20. 今までとは違う(4)

「乗馬なんてできないよ!」

 思わず叫ぶと、後ろでブリジットが盛大に噴き出した。

「大丈夫よ。リュシーがいるから」

 ねえ、と視線を送られた彼はゆっくりと頷いた。

「リュシーは上手だから心配するな」

 ニコニコと被せるように話す侯爵を、ブリジットは半目で見上げる。

「そうですわね。お父様より乗馬もダンスもお兄様のほうが、ずっとずっと、何倍もお上手」

「……リュシーのほうが乗馬やダンスだけでなく、猟銃の扱いも上手なのは事実だがな。そこまで言われると傷つくぞ、娘よ」

「知りません」

 リュシアンに手綱を引かれた葦毛の背には、やはり素朴な鞍が。横には、膝の高さほどの台が置かれている。

「さあ、乗って!」

 ブリジットがクロエの背を押す。よろよろと、台に乗って、鐙に足をかける。

 ふわっと体が浮く。

「 手は鞍の前にかけて! 左足上げて! スカートの中は見ないから!」

「いや、ちょっと、怖い怖い!」

「早く跨がないと落とすわよ!」

「それも止めて!」

 どうにか鞍の上に腰を落ち着けて、見下ろす。

 台の横にいるのはリュシアンだ。少し離れたところでブリジットがお腹を抱えている。

 背中を押していたのはリュシアンだったのか、とクロエは頬を染めた。

「じゃあ、行ってらっしゃい!」

「ええっと…… どこまで?」

「あそこ」

 リュシアンとブリジット、さらには侯爵までもが、同時に東の丘を指し示す。

「ブランドブール城だ。建国の時、野蛮なる一族が二度と踏み込んでこないようにと建てられた砦だよ。あの城壁の上から広大な平原プレンヌ・メルヴェイユーズが見渡せる」



 馬はゆっくりと歩く。クロエは鞍に座ったまま。手綱を引いて、リュシアンは歩いていく。

――気まずい。

 侯爵邸から、駅へと戻る通りを横切る最中、ひゅーっと鳴らされた口笛に肩を竦める。

 恐る恐る音が聞こえた方へ見向くと、作業着姿の男が、制服姿の男に拳を落とされているところだった。

「領主様の御子息をからかうとはいい度胸だ」

 そう言って、制服の男――警官はにこやかに手を振ってきた。

「お帰りなさい、リュシアン様。週末は御滞在ですよね?」

 手を振ってくるのは一人ではない。傍の建物の窓から何人もの人が顔を出す。

「本当だ、リュシアン様だ」

「お元気そうで何よりですよ!」

「大丈夫ですよ、二人乗りで駆け抜けてくださって!」

 正面から来た郵便馬車の御者も大きな声で彼を呼んで去っていった。

 その笑顔全てに緩やかに手を振り返して、リュシアンはまだ歩いていく。

「ねえ…… わたしも歩くよ」

 それに首を振られた。だが、見上げられる。

 手綱は握ったまま。彼は、クロエが腰を下ろした鞍の後ろを掴み、ひょいと跳んだ。

 どさっと音を立てて、クロエの背中側へ。

 心臓が高く鳴く。

 お構いなしに、葦毛は軽く走り出した。


 風が頬を撫でる。


 街を抜けて、小麦畑の間を抜けて、丘を駆け上がる。

 古びた石積みの城壁の前に辿り着くと、側の掘立小屋から人が飛び出してきた。

「おやおや、リュシアン様じゃないですか」

 馬から飛び降りて、彼は頷く。

「お客様もご一緒で」

 初老の男――彼も制服だ、王国軍のそれを着た男は、リュシアンから手綱を受け取った。

 手綱を握っていた手で、城壁の上を差して、それから小屋の横の柵を差す。

「城郭へ登ってくるんですね。その間、馬はお預かりしますよ」

 蜂蜜色の髪を揺らして、頷いて。ようやくリュシアンはクロエを見向いてくれた。

「……飛び降りるなんて無理だから、また踏み台を借りれませんか?」

「そんなお上品な物は無いよ、お嬢さん」

 兵が笑う。リュシアンは無表情で腕を広げる。

 え、と呟いて顔を染めても。

 リュシアンは無表情だし、兵はにこにこし続けている。

「早くしないと、陽が沈んじゃいますよ」



 抱きしめられて、手を引かれて、心臓は騒ぎ続けている。



