22. 壁を越えていく(2)

「起きたんだったら自分で歩いてくれるう? 一人であんたを運ぶの大変だったんだから」

 ニッコリ笑った彼女に、手首を引っ張られた。肘が、肩の付け根がギシギシと悲鳴をあげる。どうにかこうにか上体を起こしたところから、さらに引かれる。

「ほら、立ってー。降りるのよ」

 もごもごと呻いてから、わざと体の力を抜いて、キッと睨む。オデットは肩を竦めた。

「何よ、なんか言いたいの? ……まー、もう大騒ぎされてもいいかぁ。周り、なーんもないものねえ」

 両腕が頭の後ろに回されてきたので、咄嗟に目を閉じた。呆気なく猿轡を外されて、肩を震わせる。思いっきり息を吸い、咳き込んで、咽せた。唾が飛び、口の周りが濡れる。

「あらぁ。素敵な学校に通うお貴族様も、カッコ悪いところがあるのねぇ?」

 そろりと目を開けると、オデットはまだ笑っていた。

 また腕も引かれる。強い力だ。

「ほらあ、行くわよ」

 幌馬車の荷台から飛び降りる。よろめく。また笑われる。

「ダサーい。担いだほうが楽だったかしらー?」

「……担いだ、の?」

 思わず呟く。

「あたし、力持ちだからー。そうじゃなきゃ、部屋から馬車まであんたを運べるわけないじゃーん」

「運んだの?」

「廊下はさすがに引きずったけどねー。今も起きなかったらそうするつもりだったわー」

 言われた途端、背中やお尻が痛くなってきた気がした。痣が出来ているような、不愉快な感触だ。

 呻いて、それから、辺りを見回した。

 緑の草原。その中を走る石の壁――城壁だ。東の丘のブランドブール城まで来ていたらしい。

 たった今飛び降りた、素朴な幌馬車は一頭立て。他に人は見当たらない。

「……御者もあなたが?」

「そうよぅ」

 エヘン、とオデットは胸を張る。

「こういうのはできちゃうのよ、あたし」

 そのまま、彼女は草を踏みしだいて進む。クロエは引っ張られるだけだ。

「何処に行くの?」

「取り敢えず、この辺の城壁の上。さっさと来なさいよ」

 振り返った笑みはなかなかに凄味がある。

「大丈夫よ。脅迫状置いて来たから、追いかけてくるって」

「脅迫状?」

「そーよぉ。大事なお客様を返してほしくば首を差し出せってねえ」

 唾を呑み込む。震える視線で見つめれば、オデットはニヤリと笑った。

 そして、城壁の上へ。

 昨日リュシアンと訪れた箇所と違って、苔の匂いが漂い、ところどころ欠けたり崩れたりしている。巡らされた壁の中でも端の方なのだろうか。

 周囲は風に煽られるばかりの草木に囲まれている。獣さえ居ない。

 見上げれば、曇り空。

「あー、どっこらしょ! 疲れたぁ」

 大きな独り言とともに、オデットは転がっていた岩に腰を下ろした。

「本当、大変だったわ。お茶に睡眠薬入れるのは簡単だったけどさー。見つからないようにあんたを運び出して、馬車で屋敷を抜け出すのが面倒だった」

「……見つからなかったの?」

「そうみたいよー。だから、追いかけてきてくれるまで、休憩! あんたも座りなさいよー」

 おっかなびっくり、横に行く。両手は胸の前で縛められたままだ。

「このまま、クソ侯爵が来るのを待つしかないのー」

「……貴女のご主人でしょう? なんでそんな言い方を」

 と、途中で声を噛み殺す。オデットは目尻を釣り上げた。

「クソよ、クソ。あたしたち家族を不幸にしたお貴族様だからねー」

 瞬く。

「あなたの、家族?」

「そうよ。あたしと、あたしの母さんと、父さん」

 ぎゅっと鼻に皺を寄せて、オデットは遠くを睨んだ。

「あんたに言ってもしゃあないんだけどさっ」

 と視線は西へ。線路が続く先へ。

「生まれた時は王都にいたんだよ。父さんは従僕フットマン、母さんはメイドをしてた」

「……どこのお宅で」

「勿論、ブランドブール侯爵家でだよ」

 ふん、と鼻を鳴らしたオデットの視線が険しくなる。

「それがさぁ。ある日突然、母さんが馘首クビになったんだー」

 え、と呟く。

「おかしな話だろー? 普通に働いていたのに、その日、突然、だよ。それも…… 次に勤める先を探すための紹介状無しでさ。ああ、いいところのお嬢さんには詳しく説明してあげなきゃあだめかなぁ?」

 真っ黒な笑みを浮かべたオデットから、後ずさる。クロエは首を振って見せた。

「いい…… 大丈夫です。説明しないで」

「聞きなさいよぅ!」

 舌を打って、オデットが身を乗り出してくる。

「庶民が働き続けるのは大変なんだよー! ちゃんと働いてましたっていう経歴を示せないと、次の働き口は見つからないんだっ! 紹介状無く馘首クビになった母さん、王都じゃあ次の働き口は見つからなかったんだからねー」

 それで、と一つ息をついて。オデットは泣き笑いを浮かべた。

「自分も仕事を辞めさせられそうだから別れるって、父さんは母さんとあたしを置いて逃げて行った。王都で仕事が見つけられなかった母さんは、あたしを連れてウニーズまで逃げて、それまでよりずっと貧しくて汚い仕事をしてようやく食いつないでいたんだよう」

 さあ、と吹いた風が目元の雫を飛ばしていく。

「母さんはそのまま病気でぽっくり逝っちまった。あたしはー、このとおり。最底辺の中学校コレージュはどうにか出られたけど、全然洗練されないまんまさ」

「でも、今は侯爵のお家で働いているのでしょう?」

 問うと、首を傾げられた。

「ねえ? なんであたしなんかを雇ったんだろうねー? クソのくせに」

 そのまま、二人黙る。

 遠くから蹄鉄ていてつの音が聞こえてくるまで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る