14. すれ違いの条件(2)
扉の方を向いたままでいたら、肩を叩かれた。
「ひゃあ!」
振り向く。そこでは、少年が目を丸くして立っていた。
「あ、ああ、リュシアン。……びっくりした」
彼は瞬く。クロエはアイボリーのブラウスの上から、両手で心臓を押さえた。
「ごめんね、ごめんね。図書室に居ると思ってなくて――」
えへへ、と笑うと首を振られた。
いつもどおりの白いシャツに紺色の
それから、彼は懐中時計を取り出した。それをしゃらしゃらと揺らされて、はっとする。
「そうだ、時間だ! 忘れてた!」
がばっと立ち上がって、読んでいた本を閉じる。散らかっていた本も重ねていく。
「セシリア先生との面談だったね…… 行かなくちゃ」
頷いたリュシアンは、ひょいと重ねられた本を抱え上げた。
「片付ける! 持つよ!」
叫んでも、彼は身軽に歩いていってしまった。
クロエは、遣り取りのための手帳だけ抱えて、その背中を追った。
あの日以来、卒論のことしか書かれていない手帳だ。
二人連れだって、壁一面を本棚に占拠された部屋に入るなり。
「資料を読み込んでいるんですって?」
奥の椅子に腰かけた卒業論文の教官であるセシリアはにこにこと口を開いた。
「ランベールとシャルリーヌから聞いたわ」
「ああ、二人も面談に来ていたんですね」
「つい先ほどね。その前から、他の子からもクロエは熱心に活動しているみたいと言われたし」
そう聞いた後、クロエは並んで腰を下ろしたリュシアンを見上げた。
寸分の隙も開くことがない唇。
クロエは眉を寄せて、正面に向き直る。膝の上に置いた手帳の上で、掌がじんわりと汗をかく。
テーブルを挟んで向かい合った部屋の主、セシリアも変わらず真っすぐにクロエを見向いていた。
「どう? ペアを組んで二か月。締め切りまでの期間が半分過ぎたわけなんだけど」
「そう……ですね。順調なのかしら?」
「書くべきことはまとまった?」
「鉄道の敷設の歴史と、今後の活用について、二部立てで書こうと思いますけど……」
骨組みを作るのはリュシアンだ。そう言い差して、黙る。
じっと、眼鏡の向こうのセシリアの瞳を見つめる。
ニコニコと、視線をぶれさせることもなく、
「歴史はこの間、私が貸した資料で足りる?」
「図書室にもありました。大丈夫です」
「今後の、というのはどうするの?」
「リュシアンのお兄様に資料をお借りできたんです。それを今、読んでいます」
良かった、と彼女は微笑んだ。
「上手くいっているみたいで安心したわ」
はあ、と気の抜けた声を出したのに、彼女の表情は変わらない。
だけど。
「出来た順番も後の方で、気が合うから組んだってわけじゃなかったでしょう?」
自分の表情が変わるのを感じた。
「クロエは素直でいい子だなって知ってるけど、駆け引きなんかは苦手でしょ? だから、そう、ね…… 相手もあのリュシアンだしって思ってたの」
すうっと背筋が冷えていく。そろりと見上げたリュシアンは、身じろぎすらしない。
「でも、本当、大丈夫そうね」
セシリアは笑っている。
「力作楽しみにしているわ」
それから、もう二言三言交わして、部屋を出る。
廊下で待っていた別のペアの二人とも挨拶を交わして。
その間もリュシアンはずっと無表情で佇んでいるだけで。
寮へと向かうべく、小路を歩き出す。
日は西に、気持ちも傾き気味。クロエは溜め息を吐き出した。
少し前を歩いていたリュシアンが、肩を揺らして、立ち止まる。
「ごめんなさい、大丈夫」
掠れた声で言って、無理やり笑う。
一度首を傾げて、彼はクロエの正面に立った。
視線が絡む。また頬が熱くなる。指先で綴られた言葉の熱が蘇る。
「リュシアン」
呼んで。
――わたしは、恋とかそんなのは無くて。
言いかけて。
近づいてくる喋りの声と足音に二人で振り返った。
均された小路をやってくる一団。その中心にいるのはブリジットだ。
「リュシー! クロエ!」
淡い空色の袖を揺らして、彼女は輪から抜けて走ってきた。ぱっとリュシアンの腕に飛びついて、にっこりと一緒にいた一団に笑いかける。
「ごめんなさいね、みんな。わたし、兄に用があるからここで失礼するわ。みんなはゆっくりお散歩とお喋りを楽しんできて」
がやがやといろんな言葉を吐き出して、一団が去っていく。
その一団のほとんどが、先日のお茶会で見た顔だと気が付いて、クロエは瞬いた。
「みんな、まだ時間があるのに、ペアづくりに躍起なのよ」
はあ、とブリジットが息を吐く。
「この間のお茶会もだけど、男女の数が同じになるようにいろいろな場を作るのって大変!」
「この間も? 今のお散歩も、なの?」
「びっくりでしょう? でも、もう約束を交わせたって聞いたりもするから、無駄じゃないと思いたいんだけど」
くてん、と寄りかかった彼女の頭を、リュシアンはぽんぽんと叩いた。
「あっちでもこっちでも『自分はあの人と組みたくて』って話を振られるのよ。どうしてみんな、わたしに話すのかしら」
「……ブリジットが頼りになるから、だわ。きっと」
笑う。リュシアンの肩に頬を押し付けて、ブリジットも笑った。
「そういうことにしようかしら」
ふわっとスカートが広がる。真っ直ぐに立って、彼女はリュシアンを振り仰いだ。
「さっさと寮に戻って一休みするわ」
「わたしも戻るの!」
そろりと手を上げたクロエを、ブリジットはきょとんと見向いてきた。
一方でリュシアンは頷いて、右手を出してきた。
「えっと…… これかしら?」
抱えっぱなしだった手帳を両手で差し出す。すいっと持ち上げて、彼はすたすたと歩き去っていってしまった。
その背中が木立の影に隠れてから。
ブリジットはペロッと舌を出した。
「お邪魔虫してごめんね」
「えっと…… 大丈夫よ」
「デート中だったでしょう?」
「違うわよ。卒論の面談の帰り」
「それがデートなんだってば」
もう、と頬を膨らませたブリジットと並んで歩き出す。
住み慣れた寮までの道を笑い通しで歩いて、玄関をくぐった後に。
「リュシーをよろしくね」
言われ、曖昧に頷いた。
「あなたたち、お似合いだもの」
ふふっと笑われて、眉を下げる。
「そうかしら?」
「あの日いた友達はみんなそう言ってたわ。ダンスが素敵だったって」
「……わたし、あの時リュシアンの足を踏んだのよ!」
叫ぶ。ブリジットはお腹を抱えて笑い出した。
「でも、リュシーってば、平気そうな顔のままだったのよ」
「我慢してくれたの!」
「知ってるわ、みんな知ってる! だから、よ!」
ケラケラと笑いっぱなしのまま、手を振ってブリジットは階段を駆け上がっていった。
ぽつん、とホールに取り残される。
「わたし、は」
と、熱を持った頬を両手で押さえた。
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