26. 終わって始まる(2)
――鉄道という仕組みが考えられたのは、約二十年前だ。それが実際に建設され、国の東西を結ぶ一本が運用されるようになるまで十年かかった。それからさらに十年が経った現在、線路は国の様々な地域に向けて、王都から伸ばされていっている――
この十年で運ばれた人の数。物の量。そこから見込まれる、この先の量。もちろん、線路が延びて増えるだろう分も考慮する。
また、より多くの物を沢山の人の手に渡るようにするためには、どうしたら良いか。この考えは文字だけでは伝えられない。
「地図を描くって難しいよ!」
――頑張って。
掌に書かれた文字に吹き出す。
「清書をさせてって言ったの、わたしだものね」
クロエがペンを走らせる間、彼はずっと隣に座っている。
間違えないよう見張っているのかもしれないと背中に汗をかく。
途中で見向くと視線があった。
「……どうしたの?」
ひく、と頰が揺れる。
彼は無表情のまま、書き損じの紙の端に書き付ける。
――君の字は綺麗だ。
「そ、そう?」
――君が、優しいから。
「……だから! もう! ……ありがと」
顔が熱くなる。
同時に、彼の筆記体が力強いものだということに妙に納得した。
数時間後。
「あー! 腕痛い!」
クロエは叫んで、机に突っ伏した。
眼の奥がじんじんする。右の頰は机に押し付けたまま、何度も瞬いて、遠くを見やる。
陽の光が溢れる窓の外。六月になると、色とりどりの花たちよりも、緑の葉の方が勢いよくなってくる。
いよいよ、この図書室から見る景色ともお別れだな、と感慨に耽っていたら、目の前で少しだけ蜂蜜色の髪が揺れて、こめかみにそっと温かいものが触れた。
きっと、リュシアンの指先だ。
あ、と呟いている間に、書き上げられた紙はまとめて取られてしまった。しなやかな指がその束の端を揃えて、紐を通す。
それから、リュシアンは表紙に文字を書いて、クロエに渡してきた。
『ベルテール王国の鉄道の現状とその展望について』と書いた下に、エドガール・リュシアン・ベニシュの署名。
頷いて、隣にクロエ・マニアンと記した。
いよいよ、提出だ。
「わたしたち、卒業できるかな」
――大丈夫だよ。
ぎゅっと手を握られて、聞こえないはずの言葉まで聞いて。
手を握り返す。
温かい。
教官たちの部屋が並ぶ棟は、最終学年の生徒でごった返していた。さっぱりしていたり、蒼かったり、表情は様々の学友たちで。
長い廊下の壁側に立って、呼ばれるのを待つ。
五十三番という、後ろから数えたほうが早い番号だから、提出の順番が来るまでが長い。
その間何度も、大丈夫、と口の中で繰り返す。右手で論文を持ったリュシアンが、反対の手でクロエの手を握っていてくれる。
何を喋るでもなく、ただ待っているだけの中で。
シャルリーヌとランベールが一番に部屋から出てきた。
お疲れ様、どうだった、と何人もが声をかけるのに紛れて。
手を振る。
シャルリーヌは一度目を逸らしてから、足音高く近寄ってきた。
「受け取ってもらえた?」
「当然でしょう」
形の良い胸を逸らして、彼女は言う。
「全てにおいて完璧な論文を作ったんだから」
うん、と頷いて、ランベールを見る。
彼は苦い顔だ。瞬く。
「集めたものは完璧だったもんな」
それは結局、どこかからか何某かの下書きを手に入れた、という意味なのだろうか。
首を横に振って見せると、彼は肩を竦めた。
「やっとお終いだ」
「……
「子ども時代が、だよ」
そう校長先生は言っていた、と彼は笑い。お先に、と去って行った。
シャルリーヌも続こうとするので、慌てて呼ぶ。
「ねぇ。二人は何について書いたの?」
振り返った彼女はどこか泣きそうな顔で。
「議会制度のことよ」
と答えてくれた。
今度こそ、向日葵色のスカートを翻して去っていくシャルリーヌを見送る。
繋いだ手の指先に力が篭る。
西日に照らされた風が吹き込む部屋で。
「力作ね」
二人の担当をしてくれたセシリア教官は笑った。
「間違いなく卒業が認められると思うわ。明日の発表を楽しみにしていて」
「ありがとうございます」
御礼を言うのに、少し俯き気味になってしまった。その姿勢のまま、ちらりと見れば、向かいのソファに腰掛けた教官はニコニコしている。
「書いたのはクロエなのね」
「書いただけです。資料をまとめて内容を考えたのは、ほとんどリュシアンですから」
「そう、なの」
丸い顔の真ん中で目がまん丸になっている。
リュシアンを振り向けば、彼はセシリアの方を向いていた。だけれど、彼女の視線はクロエへ向きっぱなしだ。
「確かに、リュシアンは筆記試験の成績は抜群だけれど。こう、ね。何を考えているか分からないんですもの」
「それは…… 喋らないから?」
「そうなのよ。気持ち悪いのよ。どうしても、話を聞いていない感じがして」
「聴いてます!」
つい、叫んだ。
「聞こえていますから! 授業の話も、友達の言葉も、悪口だってなんだって聞こえていますから! だから」
と、セシリアを見つめる。
「先生。ちゃんとリュシアンにも話をしてください」
見つめている顔がだんだん蒼くなっていく。
リュシアンは一度首を振った以外は、無表情のままだ。
ぱたん、と扉を締めた後。
「リュシアンはもっと頷けばいいんだわ」
前を歩き出した彼の手を取りながら、唇を尖らせた。
「確かに、反応がないって怖いのよ。でも、聞こえているんだから。だから、聞こえている分かってるって伝えなきゃ」
振り返ってきた彼は、今までと変わらない。でも、とクロエは笑った。
「あなたからも近寄らなきゃ、皆逃げちゃうわ。その…… 笑われるかもってあなたも怖がっているのは分かってるんだけど」
自分から閉じ篭って、世界の端を決めてしまうのは勿体ない。ふと、そう思った。
涼しくなってきた夕暮れの風の中で。二人、足を止める。
俯く。
「卒業したら…… 毎日会えなくなっちゃうから。でも、大学で頑張っててほしいなぁって、沢山勉強できて、お友達もできたらいいなって思ってるから」
ぶんぶんと首を振って涙は飛ばす。
「わたしも、頑張るから。ジェレミー様の会社で働くことを許していただけたから、そこで頑張るから」
ね、と顔を上げて、クロエは目を丸くした。
リュシアンの顔。
目尻を下げて、頬を緩ませて、口の端は綻んでいる。
どこか、ぎこちないけれど。
――笑った!?
吃驚し過ぎて、動けない。
だから、呆気なく抱きしめられる。
そのまま、首の後ろを大きな掌で支えられて、唇で唇を塞がれた。
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