10. 逃げられる理由(2)
「もっと作っておけば良かったのよ、デイドレス」
シャルリーヌが笑う。
「だって、そんなに着る機会があるなんて、思わなかったし」
クロエはむくれて、それに、と胸の中で叫んだ。
――お気に入りなんだから、黙っててよ!
ラズベリー色のドレスにボンネット。今日は、濃い緑のポシェットも持つ。
「完全に
アメリアとヴァネッサにも笑われて、さらに頬が膨らんだ。
三人の笑いが徐々に小さくなっていって、空気に溶けて消える。その後に、溜め息とともに言葉を吐き出したのは、シャルリーヌだった。
「ごめんって」
「いいわよ、別に」
――わたしもバカだな。笑って誤魔化せばいいのに。
クロエも、溜め息を吐いた。胸に手を当てて、眉を寄せる。
足早に寮を出る。
混じり気のない空の下、学園の門の前で待ち合わせだ。
約束の五分前。紺色の外套を着たリュシアンが待っていた。駆け寄るとそっと右手を出された。
――これは、今度も、もしかして。
唾を飲み込む。
鼓動のファンファーレの中で、自分の手を差し出す。
重なった掌。それを下側のリュシアンが持ち上げる。爪の先に唇が触れる。
――ああ、もう!
頬が熱い。真っ赤だろうな、と思う。
リュシアンは静かな湖のような瞳のまま、向き直って。クロエの手を引いて歩き出した。
導かれるまま、進む。
掌も熱い。
熱いだけでなく、硬かった。
指の節や付け根には、
――ペンを持つ位置…… じゃないわね。何を持っていて出来た胼胝だろう。
黙って進む。
――本を読むところしか見てなかったから、知らないわ。リュシアンってどんなことが好きで、何が得意なんだろう。
考えだけが転がっていく。
――木登りが上手だなんて思わなかったなぁ。
文章が饒舌だということも。
やがて、王都の中でも特に閑静な一角へ。
「
三階建ての煉瓦造を見上げ、リュシアンが頷いた。
建物を囲むように、赤い煉瓦の塀。門を入ってすぐも、同じ色の煉瓦の小路。そこを、リュシアンはやっぱり黙って進む。
白い玄関は開かれていて、潜ると声がかかった。
「おかえりなさいませ、リュシアン様」
灰色の髪の、服から考えるにこの屋敷の執事だろう、壮年の男が頭を下げる。
「そして、いらっしゃいませ。クロエ様」
穏やかな声に、心臓が跳ね上がる。声がつっかえて、お世辞にもよくできたとは言えない挨拶だったのに、彼は笑顔を崩さない。
そのまま執事は言葉を継いだ。
「リュシアン様。お茶会の前に、お二階へ。ジェレミー様がお待ちです」
リュシアンが頷く。それから、ゆっくりクロエの方を向いてきて、殊更ゆっくりと手を持ちあげた。
――繋ぎっぱなしだった!
さらに頬が熱くなった。執事はニコニコしている。
ゆっくりと離れていった温もりは、エントランスから続く階段を真っすぐに上がっていく紺色の背中は、心細さしか残してくれない。
濃紺の三つ揃えの執事に呼ばれて、クロエはそろりと顔を上げた。
「クロエ様。リュシアン様と親しくしてくださり有難うございます」
「あ、そんなこと…… こちらこそ、ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げる。執事はセザールと名乗り、クロエの肩をゆっくりと押してくれた。
「ジェレミー様とリュシアン様は後程参りますので。先にどうぞ、お茶会の場へ。ホールとそこから見える庭を開いております」
「お庭があるんですね。今の時期なら…… ミモザが咲いていますか?」
「ご明察です。どうぞ、花もお楽しみくださいませ」
そして、傍を走っていたメイドを呼び止めた。
「オデット。お客様をご案内なさい」
「はい、セザール様! 早速…… うおっとう!」
濃紺のお仕着せの裾が大きく広がる。どてっという音が廊下に響く。
「……オデット」
「うええええええ、失礼しましたぁ! ちょっと、裾を踏んじゃってぇ!」
くるぶしより上の裾をどうすれば踏めるのだろう、と思わなくもなかったが。床にぺたんと座り込んだまま、えへへ、と首の後ろを掻く彼女に、クロエはつい吹き出した。
「えっと…… ご案内お願いします、オデットさん」
「はーい、分っかりましたぁ!」
「オデット」
セザールの声だけ冴え冴えとしている。ぺろっと舌を出して立ち上がったオデットに手招かれ、クロエは廊下を真っすぐに進んだ。
その先がホールらしい。
広い部屋だ。壁際の白いテーブルの上には、お行儀よく積み上げられたロールケーキと果物たち、白地に青い模様のティーセット。奥にはチェンバロが置いてある。
先客は二十人ほど。皆、同じ年ごろの少年少女たちだ。彩り豊かなドレスが翻り、笑い声が響く。
知らない顔ばかりだ。ブリジットの誕生会を兼ねているのだから、下の学年の子ばかりなのだろうなと考えて、クロエは窓際のソファに腰かけた。
窓のすぐ傍には黄色い花が咲いた木。
「そのミモザの木からね。リュシーってば落ちたことがあるのよ」
くすくすという笑い声に振り向けば、ブリジットが立っていた。
金色の巻髪には、瞳と同じ水色のリボン。レースがたっぷり使われたドレスも水色で、黄色や緑のビーズが縫い付けられている。
一瞬だけ自分のラズベリー色を見てから、クロエは立ち上がる。
「お招きありがとうございます」
「どういたしまして。わたしの我が儘なの。だって、リュシーのお友達でしょう?」
ふわり抱きしめられてから、改めて顔を見る。
そっくりだ。
リュシアンがもっと笑ったら、きっと同じ顔だ。
「リュシーには何度もお友達を呼ばせてってお願いしてたのに、ずっと駄目だったの。でも、クロエは許してくれたわ。お会いできて嬉しい」
彼女は朗らかな表情のまま、クロエに先ほどの木を見るよう促した。
「そのリュシーが六歳くらいの時かしら。そこの木にね、鳥の巣ができたのよ。リュシーはそれを見たくて登って、巧くこぶを掴めなかったらしくて、幹を滑り落ちてきたの。勿論大した怪我じゃなかったんだけど、大きな声を上げて泣いたわ。わたしが、リュシーが声を出しているのを見たのはその時だけなの」
「声…… 出せるのね?」
瞬くと、ブリジットは首を傾げた。
「声っていうより…… 音?」
「音?」
「そう…… 壊れたホルンみたいな音だった」
ぎゅっと眉を寄せて、ブリジットは低く呟いた。
「口さがないメイドが人間の声じゃないって笑ってた。彼女はすぐにお父様がクビにしてくださったけれど。リュシアンは、きっと気にしているのよね。それからはずっと、黙っている」
クロエも眉を下げた。
でも、とブリジットが笑い直す。
「喋らないだけで、何も考えていないわけじゃないのよ。いろんなこと知っているし、ダンスも乗馬も上手なのよ」
そこに。
するりとチェンバロが鳴った。奏者はセザールだ。
歓声が上がる。見回せば、周りの子たちは手に手を取り合って、ステップを踏んでいる。
入り口には、紺色の胴衣のリュシアンと、もう一人背の高い男性がいる。
「ジェリー! リュシー!」
ブリジットが駆け出して、真っすぐに背の高い方の胸に飛び込む。
――お兄様だ。
ぎゅっと抱きしめ合った後、ブリジットはリュシアンの腕を取った。
こくん、と彼は頷く。
そのまま、二人は手を取り合ってダンスの輪の中に入っていってしまった。
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