24. 壁を越えていく(4)
音の後。
赤い飛沫が散ったのは、クロエのすぐ横だった。
短銃が石の床に落ちて、ガランと鳴く。
「い、いた、痛い……」
オデットが呻く。右手を左手で包みながら。
指の隙間から、血が滴る。
銃声はオデットが握った短銃からではなかったのだ、とクロエは周囲を見回した。
誰かが、城壁の上の此処を、何処からか狙っている。でも分からない。
そうやって息を詰めている間に、ジェレミーが走ってきた。短銃は蹴飛ばして、城壁の向こう側へ。そしてクロエを抱き寄せる。
「大丈夫かい、怪我してないかい?」
青い瞳が真っ直ぐ覗き込んできたので、慌てて首を縦に振った。
「ごめんよ。我が家の問題に巻き込んで……」
するりと両腕の戒めを解かれ、クロエははあっと息を吐いた。
ジェレミーもまた溜め息を吐いて、草原を振り返った。
「相変わらずの腕だなぁ」
「今の、銃、は……」
「向こうからだよ」
指差された先には、太い幹で葉を大きく広げた欅の木。その枝の一つが大きく揺れて、人影が地面に降りて行くのが見えた。
「誰……?」
「リュシーだよ」
ジェレミーは笑う。
「君の身のことだったから。迷わず二人で来ちゃった。喋れる僕が折衝をするから、何かあったら撃ってくれ、とリュシーには言ったけれどね」
城壁に歩み寄ってくる彼を見つめながら、クロエは唇を噛んだ。
「躊躇わなかったね」
ジェレミーは全く震えていない。
「僕だったら、君に当ててしまうんじゃないかと怖くて、引き金を引けないよ」
そのまま、コツコツとオデットに歩みよる。
彼女は両膝を付いて、左手で右手を庇ったまま、それでも鋭い視線を向けてくる。
「君には撃てないだろう?」
髪を振ってぎっと睨んできた彼女に、ジェレミーは首をかしげて見せた。
「口が利けないからって何もできないわけじゃないんだって、分かってくれるかな?」
返事はない。瞳はぎらぎらと燃えたまま、頬は蒼白くなっている。
「この人は」
クロエが背側から声をかけると、ジェレミーは頷いてきた。
「僕が連れて帰るよ。手当も必要だしね」
それからしなやかな指で城壁の向こうを示した。
「クロエ。怖がらせた後に申し訳ないんだけど。行ってやってくれるかい? 多分、焦ってるから」
誰とはっきり言われない。でも、分かる。
――リュシアン!
スカートを翻して走る。駆け降りる。
階段の下に、リュシアンはもう辿り着いていた。
兄と同じように、風に煽られるままになっている蜂蜜色の髪。紺色の
肩には細長い猟銃。小さなウサギや子ギツネを仕留めるためのものだ。
あれで撃ったのかと息を呑む。
風が駈けてきた端、城壁のたもと。あと三歩の距離を残して、クロエとリュシアンは立ち止まった。
草と葉がざわめく。
湖の色の瞳が波打っているのを見て、胸の奥がぎゅっとなった。
――僕は君を抱きしめる許しを貰ったと思っていいのだろうか。
「勿論じゃない」
だから、両手を広げて、飛びついた。
香水の匂いがする。
温かい。
しなやかな腕が背中に回されて、抱きしめてくる。
思いっきり、声を立てて笑った。
「クロエに怪我が無かったから良かったけれど」
と、ブリジットは眉を吊り上げた。
「ジェリー、わざと危険な子を野放しにしていたなんてひどいわ! お父様も知っていたのでしたら、きちんと見張らせていてください!」
両手を腰に当てて立つ彼女の前。ソファに腰を下ろしたジェレミーと侯爵は神妙な顔で頷いている。
それを少し離れたところから見て、そっとリュシアンを振り仰いだ。
「……ジェレミー様も、侯爵様も、あまり反省って感じじゃないよね?」
すると、握られていた左手に、指先で
「リュシアンは、オデットのこと、知っていたの? どうして撃ったの?」
真っ直ぐに顔を見つめても応えはない。リュシアンが僅かに眉を寄せる。
「ええっと…… 聞き方を変えるわ」
クロエは指先でこめかみを押した。それから、広い応接室の、ブリジットがお説教をしているところから離れたソファに、二人で腰を下ろす。
近い。腕と腕が触れ合う距離だ。
「知りたいのはね。その…… オデットのお母さんが、もともとのこの家のメイドだったということを貴方は知っていたのって」
また、
「じゃあ、ジェレミー様が言っていたとおり、何かするんじゃないかって疑っていた?」
それにも、
「それで…… こんなことになって、怒っている?」
頷かれる。ぎゅっと唇を噛んだ。
「怒っているから、撃ったの?」
すると、首を横に振られた。瞬く。
リュシアンはポケットから小さな帳面を取り出した。
――僕は、喋れないから何もできない、人間じゃないと扱われると一番悲しい。
ああ、と呟いて。眉を寄せる。
右隣りの彼の手を、握る。
「悲しいのは分かったわ。だけど……」
と、情けない笑みを向けた。
「銃は、やっぱり怖いから。止めて。もう、撃たないで」
すると、彼も眉間に皺を寄せて。肩に頭を乗せてきた。
ずしりと温かさが伝わってくる。蜂蜜色の髪が頬をくすぐってくるので、また声を立てて笑った。
「もう! なんで、そっちは呑気なの!?」
振り返ったブリジットが目も吊り上げる。ジェレミーは腹を抱えて笑い出した。
侯爵は何故か。
「天使が増えたなぁ」
そう呟いた。
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