壱:空彦という男


空彦そらひこ……!」


 火華かかの、驚愕したような叫びが響いた。常日頃、何も知らぬ幼子のように思うさま振る舞っている火華の口から零れるには、それはあまりにもどこか、危うい声音であった。無造作に掴んでいた襲撃者の身体を放り出し、火華は空彦との間にあった距離を一気に詰めた。


「……か、か……」

「空彦!しっかりいたせ……!」


 こふ、と空彦の唇から赤い血が吐き出された。火華はまるで、親とはぐれた幼子のように取り乱しながら、崩れる空彦の身体を腕に抱いていた。空彦の、質素な着物の袷の部分は、赤黒い染みで汚れていた。斬られたのだと理解するより先に、火華はただ、空彦の身体を抱きしめた。

 そんな火華に抱かれながら、空彦は薄れていく視界で、小さくため息をついた。何とも情けないことだ、と。どれほど優れた力を持っていても、結局彼の肉体は人間のものでしかない。脆弱で、貧弱で、力を込めればすぐに朽ちる、愚かな命でしかないのだ。

 そんな無力な自分を、空彦は初めて、ふがいないと思った。







 空彦という命は、歪な存在としてこの世を生きてきた。

 生まれも育ちもごく普通の山裾の民であった空彦が、こうして流浪の旅を続けているのには意味がある。彼は、普通の人々の生活の中に溶け込むことが出来なかった。その存在が、彼にとっては普通であることが、人々には理解が出来なかったのだ。そしてそれは、逆もまた然りと言えた。

 ただの村人の子として生まれながら、空彦は生まれながらに異質な力を持っていた。人には見えないモノが見えた。人には使えない摩訶不思議な業が使えた。本来ならば苦しい修行の果てに身につけるような力の数々を、彼は呼吸するようにたやすく扱った。

 そんな空彦を、親兄弟も近所の人々も恐れた。まるで人ではない何かであるように扱われた。幼い頃から大人びて、子供らしい無邪気さと無縁であったことも理由だろう。空彦の遊び相手はもっぱら他者には見えない何かであり、それらから様々な知識を与えられて成長した。

 空彦という命は、人として生まれながら異形との親和性が高いのだ。

 空彦が、人とは異なる理に支配されるそれらを恐れることはなかった。厭うこともなかった。ごく当たり前のように彼はそれらに近づき、言葉を交わし、当たり前のように共に生きた。月明かりさえも弱い深夜、鬼火達に照らされて談笑する幼子の姿は、さぞや親兄弟には恐ろしく映ったであろう。

 本来なら、幼子の時分に殺されていてもおかしくはなかった命。それが空彦だ。異形となれ合うおぞましい鬼子として屠られたとしても、誰もそれが誤りだとは言わなかっただろう。小さな小さな村で生きる人々は、生きるために必死だ。いつか異形を引き連れるかもしれぬ幼子を厭うたとしても、誰にも咎めることは出来ない。

 けれど、空彦は生き延びた。村で育ったわけではない。物好きな術士の老爺、村人に老師と敬われていた人物が、空彦を引き取ったのだ。老師は山に住んでいた。老師の節くれ立った手に引かれて空彦が山へ入ったのは、齢五つに満たぬ頃だった。



――お前は人の中で生きるにはいささか難儀をするだろう。

――老師はどうして、僕を引き取ったのですか?

――なぁに、儂は仰せに従っただけよ。

――仰せ……?



 老師は、空彦に様々なことを教えてくれた。彼が我流で、異形達からの知識のみで使っていた力を、人間に使いやすいように作った術式で補ってくれた。ありとあらゆる知識も叩き込まれた。そして、普通の人々との付き合い方も。

 空彦を引き取るように老師に請うたのは、山に住まう土地神だった。山神にとって、山とその麓に生きる命は全て彼の庇護下にある愛しい子らなのだという。病や飢えによって死ぬのは寿命とみなせても、意味もなく恐れられただけで屠られるのは憐れということだった。空彦は、そんな山の神の慈悲によって生きながらえた。

 だから、空彦は山の神を敬った。元々人ではない存在達に親しんでいた空彦である。己を庇護してくれた山の神へ畏敬を抱くのは当然と言えた。だが同時に、山の神もまた、老師同様に彼の師になった。山の神も老師も空彦に力の使い方と生きる術を教えてくれたのだ。



 ……そう、空彦は彼らの優しさによって生き延び、育ち、そして山を下りた。



 山を故郷と思う気持ちは本当だった。けれど、あの山は空彦の生家と近かった。成長した兄弟達に自分がどのように思われているのか解らないほどに、空彦は愚鈍ではなかった。仇なすつもりなどなかった。恨みなど持っていなかった。むしろ、困っているのならば手助けをと思う程度には情があった。

 だが、だからこそ空彦は、山を去ったのだ。

 空彦の心は家族に通じなかった。村の人々はただただ空彦を恐れた。老師の跡目を継ごうとした空彦を、村人達は拒絶した。仕方なしに空彦は山神にいとまを請うて山を下りた。不要な争いを引き起こさないために。

 そうして故郷を離れた空彦は、定住先を持たぬままに旅を続けた。人に仇なすものたちを、人も異形も問わずに狩った。困っている人々を術で助けて回った。それでも、感謝をされてもどこにも身を寄せることはなかった。……彼は己が、人の中で生きていけないことを知っていた。

 極論空彦は、人を守るために異形を狩っているのではなかった。異形達にも流儀がある。境界を越えて人に害をなしている者達は、その流儀に反しているのだ。だからこそ、狩る。それだけだ。だから空彦は、その流儀に反しない異形を狩ることはない。例えそれで誰かが困っていても、異形の側に正論があればそちらの味方をする。彼はそういう男だった。

 だからこそ、感謝と恨みを同じように買っていく。人の中に溶け込めないままにふらりふらりと国を巡り、空彦は生きてきた。その途中で暇を持て余していた火華と出会ったのは、本当にただの気まぐれだったのだ。

 その気まぐれの果てに、己は死ぬのかと空彦は思った。何も成さず、何も残さず、ただ流れるがままに生きて、果てる。……それは、今までの空彦ならばそれも一興と受け容れたであろう生き様だった。

 だが、今は。今の、空彦は。


「……火華……」

「空彦?無理に喋るでない」


 己を抱えて走る炎の異形を、それが変じた女の姿を、空彦は静かに見上げた。美しい女のかんばせに、行き場を無くした子供のような表情が浮かんでいる。火華は幼い子供のような気性をしていた。無邪気で、無垢で、残忍で、気まぐれで、……けれどどこまでも純粋だった。

 成り行きから共に旅をし、ふらりふらりとこの国を流離さすらってきた。それはひどく幸福な時間だった。退屈な筈の一人旅は、二人旅になればひどく賑やかで、愉快で、楽しいものだと空彦は知った。

 ……だからこそ、空彦は思う。今にも泣き出しそうに顔を歪めながら、女の形を模しただけの身体では涙など生み出せず、己の抱えた感情を持て余したまま走る火華を見上げて、思う。




(……あぁ、俺はまだ、死にたくない……)




 生に執着などしていなかった。今もおそらく、空彦は己の命に執着などしていない。死にたくないと願ったのはただ一つ。そう、たった一つだけだった。親に捨てられた子供のようなこの異形を、旅の道連れを、一人にしたくないと、そう、思った。




 けれどそこで空彦の意識は限界を迎え、無音と無明の世界へ落ちていくのだった。



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