#6-2


 大きなベッド、鏡張りの天井、浴室の壁がガラス張りといった趣味的な部屋の中、璃子は着ていた服を脱ぎ始める。同様に服を脱ぐ光一に、もはや羞恥心はなかった。

 下着姿でベッドに佇む璃子へ、すぐさま光一は傍に詰め寄る。そんなに焦らないでと言われるも、理性はどこかへと吹き飛び、細い身体を抱き寄せて唇を塞いでいた。


 甘い香りが鼻腔をくすぐる中で、互いに舌を馴染ませ合う。その間に、自然と手は下着の紐へと手が掛かっていた。露となった部分に手をやり、感触を確かめるとやがて舌を這わす。性の欲望に支配されるがまま、さっきまで気弱だった男は一匹の雄という獣になっていた。


 先程まで璃子に対して崇拝じみた思想を持っていた光一だったが、女の身体を堪能する中で、今はこんなものかという感情が芽生えていた。

 一度店に来ただけの、行きずりの男をホテルへ連れ込むような女だ。きっと他の男とも何度も寝ているのだろう。そう思うと璃子の白い肌が忌むべきものに感じられ、冷たい死人のような身体に思えてくる。いささか乱暴にしても構わないだろうという気まで起こり始めた。


(うっ)


 神経に直接届くような鋭い感覚に目を向けると、そこには璃子がお返しとばかりに手を、舌を這わせていた。突き上げるような快楽の渦に、思わず悶えながら身をままにするも、途中で耐え切れなくなり璃子をベッドへと押し倒す。


(この香りは何だ?)


 寝そべり何度もキスを続けている中で、光一は化粧や香水とは違った匂いを嗅ぎ取った。どこかで嗅いだような気もする、甘ったるいような、むせ返るような匂い。顔をそむけたくなるも、すぐに消えて気のせいだと思い直す。それよりも目の前の色香をついばみ、むさぼることを続け、やがて導かれるようにして身体を沈めた。


「……ん」


 官能感をくすぐるような女の声に興奮を覚え、もはや沸き上がる衝動は抑える事も無く、徐々に動きはその激しさを増す。まるで炎に包まれたかのような熱さが自分の全身を襲い、その渇きから潤いを求めるが如く攻め立てた。


 やがて堪え切れなくなった欲望を全て璃子の中へと吐き出し、朦朧とした意識の中で深い眠りについた。



 ……どれくらい寝ていただろう。物音で光一が目を覚ますと横で璃子が全裸のまま寝そべり、メンソール煙草を吸っている。しかしすぐに火を消すと今度はポーチからコンパクトを取り出しルージュを塗り出す。シーツから伸びた白い肌に性的な興奮を覚えるも、この時体が重く感じて腕すら動かなかった。


 ぼんやりと寝ながら眺めていると、璃子はこちらに気付く。


「あ、起きた。さっきの話なんだけどさ、承諾と見ていいのよね?」


 承諾? 何の話だ? そういえばここに来てから何か話したような気もするが……。


 続けて璃子を見ていると、枕元にあった茶色い財布を取り出す。それは光一の財布だった。あっと思う間に璃子は掴んで開き、紙幣を全て抜き取って数え始める。


「随分と持ち歩いてるのね、お給料日だった? まぁいいわ、これだけあれば十分」


 何が十分だ! 勝手なことするな! 返せ!


 慌て璃子の腕を掴もうとするも体が動かず、頭がガンガンする。そしてこの部屋に来た時、何かを話して約束したことを思い出したが、内容まではよく思い出せない。酒を飲み過ぎると記憶が飛ぶというが、まさか身をもって知ることになるとは。


「あらら、やっぱり連れてきて正解ね。宿泊にしといたから暫く寝てていいわよ」


 そうこうしているうちに、璃子は着替えを終えてしまっていた。何とか上半身だけでも起こそうとするが、鉛のように重い身体はピクリとも動かない。


「ちゃんと仕事しとくから安心して。今夜は楽しめたわ、バイバイ」


 そう言って額に口づけすると、璃子は部屋を出て行ってしまった。一方の光一は、甘い匂いに誘われるようにもう一度深い眠りへと落ちていくのだった。



 それからどうやって家に帰ったかは憶えていない。あの甘い晩の出来事を一つ一つ思い出しながら休日は終えていった。後から空の財布を発見してギョッとし、璃子に盗られた事を思い出す。警察に被害届を出そうかとも考えたが、奪われた場所と状況だけに、小心者の光一にはそれが出来なかった。


 そして、また一週間がやって来た。



 職場に着いて早々、若い女性社員と話していた栗田が血相を抱えて迫って来る。


「コーチャンコーチャン、大変だよ! 鬼塚係長が死んだって!」


「えぇっ!?」


 寝耳に水とはこのことだろう。何とも栗田らしいストレートな物言いにも驚いたが、今はそれどころではない。


 鬼係長が、死んだ?


