本文

 マーロウは青年の左胸に刻まれた『L4E』の焼き印に、そっと指で触れた。そして、どういった経緯でこのような傷を受け入れることになったのかを本人に訊ねた。このエキゾチックな魅力を持った青年と肌をかさねる中で、どうしても気になっていたことだった。

 青年の答え。金持ちの道楽。ちょっとしたアルバイト。マーロウの優れた観察眼を持ってしても感情を読み取れない、虚ろな薄笑い。

『L4E』。Love 4Ever――愛は永遠にラブ・フォーエバーの頭文字。まるで、ティーンエイジャーの落書き。

 不覚にもマーロウは、青年の身体に印をつけた相手のことを、羨ましいと感じてしまった。

 この美しい青年に己を刻む。その残虐な行為が、どこか神聖で、愛しいもののようにも思えたのだ。

 自分にはできないという確信。払う金額の大きさは問題ではなかった。いざ及ぼうとしても、きっと良心に負ける。ここまで残酷にはなりきれない。叶わぬ想いだと悟っていた。

 マーロウは彼の胸に顔をうずめ、火傷痕にやさしく唇を押しつけた。

 その焼き印に、自らの想いをかさねるようにして――。



他の席に行きたいな、、、、、、、、、

 その言葉を耳にした瞬間、ディーラーを務めるマーロウ・ジョン・フィーバーは、困惑と共に自身の血がさっと冷たくなるのを感じた。

 なんらかの機器を通して発せられた、喉に障害を抱える少女の無邪気そうな、、、声。あどけなくも、恐ろしい声音こわね

 高い勝率でゲームを消化していく最中さなか、ふいに飛び出してきた、どうにも理解に苦しむ提案だった。隣に座る叔父が、愚かな考えを慌てて否定する。すると少女は、あっさり意見を翻してきた。そして言うのだ。

《じゃあ、もう少しだけ、ここで勝とうかな、、、、、、、、

 なんとも癪に触る言い草だ。思わず息を詰まらせたマーロウが、それでも笑みを崩さなかった驚異的事実は、彼が一流であることの証明といえた。

 カジノゲームの花形のひとつ、ブラックジャック。VIPルームでそのディーラーに就く者には、当然優秀であることが義務づけられている。客を誘導し、乗せて、気持ち良くさせ、そしてむしる。その点に関してマーロウは、特に飛び抜けたおりこうさん、、、、、、だった。

 だからこそ困惑と動揺、羞恥のいまも、彼の頰の筋肉に余計な強張りはない。

 しかしながら、ゲームをコントロールできているとは言い難かった。

(ぬかせ、小娘が)

 本心をおくびにも出さず、カードを素早くかき集めてシャッフル。一分の無駄もない、見事なカード捌き。

 早く。速く。疾く。

 滑らかな手つき自体に変わりはない。だが本来のセオリーどおりならば、余裕を持ったペースで場の掌握を試みるところである。しかしマーロウは、少女の顔を悔しさで歪めてやりたいという衝動に駆られ、気が急いていた。

 またこのかん、彼女の叔父が気さくに話しかけてくる。それがマーロウの集中をさらに乱し、はやらせた。

 そうしてゲームが進んでいくにつれて、彼の笑顔と自信はひび割れ、傷だらけになっていく。石を放れば、途端に砕ける薄氷のように。頼りない、薄っぺらな皮膜のように。見る影もないほど、脆いものへと変質していった。

 卓の支配権がマーロウ以外の者にあることは明らかだった。少女か、その叔父か。はたまた、別のなにか、、、か。

《ねえ、叔父さん》

 静かに殺気立ったマーロウが、ちょうど息を吐き切った瞬間だった。再び少女が叔父に向かって囁く。

 漏れ聞こえる、耳の奥まで痺れてきそうな甘い声。年端もいかない少女に、なぜこんな声音が出せるのか。やわらかく、やさしく。そしてゆっくりと染み込む、猛毒のような囁きだった。

 ひどく。とてもひどく、嫌な予感がした。

 嫌だ。その言葉を聞きたくない。もう二度と、、、、、


《退屈だから、もっと素敵なひとがいるところに連れてって》



「あああぁ!!」

 悲鳴に近い叫び声と共に目覚めたとき、ベッドの上で、マーロウはひとりではなかった。煩わしげに眉を寄せたブロンドの美女が、隣で横になっている。彼女は瞼を閉じたまま、「マーロウ?」とつぶやいた。

