27. 終わって始まる(3)
――僕の愛しい人。
お互いに、卒業おめでとう。
これからは、ジェレミーの会社で働くんだね。住まいも会社の寮に移すのだと聞いています。
兄のことだから、おかしな運営はしていないと思うけれど、寮ではくれぐれも用心してください。
必ず部屋の鍵はかけるんだよ。
僕は
大学では建物の設計や建築に関することを学ぶ予定だ。
その先で、鉄道の敷設に役立っていくことが目標だよ。
ランベールとシャルリーヌも進学だそうだ。
それぞれ、経済学と政治学を目指すらしい。
二人がいるから、少し安心して通える。
勿論、二人に甘えていないで、もっと積極的に人と関わっていこうと思う。
クロエ。
毎日会えなくなるのは、僕も寂しい。
そうなる前に、約束させてほしい――
今日は暑い、と夏の真っ青な空を見上げる。
ブランドブール侯爵家の町屋敷を訪ねたクロエにお茶を出してきたのは、包帯を巻いた手だった。
「オデット」
呼ぶと、彼女はぶすっと横を向いた。
「お客様には愛想良くしましょうね」
その後ろでジェレミーがニヤニヤしている。
随分悪いお顔をしてる、とクロエはきょとんとしてしまった。
「あの…… 彼女は」
荒っぽい音を立ててワゴンを押して行ったオデットの背中を見ながら問うと。
「僕の部屋周りを担当してもらってるよ。実にスリリングだ。いつ何が仕込まれるか分からないからね」
あはははは、と彼は笑いながら紅茶を飲んでいる。
「ついでに色々と勉強してもらってるよ。洗練されていないのが悩みだそうだから」
「……そう、話してました」
「調べてみたら確かに、まともな教育を受けられないような学校だったみたいだからね。貧しくなるとそういう問題も起こるのかと気付かされた」
ふっと笑いを消して、ジェレミーは口許を引き締める。
「鉄道を広げるのは勿論なんだけど。子供の未来を広げることにも助力したいと思うよ。僕の
クロエもぎゅっと唇を噛んで、頷いた。
かた、と空のカップを置く。
質実な応接室にさあっと風が吹き込んで、窓の傍のミモザが揺れて、カーテンが膨らんで、落ち着いた。
「クロエ。引っ越しは落ち着いた?」
「はい、お陰様で。素敵なお部屋をご用意くださって、ありがとうございます」
「寮なんて何年も住むところじゃないけどね。毎日ちゃんと休めるところにするんだよ」
はい、と笑むと、ジェレミーも頷き返してくれた。
「それじゃあ、明日から早速頼むよ。職場でね、僕の身近で手伝ってくれる人が欲しくて探してたんだ。来てもらえて、本当に助かるよ。最初は資料のまとめから手伝っておくれ」
卒論と変わらないだろう、と笑われる。
「私こそ、精一杯頑張るので、よろしくお願いします」
両手を握って言うと、もっと笑われた。
リュシーは自分の部屋にいるよ、とジェレミーに言われ。
案内に立ってくれたのは、やっぱりオデットだった。
「あの……」
「なによー!?」
「怪我は」
「痛いに決まってるでしょう!」
ああ、と両手を握りしめる。
赤い顔で振り返ったオデットは、じとりと睨んできた。
「同情は、いらない」
瞬く。
オデットは至って真面目だ。
「あたしがあたしなりに考えてやったことの結果だから、いいんだ」
しゃんと背筋を伸ばして、彼女は階段を登って行く。躓くこともなく。目的の部屋の扉を叩くのは少し粗雑だったけれど。
開かれた扉は、一人で入る。
「こんにちは」
窓の大きな部屋だ。奥に扉があるのは、その向こうが寝室だからなのだろう。
この部屋自体には、真ん中に低めの机が置かれていて、その上に高く本が積み上げられていた。床のあちらこちらにも本の塔が築かれている。
リュシアンは比較的無事なソファに座って、手招いてきた。
「全部リュシアンの本なの?」
歩み寄りながら訊いて、頷かれた。
ほうっと溜め息をついて、背表紙を眺めれば。
普通の小説や鉄道についての本に混じって、国中の有名な建築物に関する本もある。
「もう、勉強が始まっているのね」
横に腰掛けると、香水の匂いが漂ってきて、指先が絡みあう。
「大学は来月からなのよね。わたしは明日から働くことになったわ」
言うと、リュシアンは僅かに眉を寄せる。
「頑張るわ。ただ――」
と、舌を出す。
「今週末は帰ってきなさいって、父様母様に言われているの」
卒業が決まるなり即、ジェレミーの手配した寮に越したのが痛くお気に召さなかったらしい。
――当然よね。すぐ帰ってきて安心させるって思っていたんでしょうから。
「だからまた、一泊で行ってこようと思っているんだけど。アルフォンスがね、あなたを連れて行けって……」
曰く。男がいれば、婿を迎える気があるのだと良く解釈してくれるだろうということなのだが。
言ってから、クロエは頰を赤くしてそっぽを向いた。
――いやね。これって、わたしから結婚してくださいってお願いしてるみたいじゃない。
うう、と唸っていると、後ろから抱きすくめられた。
そして、頰に口づけ。
掌に小箱を押し付けられる。
「なぁに?」
振り向くに振り向けないまま、問う。
「開けていいの?」
首の横で蜂蜜色の髪が揺れる。
布張りの、紅色の箱。ゆっくり蓋を持ち上げて、息を呑む。
煌めいたのは、銀の指輪。
震える指先で添えられたカードを取る。
――愛しいクロエ。
四年、僕が大学を卒業するまで待ってほしい。
そうしたら、君が背負うドゥワイアンヌの未来を共に背負わせてほしい。
君となら、どんな苦しみも乗り越えていくと誓う。
だから、
リュシアン――
喧騒を貫いて、汽車が鳴く。
風に煽られたボンネットをしっかりと両手で押さえて、振り向く。
「行きましょう!」
今日はドゥワイアンヌまで。途中駅、これからの人生への通過駅だ。
クロエが笑うと、リュシアンはしっかり頷き返してくれた。
見つめ合う。
指輪が輝く手と手を繋ぐ。
二人で乗り込んだ列車は力強く走り出した。
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