09. 逃げられる理由(1)

 講堂に鐘が響く。講義の終わりを告げる鐘だ。

 講師の退室後、生徒たちも立ち上がる。ざわめきが広がる。

 三月に入って、吹き込む風は暖かくなった。桃の花の香りが混ざっている。

 すん、と鼻を鳴らして立ち上がると。

「クロエ」

 シャルリーヌが笑顔を向けてきた。

 背が高く、くっきりした目鼻に相応しい、よく通る声で告げられる。

「わたし、今日はランベールと出かけるから、先に寮に戻っていて」

 肩に垂れた巻き髪を掻き上げた彼女に、頷いた。

「ランベールとってことは、卒論関係?」

「ええ。議会図書館へ、調べ事をしに行ってくるわ」

「ふうん」

「わたし達、北の炭鉱の運営についてまとめることにしたから。そのためにこの二十年くらいの産出量なんかを知りたいと思っていたら、ランベールがね、お父様にそう話をしたのよ。お父様――アンヴェルス公爵は今、貴族院の議員をなさっているでしょう。だから議会図書館にも話がつけられるんですって」

 彼女が待っているのは、すごいね、という一言かもしれない。クロエは首を振る。

 シャルリーヌは肩を竦め、鮮やかな蒲公英たんぽぽ色のスカートを揺らした。

「さあ、早く行かなくちゃ」

 クロエも、溜息を吐いて、教科書を抱えて立ち上がる。

 一緒に並んでいた友人たちはもういない。

「ヴァネッサとアメリアも今日は出かけるって言ってたわね」

「卒論のためとは限らないわよ。二人とも意中の彼と組めて浮かれてるんだから」

 ふふふ、とシャルリーヌは胸を反らした。

「クロエは、浮かれていないかれど、当然よね、先が思いやられるんですから」

 眉を寄せて、斜め後ろの席をを振り向いた。

 階段状に広がる席、後ろの方で、彼は座って、ノートにまだ何か書きつけている。

「そんなことないわよ」

「どうかしら」

 そう言う彼女の視線が動く。つられて見れば、書き物を続けているリュシアンにランベールが何か声をかけているところだった。

 リュシアンの手元を覗き込んで、ランベールは首を傾げている。栗色の短い髪を掻きむしって、何か口を動かしている。

「不思議よね。どうやって会話をしているのかしら」

 ――書けばいいのよ!

 言い返さず頬を膨らませる。

 シャルリーヌの蒲公英色が大きく揺れる。

「ランベール!」

「ああ、シャルリーヌ。クロエもごきげんよう」

「何をしているの?」

「こいつのノート、面白いんだよ」

 にっと口の端を上げて、ランベールは言った。

「クロエは見たことある?」

「……字はあるけれど」

 授業のメモは知らないな、と瞬く。リュシアンは無表情、でも横を向いてしまった。

「面白いんだよ。今日の話がどう書かれているか見たくてさ――」

「それよりも、早く出かけましょうよ」

 シャルリーヌが眉を跳ねさせる。ランベールは苦笑いを浮かべた。

 靴の踵を鳴らして近寄って、ランベールの腕を取り。またにっこりと笑って、彼女は講堂を出て行った。

 出る寸前、ランベールがこちらを振り向く。

 クロエは曖昧に手を振った。

 周囲を見回せば、先程の授業に参加した半分以上がもう出て行ってしまっている。ぞろぞろ入ってきているのは、次の授業を受ける下の学年の生徒たちだ。

「……リュシアン」

 今日はどうしようか、と言う前に。

「リュシー!」

 別の声が飛んできた。軽やかな足音も近づいてくる。

 振り向けば、金色の髪の少女。

 織の細やかな藍色のドレスが、ふわふわ揺れている。大きな瞳がリュシアンを、次いでクロエを映した。

 水色の瞳だ。

「リュシー。良かった、ここで会えて」

 ゆっくりと、リュシアンが首を振る。少女が笑う。

「この方がクロエ?」

 もう一度、リュシアンが頷く。クロエは瞬く。

 少女はスカートを両手で摘まんで、ゆっくりと腰を折った。

「初めまして、クロエ・マニアン様。ブリジット・ベニシュです」

 朗らかな顔をじっと見つめて、あっと叫んだ。

「リュシアンの…… 妹?」

「そうです」

 にっこり微笑まれる。それから彼女は、抱えた本の束の中からすっと封筒を引き出した。

「これをお渡ししたかったの。説明は、リュシー、貴方がしてね」

 白い封筒だ。表面には柔らかな筆記体で、クロエの名前が書かれている。

「ええ、と」

 問いかけを口にしたと同時に、また鐘が響く。

「わたしは授業だから、これで」

 ブリジットが前の席へと駆けていくのを見送って、袖を引かれた。リュシアンだ。変わらない水色の瞳にほっと息を吐く。

「……図書館に行く?」



 窓際の静かな席――元から静かなのではなくて、どうも、リュシアンの周りを避けられるのだ。同じ学年の生徒からは。

――わたしも、なのかなぁ。

 ちくん、と胸の下の方が痛む。

 リュシアンはまだ何か書いている。いつもの手帳ではなくて、授業の続きらしい。

 クロエは息を吐いて、先程の白い封筒を取り出した。開けると、香水の匂いが広がって、レースの縁取りがされたカードが出てきた。




――お茶会のお誘い。


 ブリジット・ベニシュの十七歳の誕生日を祝って、お茶会を行います。

 どうぞ、お気に入りのドレスでいらしてください。

 とびっきりの紅茶とケーキを用意して、お待ちしています――




 瞬いていると、ずいっといつも手帳が出てきた。

 向かいに座ったリュシアンだ。

 心なしか、頬が赤い。

「……いつもありがとう」

 笑いかけると、彼は俯いてしまった。




――親愛なるクロエ。


 この手帳を先に読むか、分からないのですが。


 妹が貴女をお茶会に呼びたいと言っています。正式に招待状もお渡しすると思う。

 申し訳ないのですが、受けてもらえますか?


 僕がペアを組んだ貴女とお喋りをしたいというのです。

(どうせ碌でもないことだろうけれど!)


 妹はブリジット。

 一つ下の、同じ学校で学んでいます。寮などで見かけたことがあるかもしれない。

 友達の多い、明るい子です。


 もしかしたら、兄にも会えるかもしれない。


 自慢の兄妹です。

 貴女とも仲良くなれるといいのですが。



 リュシアン――



 続けて読んだそれに、吹き出す。

「勿論行くわ」

 くしゃっと顔が綻ぶ。

「嬉しい、呼んでもらえて。楽しみよ」

 そろりと、リュシアンが顔を上げた。まだ頬が赤い。こんなこともあるのかとじっと見つめていると、ぷいっと横を向かれてしまった。

 カリカリと万年筆が帳面の上を走る。

 先ほどの授業の横に、慌てた文字。それは書き終わる前に、ぐしゃぐしゃと潰されてしまった。

 え、と声を上げる。

――なに!? なんなの!?

 どう問いかけよう、と迷っている間に。


――なんでもないC'est rien.


 溜息と共にそう書かれてしまった。


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