「あ……ああ、すまない。なんでもない」

 夢、か。

 まさしく悪夢そのものの、過去のトラウマ。鮮明な再上映リバイバル

 マーロウは自らのシルバーブロンドの髪をかきあげ、胸をふるわせながら息を吐いた。

 時刻を確認する。午前四時五十一分。夜明けまでは、まだ時間があった。サイドランプの灯りをなんとなく見つめながら、じっと心臓の音が静まるのを待つ。そうしているうち、再び眠りについた女の寝息が聞こえだした。

 気づけば全身、汗だくだ。マーロウは気を落ち着けようと、シャワールームへ向かっていった。



 食べかけのトーストを皿に置いた女が、ふいに訊ねる。

「明け方さあ、アンタなに騒いでたの」

 マーロウはびくりと肩を震わせた。

 あのあと同衾の相手が目覚めたのを機に、双方合意のもと、少々激しい運動を済ませた。そうしてだらだらと微睡み、またシャワーを浴び直し、いまはやや遅い朝食をとっているところだ。

 彼女の名は、スイーツ・ホットスプリング。

 マーロウが二年ほど前まで勤めていたカジノの元従業員で、彼女もマーロウが辞めたあと、ほどなくして退職している。以来会っていなかったのだが、先日久しぶりに連絡がつき、ふたりともに都合のよかった昨晩を一緒に過ごした。

「いや、なんだろう。寝ぼけてしまっていたみたいだ」

 適当にはぐらかす。馬鹿正直に答えたい内容ではなかった。

「ふうん……」

 スイーツは納得していないようだったが、無理には追求してこない。

 これがふたりにとっての普通。お互いがお互いを、深く掘り下げない。

 彼女がいま、どんな職に就いているのかさえ、マーロウは知らなかった。同僚だった当時から肉体関係を持ってはいたが、それもお互いの生活に支障が出ない範囲での付き合いに留まっていた。

 深く干渉しない。ふたりともがその距離感を心地よく思っているからこそ、成り立っている関係。

 しかし。それでも。

「てっきり元同僚と寝たのをきっかけに、『エッグノッグ・ブルー』での最後の夜の夢でも見たのかと思った」

 ぐっと息が詰まる。そうだった。彼女は追求こそしないものの、ときたま恐ろしいまでの勘で隠しごとを言い当てることがあったのだ。しかも、暴き立てられたくない物事に限って。

 これだから女は――。

 性差に関係なく、それ自体はスイーツ個人の性質だったのだが、マーロウはそう思わずにいられなかった。

 見れば、スイーツはこちらの反応を確かめることもせず、再びトーストにかじりついていた。心の中で、そっと安堵し、そして溜息を漏らす。深い関係を求めないと口にする彼女でさえ、この煩わしさなのだ。ほかの女の面倒くささと言ったら。

 マーロウは傾向的に、相手に乾いたつながりを求める男だった。べたつく甘いものは必要とせず、純粋に一時の欲求を満たしたいのだ。そしてその冷めた願望は、俯瞰的な目線で人間の思考を捉えることが常のディーラーにとって、相応しいものだと信じていた。

 コーヒーをすすりながら、目の前にいる女の肌の味を思い返す。芳潤で濃厚。時間さえ許すなら、一日中喰らいついていたくなるほどに。無尽蔵かと錯覚してしまうくらいの欲望を、お互いに探り当て、高め、そして満たせる貴重な相手。

 しかし、苦々しい記憶がセットになって付いてくるのは大いなる失点だった。おそらく、彼女と夜をともにすることは、二度とないだろう。



「馬鹿な。そんなわけがあるか」

 かつてない不様な醜態を晒し、カジノ『エッグノッグ・ブルー』を解雇されて数日が経ったばかりのとき。自宅で抜け殻のようになっていたマーロウは、にわかには信じられない話をスイーツから聞かされていた。

「でしょー、信じらんないよね。私も人づてに聞くまで――」

「そんなわけが、あるか……」

 明るい調子のスイーツに構わず、うわごとのように繰り返す。彼女のもたらした情報は、それほど受け入れがたく衝撃的な内容だった。

「アシュレイ・ハーヴェストさえもが、三百万ドルの大負け? あの少女にしてやられただと?」

『エッグノッグ・ブルー』のハウスリーダー、アシュレイ・ハーヴェスト。

 マーロウにとって、少女とはまた別の意味での因縁深き相手だった。なにしろ、つい先日、自分に引導を渡したばかりの男である。

 店側からすれば致し方ない処置だったとはいえ。多大な損失を生んでしまったとはいえ。人の目がある場で。悠々と。愛嬌よく。たしなめるように。そうやってトドメを刺しに来た男なのだ。正直、憎みさえしている。

