」

「応急処置はお前がしてくれたのか?」

「そ、そうだ。いつも空彦が他の奴らにしていたように、荷物の中の薬を使って……」

「そうか、ありがとう」


 しどろもどろになりながら説明する火華に向けて、空彦は笑った。優しい笑みだったが、相変わらず生気に乏しい。目覚めたことを喜んだ火華ではあるが、空彦の具合がまだ悪いのだということを理解して、叱られた子供のように眉を八の字にした。端正な女の姿でも、その中身はあくまでも子供のような気質を宿した妖であると示すような所作だった。

 空彦の身体は確かに重傷を負っていたが、火華の応急処置と空彦自身が意識を失う寸前に施した術によって、峠は越えている。後は流した血と失った体力を回復させれば問題はなかろうという状態だ。けれど説明されていない火華はそれが解らないのだろう。相変わらず不安そうに空彦を見詰めていた。

 

「案ずるな、火華。大事ない。数日休んで体力を戻せば良いだけだ」

「本当だな?本当に、大事ないのだな……?」

「何だ?俺の言葉が信用出来んのか?」

「信用している!……だが、だが、我は……」

「火華?」


 弾かれたように叫んだ火華が、次いでしょんぼりと肩を落とした。俯いた火華の表情は、長い髪が隠して空彦には見えない。名を呼ぶ空彦に答えることもなく、火華はただ、俯いていた。未だ横たわったままの空彦は、相変わらず重い腕を何とか動かして、火華の髪を払ってその表情を覗いた。そこにあったのは、泣きそうに歪んだ子供のような顔だった。

 ふ、と思わず空彦の口元に笑みが浮かぶ。火華の、素直に感情を零す様は空彦にとって微笑ましいものだった。今にも泣き出しそうなその頬を、空彦は指先で優しく撫でた。涙の跡をなぞるように、そっと。


「空彦……?」

「泣くな、火華。心配をかけたことは詫びよう」

「……うむ」

「だがな、火華よ」


 悄然とした幼子のような火華の姿に慈しみを顔に浮かべながらも、空彦は口を開いた。それを告げるのは火華の為。そして、空彦自身の為でもあった。


「俺はか弱く脆き人間で、必ず、お前より先に死ぬのだぞ?」

「……っ」

「それだけはどうか、忘れてくれるな」


 はくはくと、火華は何かを言おうとして言えず、ぎゅうと唇を噛みしめている。美しい女のかんばせが、子供のように歪む様を見詰めながら、空彦は困ったように笑った。どこまでも自由な子供のような火華を思って、空彦はそんな顔をするのだ。

 空彦が告げた言葉は、紛れもない事実だった。どれほど優れた術の使い手であったとしても、空彦の器は、血は、魂は、人間のそれでしかないのだ。その寿命はどう足掻いても定命であり、そして、決してそれほど長くはない。旅から旅を続け、人と異形の狭間を揺蕩たゆたうように生きる己が、それほど長生きできるとは空彦は思っていなかった。

 長生きしたいと思うならば、それこそどこかの庵にでも引っ込めば良いのだ。人間が恐れる夜も、闇も、森も、山も、空彦には何ら恐れることはない。そちら側・・・・の者達も、空彦ならば喜んで受け容れてくれるだろう。

 だがそれでも、空彦はあくまでも人間として生きて、死にたかった。人間の両親から生まれ、人間の老師に育てられた空彦の、たった一つの願いだった。側に居ることも、共に生きることも許されなかった家族との縁を思うように、空彦は異形に心を寄せながらも、あくまでも人間の己に固執していた。


 だが、今、それをあえて火華に告げたのは、己が踏みとどまる為でもあった。


 己の身を案じ、己の為におそらくは涙を流したであろう火華を知ったときに、空彦の心は大きく揺れた。揺らいだ。死ぬのかと思ったそのときに抱いた感情が、ぶわりと蘇ったのだ。この幼子のような旅の道連れを、一人にしたくない、と。

 けれどそれは、人間が願ってはならない思いだ。炎の妖として生まれた火華に、寿命はない。誰ぞに討たれれば滅ぶだろうが、そうで無い限り火華が滅ぶことはないだろう。火は、この世界のどこにでもあるのだから。火が滅ばぬ限り、その化身として生を受けた火華が滅ぶことはあり得ないのだ。その火華に、定命の空彦が永遠に添うことなど、決して、許されない。


(……いや、許されたとしても、願っては、ならない)


 空彦が心から願えば、もしかしたら気まぐれな誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない。だからこそ、空彦は己を律するのだ。人間のままで、と。その境目を越えてしまえば、空彦にはもう、愛した家族のよすがは何一つ残らないのだから。

 そんな空彦の葛藤など知らぬであろう火華は、ただ、不服そうな幼子の顔で空彦を見ている。火華は空彦が終わり在る命であることを知っている。己より先に死ぬであろうことも解っている。だがそれでも、それはもっと遠い未来の話であると漠然と信じているのだ。……信じているからこそ、死にかけた空彦に揺らいだのだろう。


「そうだとしても、せめて、よぼよぼの爺になってから死ね」

「……何だそれは」

「まだ、我は足りぬぞ。お主と巡っておらぬ土地がまだまだあるではないか!」

「それはそうだが、あのな、火華」

「お主が我に、楽しいことを教えると言ったのだ!教え終わらぬうちに勝手に死ぬなど、我は絶対に許さぬ!」


 頑是無がんぜない幼子のような叫びだった。こちらは怪我人だぞとぼやきながらも、空彦は火華の言葉を拒絶はしなかった。確かに、暇を持て余して近寄る全てを焼き払うだけであった火華に、外の世界には面白いこと、楽しいことがあると告げて連れ出したのは空彦だ。連れ出すつもりは無かったが、成り行きで旅をすることになった原因は、確かに空彦の言葉でもあった。

 空彦が何かを言おうとした瞬間、火華の、擬態した女の細い指先が、空彦の頬を撫でた。撫でて、そして、火華は口を開く。


「……我は、許さぬからな……?」


 今にも泣きそうな顔に浮かぶのは、喪失を恐れる色だった。一人で生きてきた火華に、誰かと共に在ることを教えたのは空彦だ。旅の道連れとして共に過ごして、多くの感情を芽生えさせたのも空彦だ。そんな空彦を失うことを、火華は恐れているようだった。

 そんな火華を見て、空彦はゆっくりと息を吐き出した。互いが抱いた感情が何に起因するかなど、明確にするつもりはなかった。だがそれでも、火華は空彦を失うことを恐れ、空彦は火華を残して逝くことを恐れた。それが、たった一つの事実だ。そう思った。


「…………解った。肝に銘じよう」


 一人を恐れる火華を宥めるように、空彦は今にも泣きそうに歪んだその頬を、ゆるりと撫でた。滑らかな女の肌は、日頃空彦がらしく擬態しろと言い続けた結果のように、本物の人間のようだった。それでも火華が人ではないことを空彦は知っていて、いつか別れが来ることも、解っていた。

 解っていてなお、せめてと願った火華の言葉に、空彦は答えた。答えてしまった。これは本当ならば、決して答えてはいけない類いの何かであろうと思いながらも、答えてしまった。それは、他ならぬ空彦が、それを望んでいるからだった。




 人でも、妖でも、そんなことは構わないのだと彼らが紡いだ絆は、ただ、互いを半身と請う心だった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る