 急な階段を昇って城壁の上へ出る。

 幅はないが、長さだけはある城壁だ。丘の上、東に迫り出すように築かれた城の守りからは、平原を遠くまで見通せた。

 緑の中を横切って流れているはずのダニューブ河も、地平線に近づく頃には、周りの岩石や草木と混然となって見分けがつかなくなる。

 空と大地の境目はどこまでも広い。

「ジェレミー様がね。世界の端は誰も決めていないって言ってた」

 吹きつけてくる風にあおられるボンネットを押さえながら、クロエはリュシアンを振り向いた。

 彼は頷く。

「リュシアンもそう思っていて――それで、鉄道を伸ばしたいお兄様のお手伝いがしたいのね」

 もう一度、頷きが返ってくる。クロエは笑った。

「素敵な夢ね」

 でも、と眉を下げる。

「わたしは…… 卒業したらどうしよう。やっぱり、すぐ結婚になっちゃうのかな。ドゥワイアンヌに帰らなきゃ駄目なのかな」

 唇を噛みしめてから、ゆっくりと言葉を繋ぐ。

田舎カンパーニュに帰ったら――リュシアンに会えなくなっちゃう」

 見上げること、暫し。

 ゆっくりと彼も見向いてきた。

 水色の瞳には、今はクロエしか映っていない。

「あの、ね」

 口を開く。

「言いたいことがあるの」

 唇も喉も、からからだ。

 声はそこでつかえて、出てこない。

――でも、今言わないと! 絶対後悔するから!

「その…… 手帳に書いてくれたことの、返事、よ」

 案の定。リュシアンは首を横に振った。

「お願い、聞いて」

 両手を伸ばして、右手を取る。

 大きな、手綱を握ったりして出来た胼胝のある手だ。

「わたしの気持ちも知って、お願い」

 ぎゅっと噛みしめられた唇が白くなっていく。

 その彼の手を胸の前でぎゅっと握りしめて。

「聞いてちょうだい」

 クロエは言った。

「あのね。その…… わたしは。リュシアンが思っているほど優しい人間じゃないの」

 すると、彼は僅かに目を瞠った。

「一つのものをずっと使っているのは、大事にしているからじゃないの。ただ、物を選ぶのが面倒なだけ、物臭ものぐさなだけなの」

 今度は首を傾げられる。

「友達の良いところを認める、なんてとんでもないの。ただ、相手の話に相槌をうっているだけなの。お調子者なの」

 まだ、彼は首を傾げたままだ。

「あなたに挨拶していたのも、その―― あなたが怖かっただけなの。何も言ってくれないから、嫌われているのかもしれないって…… 自分を守るためだけだったの」

 するとようやく、首を振られた。ただし、横に。

「本当だってば」

 項垂れて、目を閉じる。ぎゅっと指先に力を込める。

「本当よ。貴方が言うほど、素敵な淑女レディじゃないの」

 そろりと見上げる。水色の瞳には、泣き顔が映っている。

「だから…… だけど。それでも。そう思ってくれているのは嬉しかったの」

 今度は縦に首を振られた。はあ、と息を吐いて、目を閉じる。

――ここでおしまいじゃないのよ。

 うう、と呻く。

 お喋りな口、きちんと声を出す口が、肝心な時は動かない。

 だけど。

 顔だけは上げられた。

 真っ直ぐに、真っ直ぐに。

 限界を訴える心臓に、止まるなと鞭を入れる。吐息しか吐き出さない唇の手綱を引く。

「嬉しくて嬉しくて、仕方がないのよ。わたしも」

 ぎゅっと手を握って。

「だから」

――恋に落ちるのは簡単だ。あなたもそう書いてたじゃない。

 息を吸って。

「好きです」

 やっと絞り出した言葉は、風の音にかき消されそうなほどだったけれど。

 リュシアンの顔が赤くなっていく。

 反対の手が、堅く握ったままのクロエの両手に重ねられる。

 震える唇で呼吸を繰り返すのは二人とも、だ。

 触れ合った額からは高過ぎる熱が伝わってきて、つい、涙を零した。

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