 しかし、だからといって、アシュレイの敗北を耳にして嘲笑うような真似はできなかった。なぜならば彼こそ業界の用心棒と呼ばれる、知り得る限りの最強のディーラーだったからだ。

 アシュレイは天空を統べる大鷲だった。

 マーロウ自身が口にすることは決してない。しかし悠々と羽ばたきながら、なにものも見逃さない彼の凄みに比べれば、自分の実力など地に這う類の生き物と大差ないようなものだと痛感していた。

 それがまさか自分と同じく、あの小娘にしてやられたなどと……。

「でね、こっからがスゴいの。なんとオーナーが――」

 スイーツがマーロウの様子などかまわずに、事の顛末を語りつづける。しかし後の話など、どうでもよかった。とても耳に入らなかった。

 この動揺は、憧れに近い感情さえをも抱いていたアシュレイの敗北に対してだけのものではない。ただただ、少女が恐ろしくなったのだ。

 たとえ『エッグノッグ・ブルー』を辞めようが、自分にはディーラーをやっていく道しかない。それは以前から抱いていた自負であったし、ここ数日、自宅に篭りながら出した結論でもあった。

 しかし、もし今後勤める新しい職場カジノに、あの娘がひょっこり現れようものなら……。また眼前で、意味不明、解釈不可のプレイを見せられたら。あのクソ生意気で業腹な台詞を吐かれたら。

 とても正気でいられる自信はなかった。

 そしてマーロウは、考えることをやめた。あのおかしな少女と、彼女を連れ回す叔父のことなど、思考の外に追いやった。なぜならば、どうにもならないから。どうしようもないから。記憶に蓋をした上で、形骸化された怒りと屈辱の感情のみを糧とするよう心がけた。

 逃避的な甘い試みだとわかってはいたが、しかし思いのほか、その後はトントン拍子でうまくいっていった。

 そのはずだった。


 そうして、二年の歳月が経ったのだ。



 久々にスイーツと寝てから、すでに一週間が経つ。その日マーロウは、ひとりで街をぶらついていた。貴重な休日。すでに日は傾いている。しかし、まだ帰るつもりはない。

 なぜなら彼は、下腹部あたりに溜まった、説明し難いくすぶる感情を吐き出したくて仕方なかった。

 かつて上玉のカモであったはずの少女に、わけのわからぬまま叩き潰され、マーロウは築いてきたものをすべて失った。しかし現在は、前とは異なる系列のカジノ店で再起し、若きスターとして成功している。

 甘い顔立ちと、巧みな話術。場を掌握することに長け、カード捌きも申し分ない。挫折を知った秀才は、新天地『ジャック・オー・フロスト』で、存分にその才覚を発揮していた。

 はじめのうちは、やっかんだ同僚が『エッグノッグ・ブルー』での失態を聞きつけ、わらうなどしてきた。しかしそんな輩でも、マーロウの技量と才能には押し黙るしかなかったのだ。

 悪夢としか思えないあのゲームの直後、アシュレイから直々に手渡された屈辱の雇用推薦状。マーロウはわずかに残っていた自尊心に従い、その封すら切らずにいた。あえて処分まではしていない。怒りと恥辱の象徴として、手元に置いておいた。

 だからこそ。あのときの想いを忘れなかったからこその、いまだった。

 克服した。そのはずだった。なのに――。

「なぜ、また現れる……」

 もう二年にもなる。たった一晩、数時間きりのやりとり。もはや少女の顔立ちさえ、はっきりとは浮かばない。髪は長かったか、短かったか。肌や目の色はどうか。どんなドレスを着ていたか。そういった、わかりやすい外見的特徴すら挙げるのが難しかった。

 だというのに、先日の夢はなんだ。まだトラウマを拭いきれていないというのか。

 悪夢を呼び起こした一因となり、そして痛いところを言い当てたスイーツが腹立たしくて仕方ない。

 公園のベンチで、空の紙コップを握りつぶした。わずかに残っていたコーヒーのしずくが袖にかかる。思わず舌打ちが漏れた。

 発散したい。なんでも、だれでもいい。一夜かぎりの乾いた、浅い関係が欲しい。



 マーロウは、同性愛者向けの娼館が立ち並ぶ区域に足を運んでいた。娼館の外にも、ウリを生業なりわいにしている人間がうろうろしている。年齢も人種もさまざまだ。適当に品定めをしながら奥へと進む。

