21. 壁を越えていく(1)

――愛するクロエ。


 やっぱり君は優しい。

 僕のこんな気持ちをきちんと受け止めてくれて、本当にありがとう。


 まだ少し、信じられない気持ちでいる。

 夢を見ていたわけではないよね?


 僕は、君を抱きしめる、君の唇に触れる許しを貰ったと、思っていいんだろうか――




 クロエはテーブルに突っ伏した。

 鼻先で潰してしまった手帳を片手でずらして、息を吐く。

「そんなことされたら、わたし、今度こそ心臓が止まっちゃう」

 顔が熱い。ゆっくり身を起こして、もう一度深呼吸。胸の中を冷たい空気で満たす。

 窓から吹き込む風は、ひどく清浄だ。

 王都の空気とブランドブールのそれは全く違うらしい。


 侯爵家の客室は東に面していて、窓から荘厳な朝日を背負った城塞が見えた。

 夜明けの直前にひっそりと現れたリュシアンは、それを指差して教えてくれた。それから、いつもの手帳を置いて去って行ったのだが。

「本当に心臓が止まるかと思ったんだからね!」

 まだ暗い中を、文字通り音も無くやってきた彼を、すわ泥棒かと殴るところだった。

 悲鳴を指先で、拳を掌で押し留めて、熱っぽい瞳で見つめてきて――暗がりでも分かるほど潤んだそれに促されて見た朝焼けは、美しかった。

「教えてもらえたのは嬉しいけど、寝巻姿だったし恥ずかしかったんだから!」

 はあ、とまた大きく息を吐いて。

 立ち上がり、手帳に鍵をかけて鞄に押し込んだ。

 今、部屋にはクロエしか居ない。

 朝食の後、侯爵と兄妹たちは馬車に乗って出かけて行った。墓参りだ。

 ブリジットには一緒に来ないかと言われたが、さすがに遠慮した。またいずれ行こうね、とジェレミーはニヤニヤしていたが。

「あとで、街の中は教えてもらおう!」

 せっかくだ、と窓から身を乗り出して見回す。

 丘に向けて広がる街並み、麓には大きな駅舎。そこに向かう通りが街の目抜き通りだろう。行き交う馬車が多い。大きさも色合いも様々な馬車たちだ。

 不意に、扉が叩かれた。

 振り返ると、メイドがワゴンを押して入ってきたところだった。

「お茶をお持ちしましたぁ!」

「ありがとうございます」

 大きな声。紺色のお仕着せを翻して颯爽と入ってきた、と見せかけて彼女は盛大に転けた。

 ワゴンだけがカラカラと進む。慌てて両手を出して、滑るそれを押し留めた。

「……大丈夫?」

「転び慣れしておりますので大丈夫です!」

「慣れているの……」

 大きな溜め息を吐きだす。成程、このメイドは町屋敷や昨日到着直後に会ったメイドだ。確か、オデットという名前だったはず。

 捲り返ったスカートの裾を直すのを手伝ってやると、えへへっ、と笑われた。

「つい、裾を踏んじゃうんですよう」

「……このお仕着せ、そんなに丈は長くないわよね? 踝くらい?」

「それくらいですねぇ。 いやあ、学が無いから踏んじゃうんですよう!」

「勉強は関係なくない?」

「いやいやお恥ずかしいですねえ。あたし、西の港のほうの出身でしてー。洗練とは無縁なんですよう! 身に付ける機会を奪われた子供でしてえ」

 つい、瞬く。オデットはニヤリと口角を上げた。

「ま、そんなわけでお茶をどうぞ。お・じょ・う・さ・ま!!」

 ソーサーの上でカップが跳ねる。お茶の雫が宙を舞う。

 だが、目の前に突き出されたそれを受け取らないのも躊躇われて、クロエは両手で受け取った。

 熱い。

 だが、香りは良い。

「ウニーズの港に届いたやつらしいですよー。鉄道で運んだんだって若旦那様は威張ってましたけどぉ」

 啜ったそれは熱い。喉にツンとした刺激を感じて、それからぐるんと視界が回った。

 指先から、膝から、力が抜ける。瞼が下りる寸言、床で弾けたカップが見えた。



 絨毯に染みができちゃう、とぼんやり思った。



 ふっと目が開いた。

 随分硬い寝台だ。おまけに揺れている。

――ええ!?

 声を上げようとして、口の中に押し込まれた何かにそれを妨げられた。

 ついでに寝返りを打ちたくても、腕が広がらない。両手首を体の前で一括りにされているからだ。

 瞬く。

 天井が布だ。馬車にかけられる幌だと思い至って、クロエはもう一度悲鳴を上げそうになった。

 軋む車輪の音に心臓が縮み上がる。

 だが、いくらも経たないうちにそれは止まって、幌をめくって人が入ってきた。

 首だけを動かして、人の気配を探る。

「あらぁ。起きたのー?」

 顔を覗き込んできたのは、オデットだった。

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