15. すれ違いの条件(3)
モヤモヤは晴れない。
夕食の味も友達とのお喋りもざらざらと流れていくだけだったので、クロエは早々にベッドにもぐり込んだ。
カーテンの隙間からは仄白い星明り。物の形を窺うのがやっとな部屋の中で。
「リュシアンの馬鹿」
呟いて爪を噛む。
「リュシアンの馬鹿リュシアンの馬鹿リュシアンの馬鹿! なんで、あんなこと言ったの!?」
正確には『言った』ではない。『書いた』だ。だが、その違いは問題じゃない。問題なのは、内容だ。
――
「ずっと、って何……?」
卒論のペアを組む前からずっと、ということだろうか。
「どうしてよ。わたしが何をしたっていうのよ……」
全く覚えは無い。
覚えがないだけで何かしたのだろうけれど。それの何が、リュシアンにそんな気持ちを抱かせるに至らせたというのか。さっぱり分からない。そして、それに自分がどう返せば良いのかも、分からない。
そこに追い打ちをかけるような言葉達が頭の中で蘇る。
――あなたたち、お似合いだもの。
――リュシアンが狙ってるって知ってたから。
自分たちは、ただの卒論のためのペア、だったのではなかったのかと眉を寄せて。
「あー、もー!」
ドサっと寝返りをうって、もう一度頭から毛布を被った。
そして、名前を呼ばれる。
「卒業間近、あと数回しか行われない講義で居眠りとは、いい度胸だな、クロエ・マニアン。この修辞について完璧に説明してみせろ」
勿論、無理だ。
教室中の視線を集めて、いっそのこと、倒れてしまいたかった。
「調子悪いのか?」
茨の時間の後、まず声をかけてきてくれたのはランベールだった。
クロエが座る席の前に立ち、机の反対側から顔を覗き込んでくる。
「見事な隈だな」
「ちょっと、昨夜寝られなくて」
あはは、と笑ってみせても、彼は厳しい顔つきのままだ。
にこりとしてから、席を立つ。歩き出そうとして、机の脚にスカートの裾が絡まる。
引き攣った顔のまま前のめりになりそうなのを、済んでのところで止められた。
「あぶねぇな、おい!」
腕を掴んで支えてくれたのはランベールだ。声は明るいけれど、目元は鋭い。
「真っ青だぞ?」
「本当に平気だよ」
「……今日の授業は?」
「これでおしまいよ」
「じゃあ、寮に戻るんだよな? 送るよ」
そのままもっと力強く、ぐい、と腕を引かれた。
引き摺られるように、廊下を進む。校舎を出て、緑の庭園を進む。
最近夕陽をよく見るな、と思いながら、クロエは自分の腕を掴んだままのランベールを見た。
背が高く、栗色の髪は短く刈っている。掌は分厚くて、背中もがっしりしている。乗馬もスポーツも好きなのだと聞いているが、そのとおりなのだろう。
深緑の
それが急に、振り向いて。
「ちょっと、休憩していこうぜ」
へらっと笑いかけられた。指差す先には
春爛漫の風の隙間に立つその屋根の下に入って、一つの長椅子の端と端に腰を下ろす。
「こんなに離れて座るのかよ」
ランベールが笑う。
「だって…… なんだろ」
「何なんだよ!」
「今までそんなに喋ったことなかったから」
距離の取り方に悩むのだ。
そうだった、と解れていた髪の先を弄る。
ランベールは勿論、リュシアンも。学友の中にそういう人がいると、名前を知っていて、顔を見たことがあるという程度だった。
シャルリーヌや、他の華やかな女子の影に隠れていたのだ。負け組はおとなしくしていろという無言の要求に逆らう事もなく、いつもゆるゆると笑っているばかりだったので。
「……ランベール、よく、わたしの名前知ってたね」
「へ?」
彼がきょとんとするのに頬が熱くなり、それを両手で抑える。
「だから…… 自分でも目立たないって自信がありまして」
「はぁ」
「ペアを決める時もなかなか声をかけてもらえなかったくらいでして」
「ああ」
「家のことを見ても、田舎のしがない小領主なんて、沢山いるし」
「うーん」
「……アンヴェルス公爵様には縁のない悩みでしょう?」
「逆に、玉の輿狙いが多くてウザいけどな。シャルリーヌとか」
ぎょっとなる。じっと見つめているうちに、彼の表情は陰っていく。
「将来の友好の為だとか、社交の練習だとか、建前は格好良いけれど。結局は、自分の身分を補強する為の相手探しで、ズルをする練習でしかないのな」
「それは……」
今、その真っ只中である、卒業論文の作成のことだろうか。
クロエが眉を寄せるのと同時に、ランベールは少しだけ、座る位置をずらした。少しだけ、こちらに寄った。
「要領が悪いって、要は正直者なんだなって、最近思ったんだ」
じっと、視線を向けてくる。季節を先取りした、太陽のような、瞳。
ついで、手が伸ばされてきた。
右手を取られる。指先が絡まる。
「ランベール?」
湿った視線が、怖い、と思った。身を引こうとしたのに、引っ張られて前に倒れ込む。
近くなる。
「なあ、クロエ」
深緑の瞳が近い。
「俺は、さ……」
吐息が混ざりそうなほど、顔が近づく。何か言わねば、という焦りだけが増していく。
それを切り裂いたのは、金切り声だった。
「離れなさいよ、泥棒猫!!」
四阿の前に、黄色いドレスの少女が立っている。
彼女をジロリと見遣ってから、ランベールは身を引いた。
「よう、シャルリーヌ」
硬い声で呼ばれた彼女は、まだ肩を震わせている。
「何をしているの、クロエ」
目を丸くして、首を振る。
「何もしてない!」
「嘘つけ! なんで今、ランベールのキスを受けようとしていたのよ!」
「してないってば!」
「止せよ、シャルリーヌ」
ガバッと立ち上がったランベールが駆け寄るより早く、シャルリーヌがつかつかとクロエに寄ってきた。
右手が振り上げられる。
直後左の頬に、ピリ、という痛みを感じた。
呆然と見上げる。
シャルリーヌの顔は真っ赤だ。目の端には大きな雫が浮いている。
「あんたなんか、負け組のくせに!」
次いで左手も振り上げられる。慌てて目を瞑る。鼻の先に固くない何かが、バシッとぶつかった。
「手紙が来てたわよ」
それだけ呟いて、彼女は踵を返した。裾を翻した姿が遠ざかっていくので、慌てて立ち上がって、追いかけた。
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