 話によると土曜日の夜、アパートから出火した火が近所にも回り、鬼塚の家は全焼したらしい。光一も土曜日県内でまた火事があった事は知っていたが、まさか鬼塚の家だったとは夢にも思っていなかった。


「子供は助かったみたいだけどさ、奥さん体が不自由だったみたいでね。助けに中へ戻ろうとしたところ、そのまま一緒に焼け死んじゃったらしいんだ」

 

 光一は信じられないという気持ちと歓喜にも似た感情の中で、ただボーっと栗田の話を聞き流してした。本当に、本当に鬼係長は死んだのか?



──もしその係長が居なくなるなら、光一さんはいくら出せる?


(そう言えばあの時……)



 三日前のあの晩の出来事、酩酊めいていとした中で璃子と交わした会話が今更蘇って来た。そうだ、あの時自分はあの問いに対し「財布の中身全部」とふざけて答えていた。


(まさか、璃子ちゃんがやったのか? 俺のために……)


「──なんだってさ。そいで葬式がいつになるかわかんないけど俺も一応付き合いは長かったし、香典包むようかなって…………おーい、コーチャン聞いてる?」


「え、あ、はい。聞いてますけど?」


「……怪しいなぁ、まさかコーチャンがやったんじゃないだろうな?」

「そ、そんなわけ無いじゃないですかっ!」

「本当かぁ?」


 一瞬ドキリとして慌てて弁解するも、内心光一は冷や汗が止まらない。


「……なぁんてね。今朝のニュースでやってたけど、犯人っぽい男の死体が現場から発見されたんだってよ。最近起きてた連続放火事件の犯人じゃないかって」


「そ、そうですか……って脅かさないでくださいよ!」

「そんなに驚いて、やっぱりやったんだろ?」

「やってなくても驚きますよっ!」


 犯人は璃子ではなかったようだ。色々な意味でホッとした光一は、朝礼で課長からの説明を受け、ようやく鬼塚が死んだことに実感を覚える。


(まだ少し信じられないけど……もう嫌な思いはしなくて済むんだ)


 璃子が事件に関与していたという可能性は拭いきれない。しかし、例え警察沙汰となっても自分は酷く酔っていたので知らないと答えればいいだけの事だ。寧ろ本当に知らないのだ。大金を失ってしまったのは残念だが、良い買い物をしたと思えば後悔はない。この時、光一の心は暗雲過ぎ去った空のように晴れやかであった。



『よ、光一君。元気でやってるか?』


 数日後、昼の休憩時間に廊下で前の部署の課長に出くわした。


「あ、堂本課長。暫くです」

「色々聞いてるよ。随分と大変みたいだね」

「大変なんてものじゃないですよ……」


 二人は自販機コーナーのすぐ側にある休憩所に腰を掛けた。皆、飲み物を買っても自分の職場へ持ち込むので、殆ど誰も利用しない場所だ。


「…んー、ところで君、香水か何かつけてるのかい?」

「え、いえ? なにか匂います?」

「いや、ならいいんだ。気のせいだろう」

「……」


 光一も自覚はしていた。璃子と寝たあの晩から匂いが染み付いて、風呂に入ろうが臭い消しを使おうが取れないのだ。甘ったるいような、あまり気分の良くない匂い。最近職場の人間がどこか自分を避けているのはこのせいかもしれない。


 二人が腰掛けてコーヒーの缶を開けると、話題は自然と異動先の話となる。

 ここで、堂本課長は驚くべき言葉を発した。

 

「実はね、君をあの部署に推薦したのは私だったんだ」

「そうだったんですか? どうして僕を!?」


 温厚そうで話のわかる堂本課長。だが光一は発された言葉に驚きを隠せず、同時に怒りが湧いてきた。おかげでこっちがどんな目に遭ったか、この人はわかっているのだろうか。


「真剣に日々働いている光一君を見てね、光一君しかいないと思ったんだ。君はまだ年も若いし、ある意味チャンスになるとも思って推薦したんだ。新しい風を吹かせることで職場を活性化させ、君自身にもそこで成長して貰いたいと考えてね」


「……僕にそんな力はありませんよ」


 冗談じゃない、ふざけるな!