 男を買うのは、実は初めてではない。なぜなら娼婦を相手にするより、断然気が楽なのだ。彼らのほとんどは、プライドより利を取る。女と比べて、男たちは自分を商品として割り切っている者が割合多く、変に後を引くことが少ない。それこそマーロウの求める、体だけのつながりだった。

 通りを半ばほど過ぎたとき、薄暗い街灯に寄りかかる青年が目についた。青年は俯いて、携帯電話をいじくっている。買い換えたばかりか、盗品か。もしくは、誰かに与えられたものなのか。とにかく、使い慣れていない様子が見て取れた。

 視線を感じたらしく、青年はふいに頭を上げてマーロウに目を向けた。思わず、あっと声が出そうになる。

 肩の下まで伸びた、長い黒髪。透き通るように白い肌。そして、虚ろながらも美しい黒いひとみ

 襲いくる既視感。この美貌を知っている。しかし彼ではない。どこかで出逢った誰かと、面影が似ているのだ。しかし思い出せない。

 とにかくマーロウは、その外見に猛烈に惹かれた。魅せられた。そして、どれだけ値が張っても彼を買うことを決意した。

「いくらだ?」

 かすれた声で訊ねる。この辺りでの売り買いは、まず買う側がハンドサインで出せる額を示してから始めるのが通例だったが、マーロウはあえて直接呼びかけることにした。

 青年は娼館通りの湿った空気によく合った、エキゾチックな美貌を持っていた。これほどの上玉は滅多にお目にかかれない。そのため、相場以上の値段を提示してくる可能性が高かった。ならばいっそ、さっさと希望金額を聞いたほうが手っ取り早いと考えたのだ。

 青年はぽかんとした顔でこちらを見返している。聞き取れなかったのかもしれない。

「君を買いたい。いくらで売っている?」

 焦れる気持ちを押し殺し、出来得る限りの落ち着いた声音で質問を繰り返す。

 対して青年は、白く細い顎を上げ、ぼんやりした表情で宙を見ていた。その眸から視線を外されたことで、落胆と更なる焦燥感に駆られたマーロウは、いま自分に出せる金額を頭の中で懸命に計算しだした。この時点ですでに青年に囚われ、すっかり夢中になっていた。

「あー……」

 半開きの口から洩れた、無気力な声。

「んん、そうだな。メシおごってくれるんなら、これでいいよ」

 先が少しだけ荒れている指を折り曲げ開き、青年は自分の値段を示す。正直、呆気にとられるほど安い金額だった。マーロウが頷くと、青年は薄紅色の唇を吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべた。

 期待で胸が高鳴る。それと同時に、なぜかあの嫌な記憶がスイーツと寝たときの比ではないほど呼び起こされそうになったが、それでも青年を抱きたいという欲求には敵わず、あえてマーロウは無視をした。

 そして青年と並んで、夜の街を歩きだした。



 軽い食事を済ませ、適当に選んだホテルで事を済ませて落ち着いたあと。マーロウはベッドの中で、ショーンと名乗った青年の話を聞いて驚かされた。

「客待ちじゃなかったのか」

 迂闊だった。まさか男娼ではなかったとは。ショーンの美貌に浮ついて、疑おうともしなかった。彼の所作に違和感がなかったことも、誤解してしまった一因だろう。

 投げやりで無気力。しかし、どこか夢見がちな言動。物事を斜に構え、受け流すスタンス。ショーンの性質は、身体を売って生き抜いてきた者特有のそれだったのだ。なによりテクニック的な面でも、その。すごく。よかった。

「まあ金持ち相手に散々遊ばれたり、、、、、もしてたから、慣れちゃいるんだけどな」

 ちらりと彼の左胸に目が行ってしまう。傲慢でくだらない、しかし蠱惑的な遊戯。その道楽に耐えきった証。生々しい火傷痕。

 マーロウは口の中に唾液が広がるのを感じていた。

「こないだ新しい仕事の紹介受けたんだけど、なかなか連絡がつかねえんだ。こっちからじゃ、つながらねえし」

 街灯の下でショーンが携帯電話をいじっていたことを思い出した。あれは雇い主から与えられたものだろうか。そう訊ねようとしたところで、マーロウは自分が詮索ばかりしていることに気がついた。

