11. 逃げられる理由(3)

 ホールの床がリズムを刻む。 三拍子に合わせて、水色のドレスが広がる。揺れる。

 軽やかに踊るブリジットの手を、リュシアンが支える。

 ずきん、と胸の奥が鳴った。すとん、とソファに座り直して、クロエは自分の足元を見た。ラズベリー色のドレスに合わせた栗色の靴。爪先が少し剥げていて、眉を寄せる。

 俯いた顔の前にすいっとカップが差し出された。

「……え?」

「当家自慢のお茶をどうぞ」

 くすくすと。目を細めて笑う人がいる。金色の髪に水色の瞳。

「ジェレミー様?」

「ああ、もう名前は知っていてくれた? そうです、ジェレミー・ベニシュです。リュシーと、今日の主役の兄だよ」

 白磁のソーサーをクロエに持たせて、彼は隣に腰を下ろしてきた。隣に並ぶと、彼は背が高いのだと余計に感じる。その長い脚と引き締まった躰を包むのは、藍色の三揃え。

 長い指先が、押してきたらしいワゴンから紅茶のカップを持ち上げて、傾ける。

「紅茶は楽しんでもらえた?」

「い、今から飲みます!」

 慌ててカップに口をつけた。熱い。でも、ちょうどいい。飲んだ時に初めて、喉が渇いていたのだと気が付いた。

「美味しい」

「そうだろう? 二杯目はどうだい?」

 ジェレミーが、ワゴンからポットを持ち上げる。空のカップに注がれる透き通った紅茶からふわりと湯気が広がる。

 今度はゆっくりと口の中に入れる。

 熱い。

 舌の上で香りを転がしながら見上げると、ジェレミーはまだ目を細めている。

「その紅茶が何処から来たかはご存じかな?」

「あ…… いいえ」

 首を振っても、彼は楽しそうに言葉を継いだ。

「この王都に来るには、我等がベルテール王国の玄関口、西の港ウニーズから汽車で運ばれて来たんだよ」

「汽車で?」

 瞬く。ジェレミーの目の奥が光る。

「そうだよ。汽車に乗るのは人だけじゃない。お茶はもちろん、小麦粉も野菜も」

「果物も運べる?」

「そうだね。君の故郷の梨も、線路が敷いてある街にならば何処へでも運んでいける」

 ほう、と溜め息を吐く。

「じゃあ、もし。ドゥワイアンヌの梨がもっと国中の至る所で売られるようになったら」

「君の故郷は豊かになるだろうね。現実的な収入が上がるだけでなく、人の行き来も増えて賑やかになるだろう」

 ジェレミーは、カップを揺らしながら、頷いた。

「そういうことを考えるのが、その地その地の領主の務めだよ」

高貴なる義務ノブレス・オブリージュ

「そういうこと」

 ふふふ、と笑われて、クロエは眉を寄せた。


――卒論で書かなきゃいけないことだ。


「手紙で知らされた時、随分と気合の入ったテーマを選んだなぁと思ったよ」

「……卒論ですか?」

「そうそう。鉄道事業についてだなんて、時代の最先端だよ。まだ政治家たちにだって扱いを迷っている人がいるのに」

 ジェレミーは人差し指を立てて、左右に振った。

「とは言え、有用だと判断しているのがベニシュ家だ。僕もね、領主同士が繋がり合える何かを作れたらなぁと思って、つい去年事業を始めたんだ」

――そうだ。鉄道事業だってリュシアンが言ってた。

 頷くと、彼は朗らかに笑った。

「ブリジットは首を捻っていたけど、リュシアンは楽しそうだったな」

「……お兄様の手伝いがしたいんだって、聞きました」

「本当かい? それは嬉しいな」

 カップの中身を一気にあおって。ジェレミーは頬を染めた。

「気合を入れて、紅茶でもなんでも運ぶようにしないとね。ちなみに、クラッカーとジャムも運ばれてきて、用意してあるよ」

「え……」

 はっと顔を上げると同時に、くう、とお腹の虫が鳴く。

 ジェレミーの指先はワゴンの上の器を指している。

「リュシーが、君は意外に食いしん坊だと言っていたからね」

「意外に……」

 むっと唇を尖らせる。そんなつもりはないのに。

「卒論の打合せの前に、人参サラダキャロット・ラペを山盛り食べたんだとか。ご実家では山盛りのパンがきれいに食べられたり…… って、これはリュシーも食べた分だね、失礼」

 一頻り肩を震わせて。ジェレミーはクロエを見遣ってきた。

「お会いできて嬉しいよ、クロエ嬢」

 微笑みを穏やかなものに変えて背筋を伸ばした彼を見て、クロエもぴんと背中を立てる。

「リュシーがあんなに長い手紙を寄越してきたのが久しぶりだったのでね。嬉しかったんだ」

 瞬く。

「ちゃあんと人を好きになることがあるんだねえ、あの子も」

 くっと唇の端を上げて。ジェレミーはホールの中央に視線を動かした。

 ちょうど、チェンバロが最後の和音を奏でたところだった。

 ふわり広がった水色の裾が小さく収まっていくのとは逆に、拍手が響く。

「ああ、踊り終わってしまった。交代しないと怒られるかな?」

 すくっと立ち上がって、ジェレミーが踏み出すと、頬を赤くしたブリジットが手を振ってくる。

 彼女の右手はまだ、リュシアンの左手に預けられたままだ。

 また胸の奥が疼いたけれど、その素はすぐにジェレミーの背に隠されて見えなくなる。

 次の曲が始まった時には、ブリジットの手はジェレミーが握っていた。先ほどよりのんびりとした、ステップの少ない曲だ。

 瞬く。またお腹が鳴る。

 お腹を擦っていると、また正面に人が立った。

 リュシアンだ。

「ええと」

 ぱくぱくと口を動かす。リュシアンは静かに、ワゴンの上のクラッカーを皿に取り分けた。

 そのまま、隣に座ってくる。お皿はクロエの手元へ。

 すいっと紅茶の器は取り上げられてしまった。

 膝の上のマーマレードジャムに、腹の虫が騒ぐ。

「……頂きます」

 ブリジットや他の子たちが踊るのを見ながら、クラッカーを口に運ぶ。

 喉の奥へと、酸っぱくて甘い塊が滑り落ちていく。

 二つ、三つと、頬張って。

「美味しかった」

 呟くと、リュシアンがそっと首を振ってくれた。

「ブリジットは、とっておきのお菓子って書いてくれてた」

 また、頷き。

「本当に美味しい。嬉しいわ」

 もう一度、頷かれる。眉の端を下げて、自分のドレスに視線を移す。

「言われたとおりに、お気に入りのドレスを着てきたわよ?」

 すると。

 またお皿を取り上げられてしまった。立ち上がったリュシアンがそれをワゴンに片付けて、振り向いてくる。

 穏やかな湖の色の瞳に、幼い自分の顔が映っている。

 それが近くなる。

 手を取って、立ち上がらされたからだ。

「え?」

 微かに首を傾けて。リュシアンは視線を動かした。

 その先には、また一曲弾き終えたセザール。飛び跳ねる少年たち。

「わたしも…… 踊るの?」

 頷かれた。

 今日一番の、力強さで。


――待って、待って!?


 今度は緩やかなワルツだ。

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