 本当はそう叫びたかったが、控えめに答えるのが精一杯だった。


 理由などいくらでも言いようだ、無責任にも程がある。この課長は間違いなくまだ新参の自分を人身御供ひとみごくうに差し出しただけなのだ。如何にも貴方を高く買ってあげましたとばかりの恩着せがましさが見え隠れし、光一の中で更に怒りは強くなった。

 そして次に光一は異動先の職場であったことを堂本課長へぶち撒けていた。自分が鬼塚係長からどんなことを言われ、どんな扱いを受け、その時自分がどう思ったか。ノイローゼになりかけ、人権侵害かパワハラで訴えようか悩んだことも打ち明けた。流石に自殺未遂に陥ったことまでは打ち明けなかった。


「……そうだったのか。君には大分迷惑を掛けてしまったようだね」


 ここまで黙って聞いていた堂本課長だったが、コーヒーの缶を握りしめたまま額に当て、下を向いた。


「迷惑なんてもんじゃないですよ。大体ですね、ああいった人は……」

「光一君、私はね」


 下を向いて項垂うなだれていた堂本課長だったが、光一の言葉を遮るかのように発した。


「私はね、あの鬼塚と同期仲間だったんだよ。付き合いも私が一番長いだろう」

「え……」


 ここで堂本は、自分と鬼塚の過去を打ち明け始めた。


「元々はそれなりに人のいい奴だったんだ。どっちが先に出世するか競ってた時期もあったよ。でも産まれてきた子に知的障害のあることがわかってからかな。奥さんが精神疾患を患ってしまったみたいでね、それからどんどん性格が厳しくなっていったんだ」


「……」


「気がつけば人間関係をこじらせ、鬼塚はあの職場の係長に収まった。煙たがられて追いやられたと言ったほうが正しいのかもしれないね。本来ならばもっと上の役職に就いてもおかしくなかっただろうに、人生どうなるものかわかったもんじゃないね」


 信じられない話だが、あの鬼塚係長が堂本課長のところへ人間関係について相談に来たことがあったらしい。次々と職場の人間が辞めていくが、どうも自分は管理職には向いていないようだ。辞めようにも家族があるし今更転職などできない、とも。

 そんな中で光一を寄越した訳だが、その時鬼塚は態々お礼を言いに来たらしい。貴重な若手だし、しっかり育てると豪語したのも束の間。結果はいつもと同じだったというわけだ。


「……奴の性格からして、気持ちが焦り空回りしてしまったのかもしれない」


「そういうことでしたか。……でも家族がいるからこそ、もっと慎重に事を運ぶべきだったんじゃないでしょうか。まだ新米の僕が言うことではないのかも知れませんけどね、あれでは誰だってついていこうとは思いませんよ」


「そうだね。きっと奴も頭ではそれがわかっていたと思う。でも実際にするとなると話は変わってくる。常に正しい理屈通りに動けるほど、人間は強くできてはいないんだよ。君にもそれがいつかわかる日が来るさ」


 ここで予備のチャイムが鳴り、堂本は立ち上がると缶を捨てた。


「また何かあったら、今度は遠慮なく相談に来てくれていいからね」

「ありがとうございます」


 堂本は立ち去ろうとしたが、何か思案して振り返る。


「……ところで光一くん、君はその、仕事以外で何か無理をしていないかい?」


「仕事以外で、ですか?」

「あ、いや……私の思い過ごしならいいんだ。何事も人間、分を超えて無理をするとツケが必ず回ってくるものだからね。いいかい、何事も無理は厳禁だよ?」

「覚えておきます」


 光一が軽く頭を下げると堂本課長は今度こそ本当に行ってしまった。一瞬、鬼塚の家を放火した犯人だと疑われるのかと思ったが、思い過ごしだったようだ。

 踵を返して自分も職場へ帰ろうとする中で、光一は自分を心配してくれている堂本に対し、一瞬でも疑念や腹立たしさを感じたことに罪悪を感じていた。しかし、それでも鬼塚のことについては納得がいかなかった。


(家族が大変だからって、それがなんだっていうんだ。僕をゴミクズ同然に扱う権利なんてどこにもない! こっちは死にかけたんだぞ!)


 死んだ鬼塚は親兄弟がおらず、誰が喪主をやるかで親戚同士が揉め、葬式の目処がついていないらしい。理由は葬式の押し付け合いというよりも、残された障害を持つ子供を引き取らなくてはいけないという憂いあってのことからだろう。恐らく今後、鬼塚の子供は孤児として養護施設へ引き取られるに違いない。


(……そんなこと、僕には関係ない)


 そうだ、他人の家の事など関係ない。暗い思惑を振り払うようにして前を向いた。



 その晩のこと。光一は財布の中から璃子の名刺を見つけた。いつの間に手に入れたのか憶えていないが、書かれていた携帯番号見つけ電話しようとする。

 もう財布から金を抜き取った怒りは無い、寧ろ感謝しているくらいだ。本当に璃子が放火に関与したのか確かめるためというよりも、今度の休日個人的に会えないかが知りたかった。


(つながらないな……)



 そして深夜。突然光一の下腹部を激痛が襲い、救急車で搬送されることとなった。

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