 おかしい。ただ、肉体のつながりだけを求めていたはずなのに。燻っていた欲求をぶつけたあとも、彼のことが気になって仕方なかった。

「で、金もねえから、どうすっか考えてたとこでお兄ちゃんに声かけられたってわけさ。あんた綺麗な顔してるし、ならいいかってな」

 粗野な口調や、深く物を考えていないであろう言動。ほかの相手であれば軽視するにあたる振る舞いまでもが、ショーンの魅力をより際立たせていた。彼を見ているだけで、声を聴くだけで、胸の中が熱くなっていく。しかしマーロウは同時に、飢餓感にも迫る物足りなさを感じていた。

 もっとショーンの背景を知りたい。そして、彼にも自分を知ってほしい。さらけ出したい。なにもかもをも。

「いくらだ?」

 我慢できず、とうとうはじめに声をかけたときと同じ台詞を囁いていた。先刻より、ずっと真摯に。感情を込めて。

 彼の手を両手で包みこむように掴み、引き寄せる。ショーンは無言だったが、拒まない。

「いくらあれば、君を僕のものにできる?」

 一晩二晩の話ではない。金であれ時間であれ、なにを犠牲にしてでも、これから先、共にいたいという要求。性急な告白。ほとんどプロポーズであった。

 対してショーンは目を背け、乾いた笑いをこぼした。

「いやー、はは……。やめとこうぜ」

 遠慮じみた声。あきらめない。マーロウは自分の中に、これほどの激情があることに驚愕した。もはやショーンは、どんな障害に阻まれようとも手を伸ばす価値のある存在だった。

「僕は本気だ。君さえ望むなら――」

「お兄ちゃんさぁ、負け犬の匂いがすんだよな」

 その瞬間、マーロウは冷たい鋭利なものを胸に突き立てられたかのような錯覚に陥った。

 唐突に飛び出した辛辣な言葉。呆然とするマーロウに向かって、ショーンは興が乗ったように罵声を浴びせてくる。

「俺も犬や道具同然に扱われて生きてきたし、わかるんだよ。お兄ちゃんみたいに、自信満々なふりして何かに怯えてる奴って結構いるけど、見てて滑稽だぜ?」

 何が起こっているのかを理解するのに戸惑う。ぶるぶると震えながら、握っていた手を離した。

「畜生同士が寄り添っても、せいぜい傷を舐め合うくらいのことしかできねえだろ?」

 強烈な目眩がした。いつかも、いまと似たような思いをした経験があった。なんだったか。

「犬は余計な色気なんか出さねえで、よだれ垂らして腰振ってりゃいいのさ」

 繰り返される罵倒を耳にしながら、マーロウは過去の出来事を反芻した。そうだ、あの少女だ。一見してカモだと思っていた少女。気づけば自分を翻弄し、百万ドルチップをかっさらっていった少女。

 いま目の前に、あのときの彼女と同じくこちらを嘲笑ってくる人間がいる。

 恥辱の果てに、自分は少女をどうしたんだったか。いや、どうしてやりたかったんだったか。

「なあ。なあって。聞いてんのか?」

「あ、ああ……」

 マーロウはぼんやり頷いた。ショーンにどんな感情を向ければいいか、わからなくなってきていた。

「はあっ。なんだいそれ。ちょっと指摘されたらだんまりかい。……もういいや」

 呆れきり、興味の失せた溜息。

 ベッドのふちに手をかけ、ショーンは床に落ちているシャツを拾った。

 そして――。


「退屈だから、もっと素敵な相手でも探しに行くよ」


 いつかの少女と、同じことを――!

「あ……あああああああ!」

 瞬間カッとなり、振りかぶった拳を端整な顔へ向かって出鱈目でたらめにぶつける。次いで馬乗りになり、先刻やさしく彼の手を包んでいた両手で首を絞めあげた。たったそれだけで不快な言葉は止んだ。安堵と、たしかな解放感があった。

 しかし間を置かず、苦悶の表情を浮かべるショーンが爪を立ててくる。腕の裏側。すじや腱の集中している、やわらかい箇所。痺れるような痛み。たまらず手を離す。咳きこみながら首をおさえるショーンがまたなにか言おうとしてきたので、今度は平手打ちを二回入れて黙らせた。

