弐:火華という妖
意識を手放した
山小屋の質素な寝床に空彦の傷ついた身体を横たえ、火華は見よう見まねで空彦の傷の手当てを行った。だが、人の形を模していようと火華の本性は炎の妖でしかない。人の身体の構造など知らなければ、傷を癒やす方法すら知らぬのだ。
今まで、そのようなことを知る必要を火華は感じなかった。空彦の隣で、人間達に煩わしく言われぬ程度に人の形を模して共に旅をしていただけだった。空彦が体調を崩すこともままあったが、彼は優れた術士であり、薬にも通じていた。殆どのことを己でどうにかしてしまっていたのだ。
だからこそ、火華は困っていた。傷口を水と酒で消毒し、空彦が血止めに使っていた薬を塗り込んで布を巻き付けた。それはあまりにも不格好で、児戯のようですらあった。だがそれでも、火華は必死であったのだ。
「空彦……」
悄然と、火華は小さく目を覚まさぬ空彦を呼んだ。己が今感じている
ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。冷えた空彦の身体を温める為に、火華が小屋の中に火を焚いたからだ。人間がするように炉端に薪を入れ、己の火を灯した。時折、火が消えぬように薪を追加するという作業も、慣れぬ火華のそれではどこかぎこちない。いつもは空彦が問題なく行う作業を思い出しながら、火華は小屋の温度を一定に保った。
今の火華に出来ることは、ほぼない。空彦の傷の応急処置は済ませたが、それだけだ。炎の化身と呼ぶべき妖である火華には、癒やしの術など使えない。人間の身体の構造など解りもしない。空彦と共に旅をするために、形ばかりは
火華は強い妖だった。生まれ落ちたその時から、周囲の全てを焼き払うことが出来た。己に害成す者達を退けるだけの力を持って生まれた。人間と違い、異形は生まれ方も様々だ。火華はある日突然、火を噴く御山の火口の傍らで生まれた。気づいたときには己はそこにいて、火口の炎が心地好かったことを覚えている。
そんな風に生まれた火華だからこそ、親も兄弟も同胞も何もなかった。火華はずっと一人だった。だが、それを孤独だと思ったことはない。そもそも火華は、孤独という言葉の意味すら知らない。ただ生きて、戦い、そこに在った。
「……痛むのか?」
小さな呻き声が聞こえて、火華はそろりと空彦の顔をのぞき込んだ。しかし、空彦は答えない。顔を歪め、噛みしめた唇の隙間から細い息のような呻きを零しながらも、空彦が瞼を持ち上げることはなかった。呼びかけた己の声に
そろりと、火華は擬態したままの、見た目と質感や体温だけは人間と同じように整えた指先で、空彦の額を撫でた。そろり、そろりと。まるで何かのまじないのように繰り返す行為は、空彦と旅を続ける間に見かけた人間の行動だった。
熱に魘される子供の額を、優しく撫でる母を見たことがあった。傷の痛みに苦しむ夫の額を、労るように撫でる妻を見たことがあった。産後の疲れで寝込む妻の額を、感謝を込めて撫でる夫を見たことがあった。そうして撫でられた人間達は皆、苦しい中にも安堵を見せた。だから火華は、己には何の力も無いと解っていても、こうして空彦の額を撫でるのだ。
癒やしの術さえ使えれば、と思わなくはない。だが、癒やしの術を司るのは水や風、大地に連なるような者達だ。火華のような火に連なる者達に与えられるのは、全てを焼き尽くす攻撃の術と、冷えた世界を温める熱の力だけだ。願っても叶わぬものを求めるのは意味が無いと、火華はただ、空彦の額を撫で続けた。
火華はずっと、一人だった。空彦に出会うまでは、ただ、一人だった。
それが事実であるというのに、一人であることを寂しいとも悲しいとも孤独だとも思ったことなど無かったというのに、火華は今、言葉に出来ない何かで胸を詰まらせている。それが孤独を恐れる心だということは、火華には解らなかった。火華に解るのはただ、早く空彦にいつものように話をしてほしいというだけだった。
空彦と出会ってから、火華の世界は楽しみで満ちた。空彦は火華の知らない世界を見せてくれた。外の世界、人間の世界に紛れ込む日常は、火華の好奇心を満たした。火華が何かに大袈裟に反応する度に、空彦は眼を細めて楽しそうに笑っていた。お前はまるで子供のようだなと言いながら、空彦は一度として火華の行動を悪し様に咎めたことはなかった。
火華の世界は、空彦によって広がった。広げられた。もう、空彦と出会う前、一人で生きていた頃の己が、どんな風に過ごしていたのかを火華は思い出せずにいた。
「……空彦、早う目を覚ませ……」
呟いた火華の顔は歪んでいた。まるで今にも泣き出しそうな顔をしているが、その瞳から涙が溢れることはない。人間の姿を模しただけの火華には、涙を流すということさえ出来ないのだ。
時折苦しそうに呻きながらも目覚める気配のない空彦を、火華はただ、見詰めていた。人間はこんなにも弱いのだと、火華は知っていた。いつだって、彼らに挑んでくる人間達は脆く、弱く、火華も空彦も彼らを倒しては旅を続けてきたのだから。
けれど火華は、空彦が彼らと同じように脆く弱いということを、理解していなかった。空彦は強かった。火華と渡り合えるほどの強さを有した術者だった。その強い空彦が、人間に負わされた手傷で視線をさまようことになるなどと、火華は夢にも思わなかったのだ。
それを、火華の愚かさと言うのならば、紛れもなく愚かさなのだろう。空彦は常日頃から、「俺は人間だ」と言い続けてきたのだから。だが、その言葉に火華が信憑性を感じることが出来ない程度には、空彦は強者であったのもまた、事実だ。
「……嫌じゃ」
ぽつりと火華は呟いた。このままもしも空彦が目覚めなければ、と考えた瞬間に、言葉は唇からこぼれ落ちた。己の傍らから空彦がいなくなるという事実を、火華は認められなかった。共に過ごした時間はまだ数年だというのに、火華にとっての空彦は、無くてはならない大切な存在になっていたのだ。
眠る空彦の傍らで、火華はそれから数日、ただじっと、彼の回復を祈った。
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