23. 壁を越えていく(3)

 続いて、草を踏みしだく音。

 二人揃って息を呑む。視線を自分たちが登ってきた階段へと送る。コツ、コツ、と岩を叩く音が近づいてきた。

 来たとオデットが呟き、階段からはジェレミーが現れた。

「やってくれるじゃないか、本当に」

 大きな溜め息。

 襟元のクラヴァットはぐしゃぐしゃ。蜂蜜色の髪も風に煽られる一方。そんな彼は、オデットを見て、クロエを見遣ってきた。

 ゆっくりと笑んで、頷かれる。

 クロエも立ち上がって頷いた。

「本当に来たのね、あーりがとー」

 オデットが一歩前に出たが、ジェレミーは上がってきたその場で立ち止まったままだ。

「来たよ。お望みどおりにね」

 もう一度、溜め息が響く。

「いつか何かやってくれると思ったけれど、まさかお客様に手を出すとは思わなかったよ」

 低いジェレミーの声に、目が丸くなる。クロエも、オデットもだ。

「な、なにさー。分かったような口利いて……」

「予測してたよ。だから旅行に連れて来たんじゃないか」

 さらに目を開く。

「僕の目の届かないところで何かされたら堪らないと思ったからね」

 え、と呟いたところで、グイッと後ろに引かれた。オデットだ。彼女が、両手を括られたままのクロエに背後から腕を回したのだ。

「よ、余計なこと言うなよー!」

 ぐりっと冷たい何かが頰に押し付けられる。

 そろ、と視線を下ろした瞬間、すうっと体が冷たくなった。

 短銃だ。

「まったく…… そんなものまで、何処で手に入れたんだ」

 再び、ジェレミーの溜め息が響く。

 それから、藍色の上着の前釦を外して、ばさばさとその前身頃を振ってみせた。

「ほら。何も持ってないよ。ご指定どおりにね」

 視線も冷たい。

「クロエを放すんだ、オデット」

「厭だよ!」

 きん、と鋭い声が響く。

「あ、あたしの話を先に聞けよ!」

「……何を?」

 両手をひらひら揺らして、ジェレミーは嗤う。

「君の何を聞けばいいの?」

「あたしの母さんを……」

 ああ、と呟いてジェレミーは首を振った。

「やっぱりそういうこと?」

 え、とまた間抜けな声を上げる。クロエもオデットもだ。

「屋敷の中に入れて雇う人間のことを調べないわけがないでしょう? 自分で書いた履歴書を確認するのはもちろん、それ以外の手段でもね」

 ジェレミーは肩を竦めた。

「君の母親はシモンヌ・ジローだろ? 僕が十二歳の頃まで町屋敷タウンハウスで働いていたメイドだ。顔まではっきり憶えているよ」

 それから、表情が消える。

「僕の大事なリュシーを笑った女だ。忘れるはずがない」

「笑った……?」

 呟いて、クロエはぎゅっと唇を噛んだ。


 不意に思い出す。お茶会に招かれた時にブリジットが話していたこと。

 ミモザの木から落ちたリュシーが『音』を出したこと。それを笑ったメイドがいたこと。

 ――彼女はすぐにお父様が馘首クビにしてくださったけれど。


 ジェレミーをじっと見つめる。彼は薄く笑った。

馘首クビにしてってお願いしたのは僕。リュシーが普通に喋れないのは、声が出せないってことは、屋敷にいる人は誰だって知っているはずだったんだよ。おかしいとは思うよ。でもそれを貶んで笑い草にすることは、赦さない」

「そ、そんなのはぁ!」

 オデットが叫ぶ。

「そんな、喋れないのが悪いんじゃないか! そんなせいで母さんを、あたしたちを……!」

「そうだね。今となっては短慮だったと僕でも分かるよ」

 一度息を吸って。彼は笑い直す。

「仕事を得られないとどんなことになるか、自分で事業をするようになってようやく実感した。だから、紹介状無しに追い出されたシモンヌがどれだけ苦労したか、想像が追い付いた。その娘である君の苦労にもね」

 だけど、と言葉を継ぐ。

「それが僕の弟だからそう思ったのかもしれなくて、もし赤の他人だったら何も感じなかったのかもしれないけれど。体のどこかが普通じゃないから笑っていいってのは納得がいかないんだ」

 ね、と彼は首を傾げた。

 オデットが黙る。

 クロエも唇を噛んで、ジェレミーを見つめた。

「シモンヌを馘首クビにしたのは、僕と父が、大事な家族を守るためにしたことだ。だから、君も君の愛する家族のために働くのを応援するのはやぶさかじゃないと思ったから雇ったんだけどね。勿論、分かっていて勤めようとするのだから、何かを狙っているだろうと考えた上で」

 ひらりと両手を上げて。ジェレミーは笑っている。

「君の話はおしまい? それなら、撃つかい? 母親を不幸にした男だと」

 耳のすぐ横で、オデットが息を深く吸う音がした。

 頬の冷たい感触は風のせい。銃口は、クロエの顔から離れていく。

 ゆっくりと、オデットは短銃をジェレミーに向けた。

 その腕は揺れている。紺色のお仕着せのままの腕がぶるぶる震えているのが見える。

――撃つの!?

 止めてと叫ぼうとした瞬間、パン、と銃声が響いた。

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