 手を傷めれば、本業のカード捌きに支障が出る。反撃を受けて顔に傷でもつけば、客に不信感を与える。そんなことを考える理性は吹っ飛んでいた。ただ、相手を打ちのめす快感に酔いしれていた。

 心身ともに熱くなっていく一方、マーロウは頭の中のどこか冷静な部分で理解しだしていた。自分が本当に求めていたのは、これだったのだと。

 しがらみのない関係。あるいは、特別な何かを共有する相手。ちがう。そんなものはもう要らない。やりたいのはただ、害ある者に対して拳を振り上げ、叩きつける行為。シンプルな暴力の行使だ。

 そうしているうち、マーロウは己の身体の下でもがくショーンに対して、感謝し始めていた。

 あのとき。あの夜。あの少女に。自分はこうしたかったのだと。めちゃくちゃにしてやりたかったのだと気づかせてくれた。思い出させてくれたのだ。ならば、礼をしなければならない。

 じっとショーンの顔を見つめる。長い黒髪。白い肌。黒い眸。少女はどうだったか。少女もひょっとして、こんな外見だったのではないか。きっとそうだ。おぼろげだった少女の輪郭が、頭の中にくっきりと浮かんでくる。真実はどうでもいい。しかしいまこの場で、マーロウにとってショーンは少女で、少女はショーンだった。

 親愛と憎悪の入り混じった、この夜、最大の熱情を込めて叫ぶ。


混ぜ込ぜにしてやるスナーク・ユー‼︎」



 明けた早朝。ドアの閉まる音でマーロウは目が覚めた。おそらくショーンが出て行ったのだろう。心地よい脱力感と罪の意識で身体がうごかず、追いかけて呼び止めようとする気力さえ起こらなかった。

 あれから何時間経ったのだろうか。首を上げて時刻を確認することすら、しんどくてたまらない。

 変節してしまった願望と、気づいてしまった欲望。自分の中に、あそこまで醜い想いがあったとは。かくも悪趣味な、新しい扉が開いてしまった。もう閉じることも、目を背けることもできない。

 マーロウは、溢れ出る涙の止め方がわからなかった。

 はっきりしているのはひとつだけ。昨日までの鬱屈した感情だけは、完全に消え去っていたということだった。



 ホテルから外へ出るのとほぼ同時に、ショーンの上着のポケットからコール音が鳴り響いた。

「おお、ようやくか。はいよー」

 マーロウから受けた仕打ちなど、どこ吹く風。外壁に寄りかかり、飄々としたさまで電話に出る。

 かけてきたのは予想どおり、携帯を与えてくれた人物だった。刑務所から出たばかりのショーンに、新しい仕事を斡旋しようというありがたい相手。

「声が変? ああ、昨日ちょっと張り切りすぎてさ、首絞められながら楽しんでたんだ。久々に燃えたぜ。そのあとの第二ラウンドがまた……え、興味ない? ……そう」

 相手のつれなさにしょげつつ、切り出された本題を受け入れた。

「ああ、やるよ。なにしろこっちは宿なしの前科持ちだ。紹介してくれるってんなら大助かりさ。介護でも餌やりでも、なんでもかまわねえ」

 いくつかの確認を済ませて通話を切ると、ショーンはホテルを背にして歩き出した。

「あんな風に振っちまって悪かったな」

 だれにも届かない小さな声でつぶやいた、たしかな懺悔。罪悪感もあってか、ほぼ無抵抗で受け入れた暴力を思い返す。

「たしかに燃えたんだぜ。嫌いじゃない。相性もよかった。だけどな……」

 ショーン・フェニックスは寄り添い、守ってくれる相手など欲していなかった。彼が求めるものを強いて挙げるとすれば、自分よりも弱い存在。虐げることのできる対象だった。それこそ昨夜の暴走したマーロウにも勝る、嗜虐的な欲求。小綺麗な玩具として方々ほうぼうで扱われてきはしたが、その腹の中には異臭を放つ、どろどろしたなにかが詰まっている。

 失望と屈辱の人生を経て生まれた、歪んだ性癖。マーロウの堕ちた場所よりも、ずっと暗く濁った世界で煮詰められたよどみ。

「大事にしてくれようが、激しくされようが、あんたじゃぬるい、、、んだよなあ」

 いっときの寂寥感は、すぐに溶けて消えた。

 その後、ホテル街から完全に立ち去るまで、ショーンが後ろを振り返ることはなかった。

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ONE NIGHT FEVER 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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